4 マル―セット島の日曜日
紺色のしずかな海のはてから太陽が顔を出し、マル―セット島を照らしました。
ミラベルは、織り機の置かれた奥の部屋で、縫いものをしていました。ひまわりのプリントされた木綿の身ごろに、そでを縫いつけているところです。あくびをかみころし、作りかけを持ちあげ、できばえに満足してうなずきました。子どもたちに朝ごはんを食べさせるまでは、まだ時間があるのです。ミラベルは目をこすり、いかにも疲れきったというように、ため息をつきました。彼女の目の下は黒ずんで、ゆうべの〈竜退治〉のあと、これっぽっちも眠っていないことをあらわしていました。けれどたしかにミラベルは、この夜明けに、ひとりきりの時間をたのしんでいました。
アズールのいる食料庫にも、ひとすじの朝日が差しこんできました。
棚にならんだジャムのびん、つるされたハーブとにんにく、ぶどうのつる模様の描かれたお客さま用の食器などが、光の帯を受け、暗がりにぼんやりと浮かびあがりました。そういったいろいろなものにまぎれて、すみっこの踏み台に腰かけているのが、アズールでした。いつだったかミラベルが織りあげた、こまかな虫のような模様のならんだ布をひざのうえにひろげ、その模様をながめながら、とろとろと眠りかけています。アズールのとなりでは衣装箱がひらいたままになっていて、それは置き場がなかったために、パパ・ヤーガが食料庫に運びこんだのでした。
アズールは、夢を見ていました。
「アズール、アズール、アズール‥‥」
女の子のやさしい声が呼んでいました。こぼれ落ちそうに大きな目をして、フリルのふちどりのあるシュミーズを着た女の子でした。アズールのまえに、ゴクラクチョウの羽のようにあざやかな色の短剣があらわれ、アズールはそれをつかむと、女の子を刺しました。
「やめて、アズール! 助けて!」
女の子が、悲しい声でさけびました。
アズールの首が前に折れ、からだがぐらりとかたむいたところで、彼は目を覚ましました。頭を振り、もう一度、虫のような模様を読みはじめました。
(赤の季節は眠りのうちに進み、闇のくにの使いは、死の嵐とともにおとずれる。腐臭は海の巨人の子らをなでるが、太陽と月が二度のぼる間に去るだろう。やすらかな寝所で、とげをかくした真綿が目覚める。だが、それはまことの目覚めではない。カワハギの問いに答えることのかなわぬ時、なにものも――)
「ミラベルさん! ミラベルさん、起きてるかい!」
海の男らしさにあふれただみ声が、しずけさをやぶりました。〈仕立てとがらくたの店〉の玄関が、はげしくノックされました。
アズールは目をぱちぱちして、食料庫の入口から、居間をのぞきました。織り機の部屋からミラベルが出てきましたが、アズールがドアから首だけ出しているのを見てもむっつり押し黙ったまま、店のほうへ行ってしまいました。かんぬきをはずす音に続いて、店のドアにつるした鈴が、たのしげに鳴るのが聞こえました。
「ああ‥‥ミラベルさん、その、おはよう‥‥」
海の男らしいだみ声は、すこし口ごもったようでした。
(この声、雑貨屋のタリーさんだな。きっとミラベルは、ひどく無愛想な顔で出ていったにちがいない。ただでさえ、ミラベルはほかの人と話さないし、だいたい不機嫌そうに見えるから、話し相手をおじけづかせてしまうんだもの)
アズールはそう思いながら、耳をすましました。
「村長に言われて、浜を洗う野郎どもを集めたよ。はやいほうがいいと聞いてね、いますぐにでもはじめられる。ただ、うたがうわけじゃあないんだがミラベルさん、〈闇を這うもの〉の落としものをそうじするなんて、そのう、おれたちの目がつぶれたり、肺が苦しくなったりは、しないんだろうね‥‥?」
タリーさんの声はだんだん、びくついた響きになっていきました。
「すまなかったね、日曜の朝に」ミラベルの返事は、言いかたこそぶっきらぼうでしたが、心からの感謝が見えかくれしていました。「目がつぶれることはない。すこし鼻がつんとするかもしれないが、息が苦しくなることもないだろう。だが、あたしたちにとって、毒になることにはちがいない。闇のはなつ腐ったにおいが島の土をけがすまえに、洗い流してしまわなきゃならないのさ」
「そういうことなら、おれらはいくらでも働くよ」
タリーさんが、元気をとりもどして言いました。
ミラベルが呼んだので、アズールは店のほうへ出ていきました。玄関のところで、ミラベルとタリーさんが、モップを持ち、長靴をはいて立っていました。
「やあ、おはよう。アズール」
「おはよう、タリーさん。ミラベル、〈闇を這うもの〉の落としものをそうじするって、どういうこと?」
アズールが、問いつめるように言いました。
「おまえも見ただろう、あの〈竜〉のからだがとけて、あとかたもなくなってしまったのを。残った泥だまりには、あの生きもののかけらと血とがまじっているのさ」ミラベルがなんでもないことのように言いました。「なにもかも、海に還さなければならないんだ」
「だったら、おれとジオがするよ」
アズールは、しごとをなせなかった責任を感じて言いました。
ミラベルが、口もとにうっすらと笑みをうかべました。彼女がアズールのことばをりっぱだと感じてくれたように、誇りに感じてくれたように、アズールには思われました。
「いいんだよ、アズール。まだねむいだろ。ゆっくり休んでいなよ」
人のいいタリーさんが、口をはさみました。
「だって、タリーさん。おれたちのしごとだもの」
「たしかにそうだが、みんなの島だよ。それに、おまえたちには未来があるんだからね」
タリーさんがなにを言おうとしているのかわからず、アズールは聞きかえしたいと思いました。けれど、ミラベルがうるさそうな調子で、この問答を終わらせました。
「もういいだろう。時間がおしい。行こう。アズール、あの女の子をみているんだよ」
朝焼けのなかを出かけていくふたりを、アズールはちりちりとこがれるような気持ちでみおくりました。ああ、はやく一人前になりたい! 一人前の男になってたよりにされたなら、どんなにすてきなことでしょう!
アズールはふかく失望して、食料庫にもどりました。もう一度、ミラベルの織物を手にとり、虫のような模様――古代文字による、なぞめいた物語のつづきを読もうとしましたが、どうしても気が進みませんでした。のろのろと階段をのぼり、ミラベルの部屋をノックしました。部屋の主人のかわりに、ジオがこたえました。「だれ。ミラベル?」
ミラベルのベッドでは、女の子がシュミーズを着たまま、あごのうえまでタオルケットをかけられてねむっていました。ジオはそのわきにぴったりと椅子をつけ、女の子のまくらの真横にひじをついて、ねむそうにしていました。
「ミラベルは出かけた。おまえ、ずっと目をさましていたの?」
気落ちしたところをみられたくなかったアズールは、目をあわせずにそう言って、窓をあけました。心地よい風が、レースのカーテンをさらさらと動かしました。
「ずっと起きていたよ。でも、ちょっとだけねちゃった気もする。夢、見たんだ。おっきな回転木馬にのって、ぐるぐるまわっていたの。エルキハ海浜公園だった気がする」
ジオが、しあわせそうに言いました。
アズールは、いくらか黙りこんだあと、ふさいだ声で言いました。
「おまえ、その子の夢を見たこと、ある?」
「その子って、だれ」
「そこに寝ている、その子だよ。ゆうべつれてきた、シュミーズの」
そうしてことばにするだけで、アズールは胸がつらくなりました。あたまのおくのほうで、ゴクラクチョウのような短剣がひらめきました。
「ないよ」ジオが、けろっとして言いました。「ゆうべ会ったばっかりだもん。夢になんて出てこないでしょ。ぼく、知らないひとが出てくる夢なんて、見たことない」
「そうなんだろうな」
アズールは、うわのそらで言いました。
ねむっている女の子は、血のけのない顔をしていましたが、息はやすらかでした。まぶたをとじていてもわかる大きな眼球と、カールのかかったうすいまつげ、うえをむいた小さな鼻、すぼめたようなかたちの口をしていました。くしゃくしゃの茶色い髪はまくらのうえにひろがり、欠点にも思えるおおきな耳が見えました。真夜中の空気のなかでみた時にはよくわからなかったことでしたが、彼女のはだ色はアズールやジオよりずっと濃く、パパ・ヤーガがつくってくれるコーヒー粉入りホットケーキの色でした。白いはだの人びとがカヌーにのって海をわたってくるよりまえの時代からキーラ諸島にすんでいた、そしていまではすっかり見かけなくなった、ふるい一族の血を引いているのでした。
「ぜんぜん、きれいな子じゃないや」
アズールにならって女の子をみつめていたジオが、つまらなそうに言いました。
「そんなこと言うもんじゃないだろ、彼女の目のまえで」
アズールはそう言ってたしなめましたが、あたまのなかではべつのことを考えていました。
(そんなことは問題じゃない。この子がきれいか、みにくいかなんて、ぜんぜん問題じゃないんだ。おれがいつも夢に見ていたのは、まちがいなく、この子だ。いままで一度だって、この子と会ったことはない。これがはじめてだ。そうだってのに、おれの夢はなにを知らせているんだろう。おれは何回、夢のなかでこの子を刺してきたのだろう! この子はこれから、どうなるんだ。おれはいつか、この子をにくむようになってしまうのだろうか。おさえようもないほど、にくらしい気持ちにならなけりゃ、ひとを刺したりなんかしないはずだ。おれはこの子がにくくなって、短剣でもってつき刺すのだろうか!)
おそろしさでいっぱいになり、目のおくが痛んだように感じて、アズールはこめかみをおさえました。五回もまばたきをしたあとで、壁をみつめて気持ちを落ちつかせました。ふあんな心もちをうつして、アズールの目は、いっそう澄んだうす紫色に見えました。紫色の目をしたひとには未来が見えると、キーラ諸島の年寄りたちは言うのです。