第七話:動き出す影
午前七時前。
朝だと言うのに外はどんよりとしていて薄暗い。
鉛色の雲が青空を覆いつくして、陽光を遮っている。
今にも雨が降り出しそうな天候は、まるで自分の心境を表しているみたいで。龍彦はけたたましく鳴り響く目覚まし時計を叩いて止めた後、再び布団の中へと潜り込む。
本日は平日だ。祝日でもない以上、学生である龍彦は【聖アマトゥリス学園】に登校せねばならない。
もうすぐ美里亞が迎えに来る。
それでも龍彦は布団の中から動こうとしない。
学校に行く気がまるで起きない。それが登校時間が迫っているにも関わらず、彼が行動に移さない理由であった。
昨日の一件が、相当精神にきている。
遥希、衛、楓ときて悠も加わった以上、もはや【聖アマトゥリス学園】に安全地帯はない。
今更な話だが、他にも色々と喧嘩を吹っ掛けてきた輩がいるかもしれないのだ。そう思った――思ってしまったから、身体が拒絶反応を起こしている。
早い話が登校拒否を龍彦は決め込んでいた。
「今日はもう、学校休んだろ……」
今はとにかく、何もしたくない。何もやる気が起きない。
今日ぐらいはずる休みをしても罰は当らないだろう。
程なくして呼び鈴が部屋に鳴り響く。美里亞が来たようだ。
呼び鈴を鳴らしても出ないものだから、合鍵を使って美里亞が入ってくる。
「龍彦さまいつまで寝ておられるのですか!? 早く起きないと遅刻しますよ!」
「美里亞さん、今日はすいませんけど調子が何や悪いんで学校休みます。学校への連絡は俺の方からしときますんで」
「風邪を引かれたのですか!? だったら早く病院へ行かないと……!」
「あ~大丈夫です。熱自体はそこまで大したことありませんし、風邪薬飲んで今日一日ぐっと休んだらよぉなります」
「ならば今日は私が看病をさせて頂きます!」
「えっ? いや、それも別にいりませんよ。微熱ぐらいやし、自分で家事もできますから」
「いけません! 今日はこの私、美里亞がしっかりと! 龍彦さまの看病を! させて頂きますので!」
鼻息を荒げ血走った眼でやる気を表明する美里亞。
なんだか、とんでもないことになってしまったかもしれない。
嘘吐きは地獄行きとはよく言ったものだが。もしかすると、このまま看病を受け入れてしまうと本当に地獄へ直行しそうな気がしてならない。主に人生と言う意味合いで。
「あの、やっぱり学校行きます。早めに薬飲んだせいか知りませんけど、何や身体が楽になってきました。ようやく薬が効いてきたんかなぁ」
「駄目です! さぁまずは服を脱いでください龍彦さま。まずは身体に付着した寝汗をしっかりと拭き取らせて頂きますね。もちろん他意はないですよえぇないですとも!」
「絶対嘘やろ! 思いっきり鼻血出しとるやんけ!」
「こ、これは違います! これは、その……そう! やる気の血が出てきただけです!」
「いや意味わからへんし……」
「と、とにかく今日は龍彦さまはゆっくりとご自宅で療養して頂きます! それじゃあ服を脱がせますよ!」
「ちょ、止めてください美里亞さん! 汗なんか掻いてませんし服も自分で脱げますから!」
「このムアッとした汗の臭い……もう、もう我慢できません!」
「うわあああああああああっ!!」
豹変した美里亞に龍彦は押し倒される。
恍惚とした表情にだらしなく涎をぽたぽたと滴れさせる。
今まで冷静で仕事ができる女を演じてきたと言うのに、男の汗の臭いと看病の中で行われる卑猥な妄想に彼女の理性は消失し本能のままに動く一匹の獣と化した。
さて、抵抗する間もなく上のパジャマを剥ぎ取られてしまった龍彦は――身体を密着させようとしてくる美里亞と手四つ力比べしていた。
「ほ、細い腕しとるのに何ちゅう力やねん!」
「男の方が女性の力に勝てると思っていますか? さぁ今すぐ汗を拭きますよ! 遠慮せず私に身を委ねなさい!」
「絶対嫌やわ! だ、大体タオルもないのにどやって拭くつもりしとるんやアンタは!?」
「そんなの……舐め取るに決まっているじゃないですか!」
「うん知っとった。せやから聞きたくなかってん! えぇい、いい加減離れろや!」
美里亞を強引に撥ね退ける。
床に尻餅をついた美里亞がネックスプリングで素早く体制を立て直す。
間髪要れず、襲ってくる。
再び手四つ力比べへと持ち込む。
「もう我慢できないんですよ。男がこんなにも近くにいるのに手が出せない。さり気無くアピールをしても全然伝わらなくて、最終的に他の女と結婚する……そんな光景を何度見せられてきたと思ってるんですか」
「そ、そりゃあ災難でしたね。せやけど俺には、何も関係あらへんことでしょ!」
「もう独り身は嫌! 写真集も漫画もDVDじゃ全然身体が満たしてくれない! だから龍彦さまを調教して私はこの欲求不満を解消してみせる!」
「美里亞さん……残念やけど、俺はアンタ好みの男にはなってやれへんわ!」
手を緩める。
突然脱力したことで体制を崩した美里亞が倒れこんでくる形で接近してくる。
龍彦は、迫ってくる美里亞の顔面――より上。額目掛けて頭突きを叩き込んだ。
ごつん、と鈍い音がする。
「きゅう……」
漫画でしか出てこないような擬音を発して、美里亞が大の字に倒れた。
白目を剥いて倒れている美里亞を見やり、龍彦は小さな溜息をもらす。
遥希達であったならばいざ知らず。正真正銘本物の女性に対して手を挙げたことに、罪悪感が心中で渦巻く。
されど龍彦はやるしかなかった。やらねば彼がヤられていた……主に性的な意味で。
男である以上、性に関する欲求や好奇心はある。しかし刃崎龍彦が求めるのはあくまで純愛であって、ヤンデレもNTRもその逆も彼の眼中にない。
一高校生として健全かつ純粋な恋愛がしたい、と龍彦は心の奥底より思っている。
「すんません美里亞さん。せやけど正当防衛っちゅうことで、勘弁してください」
気絶している美里亞をベッドへと寝かせる。
白目を剥きながらも口がにやりと歪んだ。
せっかくの綺麗な顔も台無しだ。放送事故並みの気持ち悪さを出している。
このまま家に放置しておくのも嫌だが、だからと言って襲ってきた相手と同じ空間にいるのも気が引ける。目覚めればきっと、彼女が再び襲ってくるのは明白だった。
と言うことで。
「しゃあない、とりあえず外に行くか」
龍彦は外出することにした。
学校生活を送ってきた中で、一度として早退はおろか遅刻もずる休みもしたことがない。
皆勤賞を特に狙っていた訳でもない。ただズル休みは悪いことだから今までしてこなかった。
それが今日、人生初のズル休みをする。
その理由が女性絡み――正確に言うと元男で挑んでくる輩が原因なのだが――とは、なんとも情けのない話だ。龍彦は自嘲気味に小さく笑った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
平日の神鳴町の町並みを、一人歩く。
特にこれと言って予定はないし、何より今の自分は学校をサボっている身だ。
ゲームセンターなんかに行けば即座に補導されておしまいだ。この世界の場合だと、厳重注意だけでは済まない気がする。
だから龍彦は、変装をして町を歩いている。
変装と言っても帽子を深く被り、サングラスとマスクで顔を隠すだけの質素なものだ。
変装と言うよりも、どっちかと言うと不審者に近いかもしれないが、気にしないことにする。
多くの女性が視界に入る。皆舌なめずりをしていた。
男性保護法と言う盾があっても、理性が振り切れた女性は止められない。自宅で美里亞と繰り広げた一戦がいい証拠だ。油断はできない。
さて、これからどうやって時間をすごそうか。熱を帯びた眼差しを浴びる中、龍彦は沈思する。
「た、助けてくれぇ!」
不意に、どこからか聞こえてきた悲鳴に思考が中断される。
気が付けば、楓と出会った高架下に来ていたらしい。
そこで、ある光景が視界に映る。
スーツを着た一人のサラリーマンがいた。
たるみ切ったお腹とバーコードハゲが、中年男性であることを醸し出している。
そんな男が、涙をぼろぼろと流している。彼の視線の先には複数の女性がいた。
無駄に資金を費やして改造されたバイクに跨り、白の特攻服に身を包んでいる。
俗に言う暴走族と呼ばれる組織だ。夜の町を爆音で走行して周囲に迷惑を掛ける集団で、過去に喧嘩を売ってきた暴走族を壊滅させた過去が龍彦にはある。
どこの世界でも、暴走族は他人に迷惑を掛けることしか能がないらしい。
それはさておき。
「へっへっへ。逃げられると思ったの?」
「中年のおじさん相手にヤるのってさぁ、一度経験しておきたかったんだよねぇ」
「ひ、ひぃぃぃっ!」
わざと周囲を走ることで逃げ場をなくし、脅えて泣いている様子を楽しんでいる。
中年男性の泣き顔に、そこまでの受容性があるものなのか。抱いて当然すぎる疑問に小首をひねって、龍彦は暴走族の下へと向かう。
放っておいてもよかったが、あまりにも中年男性が憐れだった。
「そこで何やってるんや?」
「あん? ってうっひょー! こりゃまた上物が来たな!」
「うわぁ……もう既に馬鹿さ全開やんけ。見た目かわいくても馬鹿な女は嫌いやで俺は」
「そんなこと言って、私達と遊んで欲しいからホイホイと来たんでしょ?」
「いんや、そこにいるオッサンが可哀想やから来ただけや――俺が相手したるから、そのオッサンは見逃したれや」
「……いいわよ。よかったわね、もう行っていいわよ」
豚のように悲鳴を上げながら逃げ出す中年男性。
呆れ混じりに後ろを姿を見送って――完全に視界から消えたところで、龍彦は改めて敵手を見やる。
にやにやと品定めをしている中で、一人の少女と目が合った。
燃え盛る炎のように色鮮やかな紅色の髪が特徴的だ――サイドテールを微風に揺らし、凛とした顔立ちをしている。女としての美しさと、瞳の中に宿る男にも勝るとも劣らずの闘気が、他の取り巻き達とは違うことを物語っている。
それもそうだろう。龍彦にとって彼女もまた知人の一人であり、何せ彼自身の手で壊滅させた暴走族の頭を張っていたのだから。
しかし。
――こいつの名前、何やったっけ? 全然思い出せへん……。
名乗られたことがあるような、ないような。
いや、やはり名乗られたかもしれない。しかし遥希達に比べれば差ほど印象もなかったので、結局何も思い出せなかった。
どっちにせよ、どうして俺はこうも知り合いにばかり出会ってしまうのやら。龍彦は心底、己の運のなさに嘆いた。
「さて姐さん。こいつどう料理して――」
「お前らはすっこんでろ。コイツはアタイがやる」
「え? あ、はい。わかりました」
子分達を下がらせて、姐さんと呼ばれた少女が更に一歩前へと出る。
「……アンタさぁ、男のくせになかなか度胸あるじゃん」
「そりゃどうも。生憎、お前らみたいな相手には見慣れてるもんでな、今更怖いとも思わへんわ」
「なるほど。どおりでアタイらを前にしても堂々としていられる訳だ――だけどねぇ、アンタがやってることは勇敢じゃなくて無謀っつーんだよ。漫画かアニメの影響でやってるなら、今すぐにでも止めときな」
「ふん、忠告痛み入るわ――ほなっ、俺はもう行かせてもらうで」
「ふっ、あぁ行っていいぞ。アタイはアンタのことが気に入った。だから今日のところはこれで見逃してやるよ――近い内、会うことになるだろうけどね」
「なんやと? どう言う意味や?」
「ふっ……お前ら、行くよ」
「え~姐さんここでヤッちゃわないんですか?」
「折角処女卒業できると思ったのに!」
「うるせぇぞお前ら。ほれ、とっとと行くよ!」
不満を垂れる子分達を引き連れて、少女はバイクに跨り走り去っていく。
「……一体何やってんあいつらは」
名乗ることもせず、意味深な言葉を残していった少女に龍彦は疑問を浮べる。
その答えが出てくることもないまま、遅れて龍彦も高架下を後にする。
「むっ! 学生でありながら授業に出ずにサボるとは感心しないな! よしっ、ここは大人として私の道場でみっちりねっとり指導してやろう!」
「げぇっ! 楓さん!!」
会いたくない一人に追い掛け回される羽目になり、心の傷を癒すはずのズル休みは心身共に疲労する一日となった。