第十六話:幼虎の嘶き
第二部スタートです!
プロローグ的な感じなので短いです。
道場の軒先でぼんやりと空を見上げれば、雲一つない青がどこまでも続いている。
地上を照らす太陽の日差しは暖かくて、その下を小鳥達が優雅に泳いでいる。
無音の道場を包み込む蝉の鳴き声と、風鈴の音色が唯一の音楽。
何の変哲もない。確かに平和ではあるけれど、刺激などまるで皆無な退屈な時間。されどこの情景こそ、彼女にとって掛け替えのない時間であった。
人間、当たり前と思っていることこそ真の幸せである。そう若くして悟りにいたった彼女が友人に話すと、若くして老人だと馬鹿にされた。
実に失礼な話だからとりあえず胴回し回転蹴りをくれてやることにした。
「相変わらず暇そうにしとるな」
「暇そうとは失礼ね。見ての通り精神統一してるのよ」
「さよか。そんじゃ邪魔したら悪いし帰ることにするわ」
「まぁ待ちなさいな。ちょうど今終わったところなのよ……って何よその目は」
不意に、関西弁で喋る凛とした顔立ちの少年が来た。
その少年は彼女の大切な人だった。言葉で言い表すとすれば一目惚れであり、それ以上の言葉は思いつかない。
ともあれ、隣に腰を下ろす少年と会話をすることが彼女にとって唯一の楽しみだった。
会話の内容は極めて平凡だが、話し相手が異性であることは重要だ。会話の内容はどうでもいいし、逆に話し上手であることをアピールできれば「このまま私に交際を申し込んでくれるかも!」と淡い期待を胸に抱きて彼女は傾聴に務める。
その努力が実った実感は未だ得られず。されどいつか必ず実ってくれると彼女は信じて疑わない。
数少ない男性を巡って、女性達は醜く奪い合うことに余念がない。
一夫多妻制と言う世の女性を救済する処置こそあっても、だから全員結婚できると言うわけでもない。結婚できない女性はとことん結婚できなく、その法則に則れば彼女もまた決して他人事で片付けられない。
彼女――蒼井薫は剣術を趣味特技としている、彼氏いない歴=生まれた歳でもうすぐ記録更新を果たそうとしている【純桜華女学院】に通う女子高生だ。
男性と出会えば目つきが怖い――緊張と興奮を和らげるため、訓練相手の母と対峙した時のイメージをするが故に――と逃げられる。
ただでさえ女性と言うだけで悲鳴をあげられる世の中だ。
そんなご時世で、交際こそまだなものの交流を持てている自分は立派な勝ち組であると薫は自負していた。事実、彼女を知る者達は二人の関係を羨んで、媚びを売って自分にも紹介してもらおうとする輩が後を絶たない。
もちろん、薫がそんなことを許すはずもなく。ハイエナは即刻対峙して、彼の隣を保守し続けた。あれは私のものなのだから誰にも渡さない。
そう思っていたのに。
「ねぇねぇ知ってる? 隣町にいた【ライトニング】って不良グループだけど、なんか解散したらしいわよ」
「ふ~ん、そうなんだ」
「なんでもリーダー格の女に男ができたからってさ。確か名前は……そうそう、刃崎龍彦って名前だった!」
「えっ!? それってあの天友会とか言う暴走族を壊滅させたとかなんとかって新聞に載ってた、あの!?」
「そうそうそれそれ! 今話題のやんちゃ系男子で有名なあの刃崎龍彦! でも暴走族壊滅させるとか、やんちゃってレベルじゃないと思うのは私だけ?」
この時ばかりは、普段信じてもいない神を薫は呪った。
自分に刃崎龍彦は暗闇を照らす太陽だ。その太陽が他人に奪われたのだから、彼女の心に焦燥感と交際相手への憤怒と憎悪が渦巻くのは当然の結果と言えよう。
不運にも、修練中の木刀は彼女の右手の中でみしみしと軋む音を鳴らして、やがて。けたたましい粉砕音と共にこの世を去った。行き着く先は明日の燃えるゴミだ。
「絶対に……アイツを取り返さないと!」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
休日のある日。
平日と違い多くの人で賑わう町並みを彼女は一人歩いていた。
目線を忙しなく動かして、やがて大きな溜息を一人こぼす。町に出歩けば一人ぐらいいい男が捕まるんじゃないかと言う淡い期待を胸に抱いていたからこそ、淡いまま消え去ってしまった現実は彼女を酷く落胆させる。
しかし落ち込んだのも束の間。商店街の中央に設けられた建物の前で、彼女はにやりと口角を釣り上げる。元々目的があって外出をしていた彼女にとって男探しは二の次であるし、そもそも既にこの人だけと言う相手がいる以上浮気をするつもりなど毛頭ないのだ。
肝心な意中の相手と結ばれているかどうかは、まぁさておき。
趣味嗜好のために莫大な資金を投資する輩は数多くいる。
倣って彼女も例外にもれず。アニメや漫画が好きな、いわゆるオタクである彼女は二次元に資金を投資する。ただその額が、店員はおろか同じく戦利品を求めやってきたオタク達の目が点になっている。
それほどの驚愕が店内を包み込んでいた。
「これ全部ください!」
「ほ、本当にこれだけ買うの?」
「はい!」
唖然としながらもそこはプロ。
怪訝な眼差しを彼女に向けながらも一冊ずつ丁寧に会計を済ませていく。
それらが終わって、彼女はようやく店を出た。両手のビニール袋に何十冊と詰め込まれた二次元。暗く冷たい鋼鉄の折に収容された数名の諭吉と、肉に食い込む重さが至福の海へと彼女を誘う。
だが、恵比須顔を浮かべていた彼女の顔からやがて笑みが消えた。
「あっ……」
目の前を一組のカップルが通り過ぎた。
双方共に幸せそうな顔を浮かべている。それだけでも恋人がいない彼女には相当堪える光景であると言うのに。どうやら神様と言う存在は案外……いや、相当ロクでもない奴らしい。
「たっつん……」
彼女には好きな少年がいた。
出会いは肩がぶつかって些細な口論――慰謝料としてラブホテルでとりあえず百回ぐらいヤらせろと言ったら手刀を喰らってひでぶったが――から始まって、そこから何かと交流を持つようになった。
そこから彼を性的欲求を果たせる相手から、本気で想いを寄せる意中の相手へと変わるのに時間は掛からなかった。
だからこそ。カップルの片割れが、自分が好意を向けている相手だったことに彼女は酷く苦しむ。
何故あの隣が自分ではないのか。
何故自分ではなく他の女に笑みを振りまくのか。彼女はそれが許せない。
さり気無いアピールが駄目だったのか。なるほど、確かに想いを直接伝えなかったことは非があるかもしれない。けれども、だ。自慢できる肉体をこれでもかと密着させてきたと言うのに何の反応を示さないあの男も悪いのではないか。
仏の顔も三度まで。もう千回ぐらいは多めに見てきたけれど、うん。いい加減我慢の限界だ。もう爆発しても構わんだろう、と彼女――神谷忍は去っていくカップルの後姿を静かに見送る。
そんな光を失った虚ろな瞳を不幸にも通りかかった男性に見られ悲鳴を上げられた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
日はまだ明るいと言うのに、群集する建物によって複雑に入り組んだ路地裏は薄暗い。
その一角では、表通りの活気に負けず劣らずの喧騒に包まれている。
その正体は三十人以上にもなる人と、彼女らに囲まれて睨み合う二人の少女がこの喧騒を作る原因だ。
彼女達はたった今、喧嘩をしている。
武器なし、時間無制限及びなんでもありが適用された中で彼女達は激しく殴り合う。その様子に周りのギャラリーは「もっとやれ」、「賭けてるんだから負けるな」とやんややんやと歓声を送る。
殴り合う二人の少女は双方ともに血まみれだ。露出した肌は場所問わず青アザを作り、出血もしている。
それでも彼女達は殴ることを止めない。
固く握りしめた拳を一発でも多く、一瞬でも速く相手に叩き込まんと激しく打ち合う。
その様子に周りにいるギャラリーのテンションは最高潮に達した。
やがて、片方の少女の拳が敵手の顎を鋭く打ち抜いた。血液が混じった唾液が飛び散る、先の一撃で口腔内を切ったのだろう。
そのままゆっくりと地に倒れて、動かないことを全員で確かめてから数舜。
万来の喝采が最後まで立っていた勝者に贈られる。
ぺこぺこと頭を下げて観戦者に応えて、照れくさそうにしながら少女はそそくさと逃げるように路地裏を後にした。
近くの公園で付着した血を洗い落とす。
顔は完全に落とせた。けれども衣服の方までは流石に洗うことはできない。脱いだところで恥ずかしさなど皆無であるが、だからと言って「鍛え抜かれた私の肉体美を見よ」と豪語できるほど完成されてないことも彼女は理解していた。
素直に洗濯しよう。水浸しになった顔を腕で拭う。
不意に、一人の少年が視界の隅に映った。
ばっと顔を向ける。隣を幸せそうな顔をして歩いている女子がいることを視認して、一人重い溜息をもらす。
いつからだろうか。彼女はふと思考を過去へと遡らせる。
元々彼女は喧嘩が好きな性格ではない。どちらかと言えば完全守備型で、極力争いごとや面倒事を避けて通る人生を過ごしてきた。そんな弱気な性格が幸いして苛められたりもした彼女が、現在はどうか。
すっかり食事、排泄、入浴と同じぐらいの水準にまで達している。
故に彼女を知る者は小首をひねり口を揃えてこう言うのだ。何がお前をそうさせたのか、と。
確かに、わざわざ喧嘩ばかりをする必要などない。弱気な性格を見返すためであれば、それこそもっと上手いやり方があるに違いない。わざわざ喧嘩などと言う暴力的な方法でなかったてもよかった筈だ。
では、どうしてそうしなかったのか――そう、自らの過去に問うたびに彼女の脳裏には一つの光景が濃く浮かび上がってくるのだった。
何十人もの不良相手に、たった一人で挑み挙句勝利を手にする少年の姿。
その情景こそ彼女――北郷晃の人生を作り上げる切っ掛けとなり、突き動かす原動力である。
男でありながら女性相手に怯まない勇気を、力強く雄雄しい姿を忘れない限り北郷晃は強くあり続けられる。
「負けられないよ……」
決意を口にする。
つい最近、自分が好意を寄せる相手に恋人ができたと知って晃は気が気でなかった。
「そりゃあ私自身面と向かって好きといったことはないけど」と冷静に原因を分析できるだけの冷静さは残されている。しかしその冷静さを押し潰すように怒りが、憎悪が肉体を突き動かそうとして仕方がない。
もういっそ本能のままに暴れてしまおうか、と危険極まりない考えに至っては晃は己を律する。
仮に、いや絶対にありえないけれど万が一、もしだ。もしも本当に彼が相手に本気で好意を抱いている場合、相手を傷つければ自分が嫌われるのは間違いない。
やるのならそれ以外の方法でやる。彼に嫌われるなど絶対にあってはならないのだから。
頬を叩く。気合を入れた。
公園から出る。
「そんなに顔を腫らして……アンタはまた喧嘩をしてきたの?」
出入り口の前。金色の髪をポニーテールにした少女が仁王立ちしていた。
腕を組み、見るからに不機嫌です的オーラを放つ彼女の頬はひくひくと引きつっている。
それを見た晃は滝のような冷や汗を流して苦笑いで応える。
ごつん、と鈍い音が鳴った。彼女の拳骨が晃の頭頂部を捉えた音であり、その寸分の狂いなく、かつ一切の容赦のない一撃は見事と言わざるを得ない。
もっとも、やられた当事者にしてみればものすごく痛い訳で。
「な、何するのさ忍……!」
両手で頭頂部に庇うように擦りながら晃は強く異を唱えた。
うっすらと涙を浮かべている彼女の目には若干怒りの感情が渦巻いていたが、対する忍と呼ばれたポニーテールの少女はまるで気に留めない様子で一喝する。
「当ったり前でしょうが! アンタまたそうやって喧嘩ばっかりして!」
「だ、だってしょうがないじゃん!」
「しょうがないじゃん、じゃないじゃん! ほらっ、さっさと怪我の手当てするよ晃。こんな所をセンコーらに見つかったら計画が台無しじゃん! 薫も待ってるんだから、早く行くわよ!」
「わ、わかってるって……!」
忍と呼ばれた少女に手を引かれつつ、晃は頭頂部を擦りながら付いて歩く。
さながらその姿は親に叱られて強制的に家に連れて帰られる幼子のようで、実際二人のやり取りを見守る暖かい多くの眼差しが彼女らに向けられていた。