4章 命の代償(1)
激闘を終えたリサとモニカは、速やかにその場を離れることにした。
豪雨の中での戦いは長く感じられたが、実際にはそれほど時間は経っていない。
とはいえ、いずれ南区の保安隊が駆けつけることだろう。
勝手知ったる東南区でも面倒だが、名も顔も知られていない南区では取り調べに相当な時間を費やされるのは確実だ。最悪、投獄される可能性もある。
それにしても、二人とも泥だらけの悲惨な格好だった。
おまけにリサは、自慢の長い黒髪をあの男の蛮刀でバッサリと斬られてしまっている。
手鏡で確認してみたが、後でちゃんと切り揃えておく必要がありそうだ。
「モニカ、これを使って」
「……いい。後で風呂に入るから」
「そうじゃなくて、髪を拭いておかないと風邪ひくわよってこと。ほら」
嫌がるモニカに背嚢から出した手拭いを投げ渡すと、ぶつくさ文句を言いながらも髪を拭い始めた。雨上がりのせいもあってか、少し風が冷たく感じられる。
「皮鎧もちゃんと乾かして手入れしておかないとね、臭くなるから。それと……ああ、今日の埋め合わせは近い内に必ずするわ」
「埋め合わせ?」
「ただ働きさせてしまったのだから当然でしょ? いらない、なんて言わないでね。これは私の気持ちの問題だから」
モニカが手を止め、不機嫌そうに唇を尖らせた。
「いらない。これは、あたしの気持ちの問題だ。リサが戦うのなら、あたしも一緒に戦う。それで借りとか貸しとかは無しだ。逆の立場だったらリサはどう思うんだ?」
「……そうね、分かった。でも、ご飯ぐらいは奢らせてよ」
「分かった。じゃあ、肉だ。牛の肉を……分厚いのを焼いて、がっつり食べたい」
「喜んで。たまには、知らない店で食べてみるのもいいわね」
なるべく大通りを避けつつ進む内に、東南区との境が近くなった。
仕事を終えて家路を急ぐ行商人がすれ違っていく。
日が沈み、立ち並ぶ家々の窓の隙間から灯りが漏れていた。
頭上を覆っていた雲はちりじりになり、瞬く星々が見える。どうやら明日は晴れそうだ。
「借金の件が片付いたら、バドの仕事先を相談しようと思ってるの。バフィトさんに話を通してね。力仕事なら、バドにはうってつけでしょ?」
きつい仕事だが、真面目に勤めれば収入は悪くない。住居も独身の沖仲仕向けの寮があったはずだ。
定職を持てば、彼もきっと更生できるだろう。紫電流杖術の門下生とした以上、師匠としてできるだけのことはしてあげたい。
(そう……彼のようになってしまうのだけは……)
先程手にかけた大男の姿が、どうしてもバドに重なってしまう。
あの男の来歴は知る由もないが、心底邪悪な人間では無かったのではないか、と思える。
人肉を食らうという異常性も、敵味方の区別すらできない凶暴性も、恐らくは魔薬に由来するものではないだろうか。
魔薬中毒にさえならなければ――そして、あの悪党どものような手合いとの接触が無ければ、あるいはもっと真っ当な人生を歩み、あの場でリサによって斃されることもなかったのではないか――。
「リサ」
「……なに?」
知らず知らずのうちに杖をきつく握っていた自分に気づき、リサは慌てて笑顔を作った。
「あたしの父ちゃんは狩人だ。この話は前にしたな?」
「ええ……」
モニカの唐突な話に面食らったが、すぐに彼女の真剣な口調に耳を傾けた。
「うん、それでだな、父ちゃんは野の獣を狩る。それが仕事だ。だが、いつもこう思っていると言っていた。狩られる獣たちに対する感謝を忘れちゃいけない、と」
「大切なことね」
命を奪い、生活の糧とする。帝都のような大都会に住んでいるとつい忘れがちなことであるが、人として生きる上で当然であり、心の片隅にいつも置いておくべきことだ。
「で、父ちゃんだが、何度か山賊に村を襲われそうになったことがあって、その時にはもちろん勇敢に戦った。で、何人か敵を仕留めた。父ちゃんはこう言っていた。人を殺すのが俺の仕事じゃない、だけどこれは家族を守るためだ、仕方がない、と」
「……ええ」
彼女が何を伝えたいのか、リサはすぐに理解した。
モニカは勘が鋭い。リサの心中を察し、この話を始めたのだろう。
彼女は口下手で、特に自分のことは多くを語ろうとはしない。
だが、彼女は彼女なりに日々様々なことに思いを巡らせているのだ。
そして何より、仲間のことを大事に想っている。
「山賊の中には命乞いをした奴もいたそうだ。だけど、父ちゃんは撃った……と言っていた。何も殺す必要は無かったんじゃないか、と父ちゃんは悩んだらしい。いや、もしかしたら今も悩んでいるのかもしれない」
安易に相槌を打つこともできず、リサはただ静かに彼女の言葉を待った。
「私は父ちゃんを尊敬しているし、間違っていないと信じている。父ちゃんが山賊を仕留めなければ、私も母ちゃんも死んでいただろうし、もっと酷い目に遭っていたかもしれない。あ、まあ母ちゃんは大丈夫な気もするが……。んんんっ、何か話が分からなくなってきたな。ええっとだな、つまり、父ちゃんは正しかったし、リサも正しい。その、あまり、気にするな」
「ありがとう、モニカ」
困ったように頬を赤らめる彼女に、リサは心の底から謝辞を述べた。
仕方がなかった、ですべてを済ませるつもりはない。
殺さずに済むのなら、やはりそうしたいというのがリサの信条だ。
しかし、結果として命を奪わざるを得ないこともある。それが傭兵稼業というもので、リサはその道で生きていくことを選択した。
きっとまた、この先も同じように自分は悩むことだろう。
その時、モニカの話してくれたことが重荷を軽くしてくれるかもしれない。
「あたしはどうも難しいことは解らない。いや、解らないというか、自分が考えていることをリサや、グウェン先生のように上手く言葉で説明できないのだ。もどかしい。ダメだな、私は頭が悪くて」
「そんなことはないわよ。貴方の言葉は、とても胸に響いたわ」
「……そうか、そう言ってもらえると嬉しい」
彼女の話で、悩みが完全に消えたわけではない。
だが、彼女がリサを深く理解し、懸命にその選択を肯定してくれたことが、何より嬉しかった。
大切な友の簡素な言葉は、時に賢者の箴言にも勝る。
リサは肩の力を抜き、大きく息をついた。
「あ、リサ。『天使の髪』だ!」
しばらく歩いていると、モニカが民家の屋根を指差した。
見上げると、真っ白な毛玉のような物がフワフワと舞い降りている。
屋根に当たると、それは頼りなげに転がり、微風に飛ばされてまた宙を舞った。
「ああ、『毛玉』ね。久し振りに見たわ」
「何だそれは。リサの田舎ではそんな妙ちくりんな呼び方をしているのか?」
明らかに見たままの表現であると思うが、確かに『天使の髪』に比べると情緒には欠けている。
東南諸島系の友達は、ケサラパと呼んでいたはずだ。詳しくは知らないが、たぶん、各地で呼び名が異なっているのだろう。
「ええ。でも、北方の呼び名の方が素敵ね。これからは、そう呼ぶことにするわ」
「あれは小さな幸運か不運を呼ぶ、と母ちゃんが言ってた。だから幸運が来るように、おまじないをしなきゃいけないんだ」
そう言って足を止めると、モニカは両手指を絡めるように組んでブツブツと呪文のような言葉を唱え始めた。ただ単純に組んだだけではない、何とも複雑な絡め方だった。
「ほら、ボケっとしてないでリサもやるのだ。不運を呼び込んでもいいのか?」
「それは困るわね。ええっと、こう?」
見よう見真似でやってみたが、
「違う。右の小指はこう、中指がこう、で……」
戸惑うリサに、真面目くさった顔でモニカが手を取って指導する。
あまりこの手のおまじないを信じないリサではあるが、この場は彼女を立てることにした。
「……で、願い事を呟くんだ。ほら、早く!」
「え? ああ……そうね、バドがまだ生きていますように……」
「そんなのでいいのか?」
露骨につまらなそうな顔をされてしまったが、
「そうよ。何しろ、こればかりは神頼みですからね。私には死人を生き返らせることなんてできないもの。でも、生きてさえいてくれれば何とかできるわ……たぶん」
「まったく……リサらしいな」
顔を見合わせ、くすくすと笑い合う。
もう一度見上げると、『天使の髪』はすでにいずこかに消え去ってしまっていた。
(そう、命さえあればいくらでも手は打てるわ)
使える手段は惜しむことなく行使し、困難を退ける。
決意を新たにしたリサは、力強い足取りで東南区へ帰還した。
(続く)