2章 たった一つの危険な橋(7)
街中に流した情報と噂で誘拐師どもの耳目を惹きつけ、リサを拐わせる。
それが、リサの企てた今回の計画だった。
もちろん、ただ拐われるだけでは意味がない。
明朝にリサの死体が川に浮かぶか、奴隷市場で変態どもに売り飛ばされるのがオチだ。
あの一帯には、ロッテを初めとした情報屋たちとザイツの抱える密偵による包囲網が敷かれていた。
誘拐師どもに気取られないよう、連中のアジトを突き止めるための布陣だ。
万が一、ロッテたちが一行を見失うようなことがあれば一巻の終わりである。
だがリサは、ロッテと彼らの力量を信じて博打を打った。
甚だ危険ではあるが、勝算はある。
連中のアジトを突き止めた後は、すぐにザイツとアーシュラが手勢を引き連れてそこを襲撃する算段になっている。
彼らが駆けつけるまでの間、リサが生き延びることができれば賭けは勝ちだ。
(もっとも、私の本当の勝負はそこからですけれどね)
言うまでもないことだが、チャンを一騎打ちで仕留めることがリサの一番の目的だ。
そこで負けてしまっては意味がない。
(できれば、それまで体力も気力も温存しておきたいところではあるのですが)
誘拐師どもが、温かい料理や快適な寝床を提供してくれるはずもない。
自分たちを探る密偵らしき女を拉致したのだ。
手荒い歓迎は覚悟しなければならないだろう。
一歩間違えば、あっさり殺されてしまう可能性もある。
(それにしても結構遠いですね……)
今、リサは誘拐師たちの用意していた小舟に乗せられ、川を下っている。
縄で厳重に縛られ、厚手の布でグルグル巻きにされた状態だった。
呼吸が若干苦しいが、意識があることを悟られると面倒なことになる。
ひたすら息を殺し、可能な限り状況を把握することに努めていた。
貧民窟で拐われてから、体感ではかなりの時間が経過している。
ずっと苦しい体勢でいるため、普段よりも時が進むのが遅く感じられてしまうということはあるが、それにしてもだいぶ距離があった。
ロッテたちはちゃんと尾行を続けてくれているだろうか。
アジトを突き止めたとしても、予想以上に場所が離れているため、使いがザイツの下に到着するまでは相当な時間がかかりそうだ。
援軍は、間に合うのか。
(いやいや、心配したらキリがありません)
いざとなれば、単独でアジトから脱出する他ない。
誘拐師どもがどれだけの人数か、チャン以外に手練が何人いるかといった戦力も、まるで判明しない現状である。
しかし、いずれにしても容易なことではないだろう。
(この四人組程度だったら少しは楽なのですが)
それでも多勢に無勢、真っ向から戦ったら敗れることは間違いない。
自分は芝居に出てくるような一騎当千の英雄豪傑ではないのだ。
所詮は一介の傭兵に過ぎない。
もっともそれだけに、彼らにはできないような『戦い方』も可能なのだが。
しばらくそのまま小舟に揺られた後、
「おい、起きな、姉ちゃんよお」
ようやく布が取り払われ、脇腹に軽く蹴りを入れられた。
苦しそうに目を覚ます演技をしつつ、戸惑い気味の表情で辺りに目をやる。
当たり前だが、見覚えのある風景ではなかった。
今はもう使われなくなった船着場であろう。
そこかしこに穴が開いた粗末な木板と、嵐の日には役割を果たせそうにない杭。
川辺は、雑草が腰の辺りまで生い茂っていた。
男たちに急き立てられ、頼りない足取りで小舟から降りる。
木板がきしむのは腐りかけているからであって、決して自分が重いからではない。
地面に足を着けると、ブーツの底が汚泥にずぶりと埋まった。
羽虫がそこかしこに行き交っている。
ありとあらゆる意味で、気が滅入りそうな場所だ。
「オラ、さっさと歩けや。逃げようなんて考えんじゃねえぞ? ブッ殺すからな?」
正直な気持ちとしては、さっさと逃げてしまいたいところだ。
居心地の悪い場所で、不快な連中に囲まれて過ごすなんて、まさに最低としか形容しようがない。
しかし、
(ガマン、ガマンよ)
この稼業は何よりも忍耐力が必要なのだ。
ましてや今の自分は、獲物を釣るための『餌』である。
自分を押し殺すことに徹底しなければならない。
うっかり口を開くと
「貴方たちにはお似合いの場所ね。臭くて、ジメジメしてて」
などと、連中を刺激してしまう台詞を吐き出してしまいそうだ。
己の不運を嘆き、行く末に絶望と恐怖を抱くフリをして静かに泥を踏みしめる。
(それなりに頭は回る連中のようですね)
上陸後、前後を男たちに挟まれたまま、川沿いを延々と歩かされている。
すぐにそれは、尾行を警戒してのことだと察知した。
ロッテたちは撒かれずに追尾できているのだろうか。
脳裏をかすめる悪い予感。
だが、
(まあそうなったらそうなったで、仕方ないですね)
やるだけやって、駄目ならば仕方がない。死ぬだけだ。
(人はいずれ死ぬ、ですか)
それは亡き父が、幼い頃から事あるごとにリサに教えてきた訓戒だった。
どれだけの富を築こうが、位人臣を極めようが、人々にどれだけ愛されようが、死だけは逃れることができない。老若男女、人種、一切関係の無いことだ。
いずれ迎えるその瞬間まで、何を為すことができるか。
それこそがその人の生きる『意味』なのだと教えられてきた。
だからリサは、決して絶望しない。諦めない。
肩を落として憔悴しきった風を装いながらも、彼女の身中は熱い血で沸き立っていた。
陽がほとんど沈みかけ、夕闇が色濃くなり始めた時分に、ようやく連中のアジトにたどり着いた。
すでに顔や首筋を数箇所、薮蚊に刺されてしまっている。
日中に比べてだいぶ気温は下がってはいるがどうにも蒸し暑い。
川辺であるにもかかわらず、風がほとんど止んでいるのが原因だろうか。
(ああ、お風呂に入りたいですね……)
切実な願いだった。
汗で身体中がベトベトしている。
連中に襲われる直前辺りから一口も水を飲んでいないので、喉はカラカラだ。
この一件を落着させたら、もう丸三日は思いつく限りの贅沢三昧をして過ごすと心に誓った。
「随分と遅かったじゃねえか」
若い女の声が前方から聞こえてきた。
タバコの吸いすぎなのか酒灼けなのかは不明だが、ガラガラのひどい声である。
うつむいた姿勢のまま目線だけ上げると、皮鎧に身を包んだ短い赤毛の女と、その後方に古びた屋敷らしき建物の門が見えた。
門の造りだけを見ると、かつては貴族か豪商の別荘か何かだったのかもしれない。
今はすっかり錆び付いている様子であるが、この連中が毎日丁寧に掃除をしたりするとはとても思えないので、それも致し方ないことだろう。
「しょうがねえだろ、レダ姐さん。ケツに虫が付いてこねえように気ィ遣ったんだぜ?」
「ったりめえだろが。てめえら、尾けられてたらブッ殺すぞ?」
「へへっ、おっかねえなあ、おい。まあいいや、これが例の姉ちゃんだぜ」
「ああン? ンだよ、女の密偵っていうから、ちったあ骨のありそうな奴かと思ったのによ? ただの情けねえ小娘じゃねえか。ガッカリだぜ」
うつむいたままのリサの顎を、その赤毛の女が乱暴に掴んだ。
そのままぐいと上に引き上げ、顔を近づけてくる。
目の下に傷があった。マオの目撃証言と一致している。
(どうやらこの連中が誘拐師一味で間違いなさそうですね)
さすがにそこまで心配してはいなかったが、全く無関係の連中に拐われたという可能性はほぼ消えた。
保安隊よりも先に、チャンに一歩近づいたことは間違いない。
(それにしてもヤニ臭いですね……)
顔を近づけられるのは不快で堪らなかったが、しばらくはこの連中と付き合わざるを得ない。
大きな目的を達成するためには何よりも我慢することだ。
「へっ、まあいいや。楽しみにしてなよ? これからたっぷり可愛がってやるからな?」
女の歪んだ笑みに、取り囲む男たちの品性の欠片もない笑い声。
この一年間、色々な階層の人間を見てきたが、その中でも最低最悪の類だ。
こういうどうしようもない連中だからこそ、誘拐などという外道な行為を働くのか、誘拐師の一味になったからこんな人間になってしまったのか、それは知る由もない。
やはりかつては別荘だったのだろう。
煉瓦造りの高い塀に囲まれた広い庭園、表門をくぐると正面には四方を彫像に囲まれた噴水があり、その先には二階建ての邸宅があった。
もっとも現在は、塀はそこかしこが崩れていて用をなしていないし、庭園も草木が野放図に伸び放題、彫像も四体全てが無残に打ち壊されている。
噴水だけは水が張ってあったが、藻がびっしりと表面を被って悪臭を放っていた。
(ここまで酷いと、もうわざとこうしているのかと思うぐらいですねえ)
もしかしたら誘拐師どもにとっては、こういった劣悪な環境の方がむしろ快適に過ごせるのかもしれない。
あるいは満月の夜に、藻の塊からムクムクとああいう連中が自然発生したりするのかも――そんな馬鹿げた妄想に逃避したくなるぐらい、リサは心底うんざりしていた。
(いやいや、気を抜いたらダメよ。これからが本番なのですから……)
(続く)