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レディ・マーセナリー  作者: 加持響也
命の代償
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1章 暴れ熊の馴らし方(5)


 大抵の人間には、『生活のリズム』というものがある。

 早朝に起きて仕事を始める者もいれば、逆に朝まで働いて昼過ぎに目を覚ます生活を送る者もいる。

 リサの周囲にいる人間で例えれば、前者は親友である尼僧のアン、後者はリサの常宿で働く娼婦たちが分かりやすい例だろう。

 両者を並べるのは不謹慎と考える人もいるかもしれないが、リサにとってはどちらも関わりのある人間であり、差別するつもりはない。


 だが、この生活のリズムが「常に不規則なタイプ」もいる。

 いつ急患が運び込まれるか分からないグウェンがそうであるし、他ならぬリサ自身、傭兵という職業柄、一定のペースで生活を送ることはなかなか難しい。

 とはいえ、リサも依頼がなければ特に何もすることがないので――父の仇を討ってしまった今となってはなおさらだ――平穏な日々を過ごしている。


(張り合いがない、というわけではないですけれどねえ……)


 傭兵であるから、真面目に勤めて上の地位を目指す、というような明確な目標はない。

 コツコツと金を貯めて、というのは目標としては分かりやすいが、リサにはそれほど財産に対する執着心はなかった。

 無一文ではさすがに困るが、慎ましやかな日常を送るのに十分なぐらいの蓄えはある。

 流行の服を買ったり、宝石や装飾物を収集するような趣味もなければ、血眼になって博打にのめり込むこともないので、当分は仕事を請けずともやっていけそうな状態だった。


(……もしかして、私ってつまらない人間なのかしらねえ……?)


 時々、そんなことを思うこともある。

 誰かに話したりはしない。

 話しても、きっと笑われるのがオチだろうし、かといって真剣に心配されても困るからだ。


 ともかく、今のリサは何もすることのない、いわばフリーの状態だった。

 といって、自堕落な生活を送っていては、いざという時に命の危険に晒されることになる。

 傭兵にとって、己の『身体』は一番の武器だ。

 それを磨くことを怠るわけにはいかない。


 ということで、診療所の一件以来、リサは鍛錬に励んでいた。

 先日の連中が報復に来るかもしれないので、やはり仕事がなくて暇なモニカに相談し、交替で診療所の周辺を警戒するようにしている。


(うん、清々しい朝ね)


 この日のリサは、まだ陽もわずかにしか姿を見せぬ早朝から、川沿いの道を走っていた。

 時間が時間だけに、すれ違う人もほとんどいない。

 曙光を浴びた水面が輝き、時折チャポンと魚が跳ねる音がする。

 一定の歩幅、速度で走る。額にはびっしりと汗が浮いていた。


 しばらく走り続け、十分に身体が温まったところで、少しずつ速度を緩めていった。

 首をゆっくりと巡らしながら、道を離れて河岸に向かって草むらを歩いていく。

 草が刈られ、石もほとんど退けられた場所に出る。

 ここがリサの稽古場所だった。


 まずは、杖を両手で上段に構え――そのまま前に踏み込んで思い切り振る。

 下までは振りきらず、腰の手前でぐっと止める。

 そのまま上段に戻し、同じように振る。

 紫電流杖術を学ぶ者が、一番初めに習う基本の型だ。

 素人目には、ただ上から杖を振り下ろしているようにしか映らないだろう。

 だが実際には、この単純極まる素振りにも、気を払わなければならない点が沢山ある。

 上段に振りかぶった際の、杖の角度、肘の位置、目線、足。

 振り下ろす時の杖の速度と軌道。

 踏み込みの際に腰を入れること、歩幅、体重移動――これら全てを、最初は意識しつつ行わなければいけない。

 闇雲に杖を振るだけでは、さして意味はないのだ。


(まあ、腕と肩、背中の力をつけるには十分ですけれどね)


 型をしっかりと身につけてからは、それを無意識でできるようにならなければならない。

 そうでなければ、実戦では物の役に立たないからだ。


 リサは精神を研ぎ澄ませ、素振りを続けた。

 回数を声に出して数えたりはしない。

 己自身の心と身体が『納得』するまで続けよ、というのが師である亡父の教えであり、紫電流の根幹を成す思想だった。


 しばらくの間、早朝の川岸に、風を切る杖の音だけが鳴っていたが――。


(……誰か……来る)


 額にびっしりと汗を浮かべたリサは、遥か後方に人の気配を感じ取っていた。

 いくら稽古に集中していても、いや、集中しているからこそ、僅かな違和も察知しなければならない。


(一人、のようね……。男、それも大柄な……殺気は感じられないわ。むしろ、ちょっと無頓着な感じ……。危険はなさそうね)


 近づいてくる足音の大きさとリズムだけで、おおよその見当は付けていた。


「よっ、姐さん!」


 背後からかけられた脳天気な声に、リサは手を止めてゆっくりと振り返った。


(ああ、やっぱりね……。嫌な予感って、どうしてこうも当たるものかしら)


 そこには、例の大男・バドが、楽しい遊びを見つけた子供のように目を輝かせて立っていた。


「おはよう、バド。傷はもう大丈夫なの?」


 快癒しているはずがない、と解ってはいたが一応尋ねてみる。


「ん、ああ、平気、平気! 医者の先生はさ、まだ動くなって言ってたんだけどね、じっと寝っ転がってるだけなんて、退屈で退屈でさぁ」


 予想通りだった。今頃グウェンは、怒り心頭だろう。

 口の悪い先生だが、実際には誰よりも患者のことを心配しているのだ。

 だが、それを包み隠さず話すバドには若干だが好感が持てる。

 少なくとも、取り繕うような嘘を吐く人間ではないのだ――ただ単に単純バカなだけかもしれないが。


「駄目じゃない、後でちゃんと先生の所に戻るのよ? で、何の用でここまで来たの?」


 散歩の途中で偶然通りかかった、というわけではないのは一目瞭然だった。


「いや、実は姐さんにどうしても会いたくてさ、へへ……」


 バツが悪そうに下を向き、指で頬をしきりに掻いている。


(あらあら、恋の告白だったらどうしましょうかね?)


 頬を朱に染めた彼の表情を窺いつつ、リサは小さく息をついた。

 どうするもこうするも、気の毒だがお断りするだけなのだが、こういう時の社交辞令ぐらいはリサも心得ている。


「それは嬉しいわね、ありがとう。でも、よくここが分かったわね?」


 リサの稽古場所については、仲間内でも数人しか知らないはずだ。

 別に秘密にしているわけではないが、万が一待ち伏せでもされれば面倒なことになる。


「いやあ、それがさ、とりあえずこの前の酒場に寄ってみたんだよね。そしたらさ、あの兄さん、えっとディノっていったっけか、あの人が教えてくれて」


 これまた想定していた通りの答えだった。

 モニカであれば、まず間違いなく教えなかっただろうし、この時間まで呑んだくれているような連中で、この稽古場について知っているのは彼ぐらいだ。


「結構距離があったでしょ? あそこで待っていれば昼にでも会えたでしょうに」


「いや、すぐにでも会いたかったからさ。それに、二人きりで話したいことだったしね」


 いよいよもって、恋の告白という線が濃厚になってきた。


(参ったわね。モテる女も考えものだわ)


 ここまで情熱的に迫られるのは、悪い気分ではない。

 もっとも、バドはリサの理想に程遠いというのが、お互いにとって残念な話ではあるのだが。


「それでさ、その……あ、えっと、昨日は助けてくれて……あ、それと、刺された時も姐さんのおかげで……その、あ、ありがとう」


 舌をもつれさせながらも礼の言葉を口にし、ぎこちなく頭を下げてきた。

 後方で束ねた長い黒髪が、川からの風に流されて揺れている。

 リサは微笑んで、小さく頷いた。


「気にすることはないわ。喧嘩なんて、あの店の辺りではよくあることよ。それに昨日は、貴方だけじゃなくて、グウェン先生も危なかったしね」


「あ、そ、そう……。で、その、実はさ……もう一つ、言いたいことがあって……」


 バドの筋骨逞しい大柄な身体が、一回り縮んでしまったように見えた。

 初恋を告白する少年のような初々しさだ。

 ここに至ってリサは、きっぱりと断ることができるかどうか、少しだけ自信が無くなってしまった。


(どうやって、やんわりとお断りしようかしらね……。でも、あまり思わせぶりな態度で勘違いさせてしまっても困るし、彼も気の毒だわ。といって、冷たく断るのも……もちろん受けるわけにはいかないし……)


 杖を小脇に抱えたまま、リサは思い悩んでいた。

 可能性は万に一つもないだろうが、ここで彼が強引に押し倒しにくるような状況も、頭の隅に置いている。

 熱い情熱を傾けられるのは構わないが、だからといって操を捧げる義理もない。


「あ、あの……その、お、俺を……」


 意を決したように、バドが顔を上げた。

 真っ直ぐ、ひたむきな目をリサに向けてくる。

 リサも覚悟を決めて、彼の眼差しを正面から受け止めた。

 これはある意味『真剣勝負』なのだ。

 彼の強い想いに、自分も真摯に応えなければならない。

 バドが両拳を固く握りしめ、叫ぶように言葉を放った。


「俺を……姐さんの弟子にしてくれっ!」


「……え?」


 朝の爽やかな風が吹き抜ける川岸で、リサはしばしの間、茫然と立ち尽くしてしまった。

 これが『真剣勝負』だったら――まぎれもなく、バドの告白は『不意討ち』であった。


(続く)

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