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レディ・マーセナリー  作者: 加持響也
リサの眠れない一日
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1章 眠れない一日の始まり(2)

 グイードの屋敷は港に通じる大通りに面している。

 早朝から深夜まで老若男女が足早に行き交う、活気のある通りだ。

 通りを海に向かって真っ直ぐに進み、向かって右側が交易船や定期船の停泊する商港、左に少し行くと近隣でも最大規模の漁港がある。

 早朝は陸揚げされた水産物のセリが市場で行われるため、商売人たちが我先に港へ向かう姿が目立つ。

 また、彼らを目当てにした屋台も通りにずらりと並び、美味そうな匂いを漂わせていた。


 リサは馴染みの屋台で塩をまぶした白身魚のフライを買い、小脇に抱えて食べながら宿に向かって歩を進めていた。

 港周辺の労働者や子どもたちに好まれる軽食の一つだ。

 歩きながら食べるのは少々お行儀が悪い、と自覚してはいた。

 だが、年頃の男性に鉄扇を贈られるような女傭兵には似つかわしい姿かもしれない。

 そんな風に開き直ってみた。


(父上に見られたら、きっときつくお叱りを受けるでしょうけれど)


 常に居住まいを正し、峻厳な表情をめったに崩さなかった父はもうこの世にいない。

 父の死後まもなく、海を渡ってこの帝都に着いてから、はや一年。

 その間には本当に色々なことがあったが、最近はすっかりこの傭兵稼業が板につきつつある。


(ああ、駄目。やっぱりこれだけじゃ物足りないですね)


 疲れた身体に塩味の効いた揚げ物は堪えられない。

 しかし、何しろ昨日の夕方からほとんど何も腹に入れていなかった。

 何しろ徹夜で尾行した挙句、あの立ち回りだ。

 胃袋はまだ満足できず、盛んに悲鳴をあげている。

 もっとボリュームのある物を食べたかった。


(鮭と白菜のシチューに小麦のパン……いや、鶏肉の入った御粥もいいですね。いやいや、やっぱり茄子とほうれん草に鶏肉のトマトソースパスタにしようかしら……)


 ニンニクとオリーブオイルをふんだんに効かせた濃厚な味わいの、もっちりと歯ごたえのある麺が湯気を立てる姿を頭に浮かべる。

 この暑い日に、と眉をしかめる人もいるかもしれない。

 だが、むしろ暑さにバテてしまいそうな日だからこそ、「あつい、あつい」と言いながら、大汗をかいて熱い物を食すべきなのだ。

 そんなことを考えていると、はしたない話ではあるがよだれが口中に溢れ出てきてしまった。

 リサの一番のお気に入りは、『赤速亭』の女主人・アルバおばさんの作る西方風パスタだ。

 その味は絶品の一言に尽きる。

 さらにボリュームも満点だ。

 今日は懐も温かい上に、特に用事もない。

 あとは宿に帰って床に就くだけだから、朝から豪勢な食事にしても問題ないだろう。


「リサさん、おはようございます」


 これからありつく朝食へ思いを馳せていた矢先に、声をかけられた。

 はっとして前を見ると、レース飾りのついた絹の上衣に身を包んだ紳士が爽やかな笑顔を向けている。

 その数歩後ろには、満面の笑顔で二人の従者が控えていた。


「おはようございます、リオネル様」


 リサもすぐに頭を切り替え、余裕のある笑みを返した。


 リオネル・コロー。

 先刻の元締との話でも名前が出ていた、東南区の有力者だ。

 父祖から受け継いだ遺産と家業を、彼の代で倍増させたという噂もある。

 中央人特有の金髪碧眼で、元締とは同年代だ。

 背丈も顔立ちも、どことなく似ている。

 しかし当然ながら顔に刀痕などないし、眼から発する光にも相手を包み込むような柔らかさがあった。

 髪も綺麗に櫛が通っていて、ごく自然に後ろに流してある。

 こと商売に関しては抜け目のない人物であるが、平時は大人物らしい落ち着きを常に漂わせている。

 少なくとも、人前でやたらに声を荒げたりはしない。


「今日も暑くなりそうですね、お仕事の帰りですか?」


 リオネルとは以前、ある人物の仲介で荷駄の護衛をしたという縁がある。

 リサの傭兵らしからぬ物腰と確かな腕前を、彼は大いに気に入った様子だった。

 それ以来、たまに街で会うと挨拶を交し合う関係だ。

 一度だけだが、屋敷の晩餐会に招かれたことがある。

 そのために新調した純白のロングドレスは、借りている宿のクローゼットで静かに眠っていて、それ以来全く出番がない。

 彼との間に、それ以上の関係は一切なかった。


(まあ、彼ほどの人物が私を口説こうとはしないでしょうけれど)


 まだ独身で美男子、さらに財力もあるということもあって、街の若い女性たちには人気がある。

 浮いた噂は耳にしたことがないが、もしその気になれば選り取り見取りだろう。

 東方から流れ着いた女傭兵では、さすがに不釣合いというものだ。


「ええ、グイード様のお屋敷に伺っていたもので」


「そうですか、元締の……グイードさんの所ですね。ちょっと失礼します」


 懐から扇子を取り出し、自然な物腰で開いて顔を扇ぐ。

 元締の持っていた物と全く同じ品であったが、絵柄ぐらいは別にするべきだったのでは、とつい思ってしまった。

 ちなみに、ここで颯爽と鉄扇を開いて笑いをとるつもりは毛頭ない。


「その扇子は流行っているようですね?」


「ええ、最近帝都で仕事を始めた西方の扇職人が、良い仕事をするのですよ」


 これまで、扇は東方系の職人の専売特許とされていた。

 しかし、リオネルの持つ扇子には確かに作りや意匠に西方らしい絢爛豪華な風情がある。


(まあ、私の鉄扇は実用一点張りですけどね)


「そうなのですか……。あら、リオネル様も流行の香水をつけていらっしゃるのですね?」


 扇の微風に乗って、グイードと同じ『最果ての森の霧』の香りが漂ってきた。


「ええ、仕事の時にはつけるようにしているのですよ。やはり商売柄、人と接する機会が多いですからね。匂いにも気を遣わなくてはいけません」


「さすがはリオネル様ですね」


 フライを買った屋台の親爺は、残念なことに口臭がきつかった。

 とはいえ、彼が同じ香水をつけていたらそれはそれで驚きであるが。


(彼の言う通りね。匂いって大事だわ)


 リサは目も鼻も利く方だ。

 敵の気配を感じ取ったり、火の気にいち早く気づいたりといった、危険に対して役立つことが多い。

 鉄扇同様、実利一辺倒である。


「ふふ、美味しそうな匂いですね」


「え、ええっ?」


 リオネルが唐突に話を切り替えたので、珍しく声が裏返ってしまった。

 彼の目が、リサが小脇に抱えた包みに向けられている。

 言わずと知れた、熱々の白身魚のフライだ。


「あ、その、これは……」


 かたや流行の高級扇子に香水。かたや屋台で買った銅貨数枚のフライ。

 豪商の彼と比べられるのは酷な話ではあるが、あまりにも格差がありすぎて我が身が悲しくなる。

 香りと匂いではえらい違いであった。


「この辺りの名物ですよね。よく漁師の方々も召し上がっていますが、私も以前に一度、食べたことがありますよ。塩味が効いてて、美味しいですよね」


「はあ、リオネルさんが、ですか?」


 典型的な庶民の食べ物と、代々続く豪商の彼という取り合わせは少し不釣合いに思えた。


「ええ。こう見えても、私もこの港で生まれ育った人間ですからね」


 そう言って爽やかに笑うと、並びの良い白い歯が陽光に煌いた。

 この笑顔で、近隣の若い娘たちはみな虜になっているのだろう。

 もっとも今のリサには、食卓と心地よいベッドの方が魅力的だったが。

 傭兵たる者、色気よりは食い気、である。


「なるほど、地元の味ということですね。私も時々食べているんですよ、朝食代わりに」


 本格的な朝食はまだこれからで、白身魚のフライぐらい程度では全然足りていない、とはおくびにも出さない。

 いくら恋愛対象としてかけ離れている立場とはいえ、あまり大食いと思われてしまうのも避けたいところだ。


(とはいえ、私の大食は仲間内では有名ですけどね)


 この稼業の鉄則を、リサは傭兵稼業の師匠とも呼ぶべき人物から教わっていた。

 そのベテラン傭兵いわく、


「傭兵は食べられる時に食べておけ、眠れる時に眠っておけ」


 とのことだった。

 リサもそれに従い、よく食べ、よく眠る。

 同年代でも、テラスに座って優雅にハーブティーを飲み、のんびりと書物を読んで過ごすような御婦人方とは違うのだ。

 だが彼女たちを羨ましいとも、妬ましいとも思わない。

 ただ、「違う」というだけだ。


(そう、引け目に感じることはないんですよね。わざわざ自分で「大食いでございます」と喧伝して回る必要もないのですが。ああ、それにしてもアルバおばさんのパスタが……)


「……何か、お考え事ですか?」


「あ、いえっ、すいません、ちょっと仕事のことで…」


 思考がすっかり、湯気を立てるスパイシーな料理に持っていかれていた。

 土地の有力者で、しかも美男子として名が通った男性を前にして、とんだ失態である。


(いや、それもこれも寝不足と空腹がいけないのよね……)


 我ながら見苦しい言い訳ではあるが、やはり生理現象には逆らえない。


「お気になさらずに。私も仕事のことを考えると、つい周りが見えなくなりますから」


 この程度で気を悪くするような人物ではないと知っていたが、普段と同じ悠揚な態度に安心した。

 少し落ち着いて彼に目を向けてみると、右手に白い布が巻かれている。


「あら、お怪我をされたのですか?」


「……ああ、これですか。はは、実は飼い猫に手を噛まれまして」


 リオネルが苦笑する。

 リサは意味深な笑みを浮かべ、少々意地悪な質問をした。


「そうですか。でも、それは可愛いメスの仔猫ちゃんではないですか?」


「え? はは、これは参りましたね。いえ、これはそういう意味ではありませんよ」


 さすがにこの手の戯言にも慣れているのだろう、余裕の表情で返してきた。


「そういうリサさんも、可愛い仔犬ちゃんをお待たせのようですが?」


「え?」


 彼の目線がリサの後ろに向けられているのに気づき、慌てて振り返った。

 リサの数歩後ろに、小柄な赤毛の少女が立っている。

 目が合うと、嬉しそうにひらひらと手を振ってきた。


(いつの間に……全然気がつきませんでした……)


 これが刺客であったら、と想像すると寒気が走る。

 さすがにこれは、睡眠不足と空腹のせいにすることはできなかった。

 堅気の世界の住人ならともかく、裏社会を渡り歩くリサにとって油断は許されない。

 どこで誰の恨みを買っているか、知れたものではないのだ。


「では、私は馬車を待たせておりますので失礼します。お話できて楽しかったですよ」


「こちらこそ、リオネル様」


 胸に手を軽く当てて会釈すると、彼も同じ仕草で返してきた。

 武侠の世界では左手の平に右拳を合わせる拱手が交わされるが、商売人の間ではこの礼が一般的とされている。


「そうだ。今度また、晩餐会にもお越しください」


「私などが伺ってもよろしいのですか?」


 社交辞令かもしれなかったが、この誘いが本当であればしばらく寝かせていたドレスに再び日の目が当たるだろう。

 それは大変喜ばしいことであった。


「むろんです。リサさんのようなお美しい方は、いつでも大歓迎ですよ」


 歯の浮くような台詞も、彼が言うとさほど嫌味にならない。

 これが本当の色男というものなのだろう。

 少なくとも、鉄扇を嬉々として女性への贈り物にする誰かさんとは根本的に何かが違っている。

 爽やかな香りを残し、リオネルは従者と共に去っていった。


(続く)

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