2章 たった一つの危険な橋(8)
以前は応接間だったと思われる部屋は、もはやその表現があまりにも適さない程ひどい有様だった。
天井はクモの巣が張り巡らされすぎて、まるで綿を飾りつけたかのような状態だ。
雨漏りも放置しているのか、湿気を吸いすぎた絨毯から無数のキノコが生えている。
愚かなこの連中は、空腹時にこれを食べたりするのだろう。
リサが連れ込まれたのは、そんな部屋だった。
皮鎧とマントはもちろん、上衣もズボンも脱ぐように命じられ、上も下も下着一枚の姿にされた。
取り囲む男たちが無遠慮な視線を自分の肢体に浴びせ、口笛を吹いてはやし立ててくる。
死にたくなるぐらい不愉快な気分だ。
「へへっ、たまんねえな。早いとこやっちまおうぜぇ」
今にもよだれを垂らさんばかりの顔つきで、そんなことを口走る者がいる。
なにを『やっちまう』意向なのかは、想像したくもなかった。
連中の程度の低いおつむは、自分たちが何のためにリサを拉致したのかすら忘れてしまったのだろう。
「バカ言ってンじゃねえぞ、てめえら。ゲロさせンのが先だろが」
赤毛の女が呆れたような顔で吐き捨てる。
どうやら彼女だけは、この集団の中で比較的まともな判断ができる人間のようだった。
(そうね、銅貨一枚分ぐらいは評価を上げてもいいですよ)
心中で軽口を叩きながら、連中の様子を窺う。
女を含め八人。
背格好や人種はバラバラだが、品のなさだけは見事に共通している。
荒事には慣れていそうだが、手練と呼ぶには程遠いように見受けられた。
肝心のチャンはまだ、姿を見せていない。
「へっ、殺生なこと言うなよ、レダ。こちとら長いこと女日照りなんだぜ?」
「おうよ、それによく言うだろ? 女に口を開かせるにゃ、カラダに聞くのが一番だって」
「バカかてめえら。そもそも手をつけたら、売るときに値段が下がるだろーがよ」
どうやら直接手を下しはせず、情報を聞き出したら奴隷市場に売り飛ばす算段のようだ。
さすがは誘拐師、といったところだろうか。
本当に胸が悪くなる。
「大して変わりゃしねえっての! なあ、頼むぜレダ、せっかくこんないい女を拐ったんだ、ちっとは楽しませてくれよぉ」
クズと呼ばれるのが本当に相応しい連中だ。情状酌量の余地もなく処刑場で火刑にされるべきだろう。
リサは、今この時だけはレダと呼ばれる赤毛の女の頑張りに期待した。
「はン、そんなに女に飢えてンなら、あたしが相手してやろうか?」
レダが苛立った声で答えた。
男たちは一斉に笑い、「勘弁してくれ、ナニを噛みちぎられちまうぜ!」とか、「あんた相手にするぐらいなら、野良犬の方がマシだぜ?」などと口々に下品な冗談を飛ばす。
「うるっせえぞ、てめえら! おいコラ、何ボケっと突っ立ってんだよ!」
レダの苛立ちが頂点に達したのか、こちらに八つ当たりがきてしまった。
張り手がリサの頬を打つ。
派手な音こそしたが、大してダメージはなかった。
「早く座れよ!」
そう言うと、傍らにあった椅子を蹴って横倒しにした。
リサが戸惑った様子を見せると、
「座れってンだよ!」
怒鳴りつけられ、ポニーテールを鷲掴みにされた。
そしてそのまま、倒された椅子の脚の上に正座させようとしてくる。
(耐えるしかありませんね)
この計画を思い立った段階で、連中の拷問を受けることはもちろん覚悟していた。
ロッテが止めたのも当然のことである。
だが、他に手段が無かった。
だから、やるしかないのだ。
息を深く吐き、奥歯をぐっと噛み締める。
木製の椅子の脚は、所々がささくれだっていた。
その上に、下着一枚で正座する。
剥き出しのままの両脛に、鋭い痛みが走った。
背後に回り込んだ男たちが、二人がかりで肩を押さえつけてくる。
悲鳴をあげたくなったが、懸命に堪えた。
別の男が両腕を掴み、後ろ手にして太い鎖をかけてきた。
手首をぐるぐると巻かれ、最後に錠をかける。
これでもう、身動きできない。
「へえ、なかなか我慢強いじゃねえの? 見直したよ」
レダが感心した口ぶりで顔を近づけてきた。
この状況で、しかもヤニ臭い息の彼女に褒められても、全く嬉しい気持ちにはなれない。
「けどよ、これはどうかなぁ?」
さも楽しげな声で、リサの右太ももを踏みつけてくる。
彼女の汚れた皮靴の底には鋲が打たれていた。
その鋲が、ぐぐっと太ももに食い込む。
さらに体重をかけてきた。
太ももと脛の皮膚が破れる。
肉が傷つき、骨がきしんだ。
耐えられる痛みではなかった。
堪えきれず、悲鳴をあげた。
背を大きく仰け反らせ、喉が枯れんばかりに絶叫する。
身をよじって激痛を何とか逸らせようとしたが、肩は依然としてがっちりと男たちに抑えられたままで、どうすることもできなかった。
「あははっ、なかなかいい声で啼くじゃねえの。いいねえ、もっと聞かせろよ」
今度は左の太ももだ。
椅子がギシギシと音を立てる。
今度こそ悲鳴をあげまいと唇を噛み締めたが、無駄だった。
己の意志とは無関係に、身体の奥底から悲鳴が漏れ出てしまう。
涙が頬を伝い落ちた。
叫びと共に、心を支える柱が折れてしまいそうだった。
それを何とか保とうと再び口を閉じる。
唇が切れ、口中に鉄サビの味が広がった。
ほんの数十秒が、永遠の刻に感じられる。
激痛と、悪漢どものせせら笑う声。
全てを投げ出してしまえ、我慢するなともう一人の自分が囁く。
この痛みからたとえ一瞬でも解放されるのであれば、どんなおぞましい事でもしてしまいたくなる。
それほどまでに耐え難い苦痛だった。
(違う! 耐えるのよ!)
心の中で叫んだ。
奥歯をギリギリときしませ、とにかく口を開くことを拒否した。
「さ、てめえの後ろで糸引いてンのは誰だ? さっさとゲロっちまえよ」
愉悦に満ちたレダの声。靴は変わらず太ももを踏みしめたままだ。
「へえ、なかなか根性あるじゃン。でもよ、どンなに頑張ったって無駄だぜ?」
悪党の賛辞など必要ない。
今はただ、この苦痛をわずかでも和らげて欲しかった。
(いや、ダメよ!)
自分の心が弱い方に傾いていることにゾッとした。
ここで心が折れたら、全てが水泡に帰す。
いや、レダの言うように耐えても無駄なのか。無意味なのか。
ここで自分は死ぬのか。
「あああああああああっ!」
叫んだ。
レダが苛立ったように頬を張るが、それでも構わず叫び続けた。
殺してやる。
この悪党どもを、ひとり残らず処刑台に送り込んでやる。
群衆の罵詈雑言と侮蔑の視線を浴びた後、紅蓮の炎で骨も残さず燃やし尽くされてしまえ。
それが、この連中に相応しい死に様だ。
今の自分よりも、もっともっと酷い苦痛と絶望を味わいながら地獄に落とされるがいい。
リサの心中を、どす黒い怒りが逆巻いていた。
だが、それでも苦痛は消えようとしない。
(ロッテ! アーシュラ樣!)
己の命運を握る、二人の顔を思い浮かべた。
自分は彼女たちに賭けたのだ。
リサは信じた。
必ずやロッテは尾行の任を果たす、と。
アーシュラはザイツと共に手勢を引き連れ、救出に向かっていると。
(それまでは! それまでは、絶対に、何があっても、耐え抜くのですっ!)
誘拐師どもが欲しがっているのは情報だ。
それを手に入れたらリサに用はないだろう。
本当に奴隷市場に売り飛ばすというのであれば、問題はない。後はただ援軍を待つだけだ。
だが、リサの素性とその意図が知られれば、その場で殺される可能性の方が高い。
援軍が向かっていることまで突き止めたら、間違いなく殺すだろう。
だから、白状するわけにはいかない。
時間を稼ぐのだ。
どれだけの拷問、陵辱を受けようと、絶対に口を割ってはならない。
(でも……)
叫びすぎて、喉が枯れてしまった。
内ももを、鮮血が筋となって伝っていく。
肉体を苛む痛みが精神を激しく蝕んでいた。
いっそ気絶してしまえば楽になれるだろう。
だが、それを許すような連中ではなかった。
「ほらよっ! ご褒美だぜ!」
野太い男の声が鼓膜を打った。
目は痛みに耐えるために先程からずっときつく瞑ったままなので、何が起きているかは全て耳頼りだ。
次の瞬間、冷たい何かが顔を襲った。
(水!?)
汚水だった。
例の噴水に溜まっていた藻だらけの汚水を、バケツで汲んできたのだろう。
悪臭が鼻を覆い、腹の底から吐き気が込み上げてきた。
「おらっ! 眠ってンじゃねえよ! さっさと吐けや!」
レダがドスの利いた声と共に、脇腹を殴りつけてきた。
もう、限界だった。
堪らず、吐いた。
吐瀉物が剥き出しになった己の太ももにぶちまけられる。
その生温かく不快な感触も、今のリサにとってはどうでもよかった。
「汚ったねえな! ゲロするもンが違うだろがよ! 舐めてンのかァ!?」
レダがようやく足をどけた。
その代わりに、続けざまに脇腹を殴りつけてくる。
リサは無抵抗のまま、ひたすら吐き続けた。
目を瞑るだけの気力も残っていなかった。
涙で視界が霞む。
やがて、吐くものがなくなった。
身体に力が入らない。
肉体が自分のものではなくなってしまったかのようだ。
(もう、イヤ……。もう、もう、どうでもいい……)
取り囲む悪党どもが、ボロボロの状態になったリサを嘲笑う。
「ひでぇ有様だぜ、せっかくの美人が台無しだな」
「へへっ、ゲロまみれじゃねえかよ。臭っせえな、もうこんな女、姦る気にもならねえよ」
「全くだぜ、まぁこういうのが好きなド変態野郎もいるんだろーけどな!」
「けけけ、そりゃおめえのこったろ?」
「ま、これじゃあションベンやらクソを漏らすのも、もう時間の問題だなぁ?」
屈辱と苦痛。恐怖と絶望。
そして、無力感。
身体の震えが止まらない。
心を懸命に支えていた柱が、もはや折れかけていた。
もう、これ以上、苦しい思いをするくらいなら――。
(リサさん!)
(……アン!?)
心を許したかけがえのない親友、アンの声だった。
すぐにそれが幻聴だと悟った。
彼女がここにいるはずもない。
(いや、違う……彼女は、いる……いつも、私の心の中に!)
目を閉じた。
穏やかな微笑を絶やすことのない『東南区の守護天使』。
彼女を思い浮かべるだけで心がふっと和らぎ、温かな気持ちが沸き起こってくる。
神を信じる気持ち以上に、アンは人を愛していた。
人種・貧富・身分も何も問わず、誰に対しても分け隔てなく接する彼女だからこそ、リサも好きになった。
(アン……負けませんよ、私は!)
心に強く誓った。
その脳裏を、アンの法衣の裾にしがみつく東南諸島出身の少女・マオと、そして厳しくも温かかった父の姿がよぎる。
(そうだ……私は一人じゃない。この戦いは私だけのものではありません!)
非道を屠り、純粋無垢な少女を救い出すための戦いでもあるということを思い出した。
自分のため、ではない。
彼女たちのために、自分は耐えなくてはならないのだ。
震えが止まった。
涙が止まり、視界がくっきりと晴れた。
空っぽになった腹が、かっかと熱くたぎっているのを感じる。
四肢に力がみなぎってくる。
もう、何も怖くなかった。
(続く)




