3章 狂獣、眠るべし(2)
何か驚くべきことが起きそうな瞬間、いかに振る舞うべきか――リサのような稼業にとってはまさに生死を分かつ問題だ。
一般的には、むやみに動くべきではないとされている。
武術家の父は、
「まずは見極めることだ。そのためにも、武人たるもの常日頃から注意を怠ってはならぬ」
と、言っていた。
だが、リサの傭兵の師匠の教えはそれとは真逆で、
「リサ、お前さんの親父殿を悪く言うつもりはねえがな……見極めるだなんて、悠長な構え方じゃ生き残れねえよ。とにかくヤバいと思ったらだな、一瞬でもその場に居ちゃダメだ。これは理屈じゃねえ、俺の長年の経験さ。ボケっと突っ立ってる奴は、修羅場じゃたいてい死ぬよ」
実際のところ、まだ一年程度のリサの傭兵経験では、果たしてどちらが正しいかという判断はつきかねていた。
動いて助かったケースも多々あるだろうし、その逆も無いとは言えないだろう。
そして、結局のところリサは――モニカの警告と同時に真横に跳躍することを選択していた。
結果としてその判断は正解で、九死に一生を得ることとなった。
(なっ……これは……)
その場に飛んできた『もの』――ぐしゃりという不快な音と共に地面に突き立てられたその物を見て、リサは恐怖を覚えた。
それは若い男――先程、甲高い声でリサたちを脅していたであろう男の身体だった。
男の首は、通常ではあり得ない角度にまで捻じ曲げられていた。
即死だろう。
恐らく、自分に何が起きたのかも理解できぬままに絶命したに違いない、そんな表情だった。
この高速で投げつけられた死体の直撃を受けていたら、確実に骨の数本は折れていたに違いない。
腰を落とした姿勢のまま、杖を構える。
首を捻じ曲げ、さらに成年男性の身体を軽々と投げ放つ腕力。ただ者ではない。
(ですが、速度なら――)
こちらにも勝ち目があるかもしれない。
だが、その考えが浅はかだったことを、リサはすぐに身をもって思い知らされた。
「りいいいいいいいいいいいいっ!」
化鳥の如き声と共に、巨大な影が一直線に襲いかかってきた。
速い。そして、一切の迷いがない。
罠が仕掛けられてある可能性など、微塵も考慮していない踏み込みだった。
斜め後方に飛び退り、振り下ろされる蛮刀をすんでのところで躱す。
着地した金髪の大男の足元から、砂煙が上がった。
薄汚れた粗末な半袖のシャツに半ズボンという、およそ戦闘に備えた服装ではない。
だが、大ぶりな蛮刀と盾を構える両腕の筋肉は、禍々しさすら覚えるほどに隆起し、太い血管がいくつも脈打っていた。
尋常ではない。
仕事柄、筋骨隆々の鍛えられた肉体というものは見慣れていた。人間よりも遥かに体格に恵まれた、大鬼族の知人もいる。
しかし、この金髪の大男の肉体は、彼らとは何かが根本的に違っていた。
その違和感の正体を見抜けぬ限り、勝てない――リサはそんな直感を抱いた。
「う、うううううううううう……」
初撃を外した男が、獣のように低く唸る。
口元からよだれが垂れていた。蒼い目の焦点が定まっていない。全身が小刻みに震えていた。
(これは……?)
まともな状態ではない。まるで病人だ。
攻勢に転ずるには絶好の機会、と常ならば判断しただろう。
だが、ある予感がリサを思い止まらせた。
次の瞬間、後方からモニカがクロスボウの矢を放った。
このような場面で、彼女はいちいちリサに呼びかけたりはしない。
絶対に外さない、味方には当てないという絶対的な自信を持っているからだ。
しかし――首筋を狙った必殺の矢を、大男は虚ろな目のまま盾を掲げて防いだ。
もちろん、偶然などではない。
奴は高速で飛ぶ矢を『見て』防御したのだ。
「へ、へへへ……うう、う、うふふふふ……」
何がおかしいのか、男は不気味に笑い続ける。
リサは生唾を飲み込み、ゆっくりと息を吐いた。
この得体の知れない恐怖に呑まれては駄目だと、己に言い聞かせる。
油断なく男の動向を窺いつつ、リサはじりじりと退いた。
恐怖はある。だが、怖気づいてはいない。
今のリサの心中を占めるのは、
(一体どうすれば、この怪物を倒せるか?)
という思いだけであった。
争い事は好まないが、いざ戦いが始まったら敵に勝利することしか考えない。
それがリサの流儀だ。
むろん、己の分を遥かに超えた敵と向き合えば、逃げることも考慮する。
しかし、今のこの状況では逃走は考えられない。
逃げてしまっては、この危険な男を野放しにしてしまう。
それだけは、絶対にできなかった。
(とにかく間をとって……遠距離から無力化するしかないですね……)
額を汗が伝い落ちてくる。
男はなおも中空に視線を飛ばしながら笑っていたが、
「うあああああああっ!」
突如として絶叫すると、蛮刀を横に構えて突っ込んできた。
それに呼応するようにモニカが二本目の矢を放つが、足元を狙ったこれも盾で完璧に防ぎ切ってしまった。
彼女が的を二度連続で外すのは、少なくともリサが知る限りでは初めてのことだ。
男が蛮刀で無造作に横薙ぎにしてくる。
速くて力強いが、動作が大きいので容易に回避することができた。
「はっ!」
裂帛の気合を込め、突進を躱しつつ杖を振り下ろした。
狙いは蛮刀を持つ右手首だ。
紫電流表芸の六・水晶割。
絶妙のタイミングで打ち込んだが――。
「ふひっ! うははっ!」
「くっ!」
男が体を沈ませ、地面を這うような動きでその一撃を避けた。あり得ない程の反応速度だ。
だが、態勢を崩したリサに向けて振るわれた蛮刀は、やはり軌道が単純な上に力が入りすぎていた。
動きが読めれば、回避すること自体はそれ程難しくはない。
もっとも、油断して足を滑らせたり、恐怖で身体が硬直してしまったら、あっという間に餌食となるわけだが。
この数合のやり取りで、リサは男の力量をある程度まで測ることができた。
「モニカ! 逃げますよ!」
大声で言い放つが、すぐに背を向けるような愚行はしない。
もちろん、逃げるという宣言もブラフだ。
男の反応を見るための虚言だったのだが、
「あ、ううう……あは……ううう……は、はら……へっ……た……」
(やはり……)
リサの予想通り、男は首をゆらゆらと左右に振りながら、薄ら笑いを浮かべていた。
こちらの言葉など、彼の耳には一切届いていないのだ。
狂っている。しかし、ただそれだけではない。
男の筋肉の量と張りは凄まじく、反射神経も常人の域を優に超えていた。
それはまぎれもない事実だ。
だが、戦いの技術はろくに習得していない。
言ってみれば体格と才能に恵まれすぎた素人といったところだろう。
(ですが……それだけではありませんね)
男の様子と言動から、リサはある結論を導き出していた。
隙をみて距離をとり、モニカと合流する。
「リサ、あいつ……」
「ええ、『魔薬』中毒ね」
薬師ではなく魔女・魔術師が魔力を込めて調合することで生み出される薬。
それが『魔薬』だ。
効能は様々だが、超人的な力を引き出す物などが多いと聞く。
だが、もちろん良い話ばかりではない。
中毒性が高く、連続で服用すると障害を引き起こすため、帝国法では製造が禁止され、魔術師協会でもその製法は秘匿されているという。
しかし、危険な代物ほど裏の世界では利益を生む。
当局の取り締まりの網をかいくぐり、帝都内でも密かに取引されているらしい。
幸い、リサが拠点とする東南区では、元締のグイードが先代からずっと『魔薬』の売買を固く禁じているため、それほど出回ってはいないようだ。
強い元締による支配が行われていない南区だけに、裏社会の秩序も乱れているのだろう。
「帝都に来る前、ああいう奴を見たことがある」
「その時はどうしたの?」
「他の仲間も弓を持っていてな、みんなで一斉に撃ったら針鼠みたいになった」
なるほど、それならばさすがに仕留められるだろう。残念ながら今回は使えない戦法だが。
「でも半分ぐらいは避けてたな。しかもしばらく死ななくて、こちらも五人ばかり殺された」
淡々と語っているが、悪夢のような光景だ。
魔薬の効用で、致命的なダメージを受けても斃れないということなのだろう。
「うう、ううううう……」
男がこちらに顔を向けている。目は左右が別々の方を見つめていた。斜視というわけではなく、魔薬によって精神がボロボロの状態となっているのだろう。
「リサ、やはり逃げてもいいんじゃないか?」
「あれを放っておけと?」
「いや、今はあそこの図体のでかいバカじゃなくて、リサの弟子になったでかいバカを見つけなくちゃいけないのだろう?」
「……そうね」
情けない話だが、リサは目の前の難敵を倒すことに囚われるあまり、バドのことをすっかり忘れてしまっていた。
このような時に、モニカの冷静さは本当にありがたい。
「確かにヤバい奴だ。でも、目の前に人さえいなければ、存外おとなしくしているかもしれない。保安隊にはもちろん伝えておいてだな、あのバカを探すことに……」
「ちょっと待って」
モニカを制し、大男の動きを注視する。
垂れ流しっぱなしのよだれの量が、先程までよりもずっと多くなっていた。
狂気に満ちた目は、彼が殺して投げつけた男の死体に向けられている。
何事かをブツブツと呟いていた。距離があるので、はっきりと内容は聞き取れない。
男が跪いて蛮刀を置くと、死体の捻じ曲がった首を掴んだ。
「えっ……まさか、あいつ……」
「そのまさか、のようね」
男が起こした行動に、さしものモニカも思わず息を呑んだ。
リサは努めて平静に振る舞いつつも、杖を握る手の震えを止めることはできなかった。
男は――しゃがみ込むと、かつて仲間だった死体の肉を噛み千切り、美味そうに咀嚼したのだった。
あまりにもおぞましい光景だ。気が弱い者なら失神していたかもしれない。
だが、リサもモニカも傭兵だった。
想像を絶する恐怖を前にしても失神などしないし、
「これはやはり、放っておくわけにはいきませんね」
「……ああ」
すごすごと逃げたりもしない。
人食いの狂った獣を狩る――その使命感によって、震える心を抑えつけた。
(続く)