表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハナヤマイ  作者: 鍛冶屋
一章
2/3

郷に入り、郷に忠誠を誓う  前半

* * *



 19××年 10月7日


 明日、私は15の誕生日を迎える。

 私の家は貧しい家だった。

 それでも誕生日だけは、父も母も奮発してケーキを、花を買ってきてくれるのだ。

 あまり高くないものだけれど、それでも甘いものは私にとっての至福だった。

 いつか、私も父と母に孝行をしなければ。

 そしていつの日か訪れるであろう父になった時も。

 私は子供に、精一杯の誕生日を祝ってあげよう。


 ……その前に、学校の宿題のスケッチを仕上げなければ。

 雨で湿った草木の匂いを嗅ぎながら、川辺に咲いた勿忘草を描こう。

 明日がとても待ち遠しい。



* * *


 名無しの権兵衛ジョン・ドゥだった男は一冊の小さなノートを眺めていた……。

 屋敷の中の部屋で、黒のシャツに黒のズボンという喪服のような姿のジョン・ドゥ……もといベルタームは黒い鞄を開いた時に一つの緑の背表紙のノートを見つけた。


 彼は気が付くと森の中にいた、その時には、もはや記憶を零れ落としてしまった……。

 いつから無くなった、なんてことは分からないまま、彼は自己を失い途方に暮れていた――幸いにも、森から抜け出して生き延びているが、ベルタームの故郷はここではない。

 だから、彼は自らの記憶を欲し、持っていた鞄を開いてこのノートへと辿り着いたのだ……だが、中身はこの硬い筆跡だけ。他のページは真っ白だった、表面を撫でるように触れても魔法のように文字は浮かばない。

 分かったことは、自分が10月8日に生まれた15歳以上の男性であるということだった。

 徒労の記憶に終わり、彼は手帳を閉じた。

 

 彼が屋敷に導かれてから、かれこれ三日経った。

 その間になにをするとでもなく、ベルタームはベッドに体を埋めて乳白色の天井を見上げていた。

 屋敷に辿り着いて、部屋を施してもらってからは、しばらくは休みたいと言って部屋に籠りきりだった。

 とにかく寝たいという気持ちがベルタームにはあった。だけど、何時間、何日間、なにかをする気力もなく床についたものの、ベルタームは眠れた心地がしなかった。瞼を閉じて、息をゆっくりと吐いて……休息している意識はあるものの、それが安眠に繋がることがない。


 二日経ってから、これは形を変えた監禁ではないかとベルタームはぼんやりと思った。

 監禁された主人公ならば、屋敷から脱出するのが一つの目的となるだろう。

 けれども、ベルタームには帰るところがない……もとい帰る場所が分からないのだ。

 無暗に脱出して路頭に迷うよりは、ここを家として生活するのが尤もの手段かもしれない。

 しかし、ここは彼の本当の家ではない。

 事実、自分の鞄に入っていた手記では父も母もいる家があるというじゃないか。


 「いる、とは分かっていても」

 ベルタームはらしくない独り言を呟いたが、その後の言葉は続かなかった。

 手帳をベッドの横の小さな棚に置いて、規則的な腹式呼吸をしてみたが、巧く眠れないものだとベルタームは目をわざとらしく細めた。

 部屋にノックの音が鳴り響いた。ベルタームはくたびれたシーツのベッドから身を起こした。


「どなたか?」

「おはよう! ボクだよ。キリアだよ! ベル、開けて!」

 少年を思わせるあどけない声がドアを隔てた向こう側から飛んできた。

 ベルタームは口の横に手を寄せて、「もうしばらく寝させてほしい」と言うつもりだった。

 だが、彼は自らのどこかにあるだろう良心になにかが掠めた。良心、というよりお人よしというほうが正しいのかもしれない。

 さすがに三日も、キリアを心配させたくなかったような気がしたのだ。

「……ああ、ちょっと待ってくれ」

 喉仏を動かしながら低い声を飛ばした。うまく聞こえただろうかと思いながら、ベッドを降りた……が、地面に足を沼に埋めた感覚とともに、右足を挫いて、床に膝を殴打させてしまった。

 鈍い痛みによって、長い夢を見ていたのかもしれないというベルタームの僅かな期待は呆気なく剥がれた。

 とんとん、とまた乱暴なノックが聞こえた。慌てて頭を振りかぶりながら立ち上がってドアを開けた。

 軋む音とともに、黄金の髪をしたキリアは笑顔を浮かべてベルタームの姿を見詰めた……が、彼の顔を暫くじっくりと見ていると、キリアは少しだけ顔をしかめた……。


「なんだい、キミ。寝ていないのか?」

「あ、ああ。つい眠れなくて……すまない」

「あれ、謝ることじゃないよ? キミは悪くないからね。大丈夫?」

 キミは悪くない。

 そう言われたものの、言われたところでベルタームの眠気は吹き飛ぶわけでもなかった――欠伸を噛み殺していると、キリアの薄い手のひらがそっと彼の背中に触れた。

「今度眠れなかったら、ボクに言ってよ。疲れるぐらい夜道で散歩させてあげるから」

 耳元に囁かれて、ベルタームは気恥ずかしさよりも、くすぐったさに身を捩らせた。

 ベルタームは、キリアから逃れるように部屋の黒いカーテンに歩み寄り、窓の外を確認するためにカーテンを開けた……カーテンと似たような色の光景が広がっていた。

「なんだか、時間の感覚が狂ってしまいそうだ」

「しょうがないよ。森の中なんだからさ」

 このような感想を抱きながら、ベルタームの朝は今日も始まる。

 今度はドアからノックの音が三回鳴った。乱雑なキリアのノックと違って規則的な音だ。

「起きてるよ、おはよう」

「おはようございます。ベルターム様」

 ベルタームはドアから声をかけた。扉が開き、一つの三つ編みを揺らした給仕が静々と入って来た。

 彼女の名は、"ハイドレンディア"……それがファーストネームなのか、ラストネームなのかはベルタームは知らなかった。

 彼女はこの広大な屋敷の給仕をしている女性だ。年齢も不詳……キリア曰く「今の当主のオシメを替えている時からこの屋敷に仕えていた」らしいが、今のベルタームには、その噂を確かめる術はない。彼女は調理を洗濯などをこなしている。屋敷に住む人間からは、"ハイディ"と呼ばれ、この屋敷の母のように慕われていた。


 ベルタームは、屋敷に来た当日に従者のほとんどには挨拶は済ませた。

 だが、記憶喪失であることはなるべく伏せておくようにとキリアには念を押された。キリアの言う通り、このような欠陥はむやみやたらに言うことでもないものだ。

 ボロがいつか出るのではないかと思われたが、昔話を聞かれない限り平気なものなのかもしれない。

 事実、彼らはどこから来たのか、家族は何人かなんてことは聞いてこなかった。

 客人と従者なのだから、そういうものなのかもしれないとベルタームは納得するように目を伏せた……。


「キリア様もおはようございます。朝食の準備ができましたので、お知らせに参りました」

「はいはーい、いつもありがとね。さてと、ベル、キミも行こうよ」

「……私は、いらない」

 ベルタームは微かな眩暈を覚えながらも手を横に振っていらないという意志表示をした。

「いらないの? 本当に? お腹すくよ?」

「あんまり、お腹が空いてないんだ」

 ベルタームは困ったような笑みを、無理矢理浮かべた。

「そう……食べたいときは食べたいって言ってね。ボクが作ってあげるから」

「しかし、キリア様は旦那様にキッチン使用禁止令が出されております」

「知っているよ。だから、食糧庫に行くつもり!」

「……かしこまりました。わたくしからは、なにも言うつもりはございません」

 ハイディは表情一つ変えずにお辞儀をして部屋から出て行った。キリアはベルタームの肩を叩いて、後で――と言って、彼に軽くウィンクをしながら、ぴょこぴょこと母を慕う少年のようにハイディの後ろ姿を追いかけていった。


 瞬く間に、ベルタームは一人となってしまった。

 尤も、部屋に籠っていた時の状態と元通りになっただけなのだから、どうしたということもないだろう。また眠って時間を過ごそうかとベルタームはベッドに吸い寄せられた。

 ――それは、出不精すぎるな。

 ベルタームは黒いズボンの上から足を擦って、白いシーツを睨みつけた。彼は自らの重い足腰に苦々しい顔立ちを刻んだ……屋敷は自由に回ってもいいといわれた。大事な部屋は鍵がかけられているからねとキリアは教えてくれたので、その人の言う通りならば不用心に扉を開けて殺されることはないだろう。

 ベルタームは鞄の中身を確認する。手帳、先端に蓋の着いた黒く鋭いペン、キリアからもらった銀の懐中時計――確認のために蓋をあけると八時半を示していた。

 護身用の武器はないけれど、鋭いペン先なら誰かを怯ませることはできる。そう、ペンは剣より強しとは言うものだが、生憎、ベルタームはその言葉を知らなかった。


 ――せめて、ペーパーナイフぐらいくれてもいいのに。

 溜息を吐きながら、外に出るわけでもないが帽子を被ってベルタームはようやく部屋を出たのであった……。


 この屋敷はどうやら三階建てらしいということはベルタームは知っていた。

 屋敷に来た初日にキリアから大雑把な説明を受けたが、実際見てみないと分からないことが多いのも事実だ。

 客室を出て真っ直ぐに歩き、大きなエントランスホールへと出る。いくつか扉があったが大の大人が二人一斉に入れそうなほど大きな扉が最初に目に入った。その横につけられているプレートには"食堂(Dining hall)"と掠れた文字で書かれてあった。

 今ここに入ると、恐らくキリアが純朴な笑顔で出迎えてくれるのだろうことを知ってか知らずか、ベルタームは大きな扉からそっと離れて、廊下を歩きはじめた……二階へと続く階段を見つけたので登ってみた。なにもすることがない彼にとっては、屋敷の中をそれこそ、自由気ままに、恣意的に出歩くことしか出来なかった。普通なら脱出の手立てを見つけるのが一番なのだろうけど、彼には脱出の考えには至らないのは先にも述べた通りだ。


 革靴の底で床に音を鳴らしながら階段を上りきりると、早速、一つの亜麻色のドアを見つけた。ドアの横のプレートには"書斎(library)"と書かれていた。ドアノブをひねってを扉を開けると、突如一人の人物と鉢合わせた。

 それは、長い金髪を結えて銀縁の眼鏡をかけた長身の男性で、ベルタームを見るなり、驚いた様子だった。しかし、「失礼」と品のいい笑顔を見せそっと廊下へと出て行った。その後ろに連れそうように歩いていたのは――。


「……ユキ」


 曇天の森の中。キリアの隣にいた少女。神に言葉を奪われた子。名付け親。

 ベルタームは断片的に単語を並べながら、ユキに対して咄嗟に声をかけた。

 だが、彼女はおさげをびくりと揺らして、慌てるように廊下に出た銀縁眼鏡の男性の元へと早足で追いかけてしまった。

 先ほどの眼鏡の男性とは挨拶はしておらず、名前を訊きたかったが二人して颯爽と去って行ってしまった……ユキは眼鏡の男性の顔を覗き込んでいるようだ。

 ――同じ、眼鏡の男だというのに。顔の差異によって……。

 白いスカートを見送りながら、ベルタームは諦めたように肩を竦めて書斎へと入った。

 

 多くの本棚が所狭しと並んだまさに図書館という名前が似合う、まさに名の通り、書斎の部屋で思わずベルタームはくしゃみをしてしまいそうになった。

 その中で、せっせと本棚をはたき一つで叩いている青年の影をベルタームは見つけた。その青年はカッターシャツと黒い蝶ネクタイを身に着けていた。髪は色素が薄く片側だけを細い三つ編みにしている。

 彼の名前は"リヴァイヤー・シーヴィレッジ"……屋敷の者たちからはリヴァと呼ばれている若きバトラーだ。ベルタームの姿に気づくなり、リヴァは清廉という言葉が似合うどこか浮世離れした顔立ちをつとあげて、恭しく一礼をした。

「おはようございます、ベルタームさま。こちらは前の旦那様も愛用なさっていた書斎でございます。いかがでしょうか」

「ああ……すごい量だな。読みがいがありそうだ」

「自慢の部屋ですから。お屋敷でなにか不快な点はございますか?」

「お気遣いありがとう。特にはないよ、住み心地は良い」

「私たちが精力を尽くして快適なお屋敷に毎日仕上げておりますから……体調はいかがでしょうか?」

「まるで医者みたいな問答だな……良好だよ」

「それはなによりです。そう言っていただけると、私としては満足です」

 リヴァは薄く笑ったと同時にお辞儀をする……と、微かにリヴァは小鼻に皺を寄せた。

「……ベルタームさま。少しじっとしていただけませんか」

 そう言われ、ベルタームは直立不動の状態になる。リヴァは白い手袋をはめた手を伸ばして、ベルタームの肩についた一つの白い埃を取り上げた。伸ばされた手にベルタームの体は硬直してしまった。直の肌には触れていないはずだが、ベルタームはつめたい、という感覚を思い起こさせた。

「これで大丈夫です」

「あ……ありがとう。だけど、言ってくれれば払ったのに」

「いいえ。この屋敷に塵が落ちるところを黙って見ている私がいたら、それはバトラー失格になります」

 リヴァは笑わずにきっぱりと言った。冗談抜きの言葉にベルタームはまだ体を強張らせていた。

「あっ、そうだ。後で屋敷の主人に話がしたいのだが……時間は取れるかな」

「旦那様にですか、なにか御用件があるのですか?」

「そういうことではないのだが……ここに住まわせてもらうことにするのだから、挨拶はしなければ」

「なるほど、かしこまりました。それでは、旦那様にお伝え申し上げます……暫く、お待ちを。その間、屋敷の中を散策しても構いませんよ」

「ここで待っていてもいいのだけれど」

「それは、ベルタームさまにお任せ致します。私は屋敷を絶え間なく歩き回る者ですので、移動なさっても問題はありません……それに、ベルタームさまは、キリアさまと違って物を荒らす蛮人のような真似はしないと、私は心より信じておりますから」

 キリアさまと違って、と言われてベルタームは素直に喜べずに引き攣った笑みを浮かべるしかなかった。

 一礼をして、背筋をぴんと伸ばしたままリヴァが歩き去った時、またベルタームは一人となって、ようやく肩の荷がおりた思いをした。

 行く先々で、ベルタームは一人になる。彼らには仕事があり、自分は客人の身であることはベルタームは知っていた。子供とは違う、ベルタームは体は大人で、思考も大人の脳と一緒なのだから、一人でなにかをすることは特別なことではないはずだ。

 それに、いつかは誰だって、なにかを失う時はある。家族や、恋人、友達……それは離別、喧嘩別れもあるだろうけれど、どんなに仲が良くてもいつか必ず別れる時が人間にはあるのだ。

 何度も、何度も離別はあるではないか。

 

 ――だから、そんなに淋しいと思う必要はないだろう。名無しの権兵衛ジョン・ドゥ


 ベルタームは子供に言い聞かせるように、自らの胸に呼びかけた。

 ……自らにつけられた名前は、まだ受け入れられなかった。


 感傷を振り払うように、ベルタームは本棚に詰められた本の数々を見遣った。

 歩き回っていても構わないとは言われたが、待っているのが、彼ためにもいいかもしれない。ベルタームは書斎にある本を読むことに決め、首からさげてあった眼鏡をかけた――。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ