転生系底辺作家 VS 非転生系底辺作家
底辺作家の天野優志です。
作家エッセイを読んでると、「なろう」で転生物を書く良し悪しを書いている人が多いね。
ひとつの意見が「転生系が人気なんだから、それに乗るのは当然」という意見。
もうひとつの意見が「人気に左右されずに書きたい物を書く」という意見。
どっちが正しいかって話は意味がないから、僕の分析を書いてみよう。
僕は2年前に非転生系でなろうに入って、あまりの読者のつかなさにあきらめて、最近、転生系で再デビューした底辺さんです。
最初は僕も「好きなこと書く」ということで、銀河帝国物をかいた。
なぜ、読みれないかを、今度は読者として、なろう上位の作品、SF系とファンタジーで読みまくった結果。
見えてきたことがあるんだ。
それが世界観の共有ってこと。
読者と作家が世界観を共有する。
転生系ファンタジーでは、それが暗黙のルールになっている。
冒険者ギルドがあって、F級とかブロンズクラスとかのランクがある。とか。
魔物は魔石を持っていて倒すとそれが手に入る、とか。
生産系の基本はポーション、とか。
転生したとき、チートが手に入る。とか。
金貨、銀貨、銅貨というお金がある、とか。
妙に似た設定が転生ファンタジーでは共有している。
ちなみに、転生した理由が、トラックにはねられて、というのが基本、とか。
奴隷とか猫ミミとかメイドとか。
そういう共有した世界観があって、それをすこし変えたりはするけど、基本は共有する。
すると、世界の説明はそんなにいらないって利点がある。
ちなみに、しばらく歩いていると馬車が魔物に襲われていて、王族か貴族の姫が登場するっていうのも共有している人多いね。
こういう話をすると、「自分で設定をちゃんとしない手抜き作家」っていう人いるけど。
たとえば、時代劇とかも、同じなんだ。
本当の江戸時代というより、江戸時代を元にして、大衆演劇から映画に引き継がれた共有する世界観だったりする。
読者と作家が同じ世界観を持っていると、お約束であまり詳しい説明がなくても、話が進められる。
書いてないのに、「そういうもの」で済ませる利点がある。
もっとそれが進んだのが二次作品だけどね。
もとになるアニメ等があって、それのスピンアウト作品。
元のアニメは見ていることが前提になっている。
ただ、二次作品だと著作権の問題がややこしいから、僕はパスする系。
ちなみに、転生ファンタジー物の日本の元祖は、アニメ、ダンバインじゃないかなと。
作られたのは、初代ガンダムのちょっと後くらい。監督もガンダムの冨野さん。
だけど、おおすべりした。
当時はまだドラゴンクエストも発売される前。
ファンタジーというジャンルは、童話しかない時代。
作りてと視聴者の世界観の共有ができていなかったから、おおすべりして、途中で路線が変更になって現代に転生しなおしていた。
今でもマニアックな人は好きなアニメだったりして。
なろうにおいて、転生物というのは、世界観の共有ができる楽しい小説、ってことで。
転生物に拒否感がない人だったら、それを選んだ方がお得ってお話でした。
僕も転生物に見せかけて、全く別の裏設定をした連載物をはじめているとこ。
みんなが作り上げた転生ファンタジー世界を借りて、なんかひっくり返すことまで連載が続いたらいいなって思っていたりするんだ。