第二話:狂ったこの世界にようこそ
気が付けば異世界でした――いわゆる、異世界転移と呼ばれる設定はライトノベルにおいて、もっとも読者から好まれるジャンルと化した。
もう似たような作品が出てきすぎてお腹いっぱいです、と言う不満が近年において続々出ているにも関わらず、異世界転生に続いて未だ根強い人気を誇っている。
龍彦もその異世界転移、もしくは転生を愛読する読者の一人であり、だからこそ彼が目の前の光景に戸惑うのは当然至極の反応だと言えよう。
「どこや……ここ」
開口一番、当然すぎる疑問を口にする。
そう、正にライトノベルの主人公が口に出してしまいそうな状況下に、龍彦は驚愕を禁じ得ない。
大小新旧、様々な建造物が群集する町並み。高層ビルやら建物のデザイン的には別に目立った箇所はない。だが近所に高層ビルなんか一つもなかったと、龍彦はしっかりと記憶されている。
青かった空はいつの間にかすっかり黒に染め上げられていた。
携帯電話を見やれば、午後七時と表示されている。であれば今が夜なのは言うまでもなく――はて、どうして大小異なる大きさの月がぽっかりと夜空に浮かんでいるのだろう、と新たな疑問に龍彦は小首をひねった。
自問したところで満足のいく回答など出てきやしない。
龍彦は酷く狼狽する。されどどれだけ喚こうが慌てようが、目の前に広がっている現実が事実であることは捻じ曲げられない。
「も、もしかして俺は……異世界に来てしもたんか!?」
今まで読破してきたライトノベルの存在が龍彦の脳裏に過ぎる。
ある日突然、見知らぬ世界へと立っていた。これぞまさしく王道的展開であり、とうとう自分が現実で初ラノベ主人公的体験を果たせたのだと思わず感動したところで――ふと、ある疑問が龍彦に待ったを掛けた。
――俺は……死んどらへんっちゅうのか?
刃崎龍彦は軽トラックに撥ねられた。
重症だろう、恐らく。全身複雑、いや粉砕骨折は多分確実で出血多量のオマケ付きだ。
誰がどう見ても致命傷であるし、運よく一命を取り留めたとしても完治までには数時間は要するだろうし、ひょっとすると以前のように動けないかもしれない。
しかし、龍彦の身体は五体満足で地に脚を着けてしっかりとなっている。
治療もなく大怪我を持った人間が僅か数時間で完治する、なんてことはまず起こらない。
実はゾンビでちょっとしたぐらいの傷なら治るんだぜ、と冗談こそ口にできても刃崎龍彦は純正の人間でできている。
不純物および未知の物質は一切含まれていない。
となると――。
「俺は死んで……転生したっちゅうことか?」
現代日本の主人公が死に、異世界の人間として第二の人生を謳歌する。
生前の記憶や知識、経験を異世界独自の技術で復元もしくは昇華させて無双してやがてハーレムを築く――これもまた王道的で、死ぬことをすんなり受け入れて適応する主人公の心理が狂っていると指摘する読者も少なくはない。
最近では人間ではなく蜘蛛だったりスライムだったりと、人外系の主人公がちょこちょこ登場し始めている。しかし彼の守備範囲外であるため、これらの作品が龍彦に読まれることはなかった。
あくまで龍彦が好きなのは人間から人間への転生で、彼自身もまたそうでありたいと強く願っている。
それはさておき。
どちらにせよ刃崎龍彦の状況が完全孤立であることに相違ない。
転移であれ転生であれ、周りのモノ達は皆龍彦にとって知らないものばかりであるし、逆に周りも彼を知らないのだから。
「と、とにかくなんとかせな……!」
高度な文明社会の中で野垂れ死ぬなど笑えない。
龍彦は未だ状況を理解できぬまま、行動に移す。
ジッとしていたところで道先案内人が表れる気配は皆無だ。ならば自分で解決するしか他ない。
まずは情報収集から始める。
ゲームでも現実でもコミュニケーションは欠かせられない。
では誰に早速声を掛けようか。どうせなら美人で巨乳がいい、後話し掛けやすそうな人、と自身にとって都合の良さそうな人物を物色する。こんな時でも龍彦は己の欲を忘れない。
例えば、客の呼び込みをしている妙齢の女性はどうだろう。
例えば、ゲームセンターで遊んでいる女子高生も捨て難い。
例えば、疲れ切った顔でトボトボと歩いているキャリアウーマンは中々に勇気がいる。
例えば――。
「なんで、女ばっかりしかおらんのや……?」
自分で願っておいて言うのも何だが、女性ばかりしか見当たらないことに龍彦は小首をひねる。
容姿だけで言えば全員が彼のストライクゾーンに入っている。要するに皆かわいいと言うことだ。
しかし、こうも女性ばかりしか見当たらなければ逆に不安を憶えるというもの。
芽生えた不安から、龍彦は男を探すことに切り替える。
でももし、男が見つけられなかったら。
――そん時は男見せたる。今こそ女の子と関わるんや!
これを切っ掛けに仲良くなったりなんかしたら、と自分にとって都合のいい妄想を描きながらキョロキョロと男性を探す。
うん、見つからないからやっぱり女性に話しかけるとしよう。五秒ほどで探索を打ち切って、龍彦は再び女性へと対象を切り替える。
しばらくして。
「あ、あの……!」
勇気ある少女の行動に思わず親指を立てて称賛の気持ちを送る。
話し掛けてきたのは和服美人で巨乳と、それこそ龍彦が正に思い描いていた理想中の理想だった。
黒の着物の上に薄紫の陣羽織を羽織っている。機動性を重視しているようで、その姿から忍者を連想させられる。ちょっとでも動けば下着が見えそうで見えないのが惜しい。
そして腰に差しているあの小太刀は本物だろうか。
いやいやいや、まさかそんなはず。本物だったら立派な銃刀法違反だし、そうでなくても危険物所持で結局は警察にご厄介になるのは問うまでもない。
彼女はきっとコスプレイヤーに違いない。
アニメや漫画じゃ日本刀を振り回しているヒロインは少ないからきっと真似をしているのだ、と謎の持論を展開して――はて、と少女に龍彦は小首をひねることとなる。
――この気……なんでこの子から“アイツ”の気がするんや!?
「あ、あの……どうかされましたか?」
少女が小首をひねり、龍彦もひねる。
いやいやいや、そんな馬鹿なことが、と龍彦は怪訝な眼差しを少女へと向ける。
気とは生命力の強さであり、生命力とは身体能力と精神面の強さを意味する。
肉体の修練は気の力に耐えられる器を形成し、精神の修練は気に具体的な形を与える――いわば気をコントロールする。
龍彦が知る剣士の一人は溢れ出す殺気を不可視の刃にして飛ぶ斬撃を披露してみせ、彼の師匠に当る天狗面の大男は気を使い拳を鋼鉄のように硬貨させて分厚い鉄板を打ち抜いてみせている。
気は多種多様であり、形質もその者が歩んでいた生き様に強く関係する。
だからこそ、剣術に生涯を注ぎ日夜修練に明け暮れる好敵手が一人――真宮衛と全く同じ気を、コスプレ忍者少女から感じることに龍彦は驚愕を禁じ得ない。
もう一度、龍彦は少女を見やる。
それがおかしかったのか、クスクスと笑う彼女に不覚にもあそこに熱が帯びた。どこがとは、男であれば龍彦に問う者はおるまい。
「駄目ですよこんな時間に殿方が一人で出歩くなんて。自分から襲ってくれって言っているのも同じですよ?」
「え、あ、その……お、おう?」
「よろしければ私がご自宅までお送りしますよ、龍彦さん」
「は? ちょ、ちょい待てや。お前何で俺の名前知っとんねん」
「はい? 何故って……急にどうしたんですか龍彦さん。もしかして冗談で私をからかってます?」
「はぁ?」
まるで話が噛み合わない。
龍彦は彼女を知らない――和服美少女に出会えたこと自体は幸運だ――何度も記憶の中から検索を繰り返すも該当するデータは一つもない。
しかし、少女は刃崎龍彦を知っている。彼女の言動はまるで長年の付き合いがある親しい友人のような接し方だ。だが記憶にない相手から親しげにされるのも若干怖い。
新しい詐欺の一種だとすれば、なんともかわいくて恐ろしい刺客を送り込んできたものだ。敵ながら天晴れ、ととりあえず誰かもわからない相手に称賛しておくことにした。
それはそうとして。
「あ、あの……ちょっと聞いてもえぇか?」
「はい? どうかされましたか?」
「すまんけど、アンタの名前教えてもらってもえぇか?」
「なっ……!? と、突然何を言い出すんですか龍彦さん! 私です、真宮衛です!」
「あぁそう真宮衛……ってはぁっ!? お前が!?」
「先程から一体どうされたのですか龍彦さん! 私のことをお忘れになるなんて……ひ、酷いです」
「いやいやいや! だってその、なぁ!?」
龍彦の知る真宮衛は、一言で言えばイケメンだった。
中性的な顔立ちに一切の無駄を取り除き芸術とすら思える筋肉のついた肉体。ゴツすぎず細すぎず、美を形にしたような人間と龍彦は思っていたし、若くして古流剣術――真宮流の七代目当主として道場を継いだ彼を天才剣士とさえ思っていた。
平成の沖田総司、生まれてくる時代を間違った侍などと世間で人気を集めている彼の実力は、誰よりも手合わせをした龍彦が誰よりも理解している。
剣士としての実力は本物であるし、世間が送った彼の異名も実に的確と思っている。
だが、同じく強い男でもやはり女は顔なのかと醜い嫉妬すらして、思いっきり顔面を殴り飛ばしてやった日にはファンからの脅迫文や非難やらがとにかく凄かった。
女は怖い生き物だと、今でも当時の記憶がフラッシュバックしては古傷が痛み出す。
その女に彼が――真宮衛が変態していたのだから、龍彦が狼狽するのも無理はなかった。
確かに、化粧をして女装させたら完璧に美少女だよなと龍彦は思ったことがあった。
冗談で巫女服を渡してみたら、後日本当に着てきて勝負を挑んでくるものだから、それ以来彼との関わりを一切絶とうと誓った。
変態と戦う趣味を龍彦はこれっぽっちも持ち合わせてはいない。
代わりに女性ファンからは意外と支持率があり、GJと称賛の声が送られて龍彦はつくづく、女性について悩まされることとなった。女性の趣味嗜好は本当によくわからない。
自らを真宮衛と名乗る彼女ははっきり言って美少女だ。
容姿から雰囲気、和服姿から古き良き大和撫子を垣間見た気さえする。
そう言う意味では衛は龍彦のドが付くほどのストライクゾーンだったりする。
二次元でも和を題材とした萌えキャラは最大の好物です、と人前で豪語できるほどに刃崎龍彦は和(女性限定)を心から愛している。
その対象が元男であることが、龍彦は心底許せない。
「と、突然どうしたんですか龍彦さん! 急にそんなことを言い出すなんて貴方らしくありませんよ!」
「えっ!? いや、その……俺らしくない言われても、寧ろ俺からしたらお前の方がお前らしくないっちゅうか……」
「言っている意味がわかりません! も、もしかしてこれは……記憶喪失と言うものでしょうか!? だとしたらすぐに病院の方へ行かなければ!」
「は? いや別に俺の記憶は正常やし……!」
ぐいぐいと手をとり何処かへと連れて行こうとする衛。
筋力だけで言えば龍彦は衛よりも勝る。これは彼の流派の思想が関係してくるのだが、純粋な身体能力だけで競えば何度挑まれても勝てる自信が彼にはあった。
しかし今はどうか。龍彦の自信を粉々に打ち砕かんとするが如く、剣を振るうにはあまりにも不相応な細腕でズルズルと龍彦は引き摺られていく。
「さぁ早く病院へ行きましょう龍彦さん! 大丈夫です、記憶を失ったのなら取り戻せばいい。私がそのお手伝いをさせて頂きます。えぇお礼はいりませんよ、ただちょっと将来的に同じ屋根の下で住むためにもっと私との仲を深めて頂ければそれで充分ですので」
「ちょ、何ちゅう力やねんお前……!」
「ちょっとそこの貴女? 一体彼に何をしようとしているのかしら?」
瞬間、衛の顔色が変わったのを龍彦は見逃さない。
それもそうだろう。自分とて思い当たる節もなく声を掛けられればドキリとする。
やってきたのは一人の警察官だ。青い制服にミニスカートと、それどこのコスプレAVですかと思わず口走ってしまいそうになるほどの卑猥な格好は龍彦の男としての欲望を甘く誘惑する。
一方で衛の方は気が気でない様子だ。
傍から見れば嫌がる男児を無理矢理連れて行こうとする誘拐犯のようにしか見えな……くもない。そんな風に捉える輩はごく少数であるだろうが、とりあえず異様な光景として見えることに相違ない。
「ち、違うんですお巡りさん! これはその……」
「何が違うのかしら? 私には貴女がそこの少年を無理矢理どこかへ連れて行こうとするように見えたけれど? もしかして人気の無い場所まで連れ去ってレイプしようとしたんじゃないの?」
「ち、違います! 私は間違っても人の道を踏み外すような愚行は犯しません! それに愛し合うなら布団の中が一番だと思っています!」
「いや、その発言もどうやねん……」
「そんなにムキになって主張するところを見ると怪しいわね。ちょっと一緒に署までご同行願おうかしら? 詳しい話はそこで聞いてあげる、もちろん貴方もよ」
「えっ!? 俺も!?」
「当然じゃない。貴方には特別に私の部屋でじっくり、ゆっくり、優しく聞いてあげるわ……ふふふ」
――あ、こらアカン。
龍彦は悟った。
一見すると職務を真っ当しようしているが、目は飢えた獣のソレと何ら変わらない。
このまま大人しくホイホイと付いていけば、きっと喰い散らかされるであろう。もちろん性的な意味合いで。
いずれは通るべき道であり、早く経験を積みたいとも思えるが、流されるまま肉体関係を作れてラッキー、と思うような性格の持ち主ではない。
龍彦とて一人の理性ある人間だ。好きな女性のタイプやシチュエーション、性癖が彼にもある。よって龍彦は衛の手から解放されていることに気付いて、その場から全速力で逃走を図った。
「あ、待ちなさい!」
「龍彦さんお待ちになってください!」
「嫌じゃアホ!」
夜の街を龍彦は駆ける。
追い掛けてくる二人をぐんぐんと離しても、彼の足は止まる様子を見せない。
道行く女性の視線を全身に浴びせられ、時折声を掛けられるが龍彦は無視を決め込む。
やがて、路地裏へと入り込んだ。
灯りが差さず薄暗い路地裏は不気味さに包まれているが、余裕のない龍彦にはそこまで気を回すことができなかった。
どこでもいいから、人の視線を浴びない場所に行きたい。
その一心で龍彦はこの路地裏に辿り着いたのだ。
「はぁ……はぁ……」
乱れた息を無理矢理整える。
なんとか整ったところで――龍彦は己の運のなさを呪った。
また女性がやってくる。今度は九人も。
人生で果たしてこれだけ女性から絡まれたことがあっただろうか。
そう問われると刃崎龍彦の人生に華はまるで無縁だったと断言できよう。
考え方にようによっては、広大な砂漠でオアシスを見つけたと言ってもいい。
だが龍彦は量よりも質を選ぶ男だ。どれだけ数多くの女性がいようと、粗悪品であれば意味がない。
そう言う意味では、鉄パイプやら金属バットやらで武装しピアスに毛染めをしている彼女らは龍彦の心に不快感をもたらすばかりだった。
とは言え、女の不良とはまた随分と珍しい。
「ったく……次から次へとなんなんや一体」
「よぉ兄ちゃん、こんな場所で一人何してるの?」
「いけないわねぇ、男の子が一人で夜の町を出歩くなんて」
「遊んでほしいからでしょ? それなら私達が遊び相手になってあげるわよ?」
「悪いけど、俺はアンタらに興味ないわ。それにバットやら鉄パイプやら持った相手に誰がついていくっちゅうねん。もう少し考えてから物は言いや」
「こいつ……男のくせに随分と生意気じゃない!」
「ねぇ早く取り押さえてヤッちゃいましょうよ。ここなら騒がれたって誰にもバレやしないんだし」
まるで強姦魔のような発言に、龍彦は激しい眩暈に襲われる。
そうしている内に、一人の女が近付いてきた。
手にはスタンガンが握られている。大方痺れさせて身動きを封じるつもりだろう。
どうして女から逆に襲われようとしているのだろう。
抱いて当然すぎる疑問を胸に、龍彦は素早く地を蹴り上げて女へと肉薄する。
「えっ!?」
驚愕に目を丸くする女。
その隙に龍彦はスタンガンを素早く奪い取ると地面に叩き付けた。
「乱暴ごとなら他所でやってくれや。例えどうしようもないアホでも、女を殴る趣味はあらへんねん」
「こ、こいつ……!」
「……しゃーないな」
スタンガンを奪われ、実力行使に出ようとする女の水月に龍彦は掌打を叩き込んだ。
高倉式錬氣槍――謎の老人その1、高倉宋之助より教わった秘拳。
拳に気を集中させ、槍の如く一点に素早く拳――貫手を打ち込む。
曰く、極めると鋼鉄の鎧をも容易く貫けるという。
もちろん、生身の人体でやれば立派な殺人だ。
ましてや相手は女性。武器を持っていようとなかろうと、男として生まれた以上殴るなど御法度。従って龍彦は貫手から掌低に切り替えた。
ずどん、と鈍く重い音が路地裏に鳴り響く。
「安心せぇや。これでもかなり手加減しといたわ。せやけど、ちょっと痛のは我慢してもらうで」
「がっ……」
ゆっくりと崩れ落ちる女。白目を剥いて気絶している。
見ていた女達の顔付きが一気に変わった。
手を出した相手が人畜無害が草食動物ではなく、猛毒を持つ獣であると理解したのだ。
冷や汗を流し、困惑の感情を顔に濃く浮かべたまま彼女達は武器を構える。
しかし、先程の勢いは最早見当たらない。完全に刃崎龍彦と言う男に怖気ついてしまっていた。
「ここで大人しく引いてくれるんなら、俺もこれ以上のことはせん。せやけどもし、ここで向かってくるようなら……」
「うぅ……せ、折角いい男を見つけられたと思ったのにぃ」
「悪いな姉ちゃん。ホンマやったら俺も姉ちゃんらと色々と遊びたいところやけど、今はそう言うわけにもいかへんのや」
「うぅぅ……」
「おい、なんで逃げようとしてるんだよお前ら」
刹那――路地裏の空気が一瞬にして凍りついた。
凄まじい闘気が近付いてくる。
龍彦はこの闘気を知っている。
最強を奪うと豪語してストーカーのように町中で何度も勝負を挑んでくる野郎が一人。
郷田遥希――名前の可憐さとは裏腹に、何人もの手下を従えるギャングチーム【ライトニング】のボス。
恵まれた体格と気性の荒さを武器に繰り出される攻撃は、武術家でも一撃で沈める。
どうやら彼女達はあの男の取り巻きだったらしい。
「……ふん、まさかお前のとこの女やったとわな。俺と勝負するために女を使うなんて、お前らしくないやないか。いつの間にそんな大馬鹿や……や?」
「なんだよ。ジロジロと人の顔を見て」
「いやいやいや。へ? は?」
龍彦は何度も目を擦る。
擦って、郷田遥希を見やる。
そうしてまた目をゴシゴシと何度も擦る。
龍彦はなんだか嫌な予感がした。恐る恐る、現われた少女に声を掛ける。
「えっと……お前もしかして、郷田遥希……か?」
「なんだよ今更。もう初対面って訳でもないだろうに」
「……マジか?」
本日二度目の驚愕に、龍彦は卒倒しそうになった。
真宮衛に続き、郷田遥希までもが女と化している。美少女と言うおまけを加えてだ。
見上げるまでの身長は大きく縮み、丸太のように太かった腕もすらりと細い。
おまけに胸も大きく膨らんで、男であれば誰しもが口を揃えて美少女と言うだろう。
だからこそ、龍彦は郷田遥希と同じ気を持っている彼女に困惑を隠せない。
後、肌の露出度が大変なことになっている。
どのぐらいかと言うと、健全な青少年が人の道を踏み外しそうなぐらい高かった。
一言で言うと、エロい。元男なのに下半身が反応してしまった自分はひょっとして変態か、とか思ってしまったことに龍彦は軽い自己嫌悪に苛まれる。
「それにしても、相変わらずだなお前は」
「……へ?」
「男のくせに私の手下をこうもあっさりと倒す……本当に男にしておくのが勿体ないぐらいだよ」
「は、はぁ……」
「今でもちゃんと憶えてるぜ? 数ヶ月前にお前に告白して断られて、無理矢理関係を作ろうとしたら空中連続蹴りを喰らったんだっけなぁ。めっちゃ痛かったが、でもあの頃からもっとお前を好きになったんだ」
「……ちょっと待ってくれるか? 俺なんや頭がメチャクチャ痛くなってきたわ……」
「なんだ風邪か? だったら早く風邪薬飲んで家に帰って療養してろよ」
言っていることは滅茶苦茶だ。
彼――いや、彼女の口より放たれた供述はすべて身に覚えがない。
だが、最後の部分だけは合っている。空中で蹴りから蹴りを繰り出す技――双鶴脚・彗星によって龍彦は遥希との喧嘩に勝利している。
加えてギャングチームの頭のくせに妙に気遣いができる性格も彼の特徴だ。
「お、お前……ホンマにあの郷田遥希で間違いないんやな?」
「当たり前だろ。私以外の他に誰がいるって言うんだ?」
間違いない、と龍彦は結論を下す。
彼――いや、彼女は間違いなく郷田遥希だ。
何の因果か、衛に続き女体化してしてしまった彼女が俺の前にいる。
何故、と自問するだけ時間の無駄である。超常現象を解き明かせるだけの頭がないことを、龍彦自身よく理解している。
それはさておき。
「……お前、一体何があったんや?」
「何がって……何が?」
「いや、その……なんて言うたらえぇんか。えぇい、とにかくや! お前は何でそないなことになってしもてるんや!?」
「だから、質問の意味がわからねーよ。お前本当に今日はどうしたんだ? らしくないぞ」
「……すまん。ちょっと頼むし一人にさせてくれへんか? このままやと俺、高層ビルから飛び降り自殺したくなるわ」
「ば、馬鹿いってんじゃないわよ!!」
「は? ちょ、えぇ!?」
遥希に抱き締められる。
女体化しているため、女性特有のおっぱいがこれでもかと身体に押し付けられる。
いつも鼻腔を刺激する汗と血の臭いはどこへやら。
フローラルの香りが鼻腔を優しくくすぐる。
女だから香水を使ったりして気を使っているらしい――ではなくて。
「い、いきなりなんやねん!」
「自殺だなんて絶対にしちゃ駄目! そんなことしたら私……悲しくなっちゃうよ」
「うげっ……」
うるうると涙で潤ませた目で見上げてくる。
かわいい女の子からの上目遣いにときめかない男は存在しない。
ましてや、相手が美少女であったらば尚のこと。
ただし、龍彦の脳裏には男としての郷田遥希が焼きついている。
自動的に目の前の郷田遥希を男として変換してしまい――激しい吐き気を龍彦に催させた。
美少女の遥希に非がある訳ではない。
ないが、気持ち悪いものは気持ち悪いのだ。
一刻も早く離れてほしい。そんな思いとは真逆に、遥希の力は強まっていく。
ミシミシと骨が軋み始めた。
そしてもがけばもがくほど、形を変えて遥希の巨乳が押し付けられる。とても柔らかい。
――み、見た目華奢なくせに怪力だけは本人と同じかい……!
「姉御姉御、口調が素になってますよ」
「あっ――ごほん……とにかく、自殺なんてこの私が許さないからな。命を粗末にする奴は殴ってでも私が引き止める。お前でも例外じゃないぞ龍彦」
「わ、わかったからいい加減離れろや! マ、マジで苦しい……!」
「あ、あぁ! 悪い悪い……」
「姉御いいなぁ、男の身体にあんなにべったりくっつけるなんて」
「しかもあれ、下心とかがないから凄いのよね。私だったらそのまま絶対に離れないし」
「じゃあここは妥協案で私が彼に抱きつくってことで」
「それはおかしい」
取り巻き達の欲望に塗れた会話はさておき。
「ホンマに何がどないなっとんねん……」
女性ばかりの見知らぬ町。
女体化してしまった好敵手達――龍彦にしてみれば勝手に向こうが思い込んでいるだけで、迷惑極まりない存在ばかりだが。
女が男を逆に襲おうとする狂った性的価値観。
なにもかもがわからない。
疑問が新たな疑問を一つ、二つと浮上させて思考回路に多大な負荷を掛けられる気分だ。
このまま行くと発狂しかねない。寧ろする。まるで自慢にならない自信が龍彦にはあった。
「それで話を戻すけど、お前本当にどうしちゃったんだ?」
「いや、その……」
「そ、そこで何をしているのですか?」
ついさっき聞いたばかりの声に、龍彦は油の切れたブリキ人形よろしく、恐る恐る声がする方を見やる。
息を切らした衛が現われた。どうやら警官から逃げてきたらしい。
「ま、衛……!」
「貴女は……。郷田さん、私の龍彦さんに何をしようとしているのですか? 返答次第では私も貴女にそれ相応の罰を与えなければなりませんので」
すらりと、腰の小太刀が鞘より抜き放たれる。
刃長およそ二尺(60センチ)程の白刃が不気味に輝く。しかし刃は潰されていて刀が持つ本来の性能は殺されていた。どうやら本物ではなく模造刀らしい。
真剣じゃないのなら安心だ、と思った自分を龍彦は咎める。
模造刀と言えど元を正せば尖った金属だ。振り下ろせば骨も簡単に砕けるだろうし、刺突なんて出した日には明日の新聞を飾ること間違いなし。
ましてや仕手が真宮衛ともなると、模造刀であれ彼――いや彼女か、実にややこしい――は鋼鉄の鉄板をも難なく穿つ。
「おい衛。お前はすっこんでろよ、今私は龍彦と話してるんだ」
「大人しく引き下がるのは貴女の方ですよ郷田さん。いくら龍彦さんが親しく接してくれる男性だからと言って、恋人面をする必要はどこにもありませんよ?」
「お前……言わせておけば」
「やりますか? 私は一向に構いませんよ?」
ゴキゴキと拳の骨を鳴らす遥希。
小太刀を右片手正眼に構える衛。
一触即発の状況を前にして、龍彦は――地を蹴り上げた。
面倒事に巻き込まれた時は逃げるに限る。
俺は夢を見てるんや、と己に強く言い聞かせて龍彦は遥希と衛の間を全速力で通過した。
突然の行動にその場にいた全員が驚きを見せる。
揃って遠ざかる彼の背中に手を伸ばし、止まるよう制止するも龍彦の耳はそれらをすべて遮断する。人間誰しも、都合の悪いことは聞きたくないのだ。
「ホンマに……何がどないなってるんや!!」
誰に問うわけでもなく、一人大きな声で疑問を吐き出した。
路地裏を飛び出して、そのままひたすら走り続ける。
どこに向かえばいいかなど、今の龍彦に考えている余裕など皆無だった。
ふと、電化製品店の前で龍彦は足を止める。
ディスプレイ越しに設けられた液晶テレビの数々。
それぞれの画面には異なった内容の番組が報道されている。
《本日の午後六時頃、二十六歳の無職の女性が痴漢の容疑で逮捕されました。女は――》
《最近痴漢や強姦が多発しています。男性の皆さんは夜遅く、一人で出歩くなどは決して――》
《男性保護法第九条の改正案に、反対の声が多数上がっており――》
《それでは皆さんお待ちかね! レオタード隊の登場だぁぁぁぁぁっ!》
「な、何なんや……これは」
報道されている内容に、開いた口が塞がらない。
どれもこれも、実に馬鹿げている。
痴漢をして女が逮捕される事件も、男性保護法と言う奇妙奇天烈な憲法も、龍彦は何一つ知らない。
レオタード姿の男性アイドルグループなど、最早狂気の沙汰だ。それできゃあきゃあと歓声を馬鹿みたいに上げる女も狂っている。
この世界は何かがおかしい。
とうとう、思考が混乱の極みに達した。
僅かに残された冷静さで、龍彦は再び走り出す。
どこか人目につかない場所へ。ただそれだけを全身に命令を送り続けた。