3章 狂獣、眠るべし(4)
与えられた時間は決して多くない。
いかに俊敏な手練れのモニカといっても、あの人間離れした狂獣から逃げ続け、なおかつこの小屋の中に入れさせないようにすることはそう容易いことではないのだ。
中は死体が転がり、まだ灰と埃が舞っている。
奥まで踏み入り、壁によりかかって絶命したリーダー格の男に駆け寄った。
(……これは……)
小さな瓶と、その中に封入された緑色の粉には見覚えがあった。
グウェンの診療所で、バドの手術の際に使われた『麻睡散』だ。
(なるほど、これを彼に吸わせて……ということですか)
納得しかけたが、すぐにリサは顔をしかめた。
切羽詰まった状況とはいえ、考えがあまりに浅はかすぎる。
一つ息を吐き、頭を整理することにした。
そもそもこれが本当にあの『麻睡散』とは限らない。
さすがに何の意味もない粉ということはないだろうが、見た目だけ似ている別の効能の薬という可能性はある。
といって、まさか自分で試すわけにはいかない。
もう一つは、
(で、一体どうやってこの粉を吸わせるというの?)
という、子供でもすぐに思いつくような疑問点だ。
敵と味方の区別すらできない、ということはすでに証明されている。
しかも、放たれた矢すら避けるような相手だ。
どんな手段を用いれば、この粉を吸わせることができるというのだろうか。
まるで見当がつかないが、
(あの男は自信満々だった……何かあるはずよ、何か)
残念ながら、それを張本人から聞き出すことは永久に不可能だ。
何かしら手掛かりはないかと、もう一度小瓶を観察してみる。
(この印は、確か……)
小瓶の口を封じている軟木に、蛇の巻きついた杯の紋章が刻まれていた。
グウェンの診療所で何度も目にしたことのある、薬師ギルドの紋章だ。
その下に小さな数字が刻印されていたので、目を凝らしてみると――。
(つい最近製造されたもののようね……そうすると、やはり『麻睡散』の可能性が……)
もちろん、断言はできない。
だが、このまま推論だけを重ねていっても堂々巡りだ。
薬学の知識が乏しい自分が、一人で考え続けても埒が明かない。
(やるしかないっ!)
リサは奥歯を噛みしめ、狂獣を仕留めるための『仕掛け』を作り始めた。
実際の作業にかかった時間はほんの数分程度であっただろうが、リサには恐ろしく長く感じられた。
不安と恐怖を強引にねじ伏せ、慎重かつ素早く準備を済ませる。
完璧な作戦とはとても言いがたかった。
もし第三者の立場であったら、危険すぎると一蹴したことだろう。
しかし、時間も人手も足りない現状では致し方ない。
(今ある武器で勝負するしかありませんからね……)
命を賭するには少々頼りない手札ではあるが、自分とモニカであればどうにかできると信じていた。
修羅場で最期に役立つのは、何といっても度胸だ。
その点に関して言えば、自分たちは東南区の傭兵仲間でも相当上の方だと自負している。
(大丈夫、私なら、やれる)
胸の中心を軽く叩き、己に言い聞かせるとリサは慎重な足取りで外へ出た。
金髪の大男の姿は、すぐに確認することができた。
アジトの入口から適度に離れた所でこちらに背を向け、逞しい肩を大きく弾ませている。
リサの安全を確保しつつ、標的を遠くにも逃さない――決して容易とは言えない任務を、モニカは完璧にこなしたようだ。
(しかもあの様子だと、相当疲弊させたようですね……)
肩口に数本、矢が突き刺さっている。
あの化け物じみた反射神経の相手に、一対一で命中させたのだ。
改めて彼女が味方で良かったと痛感せざるを得ない。
その小さな勇者の姿も、続けて確認することができた。
辺りに肩を寄せ合うようにして並んでいる小屋の、屋根の上だ。
クロスボウを構えて大男を見下ろし、真正面から狙いをつけている。
もちろん、そのまま撃つ気はないだろう。あくまでも威嚇だ。
(さて……ここからが勝負よ)
杖も矢も、奴にトドメを刺すことはできない。
懐にある『麻睡散』が勝負の鍵だ。
まだ陽は沈みきってはいないが、辺りがかなり薄暗くなってきた。
今にも泣きだしそうな分厚い雲が空を覆っている。
風もほとんどなく、湿気が身体にまとわりついているような感じだ。
他に人の気配は無かった。
ただならぬ雰囲気を察し、距離を置いているのかもしれない。
このような地域だけに、保安隊への通報はあまり期待できないだろう。
「あなたの好きな、お薬の時間よ!」
できるだけ穏やかで温かみのある、それこそ息子に語りかける母親のような口調を意識してみたのだが、緊張のせいか声が強張ってしまった。
我ながら情けないぐらいの棒読み演技だ。
しかし、肝心の大男の耳には十分魅力的な話に聞こえたらしい。
「……お、お、お薬? も、もう、そんな時間なの?」
先程までの強烈な殺気が嘘のように消えている。
たどたどしい口調で、目を純粋な光で輝かせながらこちらに近づいてきた。
「そうよ。さ、剣を置いて。ゆっくり、こっちに来なさい」
手拭いの上に広げた『麻睡散』を両手で捧げるように突き出し、精一杯の笑みを作る。
男は言われるがままに蛮刀を置き――かけたが、すぐに何かを思い出したかのように首をブルブルと振り、盾の方を地面に置いた。
「き、今日は、お、おじさんじゃないの? おばさんなの? お薬おばちゃんなの?」
一体誰と間違えているのかは分からないし、訂正したい点もあったが今はそれどころではない。
相手の誤解につけ込み、何とかして粉を吸わせなければならないのだ。
「そう、今日は私なの。さ、剣も起きなさい。それじゃあお薬、あげられないわよ?」
「えっ、ど、どうして!?」
男の驚いたような強い語調に気圧されかけたが、どうにか踏み止まった。
相手は幼児並みの知能にしか見えないが、ここで及び腰になってしまったら演技を見抜かれる恐れがある。
「良い子にしていないと、お薬はあげられないわ。ね?」
我ながら強引な説得だが、至近距離であの蛮刀の一振りを躱しきれる自信はない。
頼りの杖は足元に置いてあるが、瞬時に拾い上げても防ぐ余裕はないだろう。
困ったように何やらブツブツと呟く男の後方に、モニカがクロスボウを構えたままそろりそろりと近づいてきた。
とっくに彼女の得物の間合いに入っているが、まだ撃つべき時ではないと目で合図を送る。
「ダメ、ダメ、剣は友達、剣は大事な友達だもん……でも、でも、お薬も、大事……」
蛮刀を握る手がブルブルと震えていた。
片方の頬が何度も引きつり、目はかっと見開いたままだ。
いわゆる『殺気』はないが、今にも暴れだしそうな危険な状態にしか見えない。
(……我慢比べをするべきではないですね……仕方ありません、一か八か……)
運を天に任せるのはなるべく避ける、というのがリサの性分だ。
だが、全てを計画通りに進められるほど、世の中は計算と理屈で成り立ってはいない。
やるべき手を打ったならば、後は度胸を据えて賽を投げるだけだ。
「しょうがないわね。じゃあ、お薬あげるわ……さっ、どうぞ?」
片膝を付き、いつでも飛び退られる姿勢で手拭いを突き出す。
男もリサに倣うように膝を付き、手拭いを両手で掴んだ。
右手は蛮刀を握ったままだが、リサに斬りかかる気配は無い。
「……う、うう……」
嬉しそうに目を輝かせ、顔を粉に近づけてくる。屋外であるが、今は風もない。
あともう少し――この粉が本当に『麻睡散』ならば、一件落着だ。
リサは男から目を離さぬまま、足元の杖を掴んだ。
しかし――。
「あ?」「えっ……」
男とリサは、ほぼ同時に声を漏らした。
頭部に伝わる感触――背筋に寒気が走った。
なぜ今、よりによってこのタイミングで――。
次の瞬間、予想以上の勢いで雨が叩きつけてきた。
リサの故郷ではこの時期に多くなる、瞬間的な豪雨だ。
帝都では珍しいこの気象が、あろうことか最悪の状況で襲ってきたのだ。
「あ、ああああああああああっ!」
あっという間に水浸しになった手拭いから、粉の溶けた液体が零れ落ちる。
男が悲しげに叫び声をあげるが、あいにくその液体を飲んだりはしてくれなかった。代わりに、
「う、嘘つき! だ、騙したな、おばさん!」
訂正箇所だらけの罵詈雑言を浴びせ、斬りかかってきた。
だが、それより一瞬速く、リサの杖が喉笛を突く。
力強く踏み込んだ一撃に、さしもの男も一瞬後ろに引き、そのままぬかるみに足を取られて尻餅をついた。
「う、うええええええおおおおおおおおおっ!」
並の者なら悶絶間違いなしであるが、男は獣のように吠えてすぐに飛びかかってきた。
大振りな初撃は楽に見切れたが、でたらめながらも凄まじい速度の連撃に、
(まずい……このままでは!)
小屋の入口まで追い詰められてしまった。
隙をみて反撃を数度浴びせても、まるで痛覚など存在しないかのように前に出て圧力をかけてくる。
狭い室内での戦いは圧倒的に不利だ。
それだけはどうにかして避けねばならないが、それには一度相手の懐に飛び込んで、あの蛮刀の一撃を回避する必要がある。
「リサ!」
こちらの思考を読み取ったのだろう、モニカが叫び、クロスボウの矢を放った。
男が一瞬後方を振り向き、首をすくめて矢を避ける。それに呼応して、リサは一気に前に出た。
「はっ!」
気合一閃、横向きの男の顎を強かに打ち抜く。
頭が左右に激しく揺られたためか、男の膝がガクンと崩れた。
しかし、ここで一気に畳みかけて仕留めきれるとは思えなかった。
怯んだ隙に、すかさず小屋から離れようとしたが、
「あああああっ!」
崩れた態勢のまま男が振るった蛮刀が、リサの心胆を寒からしめた。
首筋――ほんのわずかなところで両断は回避できたが、
「くっ……」
皮膚ギリギリのところを通過した肉厚の刃が、後ろで束ねたリサの黒髪をバッサリと薙ぎ払っていた。 髪を縛っていた赤い布がはらりと落ち、解けた髪が雨に濡れて視界を遮る。
そのまま泥だらけの道を転がり、距離をとったところで立ち上がる。
「リサ!」「大丈夫!」
心配そうに駆け寄るモニカを大声で制し、杖を中段に構えた。
お互いの声を聞き取るのも困難なほどの豪雨だ。
まだ日の入りではないが、黒い雨雲のためにすっかり暗くなってしまっている。
(最悪ですね……目も耳も利かないなんて……)
おまけに今さっき転がった際に、泥が口の中に入ってしまった。不快極まりない。
思えばバドの借金といい、卑劣な悪党どもといい、人食いの化け物といい、今日は最悪最低の一日と言っても過言ではないだろう。
せっかく思いついた策まで、この大雨で全ておじゃんになってしまった。
(髪は切られるわ、泥だらけになるわ……はは、まったくもって、ままならないですね)
思わず苦笑を浮かべて愚痴りたくもなってしまう。この化け物を退治したとて、リサの抱えた問題は解決しきれてはいないのだ。
しかも、いずれも報酬の手に入る『仕事』ではない。
そして、ただ働きをするにはあまりに厄介すぎる案件だ。
これほど割に合わない話もないだろう。
だが、
(それが私の選んだ道、ですからね)
リサはまるで悔いてはいなかった。
さすがにこの危地を楽しむほどの心の余裕はないが、己の選択と性分を嘆く気は毛頭ない。
もちろんそれは、この生き方を変える意志が皆無であることを意味していた。
目の前の壁を一つ一つ乗り越えていく――ただそれだけが、リサの道なのだ。
そして彼女の頭の中では、すでに化け物退治の第二の策が練られていた。
(続く)