3章 狂獣、眠るべし(1)
「戦支度は、素早く、静かに、確実に、だ。この順番を間違えちゃあいけねえぞ?」
傭兵の師匠には色々なことを教わったが、その中でも特にリサが肝に銘じていることの一つだった。
一つ一つはごく当たり前の心構えだが、それらにちゃんと優先順位をつけるという発想が師匠らしくて面白い。
しかも、非常に実戦的だ。
もちろんこれも、状況によって多少の違いは生じてくる。
今がまさにそれで、素早さよりも静かに行うことの方が遥かに重要だ。相手に気づかれてはまるで意味がない。
リサはまず、懐から取り出した布で口と鼻を覆った。息を殺し、少しでも気配を消すための工夫だ。万が一、誰かに目撃された際の用心も兼ねている。
それから、監視は一旦モニカに任せ、この場を慎重に離れる。
これは、周囲の様子をもう一度確認するためだ。
あの連中の話からすれば、他に仲間はいないようだが念のために見張りなどがいないかを確認しておく。
(それと……よし、こんなところですか)
手ごろな石を拾い集め、懐に入れておく。
石は傭兵にとって大切な武器の一つだ。
特にリサのように、飛び道具を持たない者にとっては貴重な遠距離攻撃用の得物である。もちろん、普段から持ち歩いたりはしない。
アジトの周りを一回りし、地理も把握した。
出入口はやはり一つしかなく、出た先の通りは馬車一台がぎりぎり通れるかどうかという幅で、石畳は整備されていない。
帝都の中でも、言い方は悪いが「見捨てられている地域」ということだろう。
こういった場所には悪が埃のように吹き溜まり、やがて無視できぬほどの巨悪へと成長していくものだ。
リサはそういった悪の掃除屋を自認するわけではないが、結果としてはそういう役割を果たすことになるだろう。
(さて……あとは、いつ仕掛けるか、ですね……)
あまり悠長にはできないが、できるだけ優位な状況になるのを待つのが常道だ。
モニカのもとに戻ると、リサは静かにその時を待った。
耳に入れるだけで魂が穢されそうな悪だくみと猥談、そして過去の悪事の自慢話。
連中の酒の席の会話は、聞きたくもない内容ばかりであった。
だが、忍耐力を発揮して聞き流すことに努める。
この稼業は何より我慢が肝心だ。短気な者は一部の例外を除いて早死にする。
(……おや……どうやら、ここで一休みといったところですかね)
男たちの声が、急に静かになった。
八人の内、例の大男を含む四人が板の間に寝転がっている。
熟睡かどうかまでは分からないが、腕を枕にして身じろぎもしないさまを見る限り、睡魔に捕らわれていることは間違いない。
残りの四人も、二人は壁を背にして目をつぶっていた。
はっきりと起きているのは、リーダー格の男と北方系の男だけだった。やはりモニカ同様、北方人は酒に強い、ということだろうか。
「リサ……やるか?」
モニカが目で語ってきた。
すでにクロスボウを構え、いつでも矢を発射できる態勢をとっている。
リサは静かに頷いた。
陽はすでに沈みかけている。空は分厚い雨雲に覆われ、今にも泣きだしそうな様子だ。
この連中を早々に片づけて、バドを探さなければならない。
「人数を減らすことを優先して。それから、あの大男」
個人の戦闘力の高さよりも、人数差を縮めることを選択した。
あの金髪の大男からは危険な気配が感じられるが、せっかく不意打ちができる状況なのだから、まず確実に二人は仕留めておきたい。
モニカが小さく頷くのを見て、リサは腰を少し上げた。膝立ちの姿勢で、モニカが仕掛けるのを待つ。
この一年の間に、彼女とは何度も組んできた。
他の傭兵とも仕事を共にしてきたが、どのタイミングで戦端を開くかという点において、モニカほど優れた感覚を持ち合わせた者はいない。
こちらは彼女に呼吸を合わせることに集中した方がいい。
「んだよ、お前ら……へっ、つまんねえな、俺も寝るか」
「そうっすね、へへ、今夜は大仕事っすから……でも最後に、もう一杯どうっすか? ……って、えっ……? あがっ!」
北方系の男が酌をしようとした瞬間、すでにリーダー格は息絶えていた。
モニカの放った矢は、喉の上部に正面から突き刺さり、首の後ろまで貫通した。
一瞬の内に、何が起きたのかも分からぬまま絶命したことだろう。
モニカの放った第二矢も同様に、北方系の男の命を瞬時に奪っていた。
ドワーフ特製の連射式クロスボウあってのこととはいえ、鮮やかな手並みだ。
もちろん、リサに感心している余裕などない。
男の断末魔で目覚めた男たちが、
「なっ……あ、兄貴!?」
「ん? 何だよ、おい……ぐはっ!」
次々に目を覚まし始めた。
すかさずモニカが矢を放ち、順番に仕留めていく。
誰かが倒れた衝撃で鍋がひっくり返り、その勢いで床下の灰が室内にもうもうと立ち昇った。
「四人は仕留めた。灰で中の様子が見えない。交代だ」
モニカがクロスボウを構えたまま、静かに後退する。
必要最低限のことを伝える以外、余計なことは話さない。
彼女は本物の傭兵だ。
男たちがしきりに咳き込みながら、ドタドタと慌てた足取りで出入口の方へと向かう。
奇襲を受けて恐慌に陥り、しかもリーダーを失った彼らを討ち取ることは容易なことだ。
リサは機敏な動きで、杖を手に先回りした。
苦しそうに咳をしながら先頭で駆け出てきた男に向かって、無言で杖を突き出す。
鳩尾を強かに突かれた男は、手にした棍棒を振るう間もなくその場に悶絶した。
(残り……三人!)
ここまでは順調だ。
奇襲を仕掛け、モニカの射撃で可能な限り人数を減らし、混乱して狭い玄関から出てきたところをリサの杖で打ち倒す。
単純な作戦だが、予想以上の成果をあげることができた。
だが、リサは気を緩めなかった。
どんなに順風が吹いていようとも、風は一瞬で流れが変わる。
気を抜けばあっけなく死んでしまうのが戦いというもので、そこには「改めてもう一度」などない。
「くそ、てめえ、何者だあっ!」
ずんぐりとした体格をした禿頭の男が、三日月刀を上段に構えて突進してきた。
灰で目がはっきり開けられていない様子で、ブンブンと闇雲に刀を振り回している。
でたらめな動きだが、振りが速いので迂闊には間合いを詰められない。
「死ねっ! 死ねやあああっ! おら、おらあっ!」
男の怒号が夕暮れのうらびれた町に響き渡ったが、それもすぐに収まった。
リサに気を取られる内に、狙いを定めたモニカの矢が男の胸板を貫いたのだ。
「大活躍ね」
「あと二人……あの大男、出てこないな」
日頃ならばリサの賛辞を大げさに喜ぶであろうモニカだが、こと戦闘中の彼女は別人といってもいいほど冷徹だ。
あいつ自身が冷たい刃そのものって感じだな、と師匠は評していた。
傭兵の心構えとして見習うべきなのかもしれない。
だが、どうしても彼女ほどには非情に徹しきれないところがリサにはあった。
(敵を殺すことだけを考える……そこまでは、どうも……いや、今はそんなことをくよくよ考える時ではありませんね)
邪魔な思考を追い払い、目の前の戦いに集中することにした。
それにしても、残る二人は一向に出てこようとしない。
あるいは、リサたちが踏み込んでくるのを待っているのか。
むろん、二対二になったとはいえ、ここで中に乗り込むほどリサたちは愚かではない。
狭い室内での混戦となったら、いくら名手のモニカとはいえクロスボウを使うことは難しくなる。
わざわざ不利な条件で戦うなど、傭兵の流儀ではない。
「焦ることはないわ。待ちましょう」
杖を中段に構えたまま、モニカを促して後方に控えさせた。
射撃の具体的な位置取りは彼女任せだ。
中から飛び出してくるであろう二人の内、先頭の一人はモニカが素早く射ち殺し、続けて出てきた方をリサが受け持つ、という段取りにする。
(ん? 何やらもめているようですが……)
男の甲高い悲鳴にも似た声が、中から聞こえてくる。
ノロマとか、役立たずとか、とにかく汚い言葉で一方的に罵っているようだ。
この期に及んでなお、あの金髪の大男は酷い扱いを受けている、ということであろうか。
「ひ、ひひひひっっ! おい、お前らぁあああああ! 死にたくなかったらさっさと失せな!」
耳障りな声で警告をしてくる。
もちろん、そんな脅し文句で引き下がったりはしない。
リサたちが答えずにいると、
「ああ!? に、逃げねえってんだな!? じゃ、じゃあ、こ、このデカブツがよお、ひひひっ、お、おめえらを皆殺しにしちまうぜ!? ひ、ひひひっ!」
やはりあの金髪の大男が、連中の『切り札』だったようだ。
リサは腰を落とし、いつでも横に飛び退けられるような姿勢をとった。
あれだけの巨体で蛮刀と盾を手に突進されたら、杖だけで受け止めることは不可能だ。
何とか間合いをとり、モニカが撃てるだけの隙を作るよりないだろう。
緊張で、口の中が瞬時に乾いた。
未知の強敵に対する時は、いつもこうだ。
あの男の戦いぶりを目にしたわけではないが、傭兵としての直感が死闘の到来を告げている。
だが、もったいぶった警告の後も出入口の様子に変化はない。
湿気を孕んだ冷たい風が、首筋を撫でる。耳をそばだてたが、何も聞こえてこない。
(一体、何があったの? まさか、時間稼ぎだったとでも?)
あまりにも動きがないことを不審に思った矢先、
「リサ、危ない!」
モニカの鋭い一言と同時に、予想外の『もの』がリサめがけて飛んできた。
(続く)