第十三話:夢世界
遥希と悠の両者によって見るも無残に荒れ果てた教会も、今はすっかり元の姿を取り戻している。
全校生徒がレクリエーションに参加している今ならば、誰とも遭遇する心配もないだろうし、静寂かつ神聖な雰囲気が心を癒す。
加えて来須雅美と言う物語で言うところのキーパーソン的存在と二人っきりと言うシチュエーションがファンタジー好きの龍彦の魂を高揚させた。
「そんじゃ、約束通り色々と話してもらうで?」
「わかってるわよ。まずは……そうね、この世界についてから説明しようかしら。もうわかってるとは思うけどここは貴方が――刃崎龍彦が知る世界じゃない。じゃあ異世界かってことになるんだけど……半分は正解で半分は不正解」
「あん? どう言う意味や?」
「どう説明すればいいかしらね――そうね、じゃあまずは一人の少女の話をしましょうか。その子は孤立していた。親兄弟も彼女には無関心で、学校に行けば友人と呼べる友人もおらず苛められてばかりだった。ある日彼女はこう願う、自分が思い描く幸福の世界に逃げてしまいたいと……」
「それが何やねん。よぉわからんわ」
「早い話が現実逃避ね。少女は自らが描く夢の世界へと逃げ込んだの。人間誰だって苦しい時や辛い時、それらから目を反らしてしまいたくなる。彼女の場合はそれが誰よりも強かった……薬を大量に購入してまで現実からひたすら逃避し続けるほどにね」
「なんや、つまりここは……その女が作った夢の世界って言いたいんか?」
「あら、意外に鋭いわね。正解よ龍彦くん。明晰夢ってあるでしょ? 夢の中で夢だと理解できるアレ。この世界は明晰夢がより一層強く具象化された世界……そう言う意味では一つの並行世界と言っても間違いじゃないわね」
「な、なんじゃそりゃ……せやけど、もしそうやとしたら何でこんな……」
龍彦は疑問に小首をひねる。
女子にモテモテで毎日が楽しい学校生活を彼が望んでいたように、夢世界の主人たる少女もまた幸せな光景を思い描いていた。
その点について龍彦は否定しないし、寧ろ同情すらしている。
だが、気掛かりなのはわざわざ“あべこべ”などと言うマイナーなジャンルに設定した少女の真意にあった。
元々オタク気質で何か思うところがあったのなら、まだ話はわかるのだが。
と言うより、肝心のその少女はどこにいる。
刃崎龍彦と言う、謂わば現実世界よりやってきた自分は部外者であり異物でしかない。
人間で言えば体外より進入して来たウィルスを追い出そうとする気配が微塵も感じられないのが、また気掛かりだ。
「この話にはまだ続きがあるのよ。少女は夢の世界へと逃げ込んだ――けど彼女は生まれつき病弱だった。そこに大量の睡眠薬を己に投与し続けた結果、彼女は十代と言う若さでこの世を去った……自らが描いた夢世界が完成するのを目前に控えてね」
「死んでしもたってことか……。それやったらこの世界は? この世界を本来管理するその子がおらんようになってしもたら、どうなってしまうんや?」
「そう、管理者も失い完成しきっていない世界は崩壊するしかない。所詮は夢、崩壊したところで何か支障が起きるわけでもない。でも、そこである偶然が重なった――それが貴方よ、龍彦くん」
「俺?」
「交通事故に遭う前、奇妙な紙を拾ったのを憶えてる?」
「紙? あぁ……もしかしてあの妙な紙かいな。そう言やあったな。すっかり忘れとったわ」
「あの紙の持ち主こそ、この世界の元創造主たる少女の物なの。異世界にいけるって言う都市伝説の一つなんだけど効果はまったくないわよ。けれど交通事故に遭った貴方の意識……精神はその紙を通じて彼女の夢へと介入した」
他人が他人の夢に干渉するなんて、それはもう奇跡としかいいようがないんだけれどね、と来須雅美は付け加える。
思考が徐々に混乱し始めていた龍彦の耳に、その言葉は届いていない。
漫画やアニメのような展開が身に起きていることに龍彦はただただ狼狽するのみ。
こうして説明を受けても尚、未だに現実を受け入れられずにいる。
あまりにも話が常識を逸脱しすぎているし、一介の高校生が処理をするには事が重すぎる。
故に彼が狼狽するのも無理もないと言えよう。
「貴方が介入したことによって世界は崩壊を免れた。今やこの世界の管理者は刃崎龍彦、貴方なの。この世界は貴方の願望によって新しい姿として生まれ変わった――絡んでくる奴が全員美少女やったらよかったのに、それがかつて貴方の願望だったはずよ」
「そ、そう言えばそんなこと思っとったこともあったような……」
来須雅美の言葉には憶えがある。
絡んでくる男達が全員美少女だったらよかったのになぁ、と叶うはずなどないのに妄想して現実逃避をした時期が龍彦にはある。
今ではそんなことを彼女から言われるまですっかり忘れ去られていたし、彼自身黒歴史として一刻も早く忘れようと努めていた。
過去の黒歴史を意外な形で暴露されて若干傷心気味だが、とりあえず今はどうでもいい。
「とは言っても、この世界そのものが独立しているから管理者って言うのは肩書きだけなんだけれどね――でも、貴方はまだ完全に管理者じゃない」
「何やと?」
「完成したと言ったけど本当はまだ未完成なのよ。それは貴方が管理者としての自覚をまだ持っていないから」
「自覚?」
「貴方が現実世界での生活を捨ててこの世界の管理者……住人として生きる決断をするか、元の世界を選びこの世界を手放して魂があるべき場所へと還るか。貴方にはこの選択肢からどちらかを決断しないといけない。さぁ、貴方はどうする?」
「どうするって……」
「先に現実を教えておいてあげる。もし貴方が現実世界に戻れば……待っているのは生き地獄よ。交通事故の影響で貴方の肉体は喧嘩をするどころか日常生活にすら影響を及ぼすまで酷く損傷している。自由なのに自由じゃない、果たして龍彦くんにその苦痛が耐えられるかしら?」
「そ、そんなに酷い事故やったんやなアレ……。じゃ、じゃあこの世界の管理者として生きるっちゅうた場合どうすればいいんや?」
「簡単よ、貴方の魂をこの世界に完全に定着させるための楔を打てばいい。でもこの方法も、龍彦くんには相当辛いはずよ?」
「な、何やねん?」
「貴方に好意を寄せている郷田遥希、真宮衛、山南楓、浅上悠……この四人の誰かと結ばれる必要があるわ」
「ちょ、ちょい待てや!! な、何で俺があいつらと……!」
凄まじい嘔気と激しい眩暈に襲われる。
現実世界に帰っても確かに生き地獄だが、夢世界を選んでも刃崎龍彦に待ち受けている未来もまた生き地獄だと知った彼の顔は見る見る内に青ざめていく。
「女体化したあの四人がどうして好意を貴方に向けているか気付かないの?」
「気付かんし気付きとうもないわボケ!」
「あの四人、男だった時から貴方に好意を寄せてたみたいよlikeじゃなくてloveの方で。早い話がゲイで、前々から貴方のことめちゃくちゃにしてやりたいって気持ちがあったみたい。どう言う訳か貴方って男を惹き付ける魅力があるみたいね」
「だから知りとうもないって……うっ、おぇええっ……」
たまらず、とうとう吐いた。
知りたくもなかった信実と言う名の悪夢に涙すら込みあがってくる。
何が好きで男と交際しなければならないのか。いや今の彼女達は立派な美少女だけれども。
でもそれはそれ、これはこれである。
向き合わなければならない現実だが今は向かい合いたい気分じゃない。
今日がエイプリルフールだったらよかったのに、と龍彦は現実逃避に入った。
「現実逃避も結構だけど、早いとこ向かい合わないとこの世界が崩壊しちゃうから早めに決めてね」
「あ、悪夢や……こんなん悪夢以外の何物でもあらへん。何でや……何で、こないなことに」
「だってしょうがないじゃない。貴方が事故に遭った時真っ先に飛んできたのが彼らだったんだし。その時に刃崎龍彦に対する強すぎる想いが一緒に流れ込んじゃったのよね。それも世界に影響を及ぼすぐらいだからよっぽどよ、龍彦くんモテてるわね」
「じゃかわしいわ! くそぅ……俺の、俺のごく普通のモテモテライフがぁ……」
「悲しいけどこれ、現実なのよね。まぁそう言うことだから三日間ぐらいに決めてちょうだい。と言うより後三日間ぐらいしか期限がないから」
「三日間!? もうそんなに日がないんかい!!」
「じゃあそろそろ私は行くわね」
「ちょ、ちょっと待てや!」
彼女を引き止める。
聞きたいことは聞けた――聞かなければよかったと思わなくもないけれど――世界の真実を知った今、もう龍彦が抱く疑問は何もない。
来須雅美と言う人物を除けばの話だが。
「お前は結局何者なんや? 何でお前は世界のことについて知っとる?」
「……来須雅美が残した意思とでも言っておこうかしら」
「え?」
「私についての説明はおしまい。ここからは龍彦くん、貴方がすべて決めることよ――それじゃあね」
意味深な言葉を残して立ち去っていく来須雅美の後姿を、龍彦はただ黙って見送る。きっと彼女とはもう二度と会うことはないだろう。そんな気がした。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、遅れて格技場へと龍彦が戻ると、ツヤツヤとした顔の女子生徒達と立案者、しくしくと泣いてお通夜状態の男子生徒達に彼の頬が引きつったのは言うまでもないし、男子生徒達から薄情者と罵られた。
実に酷い言い掛かりだ。龍彦は心底疲れ切った表情を浮かべ溜息を吐いた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
放課後、龍彦は再び教会へと訪れた。
寄る予定などないし、外で待機させている美里亜のことを考えれば今すぐにでも彼は正門まで向かうべきだろう。
そうしなかったのは、教会でもう一度考えことをしたかったからである。
教会と言う神聖な雰囲気があるからこそ余計なことを考えずに没頭できる、とはただの思い込みかもしれない。それでも構わない。
祭壇より近い席に座り、沈思する。
刃崎龍彦に課せられた二つの選択肢。
この答えによってこの世界と、そして己の未来が大きく変わってくる。
世界を選べば事実上、刃崎龍彦は現実世界では死亡したことになる。脳だけは生きているから、正確に言えば植物状態が的確だろう。
そうなれば残してきた両親、そして拳を交えてきた好敵手達には本当に申し訳ないと思う。
だが、世界を放棄して現実世界へと帰還したところで刃崎龍彦は死んだも同然だ。
となればどちらを選ぶかなど、彼の中ではとうに決着がついている。
現実世界で辛く苦しく生きるぐらいならば、甘美な夢の世界へと誰しもが引き篭もろう。龍彦とて例外ではない。
夢世界を選ぶことに龍彦は何の躊躇いも抱かない。
そのためには、刃崎龍彦は試練を乗り越えねばならない。
「やっぱアカン……あいつらの誰かと交際するなんて俺には無理や」
死刑宣告に近い来須雅美の言葉に龍彦は身体を打ち震わせる。
記憶から己が知る彼らを抹消しない限り、今後真っ当もしくはふしだらな関係を築くことなど誰ができようか。
顔を合わせ近付かれる度に嘔気に襲われるのはもちろん、相手にも不快な思いをさせてしまっていることを龍彦は常々反省している。でも本能的拒絶反応ばかりは自分ではどうしようもなかった。
本日……はて、これで何度目だろう。
何度目かすらもわからない溜息を吐く。
不意に、教会の扉が開いた。
見やる。郷田遥希の姿があった。
夕陽を背に浴びた彼女の顔は、心なしか不安の感情が浮かんでいる。
「どうした龍彦。レクリエーションが終わってからずっと暗い顔してるぞ」
「……別に、何でもあらへんわ」
「嘘吐きだな。そんなバレバレの嘘が私に通じると思ったら大間違いだ」
「……個人的なことで悩んどるだけや。お前には関係あらへん」
「ではここは年長である私に相談してはどうかな刃崎くん!」
「……まだいはったんですか。盗み聞きは感心しませんよ楓さん」
「じゃあボクが」
「いいえ私が」
「いらんお世話やっちゅうねん! てか皆して盗み聞きしすぎやろ! 俺なら大丈夫やから、頼むし放っといてくれや!」
「……そうか。龍彦がそう言うなら私は何も言わない。だけどこれだけは言わせてくれ――私はいつでも龍彦の味方だから」
「……おう」
心配そうに見つめる四人を残し、龍彦は教会を後にする。
邪魔が入ってしまってはもう集中して考え事もできそうにない。
大人しく家に帰ることを決めて、今頃待ちぼうけを喰らっている美里亜への謝罪を考えた。
放課後、いつものように美里亜の護衛と送迎で自宅へと向かう。
窓の向こうで流れ行く景色を見やる。
歩道を行き交う女性達、アスファルトの上を走る自動車、ナンパをして男性を怖がらせ婦警に連行される女子高生、そして今も不可思議そうな面持ちでこちらを見つめている美里亜も。
すべては現実世界には存在しない架空の人物ばかり。
管理者の都合によって生み出された操り人形と言って差し支えあるまい。
だと言うのに言動は恐ろしいぐらい人間味がある。いや、架空と言えど彼女達は確かに一人の人間として思考を持ち、心を宿し、生きている。
夢とは思えぬ、本当に実在した異世界と思えてならない光景に龍彦は未だ混乱していた。
それはそうとして。
「俺は一体……どうしたらいいんやろうなぁ」
「どうかされたのですか?」
「いやな、ちょっと将来のことって言うか……男女の交際について色々と考えてたんですわ」
「こ、交際!? ま、まさか龍彦さまには誰か気になる異性がいると!?」
「い、いやそうやありませんけど……ただ少しだけ考えてただけです。あまり気にせんでください」
「いやいやいやいや! 気にするなと言う方が無理でしょう!!」
「ホ、ホンマに気にせんでください! 別に今すぐ結婚したいとか好きな相手がいるとかそんなんじゃありませんから!」
必死の形相で問い質してくる美里亜の気迫に気圧されながらも龍彦は必死に宥めた。
そして車が時折蛇行したり急にスピードが上がったりするから、車内にいる龍彦は気が気でない。
美里亜と同じく結婚と言う単語に強く反応したのは理解できる。ただ運転中はしっかりと意識を集中させてほしい。交通事故など起こしたりでもしたら、もう結婚どころの話ではなくなってしまう。
危険なドライブから生還して、龍彦はふらふらとした足取りで自宅へと戻る。
別の意味で二回も嘔吐すれば人間体力をごっそりと奪われるもの。
倦怠感に苛まれながらも、龍彦は身を委ねるようにベッドへと倒れ込む。
ふと、甘い香りが鼻腔を突いた。
見やる。視線の先に女性物の下着が鎮座していた。
「そう言や、洗濯したけど返すん忘れとったな……」
以前ユニフォーム交換などとほざいた遥希が残していった際どいパンツを、そっと握り締めると龍彦は身を起こす。まだ身体は重たいままだが、ちょっとは楽になった。