ヒメアジサイ
カランという可愛い音を立てながら、私は重い扉をそっと押した。
「……こんにちはー」
「おーいらっしゃい、弘美ちゃん」
住宅街の中にひっそりある、昔ながらの純喫茶。友達といる時は絶対寄らないけれど、実は私のお気に入りのお店である。いつもの様にカウンターに座ると、私は無遠慮にメニューを取った。
「……カレードリア!」
「おいおい、夕ご飯前だろ?」
そう言ってあきれて見せるのは、ここでバイトしている幼馴染の武ちゃんだ。
「お前にはこれだ、水」
「……ありがと」
ぐいっとグラスを傾けると、私は中身を一気に呷った。
「よっ、良い飲みっぷり!」
「……お酒じゃないし」
不貞腐れた顔で答える私に、彼はニヤニヤと笑いながら聞いてきた。
「で、今日はどうしたんだ?」
「んー……」
まっすぐに家に帰りたくない時はここに立ち寄って、武ちゃんに愚痴を聞いて貰うのがいつの間にか私の習慣になっていた。
「私さ、昔紫陽花好きだったじゃん」
「あー。 そういえばそうだったかもな」
「……だから、すぐ別れちゃうのかな」
「……は?」
訳が分からないという顔をしている武ちゃんに、私はゆっくりとたどたどしく、説明した。
「ほら、紫陽花の花言葉って、移り気、浮気じゃん」
「お前浮気してたの?」
「――してないよ!」
「じゃあなんで、別れたんだよ?」
「それは……」
ぎゅっと手を握り、私はゆっくりと説明した。
「……付き合ってみたら、なんか違うなって」
「んー。 まあ、若いうちはそんなもんな気もするけどなあ」
なんとも言えない顔で顎をさすっていた武ちゃんは、私をじっと見ながら言った。
「そう言えばお前、付き合う前に筋トレ始めるとか言ってたよな」
「あ、うん。 今もやってるよ」
「前やってたアロマは?」
「あれもやってる……」
「じゃあ、やっぱお前は紫陽花だな」
「……え?」
ふふっと笑いながら、武ちゃんは言った。
「紫陽花の花言葉、他にも意味あるって知ってたか?」
「えっ、何?」
「綺麗になるために変わる、だ」
「――!」
どや顔をしている武ちゃんは、開き直ってこう言った。
「今まで別れたやつは、お前にとってその程度のやつだったってことだよ。 その間にどんどん良い女になって、ちゃんとした相手見つけろっての」
「……」
答えになっている様で、全然なっていない無責任な言葉。それなのになぜか、武ちゃんの言葉には不思議な説得力があった。
「……ふふっ」
「……ふふ。 ははっ」
お互いの顔を見た後、私たちは同時に吹きだした。
「あーあ! 悩んでたの、ばからしくなってきた」
「おう、その調子で頑張れ!」
「うん! ありがとうね、武ちゃん」
「ほら、高校生はもう帰れ」
カランと重い扉を強く押すと、いつの間にか雨は止んでいた。悩んでいたことも忘れて、私はいつも通りの足取りで家路につくのだった。