第十九話:侵蝕する思惑【上】
まるで歯の隙間に肉の欠片が挟まったかのような心境。
今の龍彦はそれに等しい心境で、学友達と長い廊下を歩いていた。
肉の欠片、即ち彼が【純桜華女学院】へ訪問してから翌日のこと。登校して早々に学園長からの呼び出しを喰らった。
無断欠席をしたことについての説教であれば、まだ納得もしていた。
しかし男子生徒全員ともなれば話は変わってくるし、何より理由を告げられぬままとりあえず来いと言われれば、誰しもが小首をひねるのは当然至極と言えよう。
目的地へ到着する。
扉を開き、ふと学園長室に入るのは今回が初めてであることを思い出す。
それはさておき。
見るからに高級品であろう装飾品や家具で彩られた室内に、彼女はいた。
学園長の隣に立つ、一人の女子生徒。【純桜華女学院】の制服を着た彼女が満面の笑みを浮かべて手を小さく振る。
とりあえず拒む要因もなかったから、同じく手を小さく振り返してやった。さて。
「学園長、俺ら男子生徒を集めてどないしたんですか?」
「それは彼女から直接してもらいます」
彼女――神谷忍が前に出る。
「今回再びこうして皆さんの所に訪れたのは他でもありません。単刀直入に言うと皆さんには【純桜華女学院】へ来てほしいんです」
ざわざわと生徒達から喧騒が上がる。
一先ず、彼らを無視して龍彦は口を開いた。
「どう言うつもりや? 来てほしいっちゅうのは一日だけ……ってことやあらへんのやろ?」
「言葉通りの意味よたっつん。私はたっつんに、皆に【純桜華女学院】の生徒として一緒に勉強したいだけ。たっつんはまぁ、ともかくとして他の生徒達は違うでしょ? 私は風紀委員長としてそれがただ許せないだけなの」
「あ、あの! 本当にあの動画に映っていた光景は事実なんですか!?」
「もちろん、事実だと私が保証します。それについてはそこにいるたっつ……刃崎龍彦君も証明してくれます。彼は昨日、私達の学校に来ていましたからね」
龍彦は内心で舌打ちをこぼす。
余計なことを言ってくれたものだ。身内から一人でも情報を持っていると知られれば、ますます彼らの意思を結束させてしまう。
それも恐らく、彼女は狙ったのだろう。
「なっ!? おい龍彦お前抜け駆けしようとしてたのかよ!」
「……偶然や。たまたまそこの生徒が落し物しよったから届けに言ったにすぎひん」
「で、でも【純桜華女学院】に行ったんだよね!? あの動画通りだったの!?」
「……それは」
忍がいる手前、彼らの質問に誠実に答えねばなるまい。
故に事実である。事実であるが。
「まぁ皆さんが疑心暗鬼に陥るのも無理はありません。そこで今回、こうして【聖アマトゥリス学園】にお邪魔したのはある提案を持ってきたからです」
「提案?」
例の男子生徒の話をしようとしたところで、忍が言葉を遮るように口を開いた。
「えぇ。【聖アマトゥリス学園】と【純桜華女学院】との交流会を兼ねた体験入学です」
「体験入学……やと?」
「一日数名ずつ、ウチの生徒として一緒にすごしてもらいます。そこでもし気に入っていただければ転校してもらい、不満があればそのまま【聖アマトゥリス学園】に残ってもらう。もちろんこちらかも男子生徒を体験入学させます」
「……他校の人間が、そうまでして必死に男子生徒を引き抜こうとすんのはなんでや? 忍、お前いったいなにを企んどるんや?」
「さっきも言ったでしょ? 私は風紀委員長として女子に脅えている男子の姿を見るのが許せないだけなの。最終目標は同じく共学化の学校から男子生徒を【純桜華女学院】で一緒に学べる最高の学校にすること。それが実現できるためなら、私はどんな苦労だって耐えられる覚悟があるわ」
「……お、俺行くよ。一度体験入学してみたい!」
「じゃ、じゃあ僕も!」
一人が意思を表明すれば、もう彼らは止まらない。
小さな火はやがて大火に。次第に誰が最初に【純桜華女学院】へ行くかで揉め始め出した。そんな混沌とした様子をありありと見せ付けられていると言うのに、学園長の顔には笑顔が張り付いたまま。
心なしか虚ろな瞳をしている。
とりあえず。
「お前ら落ち着けや!」
頼りにならない学園長に代わって場の静粛を促す。
「とりあえず体験入学の件はえぇわ。学園長、神谷が言うとる体験入学の件、どない考えてはるおつもりで?」
「私としては生徒達が色んな経験を積むことに反対はしません。彼女の案は大変素晴らしいものと思いますよ」
「……学園長、それ本気で言うてる、俺はそう思っていいんですね?」
「もちろんです。どうしたのですか刃崎くん」
「……いや、なんでもありません」
「それでは早速ですけど――」
日程やローテーションについて学園長と話し出す忍。
そうなってしまえば、もう男子生徒達に用はない。
意気揚々と学園長室を後にする彼らに続いて、龍彦も退室する。
ふと、振り返る。にこりと、まるで意味深な笑みを浮かべた忍と目が合った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
正午きっかしの教室は、午前授業と言うだけあってがらんと静まり返る。
わざわざ学校に残って昼食を摂る必要もなければ、男子憩いの場である食堂もまた新学期が始まるまで長期休業に入っている。
にも関わらず龍彦が自前の弁当を持って教室に残っているのは、色々と世話が焼ける彼女の要望であることが大きい。曰く、毎日手作りを食べたいらしい。
龍彦自身も特に断る理由が彼になかったし、恋人同士になってから少しずつ一人の異性として見られるようにまで彼の意識が改善されたことも要因の一つだ。
郷田遥希は美少女、間違いない。
そして今日も腹ペコで机に伏している彼女に弁当を渡す。
水を得た魚のように生き生きとした顔でがっつく姿に自然と笑みをこぼし、遅れて龍彦も昼食を摂る。
「――てな訳で、俺はともかく、他の連中は十中八九転校しよるな」
弁当も食べ終わった後、開口一番に龍彦は言った。
別に女子生徒に隠しておけとも言われてなければ、いずれはそうなるであろう未来を知っておいた方が受けるショックもまぁちょっとは軽減できるかもしれない。
唯一恋人持ちである遥希はなんの感慨もなく「ふ~ん。それで?」と言いたげな表情は余裕すら感じさせる。だが、他の女子生徒ではこうはいくまい。
暴動が起こる。ほぼ、いや確実に。
「でも龍彦は行かないんでしょ?」
それでもやはり、と言うべきか。
見つめてくる瞳には不安の感情が見て取れる。
もちろんだと。本来であれば龍彦はこう答えるだろう。だが学校同士の行事として扱われていては、生徒である彼の意思など石ころ同然に等しい。
「いや、多分俺も例外なく連れ出されるやろうな」
「そんなっ! 龍彦が他所の女の所に行くなんて……絶対私は許さないからねっ!」
「別に浮気しにいく訳やないんや。それにな、どうしても俺には気になることがあるんや」
「気になること……?」
「あぁ、ちょっとな……」
「……相変わらず仲が良さそうですね」
不意に乱暴的に扉が開かれた。
この学園内で乱暴に扉を開ける輩が真宮衛と浅上悠を除いて龍彦は知らない。腰に提げている危険物で開放されない限り、まだ良心があるからだろうが、それでも。
そろそろ扉と言う扉が破壊されそうな気がする。
「……なんで邪魔しにくんだよ。さっさとお前らは帰って飯食ってろよな」
「ぐっ……今日こそそのクソ生意気な顔をぶった斬って差し上げますよ郷田さん」
「はいはい落ち着けや。こう言うのなんて言うんやろ、虫の知らせっちゅうんかいな。ホンマ念のため作ってきて正解やったで」
龍彦は鞄の中なから弁当を取り出した。
自分と遥希は既に食べ終えている。では両手にある小さな包みは誰のものか。あえて説明する必要はあるまい。両手の先にいる受取人は一瞬目を見開いた後、きらきらと瞳を輝かせる。
「こ、こここ、こここ……!」
「鶏の鳴き真似か?」
「いや違くて! こ、これはその、ひょっとしてボク達の!?」
「あぁ、あんだけ物欲しそうに見られたら流石にな……」
毎度弁当を遥希の元へ持っていく度に彼女達が血涙を流していたのは知っていたし、日に日に増していく殺気に懸念して、本日から二人分追加するようにしたのだ。その行動が吉と出たことを、不幸にも犠牲になった観葉植物が物語ってくれている。
いつ抜刀したのか。鋭利な断面図がくっきりと残されていた。
「あ、ありがとうございます龍彦さん! あぁ、やはり私が一番愛されているんですね!」
「ま、まぁ喜んでもらえてなによりや」
「ちょっと龍彦。どうしてあいつらにも弁当作ってきたの?」
「なんでって、まぁ減るもんとちゃうし。それに暴れられても面倒やさかいな」
「暴れたって私がギッタギタにしてやるから大丈夫だし!」
「相変わらず乱暴な思考ね。どうしてアンタみたいな女がたっつんの隣にいるのか理解し難いわ」
何故、と龍彦が疑問を視線に乗せて声の主を見やる。
用件は朝の内に終わったであろうし、もうとっくに帰ったはずだ。
だが現に彼女はこうして目の前にいる――黒のノースリーブシャツとホットパンツ姿であるところを見ると、一度は帰宅したのだろうが。後おしりがエロい――し、加えるなら見知らぬ顔が二人加わっている。
一人はセミロングの金髪に黒のワンピースを羽織った少女。
一人は白のチャイナドレスを思わせた衣装に、碧色の髪がなんとも特徴的な少女だ。
「久しぶり刃崎にぃ!」
刃崎にぃ、と独特な呼称を口にする黒のワンピースの彼女を龍彦は知っている。
「――晃」
北郷晃――いじめられっ子が、やはりいつの世の中にもいるいじめっ子に絡まれていたのは、なんてことのない平凡な一日だったのを思い出す。
その日、いつものように売られた喧嘩を無理矢理買い占めさせられたせいで気が立っていた。だから助けを求める声を拾った訳でもないし、彼を助けようと正義感溢れての行動だった訳でもない。
ただ単純に、自分の憂さ晴らしをしたかったところに丁度いい発散場所があった。結果的に彼を助ける形となったが、龍彦にすればそれだけにすぎない。
元を正せば彼もいじめられていた側の人間だ。
それが強者にまで上り詰めたのは彼の努力があってこその賜物であり、弱いまま、いじめられるがままの人間を助けるほど御人好しでもない。
なのに。
『お、俺北郷晃って言います! これから刃崎にぃって呼ばせてください!』
勝手に懐いて舎弟を名乗るようになった。
そんな関係が中学卒業まで続き、以降は連絡すら取っていない。
一時、同じ高校に行くと行きこんでいたのに彼の姿を見なかったのは落第したからだろう。北郷晃は勉強ができるとは言い難い人間だった。
「アタシのことも忘れてんじゃないわよ刃崎」
一見すればおっとり系女子なのに、口を開けばびっくりする程の攻撃口調。
一瞬、「こいつ誰だっけ?」と本気で悩んだ末、腰に携えられている一振りの日本刀から該当者が引っ掛かる。
「――お前は、もしかして薫か」
「そうよ。確かに久しぶりだけど、人のこと忘れてるとか頭のネジどうなってんの?」
蒼井薫――祓流剣術第八代目師範の座に着きながらも病弱故に若くして現役を引退した、現代に生まれたもう一人の天才剣士。
真宮衛を正宗とすれば、蒼井薫は村正と比喩されるほど彼らの実力は群を抜いており、ではどちらが強いのかと疑問を唱える者も決して少なくなかった。
だが最終的に、現代において最強の剣士は真宮衛だと彼らは答える。
病弱でなければ、或いは。この答えはきっと変わっていたやもしれぬ。
龍彦は、そんな病弱剣士と一度だけ戦った。
好敵手扱いされている真宮衛を他所に、生きる最強の喧嘩師の異名が彼の中に宿る武術家の魂を滾らせたのだ。無論断ることもできた。最強の異名は後から周囲から勝手に付けられた忌み名で、龍彦は勝利も名誉も求めていないのだから。
だが、龍彦は承諾した。命を賭した戦いに全力でぶつかり、勝利を手にした。
一人の男としての情けか、武術家としての姿に魅了されてか。今になってもその答えを龍彦は出せていない。ただ一つ確かに言えることが彼にはある。
全力で戦ったからこそ、茶飲み仲間として友好的な関係を築くことができて、まぁよかったと思う――口は酷く暴力的だが。
あべこべの世界にて、弟分と好敵手兼茶飲み仲間もまた例外にもれず美少女と化している。こと蒼井薫に関してはかつての病弱さを微塵にも感じさせない。
「それにしてもひっさしぶりだね刃崎にぃ。刃崎にぃは元気してた!?」
「あぁ元気元気。俺はいつだって元気やで晃。しっかし忍に続いて……今度はお前らもかい」
「最近顔を見ないと思ってたけど、思ったより元気そうね衛……」
「……貴方こそ、元気そうでなによりです蒼井さん」
「んで、お前ら全員【純桜華女学院】の生徒だろ? 雁首揃えてなにしに気やがった?」
「わかりきってるでしょ遥希。たっつんを【純桜華女学院】に来てもらうための段取りをしにきたの」
「させると思うか?」
「学校同士で決まったことなのに、一生徒であるアンタに止められる権利があると思ってんの?」
「言わせておけば……っ!」
遥希が怒りを露わにして直ぐ。旋風が巻き起こった。
ほぼ同じくして、耳をつんざく金打音が教室に反響する。
交差する双つの白刃。均衡を保ちながらも互いに退く姿勢を見せない。
そればかりか今も互いの喉笛を噛み砕かんとぶつかりあっている。
「衛! 薫まで!」
「いい機会です。村正だの正宗だの比べられていた結論、今ここではっきりとさせましょうか」
「言うわね。雑兵風情が……っ!」
「やめなさい薫! 私達は喧嘩をしにきたんじゃないでしょ!」
「衛もや。教室で刀振り回すもんとちゃう。これ以上備品壊したら学園長が泣きよるわ」
渋々と言った様子で彼女達が刃を納める。
とりあえず安堵の息をもらした、のも束の間。
「それじゃあたっつん、日程のことなんだけどね」
「だからっ! 龍彦は渡さないって言ってるだろうが!」
鎮火しかけていたところに再び油が注がれる。
ただでさえ三人――非常勤でたまに一人加わるが――の仲裁に入るのだけでも苦労させられるのに、今回は六人ときた。最早神様――自分のはずなんだけれど、事実上は――の嫌がらせとしか思えず、盛大に溜息をついた龍彦は六人の仲裁に入った。