郷に入り、郷に忠誠を誓う 後半
最初に手に取ったのは、貧しい少年と愛犬の友情と悲劇の物語。
終盤で子供は大聖堂に行き死を覚悟するが、駆けつけてくれた愛犬を見て食欲が湧いてしまい、欲望のままに食べてしまう。
満たされた腹の少年が神父に保護されたところで、この物語は終わってしまう。
――なるほど、冒頭の懺悔の日々を送る修道士はここに繋がるということか。
一人でベルタームは納得して勝手に頷いていた。
次に読んだのは、宝石を食べる女を描いた物語。
醜い女は自らが美しくあるために宝石を食べる。
彼女の弟の視点から、彼女の宝石の美に狂わされた憐れで滑稽な人生は語られる。
――美しい者は醜さを恐れ、醜い者は美しさを恐れるものなのか?
美醜を狂うほど気にした経験がないベルタームにとっては疑問に残るものであった。
三冊目に読んだのは探偵シリーズ小説だ。
ベルタームが手に取ったのは自己を愛して止まない探偵マズルカと、謎多き不死身の怪盗エレガントの対決を描いた話だった。
探偵マズルカは自己陶酔が激しい性格だ。それでも鏡の中にいる自身に語りかけて推理を積み上げていく行程はどこか幻想的な描写に仕上がっていた。
――だが、実際にこんな探偵や怪盗がいたら世も末だ。
ベルタームは彼らの言動に呆れながらも、その物語を推理とともに読み解いた。
ベルターム多くの時間をかけて、何冊もの本を貪るように読みふけた。
彼自身は気づけなかったが、どうやら彼は重度の活字中毒のようだった。三冊の本を読み終えて一息を吐き、懐中時計を開くと昼の二時を示していた。ベルタームは記憶を失ったと気付いた時よりも大きく目を丸くした。
「ちょっと、アンタが穀潰しかい?」
驚いていると、ハスキーがかかった声を背後からかけられた。
首だけで振り向くと小柄な女性が立っていた。小柄といえども足腰には育ちざかりの少年のような筋肉がついていた。だが、鼻周辺についたそばかすや、リボンで結った小さなポニーテールが微かなあどけなさを醸し出していた。
しかし、いきなり発された言葉に、またもやベルタームは驚きのあまり固まってしまった。
「アンタに聞いているんだよ。新しい穀潰し」
「ええっと、穀潰しじゃなくて……私はベルタームだ。キリアに紹介されてこの屋敷に住むことになったんだ。あなたは?」
「あらそう……穀潰しが穀潰しを呼んだってワケ?」
ベルタームが顔を曇らせると、彼女は鼻を鳴らして「本当のことを言ったまでさ」と荒々しく付け足した。
「アタイの名前は、"コムラサキ"。ここの家畜や猟犬の世話をしているのさ。父さんが数年前にポックリ逝っちゃってね……アタイが代わりにやってるってワケ」
そう言って、コムラサキと言った少女はちらりとベルタームが机の置いた三冊の本を見遣った。
「マズルカシリーズ……アンタの仲間の穀潰しも好きな本だね。類は友を呼ぶってワケね」
皮肉のように言われて、ベルタームは居心地が悪い思いのまま本の表紙を撫でた。
ベルタームは、仲間の穀潰し――キリアの顔が思い浮かんだ……あの人は今、なにをしているのだろう。
あの人は、ふらふらと散歩をするのが好きみたいだから、会うのは大変そうだとベルタームは肩を竦めた。
「アンタ、そのシリーズの作者、知ってる? 都会ではそこそこ有名だったらしいけど」
「あ、ああ……でも、そういうのに疎いから私は初めて読んだんだ」
「だろうと思った。アンタ、流行に乗り遅れる性分のカオしてるよ……"クレモール・ホワイター"っていうらしいよ。最近の作家で、多分、ペンネーム、だと思うけどさ」
「どんな人だったんだ?」
「知ったこっちゃないよ。アタイはそいつのファンじゃないんだから」
それもそうだ、とは思ったがどうにも腑に落ちないままのベルタームは困惑した薄い笑みを浮かべてしまった。そんな彼をコムラサキは異質な目を向けて睨みつけた。
ベルタームはマズルカシリーズの本を開き最後の頁に書かれた作者紹介を読んだ。
* * *
"クレモール・ホワイター"
'56年生まれ。
'77年『晩秋の麦』でデビュー。
その後、'79年に新聞連載の『マズルカシリーズ』で優れた推理小説に贈られるミステリオ賞を取る。
* * *
彼女の言う通り、比較的若い作家だと言うことが窺えた。今も生きているようだ。
……もし、今、ベルターム自らがこのような歴史として文字に遺されることになったら。
――私の頁は真っ白、なのだろうか。それとも、私の記憶喪失以前のことも描かれるのだろうか。
ありもしないことに対して、ベルタームは首を捻らせるほど考えを巡らせてしまった。
そんな中、どこからともなく微かな声が聞こえ始めた――空耳かとベルタームは思ったが、音は連なって一つの旋律として並べられてゆく。
すると本を物色していたコムラサキが振り向いて辺りを見回した。鋭く三白眼気味な目がパッと見開いた。
「……! 歌っ、うそ、もうそんな時間っ!?」
「一体、どうしたんだ?」
「ア、アンタにはカンケーないね! っと、とりあえず行かなきゃ」
「コムラサキ様」
コムラサキが扉に向かおうと本棚に本を仕舞っていると、すぐさま女声の声がかかった。
スカートの裾が少し汚れたハイディがコムラサキの背後に立っていたのだ。わっ、と驚嘆の声をあげてコムラサキは本棚に軽くぶつかった。
ハイディは椅子に座ったベルタームの存在に気づき、裾の埃を落としてぺこりと一礼をした。
「ちょ、ちょっと……なにさ、ハイディ」
「先ほど庭の見回りを行っておりましたら、レモヒト様から、肥溜めの匂いがひどいと文句を受け賜りました」
「ハァッ?! レモヒトがぁ?! 過剰反応すぎるっつーの!」
「"こういうことは、コムラサキに言えば解決するのだぞ!"とおっしゃっておりました。生憎、わたくしも肥溜めの掃除の仕方は存じ上げないものでして」
「はいはい! わざわざ再現まで、どうもありがとうね。ハイディ!」
皮肉たっぷりにコムラサキはわざとらしく荒い声をだした。
レモヒト、というのはベルタームも一度だけキリアに紹介を受けて会ったことがあった。
人らしくあろうとしていて自信に溢れていて、「人として」「人であるからにして」が口癖の庭師だ……元は教会の人間で、信心も深い人で悪い人じゃないとキリアは彼に紹介してくれた。
だが喋った感覚では、気難しい高慢ちきと感じてベルタームは好きになれない人種だと咄嗟に感じてしまった。
レモヒトに「人として眉根は寄せるべきではない」という理不尽なを言われを反芻していると、とんと肘に硬い物体が当たった。
見ると、コムラサキはベルタームの肘にこん、こん、と丸い水筒を当ててた。
「ちょっと、穀潰し。これ」
「これは……水筒?」
「水筒以外のなんだと思ったワケ? ……暇人、たまには人の役に立ちなさい。音楽堂に行って来て、水筒を歌っている人に渡してちょうだい」
「で、でも、リヴァに約束をしていて」
「一生、アイツに会えないワケじゃないんだからいいでしょうが……ほら、行った! 下の階の廊下の突当り! 声辿れば分かるから! 渡しなさいよ! ぜっったいに、苛めんじゃないよ!?」
ベルタームは半強制的に水筒を持たされたまま、水筒を片手に書斎を追い出されてしまった。
もっと本を読みたかったが、今また戻ろうとしても押し戻されるだけだ。仕方なく階段を下りて、誰もいない廊下を歩く――。
広い屋敷だからか、それとも総合的な人々が少ないからか滞りなく足音を鳴らして歩く。
階段を降りて廊下を辿るうちに、歌声がはっきりと聞こえ始めた扉の前に来た――眼鏡をかけて確認すると、扉の横のプレートには"音楽堂(Music hall)"と書かれていた……。
「絶対苛めないで」……コムラサキの言葉をふと思い出しながら、ベルタームは扉をゆっくりと開けた。
* * *
大聖堂のようなステンドグラスが天井に煌めいた空間だった。光が降り注いだらさぞかし更に美しいのだろうと見惚れるほどだった。天井も、奥行きも広く音楽堂というよりは教会だ。信仰の椅子と机が並び、奥には説教台、説教台の後ろの壁には銀色の八本足のクモのオブジェクトが掲げられていた。
その空間で反響するのは厳かな男声だ。
声は天に塔を一瞬で築くかの如く一直線へと伸びて放射線を描いてベルタームに届けられる。
憐れみ給う詩はフラワーシャワーのように降り注ぎ、確固たる言葉を伝える詩には自らにも言い聞かせるように奥底へと撃ち抜く響きを奏でられた。心が圧迫されるような、自らも歌っているような高揚感にベルタームは見舞われた。
貴方の栄光と御言葉は、永久に消えることはない。
それは剣にも勝り、永遠に破られることはない盾なのだ。
その旋律とともに、歌は終焉を告げた。ベルタームはなにも言えずに、満ち足りた空間の中で聞き惚れていた。取り憑かれたようにぱちぱちと拍手を思わずしてしまった。
「――おや、どなたですかな? コムラサキ殿でありますか?」
声の主は吐息を一つ吐いて、かつかつと黒いブーツを鳴らしてやってきたようだ。彼は帽子を被り、胸の開いた長袖のシャツを着ていた。筋肉は逞しいことが肩幅からや胸の感じとられた。
これだけを描写をすれば、どこにでもいる軍人帰りの男だと感じられるだろう。
しかし、体だけを見ていたベルタームは、やがて視線を上へと移動させていくうちに目を大きく見開くことになった。
その体には、顔がなかった。
正確には長いシャツと長いズボン、茶色の皮手袋。黒いブーツがあるだけ……人の姿は見えなかった。
ベルタームの驚嘆の表情を知ったのか。微かに息を漏らす音が響き渡り、服がさっと横を向いた。
「お、おどろかれてしまいましたかな?」
メロディーと同じような、厳かで滑らかな低音が音楽堂に鳴り響いた。
だが、その声色は歌と違って、見られてしまったという恐れと恥辱を滲ませていた。ベルタームはなにか声をかけたくなったが、なにを言っていいか分からずに手だけを軽くあげたままだった。
「お恥ずかしい限りではありますが、小生、このような身形でありまして……は、ははは……」
「そ、そうなのか……そんなに恥ずかしがることじゃ」
「殿方……恐縮でありました。そ、それでは……」
さきほどまで歌を響かせていた"透明人間"は息を少し切らした声で、服の皺を際立たせ、そそくさとズボンが動き始めた。
「ま、待ってくれ。これ!」
ベルタームは慌ただしく衣服の前に回り込んで水筒を渡した。前に立っている服の肩幅が勢いよく波打った。
「コムラサキに言われたんだ。この水筒を持って行ってくれって。彼女、ちょっと手が離せないみたいで……だから、私が代わりに」
「コムラサキ殿に……な、なるほど、そうでありましたか。ありがとうございます」
ベルタームは目の前の差し出された手袋に水筒を渡す。恐る恐る手袋によって掴みとられた水筒の口は宙の中、注ぐように下を向いた。だが水は零れ落ちることはない――。
――きっと、そこにいるのだろう。
ベルタームは襟元付近を凝視してみたがその姿は見えなかった。やがて水筒の蓋を閉めて、手袋が宙を拭った……唇の水を拭きとって一息した、という行為だろう。
「助かりました。コムラサキ殿にも御礼を申し上げてくださると幸いであります」
「彼女とは仲がいいのか?」
「コムラサキ殿はとても優しい方でありますね。毎日、小生の歌を聞いて賞賛の言葉を送ってくださるのであります」
毎日、ということを聞いて、それは優しさというより……とベルタームは言いたくなった。
記憶喪失でありながら、さすがに、このような人間の機微を覚えていたことにベルタームは少しだけほくそ笑みたくなった。
「ところで、あなたのお名前は?」
「小生、でありますか? 小生の名前を訊きたがるなんて久しいことでありますな……っと、失礼。名前でありましたね。小生、"オブリガルト"と申しあげます。ここのフットマンでありまして……軍隊に所属していたのでお見苦しい口調であります。お許しください」
「私はベルタームだ。キリアに連れられた客人……とでも言おうか」
「……あの方に、でありますか」
顔立ちは分からなかったが、革手袋が長袖シャツの胸の部分にひたりと当てた姿を見たベルタームは、その驚きの仕草には奇妙な気分を覚えた。
「キリアだとなにか問題なのか?」
「い、いや。失礼した。誤解をお招きする言葉でありましたな……その。小生はあの方が苦手でありまして」
「苦手、とは……喧嘩でもしたのかね?」
「滅相もない! あの方は、小生と同じように喧嘩が苦手でありますからな! しかし……その……」
オブリガルトは困惑とも言える声色のまま言葉を濁らせてしまった。
顔が見えない分、彼は声で存在を伝えるしか手段がない。
だからこそ彼は演技調に、それこそ鮮明に、声に色をつけなければいけないのだろうとベルタームは思った。
このように生きなければいけない境遇、そして微かな不器用さが自身に似たなにかが汲み取られて、この屋敷にきて初めてベルタームは安堵という思いを覚えた。
「なあ……また、来てもいいだろうか。あなたの素敵な歌をもっと聞きたい」
「そ、そんな。世辞が上手でありますな」
「お世辞なんかじゃない。先ほどまで淋しい思いだったんだけど、あなたの歌を聞いて、元気が出たんだ。自信を持ってくれ」
どのような表情をしていたのだろうか、ベルタームは気になったが、その色を知ることはできなかった。
ただ、ベルタームは手袋によって握手をされた……がっしりとした手、彼は生きているということを知ることができた。
「……光栄であります。大抵はこの時間に歌っているので……聞いてくださると、小生も幸せで」
弾んだ言葉が最後まで通る前に音楽室の扉が開いて、白い影が入ってきた――。
「おや、リヴァイヤー殿」
「オブリガルトさんもご一緒でしたか……こちらにいらしているとコムラサキさんからお聞きしました。ベルタームさま。ご準備が整いました」
しわひとつない燕尾服を着こなしたリヴァがしゃなりしゃなりと歩き寄ってきた。オブリガルトを見るなり、彼に対して、微かに流し目に似た視線を向けた。
「ところで、オブリガルトさん……貴方、薪の仕事はどうしましたか?」
「もう終わったところでありますから」
「いつも思うのですが、終わったのなら、他の仕事を探したほうがいいのでは?」
「も、もっとも、でありますな……しかし、小生も休憩が必要でありまして」
「羨ましい限りですね。私はひっきりなしに動かなければいけない職ですのでね」
「そ、そうは言うのでありますが、ハイドレンディア殿も庭でブランコを漕いでいたのであります」
「あの方のサボり癖は知りません――村長の娘だったからと言って、サボっていい理由にはならないというのに。規則に従うことを知らない人はこれだから困るんです」
つん、と伏し目がちに顎をあげたリヴァに、オブリガルトは乾いた笑い声を立てた。
笑うところではない、と言わんばかりにリヴァが伏し目のまま彼を睨みつけたのでその声は止んだ。
彼女が職務怠慢をする人で、村長の娘であるということをベルタームは初めて知った……このように自分のことも分かればいいのだが……と彼は思ったが、夢想にすぎないと軽く嘆いた。
「……それでは、ベルタームさま。参りましょう」
リヴァは恭しくお辞儀をしてドアから颯爽と出て行ったため、ベルタームは慌てて早足で燕尾服の後を追った。
オブリガルトは手を振ったが、ベルタームは気づかないまま、彼に後ろ姿を向けたままであった――。