第三話:空手に寝技はありません
道路と車が行き交う高架下。
ざぁざぁと流れる川の音が、唯一龍彦の荒らんだ心を癒してくれる。
遥希と衛からとにかく我武者羅に逃げた先がここだったが、結果論で言えば龍彦に良い結果をもたらしたと言えよう。
大分頭も冷めた。思考も冷静に働かせられる。
さて――もう一回頭を働かせるとしよう。龍彦は頬を叩く。気合も充分だ。
「まず、あの二人は間違いなく遥希と衛やった」
戦ったことがある相手だからこそ、確信を持てる。
問題はどうしてこの見知らぬ町に、それも美少女の姿をしているのか。
お互いに面識があるものの、向けられてきた価値観やら思考やらが龍彦の知っている本人とはまるで違っている。
武術家やギャングのボスである前に、彼らは一人の男だ。
男として生まれたから最強の座を欲する。
そこには怨恨も私情もない。ただ目の前に強い男がいるから戦いたい。
戦って勝ちたい。実に単純な思考で彼らは行動する。
しかし、女体化してしまっている彼女達は異性として刃崎龍彦に想いを寄せている。
この事実が、彼に過去最大級の嘔気を与え、今も龍彦は込みあがってくる吐瀉物と格闘している真っ最中でもあったりした。
思い出さなければいいだけなのだが、知っている人間がある日突然女になっていれば嫌でも意識させられる。
なんとか嘔気を無理矢理抑え込む。
ようやく落ち着いた。
落ち着いて――。
「そんなところで一人何をしている。家出とは感心しないな刃崎くん」
「……なんかここまできたら、もうなんとなくわかってしもたわ――アンタですか、楓さん」
山南楓――実戦空手道【龍神館】館長。
齢四十だが未だ衰えず。龍神の異名を背負い現役で戦い続ける彼もまた、刃崎龍彦を好敵手として挑み続ける一人の修羅でもある。
日課として子供の成長記録をブログにアップしていたりと親バカを全面的に解放した、いいお父さんでもあるから、彼を慕う門下生は数多くいる。
だが一度拳を握れば、山南楓は鬼と化す。
実際、龍彦との記念すべき初戦で彼は敗北寸前まで追い込んだ実績を持つ。
空手を愛し、普段から空手着を着用して――て言うかそれ洗濯していないんですか、ちょっと臭いますよ――日々血と汗滲む努力を惜しまない山南楓を龍彦は真の武術家として尊敬している。
しているが、何度も挑んでくることに関しては鬱陶しく思っていた。
さて、この狂った世界における山南楓はと言うと。
「ん? 私がどうかしたと言うのか?」
「……いや、別に」
目の前に美女がいる。
四十代とは思えぬツヤツヤとした肌。ひょっとすると二十代前半まで若返ったのかもしれない。
腰まで届く黒髪がとても綺麗だ。
道着を纏っているのは相変わらずだが、へそ出しに改造されているので六つに分かれた美しい腹筋がこれでもかと見せ付けられる。
そして空手着の下には、アンダーシャツやブラジャーと言った類がまったく纏われていない。
つまり、裸体の上から彼女は道着を纏っていた。
それは男がする格好やろ、と内心ツッコミを入れつつ龍彦は対応に出る。
「どうした。随分と元気がないな刃崎くん」
「……驚きを通り越して、何も思えへんようになってしもたわ」
「……? まぁよくわからないが、まぁいい。それよりもこんな時間に一人出歩くとは感心しないぞ。もしよかったらどうだ? 私の道場にくるか?」
「楓さんの道場に、ですか?」
「そうだ。君のことだから襲われても大丈夫と思うが万が一と言うことがある! ならばこの山南楓、健全な男子を保護する義務がある!」
「いやそんな義務いらんわ!」
「まぁそう言うな。今夜こそ君を抱い――ではなくて、今晩ご馳走してあげよう。夕食もまだだろう?」
「それは……そうですけど」
「じゃあ決まりだ。さぁ行くぞほら行くぞ絶対行くぞすく行くぞ」
「わ、わかりましたからそんなに急かさんといてください!」
手を取られ――まるで感触を確かめるようにニギニギとしてくる楓の手を龍彦は払った。
見た目美女なのに言動が実に残念……いや、危険だ。
このまま本当についていってもよいものだろうか。龍彦は大いに悩む。
しかし、遥希と衛に比べたらまだ比較的マシやろう、と納得して一先ず同行することに決めた。
上機嫌で隣を歩く楓。
その右隣にて、龍彦は静かに口を開く。
「楓さん。実は少しお聞きしたいことがあるんですけど」
「なんだ? 心配せずとも私は今誰とも交際していないぞ。君はまだ学生と言う立場だが卒業すればもう立派な大人だ。だから安心して今は勉学に励むといい。そして卒業をしたら改めて私の元にくればいい」
「いや、何の話をしてるんです? 俺が言いたいのはそうやのうて、俺の家とかってどこにあるか知ってるかってことですわ」
なんとも馬鹿げた質問だ。けれども龍彦には今一番必要な情報でもある。
見知らぬ町だが、知り合いがいる。女と化してしまっているが。
そしてその知り合いは龍彦のことを知っている。色々と狂ってしまっているが。
ここは彼女から情報を聞き出すべきだろう。龍彦はそう決断を下した。
「いきなりどうした? まさか若年性アルツハイマー症候群にでも患ったのか!?」
「いや、そうやのうて――信じられへんと思いますけど、俺……記憶喪失って言うやつみたいで」
もちろん、記憶喪失などと言うのは龍彦の嘘だ。
しかし、ここでまったく知らない世界から来て俺が知っている貴方は男です、などと言っても信じられる人間が果たして何人いようか。
従って、龍彦は嘘を吐いた。
記憶喪失の方がまだ現実味もある。そう判断しての行動だった。
「な、なんだと!?」
「いやホンマ俺自身もビックリしてます。せやけど自分のこと以外、何やこう……頭に霞が掛かったみたいで上手く思い出せないんですわ」
「そ、そんなことが…うぅむ。事実は小説よりも奇なり、とは言うがよもやこんなことが実際に起ころうとは……。ま、まさか私のことも忘れ――いやこれは神が与えたチャンスか!?」
「いや楓さんのことはよ~く知ってます。せやから記憶なくなる前は恋人同士やったとか、そないなベタな嘘はいりません」
「……馬鹿だな私がそんなことを言う訳がないじゃないか!」
――最後の最後、しっかり舌打ちしたなこのオッサン……じゃなくて、お姉さん
「そうか……あいわかった! それじゃあ――」
「そこで何をしているのかしら?」
一人の女がやってきた。
強い口調と凛とした顔立ちは、気の強い女性であると窺える。
それもそうだろう。何故なら相手は警官なのだから。
青の制服に警棒やサクラ――回転式拳銃で装備している格好は、誰しもが見慣れている。
そして婦警もまた、楓に負けず劣らずの巨乳の持ち主だった。
「そこの貴女、確か龍神館の館長の山南楓さんね? こんな時間に未成年を……それも、私好み――じゃなくて、青少年を連れてどこへ行こうとしているのかしら?」
「ふ、婦警さん! いや私は別に彼に怪しいことをしようとしたわけじゃ――」
「まさか龍神とも呼ばれている貴女が男性保護法を違反するつもりじゃないわよね?」
「い、いえいえいえいえ! それは冤罪ですよ婦警さん!!」
「この人の言う通りです婦警さん。それに俺はこの人、楓さんとは知り合いなんですわ。せやから安心してください」
「そ、そうなの? でもそうだとしたら、どうして貴方はこんな夜遅くに出歩いているの? 未成年の男性は夜八時以降外出してはならない――男性保護法第三条違反よ」
「は? 男性保護法? 何やそのふざけた法律は」
「ふざけたって、どんな法律よりも重要とされている法律よ! 貴方も学校で習ったでしょう!?」
「……なんやねん、その子供に守らせるような内容は」
まるで親が幼い子供に約束させるような内容に、呆れざるを得ない。
とは言え、これで楓の無罪は証明された。
女体化してしまっていても一応彼は知人だ。その知人が目の前で連行されるのを見るのも忍びない。
「それについては、私がしっかり面倒を見させてもらいます。なぁ刃崎くん」
「……えぇ、そうですね」
「……因みに聞くけど、貴女達はその……恋人同士なの?」
「はい? いやいやいや、まさかそんな訳あらへ――」
「はっはっは。それは早とちりと言うものですよ婦警さん」
「そ、そうよね! それじゃあ私にもまだチャンスが……!」
「彼は未来の夫となる男です」
「堂々と嘘吐くのやめてもらえますか楓さん。それと婦警さん、そんなメチャクチャ落ち込む必要ありませんよ」
からからと笑う楓とがっくりと項垂れる婦警。
間に挟まれた龍彦は一人大きな溜息を吐いた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
――龍神館本部。
門下生約百万人以上を誇る、日本一の空手道場と言って過言はない。
館内の一室。館長室にて龍彦はお茶を啜る。
その傍らで、つい一時間前に楓から聞かされた話について沈思する。
この世界――桜皇は男性の出生率が極めて低い。
女性八割に対して男性はたったの二割前後。
あまりにもバランスが乱されている男女比率で、扶桑皇国のみならず世界は構築されている。
更に龍彦が驚いたのは男女の価値観についてだ。
男性が本来ならば持つべき価値観が、ここでは女性が担当している。
おっぱいを見られても彼女達に恥じらいはない。逆に男性は胸を隠して悲鳴を上げる。
故に路地裏での一件、および楓の大胆な格好についても納得させられた。
以上から龍彦は一つの結論へと辿り着く。
「あべこべの異世界……いや、並行世界っ言うんが正しいんか」
すべてが逆転した世界。
日本ではなく桜皇と言う名前の時点で、最早龍彦の知っている世界ではないが。
いずれにせよ、元の価値観を持つ彼から見れば異世界であることに相違ない。
では何故、と一番の問題点に行き着く。
なんで俺はこんな訳のわからん世界に来てしまったんや、と抱いて当然すぎる疑問に龍彦はうんうんと唸る。
ライトノベルではよく主人公が死んで異世界に転生して空き放題にハーレムをする、と言った設定が多くの人気を集めている。
龍彦もその読者の一人であるし、家には何冊ものライトノベルが本棚に保管しているぐらい、彼は異世界転生系を愛読していた。
だからライトノベルの主人公のような人生を歩みたいと思っていない、と言えば嘘になってしまうのだが。
「死んで転生したんか、それともここが死後の世界っちゅうやつなのか。よぉわからんでホンマに」
「遅くなってしまってすまない」
楓がやってくる。
空手着姿から私服に変わっていた。
変わったと言っても白い半袖シャツと短パンの質素な格好だ。
下着を着けていないから、胸部にある二つの突起物が透けて見える。
「それで、何か思い出せたか?」
「……いや、あんまし」
「そうか……まぁ気にするな。自分の名前と私のことを憶えているだけでも上等だ。他のことは思い出せなくても一から憶え直せば済む」
「……そうですね」
「しかし、君は本当に素敵な男性だ。ううん、私好みの男だよ本当に」
「そりゃどうも……」
「……なぁ刃崎くん。君もいい年頃だ。そろそろ……異性について興味を持たないか?」
「セクハラ被害で訴えますよ?」
「じょ、冗談だよ冗談。そんなに本気にしないでくれ」
「わかっとります。だからこっちも冗談言うたんですわ」
男性が少ない――即ち、八割の女性は結婚できる確立が極めて低いことを意味する。
そのため、性犯罪に走る女性が後を絶たない。
医療機関に行けば精子バンクから人工授精で子供を授かることができるが、遺伝子レベルで世の女性達は男のぬくもりに飢えている。
よって性犯罪に走る者も多く、既成事実を作られ泣く泣く結婚させられた男性が出たことから男性保護法が立案された。
男性を守るために生まれた憲法。
これで世の男性は女性に襲われることなく平和に生きていられる――訳でもない。
「し、しかしだな。君だって高校を卒業すれば結婚が許される。その内の一人として私を選んでくれてもいいんじゃないか?」
「そこまでドストレートに言う人、楓さんだけとちゃいます?」
男性の出生率は低い。
その処置として男性には多くの女性と結婚することが義務付けられている。
早い話が、一夫多妻制だ。
最低でも三十歳までに五人以上の妻を娶り、女は二人以上の子供を産まなければならない。
よって男性に対する女性の求愛行動はとても過激だ。
どのぐらいかと言うと、攻めが強すぎて男が泣いて逃げ出してしまうぐらい過激だ。
世の女性がされてみたいシチュエーションランキングに入っている壁ドンも、この世界だと脅しにしかならない。
楓の言動も、過激な部類に入る。
元の価値観を持っている龍彦だからこそ呆れて流せるものの、この世界ならではの男性であれば耐えられたものではない。
逆に犯させてくれと頼み込まれて簡単に股を開く……いや、勃たせる男を果たして人生を共に歩む伴侶として選ぶのもいかがなものか。
「はっはっは! 私は下手な小細工はしない主義でね。空手と同じで恋愛や結婚に関しても、ただ真っ直ぐと打ち込むだけだ!」
「……ここでもアンタは変わらんな。どこまでも己が信じた道を貫き通す。だからアンタの正拳はどの相手よりもめちゃくちゃ痛い」
「そ、そうやって改めて褒められると照れ臭いな」
「俺はホンマのことしか言いませんので――ところで楓さん、一つ聞いてもいいですか?」
「な、なんだ?」
「……いまいち憶えてないんですけど、俺と楓さんってどんな感じで出会ったんです?」
「そうだなぁ。私と君が出会ったのは丁度一年前ぐらいだったか……。いい男がいないか……ではなくて、修練で走り込みをしていた時偶然君を見掛けた。君を見た時は心が躍ったよ、こんなにも素晴らしい男性がいたなんて、とね」
「それで?」
「そしてそのまま私は刃崎くんに勝負を挑んだ。確かあの時は、こんな感じだったかな!」
「うわっ!」
予想外の行動に思考が僅かに遅れた。
その一瞬の隙が楓を有利させてしまう。
押し倒された龍彦。
すぐ目の前には呼吸を乱し、頬を紅潮させた楓がいる。
空手家としての顔はどこへ消えたのやら。
飢えたところに獲物を見つけた肉食獣の如き顔に、背筋に冷たいものが走る。
「い、いきなり何すんねん楓さん!」
「ちょっとした夜の運動を一緒にしようと思ってね。このまま寝技の練習はどうかな?」
「アンタ空手家のくせに寝技とかやらへんやろ!」
「そうそう、そしてあの時君を押し倒した後はどうだったかな……確かこんな風にしたかたな!」
鉄板をも打ち抜く手が鋭く伸びる。
さながら蛇のように、するりと服の中へと侵入をする。
ごつごつとして岩のように硬い感触は一転。
柔らかくてスベスベとした滑らかな感触が胸の上で踊り狂う。
「ふふふ……いい胸板じゃないか。ずっと前から君の胸を揉みしだいてやりたいと思ってたんだよ私は!」
「……で?」
「……あ、あれ?」
「もしかして、この程度のことで俺が恥ずかしがったりするとか……本気で思ったんですか?」
「いや、その……へ、変だな。AVだとこんな感じだったはずなのに!」
「AVて……呆れるわ。せやけどこのままアンタにやられっぱなしっ言うのも癪やから、俺もやり返させてもらいますよ!」
「へっ?」
困惑する楓の手を服から引きずり出す。
そしてお返しとばかりに、龍彦は目の前にある巨乳を揉んだ。
彼女が元男なのは重々承知している。
せやけど目の前に巨乳があったら揉んでしまいたくなるのが男の性なんや、と誰に問われた訳でもないのだが、己に言い聞かせて楓の胸を揉んだ。ひたすら揉み続けた。
だんだん熱を帯びた色っぽい声が聞こえてきても、だらしない表情を作って涎がポタポタと滴ろうとも、龍彦は揉む手を休めない。
どれぐらい揉んだだろう。龍彦は楓の胸からそっと手を離した。
そして巨乳を揉んだ満足感と、脳内に恍惚とした顔を浮かべる男の楓を再生してしまい激しい嫌悪感と嘔気に襲われる。
無理矢理嘔気を抑えこんで、ふと楓を見やる。
びくびくと痙攣を引き起こしている。
半ズボンの一部がぐっしょりと濡れていた。液体の正体が何かとは、あえて問うまい。
熱を帯びた息遣いに恍惚とした顔が妙に色っぽい。
部屋も楓の汗とナニかが混ざり合い、甘い香りに包み込まれる。
元男のわかっているのに少しでも男として反応してしまった自分を、龍彦は咎めた。
このまま欲望のままにしてしまうときっと取り返しのつかへんことが起きる、とそう感じずにはいられなかった。
「きょ、今日のところはこれで勘弁しときます。それじゃあ俺はそろそろ、失礼させてもらいます。このままここにおったら、何されるかわかったもんじゃないんで」
楓からの返答はない。
余韻に浸っているのか、それとも立つことすらままならぬのか。
とにかく、復活して襲われても厄介だ。
横たわる楓を一人残し、龍彦は龍神館を後にした。