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レディ・マーセナリー  作者: 加持響也
命の代償
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3章 狂獣、眠るべし(3)

人間が、人間を食う――極限状態ではそのような蛮行に走る者もいる、とリサも話では聞いたことがある。戦乱の時代における長期の籠城戦や、大飢饉による食糧不足などのケースだ。

どんな生き物も、食べなければ生きていけない。人間とて同様だ。

仮に自分が、理性や倫理が通用しない次元まで追い詰められたとしよう。

その時、果たして『人食い』というおぞましい行為を実行せず、潔く飢え死にを選べるかと問われたら、リサも軽々に否とは答えられなかった。

もちろん、ギリギリまで耐えられる自信はある。

だが、その限界を超えてしまったら――己が誇りをどこまで保てるかは分からない。

人間とは弱い生き物なのだ。


しかし、いずれにしても目の前で行われている惨状を見逃すことはできなかった。

この金髪の大男は、極度の飢餓にあるわけではなく――ただ、積極的に人肉を貪り食らっているのだ。

大きな口をめいっぱいに開け、鋭い歯でかぶりつき、皮膚と肉を噛み千切って咀嚼する。

さすがにすぐには嚥下できないのだろう、口の端から涎と血を溢れさせながら、くちゃくちゃと噛み砕いている。

恐らくは、一生忘れられないであろう光景だった。

しかもこの狂獣、いかにも美味そうに眼をギラギラと輝かせつつ、時折リサとモニカの様子を窺うことも忘れていない。迂闊には動けなかった。


「で、どうする?」


「すぐに私たちを襲う気配はなさそうね。その隙に、策を練るとしましょう」


明らかに狂気に憑かれた相手だけに、油断は一瞬たりとてできない。

しかし、とりあえず目の前にある『肉』を食べ尽くすまでは時間が稼げそうだ。


「その、前に貴女が見た魔薬中毒者についてもっと教えてくれる?」


今までに立ち合ったことのないタイプの敵だ。あくまでも参考にしかならないが、情報は少しでも多く知っておきたい。

飛んでくる矢を『見て』かわす、致命傷を負ってもすぐには死なない、それだけでも十分すぎるほど脅威ではあるが。


「今のあいつと同じだ。力も速さも尋常じゃない。人間を食べたりはしなかったがな」


「それだけ?」


「それだけだ。火を吐いたり魔法を使ったりはしない。まあ、相当頭は悪かったが、勘だけはやけに冴えていたな。目だけじゃなくて、鼻も耳も敏感になるのかもしれない」


そこまで聞いて、リサは大きく溜め息をついた。

敵の戦力を知ったうえで、改めて自分たちの戦力を考えてみる。杖と短剣、クロスボウに小剣。飛び道具はことごとく通用せず、力でも速さでも勝ち目はない。


(やはり逃げるしかない? いえ、ちょっと待って……おかしいわ……)


思考をあれこれと巡らす内に、リサはある大きな疑問を抱くに至った。

それはよくよく考えてみれば当然の疑問だったが、奴のあまりの異様な行動に呑まれて思いが及ばなかったのだ。

その疑問とは、


「モニカ、あの連中は一体どうやってこの男を御するつもりだったのかしらね?」


「あっ……」


この一点だった。

これほど危険な男であるにも関わらず、連中はまるで恐れる気配すら見せなかった。

宴の最中、この男はずっと眠りこけていたが、目覚めてすぐ今のような状態になったわけではない。

ということはつまり、


(この男を今のように覚醒させる手段があった、ということですよね……)


としか考えられないだろう。

だが、ただ暴走させるだけでは意味がない。

力を覚醒させた上で思い通りに操り、なおかつ役目が済んだらまた元の状態に戻さなければ、自分たちが犠牲になるだけだ――今まさにその状況に陥っているわけだが。


「今、喰われている男は、目覚めさせる方法しか知らなかったということか?」


「あるいは、何か勘違いをしていたのかもしれないわね。例えば、正しい『やり方』はあのリーダーの男だけが知っていて、他の連中には教えていなかった、とか……」


悪党の中で権力を保つのに必要なのは、金と暴力だ。

あの髭面の男が、金はともかく力で周囲をねじ伏せているようには思えない。

いざという時のために、自分だけが行使できる圧倒的な暴力――人食いの怪物を用意していた、と考えると辻褄が合う話だ。


(グウェン先生の診療所を襲った時には、そこまで必要だとは思っていなかった、ということでしょうかね……)


リサに撃退されたために仕方なく奥の手を出してきた――ということかもしれない。

そしてリーダーがモニカの矢によって絶命した今、その方法を知る者はいないというわけだ。

リサは、先刻盗み見た宴の記憶を懸命に辿った。

思い出すのも不愉快なほど、下劣な言葉のやり取りばかりだったが、


「だけど兄貴、この野郎は……」


「分かってるよ、安心しろって。そん時のために『こいつ』があるんだからな」


そう、確かこのような会話の後、リーダーは懐を軽く叩いていたはずだ。


(恐らくは魔薬……覚醒用の物と、鎮圧用の物? いえ、きっと何か制御するための手段があったはず!)


何かしらの制御手段がなければ、覚醒させた張本人すら惨殺し、食ってしまう男なのだ。

その方法を突き止めることさえできれば、この難敵を無力化することも可能だろう。

すべての手掛かりは、奴の背後の小屋の中にある。

だが、もはやそれ以上考えるだけの猶予はなかった。


「リサ!」


「ええ。分かっているわ、モニカ」


狂獣の目が、真直ぐこちらに向けられていた。

鮮血の混じった涎を垂れ流しながら、渇望に満ちた眼差しを浴びせかけてくる。


「おんな……にく、や、やわらかくて、う、うま、うまそう……」


肌が総毛だつような恐ろしいことを呟いている。


「柔らかい? 最近、少しなまっているんじゃないの、モニカ?」


「リサの方こそ食べ過ぎじゃないか? ちょっと太っただろ?」


軽口を叩くのは、お互いの緊張を和らげるためだ。

本当にヤバい時は無理にでも笑え、と傭兵の師匠も言っていた。

不思議なことに、そうするだけで肩の力が少し抜けるものなのだ。


「私が中に入るわ。時間を稼いで」


「分かった。あいつはここに釘付けにする」


どちらにしても、危険極まりない役割分担だ。

だが、狭い小屋の中であの男と立ち合うわけにはいかない。

囮役は、より敏捷で飛び道具も使えるモニカが適任だろう。

狂獣が体勢を低く、前のめりにした。四足で歩く獣のような異様な構えだ。

普通ならばバランスを保つことすら難しいだろう。これも魔薬の為せる業か。

蛮刀が不吉な光を放った。


「来るぞ!」


モニカの鋭い声に合わせ、右真横に跳ぶ。敵の蛮刀から少しでも遠ざかるためだ。

同時にクロスボウが放たれたが、至近距離にも関わらずやはり盾で撥ね退けてしまう。

あの距離、モニカの腕前で当たらないのであれば、もう仕留めるのは不可能だろう。


「こっちよ!」


「こっちだ!」


それぞれ左右に分かれ、ほぼ同時に声をあげる。

狂獣が一瞬戸惑った。

モニカの話通り、聴覚も尋常ではないのだろう。だが、鋭すぎる感覚がかえって枷となることもある。

それにこの狂獣には理性というものがない。恐るべき戦闘力ではあるが、策略には弱いだろう。

モニカが足を止め、クロスボウを連射する。

狂獣は鬱陶しそうに盾を掲げると、矢をことごとく防禦していく。

モニカの狙いは目だ。防ぐために盾を構えれば、視界が狭くなる。

その間隙を縫って、リサが小屋の中に忍び込むという作戦だった。

この程度は、細かい打ち合わせをしなくても通じ合えるぐらいには戦いを共にしている。


(……よし!)


狂獣の意識が完全にモニカに向けられているのを見てとると、リサは素早く小屋の入り口に滑り込んでいった。


(続く)

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