3章 その一撃に全てを懸けて(5)
「ウフフ、驚いちゃったわあ。いくら機嫌が良いからって、まさかこの私を馬車や舟の代わりに利用するなんてね。そんなお願いをしてくるなんて、さすがはリサちゃんね」
(さすが、と言われてもあまり褒められた感じはしないですね)
もしかしたら彼女は怒っているのかもしれない。
そうだとしたら、正真正銘、本当に絶体絶命の大ピンチだ。
彼女が手を離すだけで、リサは一巻の終わりである。
「申し訳ありません。ですが……」
「ウフフ、謝らなくてもいいのよ。ここまで人にこき使われるのは、生まれて初めての経験だからね。面白いと思ってる反面、ちょっと戸惑ってもいるのよ」
伝説の吸血鬼を戸惑わせる、というのも凄い話だ。
傭兵を辞めたら、その度胸を生かして冒険家かギャンブラーに身を転じるのもいいかもしれない。
(それにしても、これは貴重な経験ですよね……)
今、リサは帝都の夜空を飛んでいた。
アーシュラに背後から腰を抱かれ、ロネット川の上空数十メートルの所にいる。
もう夜もとっぷりと暮れているということもあって、眼下に人影はほとんど見当たらない。
彼方に見える赤や黄の灯火は、アーシュラが治める色街のものであろう。
アーシュラは、獲物を追う鷹のように風を切って飛んでいる。
その背からは、巨大な漆黒の翼が生えていた。
「どうお? 空を飛んだ感想は?」
「はあ、鳥になった気分ですね」
あまりにヒネりのない答えを返してしまったが、
「馬鹿ねえ、それを言うならコウモリでしょ?」
相変わらずご機嫌な様子のアーシュラは、カラカラと笑った。
こんな高速で飛ぶコウモリなど見たことがないが、あえてそこは突っ込まないことにした。
(あ、あれは昨日……いや、今朝通った道ね)
嫌がるヒューイを縛り上げて、グイードの屋敷へ向かった川沿いの土手辺りを通過した。
「ウフフ、さっきのモーリーンちゃんの顔、思い出しちゃったわ。彼女のあんな顔、初めて見たわよ~。これがホントの愉快痛快ってやつね」
そう言って笑うアーシュラだが、さしもの彼女も先刻のリサの願いには一瞬目を丸くしていた。
モーリーンは完全に口が開けっ放しになっていたし、後ろにいたので様子は分からないがロッテも恐らく呆れ返っていただろう。
ただ、もしアンがあの場にいたとしたら、彼女だけはいつものようにニコニコと笑ってくれたかもしれない。
(いや、さすがにそれはないかしらね)
それから後、人目のあるところでは、となおも燃え続けていた屋敷の裏手に回り、そこでアーシュラは変身した。
いや、本来の彼女の姿に戻ったというのが正確なのかもしれない。
禍々しい気を放つ漆黒の翼。
『魔』より授かったそれは、闇の世界の貴族・吸血鬼の証である。
だが、たとえ闇の眷族の力を借りてでも、リサはこの戦いに勝たなければならなかった。
(しかしまあ、本当に何て一日なのでしょうねえ)
徹夜でヒューイを追っていたことが、もう遠い昔のことに思えてしまう。
朝からドタバタの連続の挙句、ついには空まで飛んでいるのだ。
まさかこんな日になるとは、昨日の今頃は思いもしなかった。
つくづく、人生とは面白いものだと感じてしまう。
拷問を受けた箇所だけではなく、身体の節々が痛んだ。
寝不足のせいか頭もずっしりと重しが乗ったように感じるし、腹も減っている。
身体の疲労はとうにピークを越えていた。
だが、気力は今までにないほどに充足している。
手にした杖をぐっと握り、待ち受ける最後の戦いに備えた。
(いよいよこの大芝居も、クライマックスですからね)
潮の匂いが鼻をつく。海が近い。
それは目指す別宅が目前に迫ったことを意味していた。
「あれね、ロッテちゃんの言っていた旧アーヴィン邸は」
「はい! お願いします!」
アーシュラが一気に高度を落とす。
庭園はさほど広くはないが、春には艶やかな花々が咲き誇るという話であった。
昨年、収賄が発覚して没落した貴族が手放したらしい。
先程の廃屋敷とは比べ物にならない、瀟洒な邸宅だ。
だが、主はあの廃墟と同じくおぞましい人物である。
住んでいる家を見れば、その人となりが分かるという格言をリサは聞いたことがあるが、どうやら真実ではないようだ。
アーシュラはリサを抱いたまま、真っ直ぐ邸宅に向けて飛んだ。
白い壁の屋敷の二階に、灯りがついているのが確認できた。
庭園に目を移すと、玄関先に大型の馬車が一台停められている。
そして――。
「きゃあああっ!」
二階から聞こえる、少女の甲高い悲鳴。
リサは奥歯をぐっと噛み締めた。
「アーシュラ樣、お願いします!」
「はいはい、行くわよおっ!」
アーシュラは速度を落とすことなく、ガラス窓に突き進む。
激突の瞬間、彼女の漆黒の翼がリサを包んだ。
ガラスが激しい音を立てて四散する。
大人三人はゆうに横たわれるであろう大きなベッドの片隅に、マオの姉が座り込んでいた。
その衣服はところどころ乱暴に破かれている。
そして、若い男が高価な紅色の絨毯の上に仰向けに倒れ込んでいた。
男は全裸だった。
何が起きたのか分からない、という表情でリサたちを見上げている。
「リオネル・コロー、覚悟!」
リサが一喝すると、この中央人の若い富豪は魂消るような悲鳴をあげた。
例の廃屋敷で首領と対面した時、リサはまず真っ先に元締であるグイードを疑った。
中央人特有の碧眼と、高級扇子。
それにあの、香水の匂い。
東南区の元締であり、裏社会に通じた彼であれば、その気になれば子どもを誘拐して売り飛ばすことなど造作もないことであろう、と。
だが、同時にリサの頭にはいくつかの疑問点も浮かび上がっていた。
第一に、あの誘拐師たちの手際の悪さだ。
誘拐をシノギにするのは、娼館の経営や賭場を開くのとはわけが違う。
保安隊に尻尾を握られれば、身の破滅を招く危険がある。
グイードは当然、その危険性を熟知しているはずだ。
そんな彼が、あの連中に仕事を任せるだろうか。
少なくとも、もっと頭のきれる者、腕の立つ者を使うはずである。
第二に、リサの前に姿を見せた時のあの装いと対応だ。
用心のために、頭巾で顔を隠すのは分かる。
だが、あの『人斬り』グイードが、腰に刀も帯びずにあの場に現れたりはしない。
いや、たとえどんな時・場所であっても、あの愛刀だけはいつでも抜ける態勢でいるはずだ。
また、もしグイードであればリサを奴隷市場に売り飛ばす、などとは考えないだろう。
彼はリサがどんな女か、どんな傭兵かを熟知している。
どんな境遇に追い込まれようとも――そう、仮に奴隷市場に売り飛ばされて慰み者にされようとも、リサは必ず復讐の牙を研ぎ、その機会を狙い続ける。
その執念深さと能力を知る彼が、あの場でリサを殺さないはずがない。
そして第三の根拠。それは、あの場でレダが吐き捨てた暴言だ。
「東南区の連中は骨のある奴が多いって聞いてたけど、案外大したことねえんだな!」
グイードが首領であったならば、決して口にすることのできない言葉だ。
彼は何より、自分が東南区の出身であることを誇りにしている。
もちろん、レダが首領の氏素性を知らなかった可能性もあるし、無神経な彼女がうっかり暴言を吐いてしまったということもあるだろう。
何しろ、あそこまで頭の悪い連中だ。
だがあの時、リサは首領の態度をしっかりと観察していた。
頭巾を被った首領は、まるで何事もなかったように振舞っていたが、グイードの性格からしてそれはありえないことであった。
そしてリサは確信した。
誘拐師どもの首領が、グイードではなく、東南区の富豪・リオネルであることを。
高級扇子と流行の香水。
中央人で、悪党どもを養うだけの財力のある人物。
それでいて、レダやチャンを初めとした誘拐師どもが、どの程度の力量を持った悪党なのかを見抜けない人物である。
それら全ての条件を、リオネルは満たしていた。
またロッテから今朝得た情報によれば、今年から東南諸島との交易で利益を上げていたらしいが、それもこの一件と関連があるのかもしれない。
彼が急に羽振りが良くなった時期も、誘拐師どもの跳梁と一致する。
(思えば、今朝会った時に手に怪我をしていたのも……)
彼の毒牙にかかった少女が、懸命に抵抗した痕だったのかもしれない。
その名も知らぬ少女のことを思うと、胸が痛んだ。
これらの推理を、モーリーンは「根拠が薄い」と判断し、部隊を動かすことを躊躇った。
若いながらも東南区の財界に影響力の強い人物である。
万が一のことを考えれば、それも当然の反応と言えよう。
だが、リサは己の推理と直感に全てを賭けた。
後はもう、本懐を成し遂げるのみだ。
「あ、あばばばばば、あ、あしゅ、あしゅら、さん……。そ、それにり、りささあん……」
リオネルは目を見開いたまま、ぶざまにガタガタと震えている。
恐怖で萎えきった股間からは、小水を延々と漏らし続けていた。
この場にあのレダがいたら、『ションベン野郎』とでも罵ったかもしれない。
もちろんリサもアーシュラも、そんな下品なことは口にしないが。
「ウフフ、もう観念しなさいな。この女の子が動かぬ証拠。貴方、もうお終いよ」
その『宵闇の女王』の言葉は、凍土のように冷たく、一切の慈悲を含まぬ宣告だった。
その無情な言葉に、リオネルの身体が金縛りにあったように動かなくなる。
リサは真っ直ぐ、彼の鳩尾を杖で突いた。
その犯した悪行を償わせるにはあまりに不十分な一撃であるが、それはリサの行うべき仕事ではない。
胃液を吐きながら悶絶するリオネルには構わず、廊下に飛び出した。
周辺の気配を窺った後、すぐに屋敷中央の大階段を駆け降りる。
階下に見張りらしき配下が二人いた。逃げるべきか戦うべきか迷っている様子だったので、手際よく首筋を打ち据えて気絶させる。
(チャン! どこにいるの!?)
ここまできて取り逃がすわけにはいかない。
だが、焦りはなかった。
五感を研ぎ澄ませて気配を探りつつ、仇敵の思考を読む。
チャンは卑劣で、なおかつ用心深い男だ。
(ふむ、案の定ですね。主を守ろう、なんてするわけないと思いました!)
そんな殊勝な考えなど、あのチャンには思い浮かびもしないだろう。
仲間意識や主従関係など、意に介さない男だ。武人としての誇りも、当然ながら持ち合わせていない。
彫像がいくつも配された玄関ホールを抜け、外に出る。
まだ白む気配もない空。そして磯の香りを運ぶ、海からの風。
目指す仇は、馬車の御者台に乗り込もうとしていた。
「待て! チャン・ヴァン・クオン!」
鋭い声を浴びせると、チャンが苦々しい顔で振り返った。首筋に彫られた双頭蛇。
チャンが舌打ちし、馬に鞭をくれようとして――その場に固まった。
「ウフフ、それはダメよお。ここまで来て『次回に続く』じゃ、観客も納得しないわよ」
マオの姉を抱きかかえたアーシュラが、馬の背にすくっと立っていた。
彼女もチャンが逃げるのを察知して、窓から飛び降りたのだろう。
マオの姉は表情を強ばらせながらも、アーシュラにしっかりと掴まっていた。
彼女もまさか今、自分が伝説の吸血鬼に身を委ねているとは思ってもいないはずだ。
(ま、アーシュラ様の懐なんて、ある意味この帝都で一番安全な場所ですよね)
同時に、死に最も近い場所でもあるのだが。
クスリと笑うと、リサは仇敵との間合いをゆっくりと詰め始めた。
(続く)




