2章 たった一つの危険な橋(5)
ロッテと軽口を叩いている間に、舟は東区を抜け、やがて東北区の船着場に到着した。
上陸した先には馬車が用意されていて、一目で堅気の人間には見えない連中が待ち構えていた。
ザイツには、アーシュラが伝書鳩を飛ばして連絡済み、ということだった。
馬車に乗り込むと、中に赤毛の男が座っていた。
背丈こそ小さいが、半袖のシャツがはち切れそうな筋肉質で、手の甲から肘にかけて無数の傷跡が見えている。
目が大きい。耳が大きい。
口も鼻も、とにかく顔のパーツが全て大きかった。
人物を構成する何もかもが分厚く、太く、そして熱い。
地面にどんと置かれた巨岩から、逞しい四肢が生えてきたような圧倒的な存在感があった。
その男がザイツだった。
目尻が下がった人懐っこそうな顔立ちだが、眼光は強い。
「よう、アーシュラから話は聞いてるぜ、傭兵のお姉ちゃん」
ややかすれてはいるが、地の底から響いてくるような太い声と共に握手を求めてきた。
節くれだった分厚い手を握る。相当な手練だ、と直感した。
「お初にお目にかかります、ザイツ様」
「はは、仰々しい挨拶は抜きにしようや。しかしよお、あのアーシュラが真昼間から書状を寄越すなんてな。あいつを動かすなんて、あんた大したもんだぜ」
「滅相もない。ただのしがない傭兵ですよ、私は」
ザイツの言葉に、リサは苦笑するしかなかった。
「あの『宵闇の女王』が俺に声をかける時ってのはよ、たいていとんでもねえ厄介事か、よっぽど面白いことかのどっちかだからなあ。ま、今回は面白え話みてえで良かったぜ」
「お世話になります。少々面倒ではありますが、楽しんでいただければ幸いです」
リサの返答に、ザイツはさも愉快そうに目を光らせた。
「あんた、面白いな。なるほどね、アーシュラが惚れこむわけだよ。度胸もあるし、腕も立ちそうだ。それに女だてらに一本独鈷で傭兵稼業とはね。頭も相当切れるんだろ?」
「とんでもございません。なにぶん非才の身ではありますが、周りの方々に引き回していただいて、どうにかこうにか糊口をしのいでいるだけでございます」
「ははっ、口上もいちいち気が利いてらあな。俺のとこにもよ、あんたみたいに賢い子分の一人もいりゃあ、ちったあ楽なんだがな。ま、親分の俺に学がねえからしょうがねえか」
ザイツはそう言って豪快に笑い飛ばしたが、これにはリサも反応に困ってしまった。
だが、傍らに控える側近も、リサの隣の若い護衛もザイツ同様に屈託なく笑っている。
(なるほど、そういう関係を築いているのですね、この元締と子分衆は)
普通に考えれば、たとえ冗談と分かっていても子分たちは笑ったりしないはずだ。
それにザイツも、自分から言い出したこととはいえ「何を笑ってやがるんだ!」と激怒してもおかしくはない。
そうならなかったのは、彼らの間に強い絆があるからこそであろう。
子分たちは、偽りの気持ちなど微塵もなく慕っているし、ザイツもまた、彼らの忠誠心を心の底から信頼している。
だからこそ、あのような冗談でも笑い合えるのだ。
(グイード様やアーシュラ様とは少し違うのですね。どちらが良い、悪いは別として)
リサは一連のやりとりで、このザイツという人物の魅力を理解した。
ザイツの氏素性については、舟の中でロッテからある程度聞いていた。
それによると、東北区の水車小屋で産まれた彼は、家が貧しく学校にも全く通えなかったという。
無学と自分自身で語っていたが、これは決して冗談ではなく、本当に元締になるまでは読み書きも満足にできなかったらしい。
そんな彼を現在の地位にまで昇り詰めさせたのは、生まれながらの腕力に加え、どんな相手にも物怖じしない度胸と、金銭や地位・名誉に固執しない気風の良さであった。
元締という地位も本人が望んだわけではなく、先代の元締や周囲の子分たちからの再三の求めに応じて就いたのだそうだ。
出自が卑しい人間ほど富や権力に対する執着心が強い、などとも言われているが、少なくともザイツにはそれは当てはまらないのだろう。
「さてと、本題に入ろうか。あんたが何をしたいか、俺に何をして欲しいかはもう知ってるよ。要するに、手っ取り早く、この東北区の有名人になりてえってんだろ?」
アーシュラは書状に必要なことを全て記載してくれたようだった。
リサが微笑を返すと、
「任せときなよ。そうだな、夕刻の鐘が鳴る頃にゃ、この街であんたのことを知らねえ奴はいねえってようにしてやるからさ」
「ありがとうございます」
「それにしても危ねえ橋を渡るんだな? お世辞じゃなく、本当に大した度胸だぜ。ついぞ最近、俺たち侠客の間でも見かけねえ種類の人間だよ、あんたは。」
「お褒めに預かり恐悦です。ですが、私はそこまで立派な人間ではありませんよ。本心を言えば、もっと楽な道を進みたいところですから。ですが、今回に限っては致し方ありません。安全な橋ばかりを選んでいるようでは、目的を果たせませんし」
ザイツがふっと笑みを浮かべた。
「いや、ただ危ない橋を渡るってだけなら、別に珍しい話じゃねえ。命知らずのバカってのは、俺らの世界じゃ掃いて捨てるほどいやがるからな。でもお前さんは……初対面でこう言うのも何だが、そういう手合いじゃねえだろ?」
ザイツの目が好奇の光を帯びていた。
さすがに裏社会を束ねる元締の一人ね、とリサは感心した。
無学などとんでもない。
一見粗野に映る風貌と言動だが、内面はずっと知的で分別のある人物なのだろう。
豪放磊落な表面の下に、物事の本質を捉える智恵が根付いている。
ザイツは表の顔として、数軒の船宿と宿駅を営んでいるという。
今日も多忙ということだったので、打ち合わせを済ませると、すぐに馬車で去っていった。
「さて、それじゃあ始めますかね。ロッテ、頼んだわよ」
「あいあい、合点承知でございますよ、ご主人様」
リサがザイツと打ち合わせをしている間に、ロッテは馬車の外で着替えを済ませていた。
薄汚れたフード付きのローブを纏い、顔も煤をつけて汚し、浮浪児のような風貌だ。
心無しか、顔つきまで鋭くなっている。
「素晴らしい変装ね。どこからどう見ても、小狡そうな浮浪児の少年だわ」
「あれ、気のせいか、あんまり褒められた感じがしないんですけれど~」
リサとしては最大級の賛辞を送ったつもりだが、当人は不満な様子であった。
二人ともザイツから、印がいくつも付けられた東北区の地図を受け取っている。
その印は、そこで情報屋たちが待っているという意味であった。
「じゃあ、計画通りにね」
「へへっ、任せてくださいって」
「楽しそうねえ。遊びでやってるんじゃないんだけれど?」
リサにとっては、文字通り命を賭けた危険な勝負であった。
万全を尽くしたとしても、相手の出方次第ではあっさり死ぬことになるだろう。
「分かってますよお。でもほら、リサさんもアーシュラ樣に『面白いことをする』って言ってたじゃないですか。あたしもせっかくだから楽しまないと」
「あなたが楽しむ必要はないんだけど……。まあ、いいか」
作戦の成否は、リサだけではなくロッテの働きにもかかっている。
彼女がしくじれば、リサの命もないだろう。
だが、いや、だからこそ彼女が必要以上に緊張していないというのはある意味頼もしくもあった。
(さて、それじゃあ命懸けの『釣り』を始めましょうか!)
狙う獲物は双頭の蛇、餌はリサ自身であった。
(続く)