3 竜の伝えたかったこと
「アズール、アズール、アズール‥‥」
遠くでやさしい声が呼んでいるような気がして、アズールは寝がえりをうちました。頭を枕にうずもれさせたまま、手をのばして置き時計をとってみると、まもなく真夜中といったところでした。アズールはまだ半分眠っていて、脳みその半分で、気持ちよく夢を見ていました。朝焼けの海を見わたせる、どこか知らない高台のうえで、だれか知らない女の子とむかいあい、両手をとりあって目を見かわしているのです。
(ああ、またこの夢だ)アズールはぼんやり思いました。(早く目を覚まさなくちゃいけない。今夜は初仕事、心地いい夢におぼれているわけにはいけないんだ。それにおれの夢はいつだって、おそろしいものに変わってしまうんだから)
「アズール、アズール、アズール‥‥」
女の子が、あやすようにくりかえしました。くしゃくしゃの茶色い髪が顔のまわりを包んでいる、アズールよりすこし幼い子どもで、けれどジオよりは年上に見えました。こぼれ落ちそうなほど大きな目をしていて、フリルのふちどりのあるシュミーズを着ていました。その子は、靴をはいていませんでした。
「きみはだれ?」
アズールは、女の子の目をのぞきこんで尋ねました。
「アズール!」
とつぜん、女の子が厳しい声で言って、アズールの腕をぐいと引きよせました。アズールの足がもつれて、よろめきました。なにかおそろしいものでも見たようにこわばった女の子の顔が、アズールの鼻先すぐのところに、とても大きく見えました。この子もいっしょにころんでしまう! あてもなくのばしたアズールの手が、棒のようなものをつかみました。それは、ゴクラクチョウの羽のようにあざやかな色の短剣で、ガラスでできた刃先は、夢のなかでも見たことがないと言っていいぐらいに、すばらしく透きとおっているのでした。短剣は宙に浮いていて、まるで百年前からアズールの持ちものであるかのように、あたりまえの顔で自分を差しだしていました。アズールは心の底からぞっとしていましたけれど、彼自身の体はそんなことはおかまいなしに、女の子の肩を乱暴につかむと、短剣を構えて振りおろしていました。
「やめて、アズール! 助けて!」
女の子が、悲しい声でさけびました。
とたんに、朝焼けの海もどこか知らない高台も、ゴクラクチョウの短剣も、女の子の姿さえも消え去り、アズールは光の届かない暗い海の底に立って、こまかな水の泡を吐きながら、おそろしさにふるえているのでした。
「アズール、おまえの居場所は島にはないよ」
身もこおるようなつめたい声が、アズールのうしろで言いました。ミラベルの声に似ているように、アズールには思えました。
「あんなことをするつもりじゃなかったんだ」気がつくと、アズールは息が詰まるような思いで言っていました。「おれはただ、あいつを助けたかったんだ!」
「アズール! アズール! アズール!」
ミラベルが、いらいらした声で呼びました。
アズールは、ようやく目を覚ましました。腕をのばして置き時計をたしかめ、まだ真夜中になっていないことにほっとして、大きなため息をつきました。アズールの心臓は、まだドキドキしていました。
「早く着替えるんだよ」部屋を出ると、待ちかまえていたミラベルが、深海の水で染めたようなワンピースを差しだしました。「朝までかかるかもしれない。よく休んだろうね」
「うん」
アズールは、さえない声で言いました。
ワンピースに着替えたアズールが下に降りていくと、やっぱりワンピースを着たジオが眠そうな顔で、窓の外を見ていました。
「風がやんでいるよ」
ジオが言ったとおり、あれほどあれくるっていた風の音はやんでいて、気味がわるいほどしずかでした。かすかな雨音だけが、悪霊のないしょ話のように聞こえました。
「じきに、見たこともないほど吹きあれる」
ミラベルがおもしろくもなさそうにそう言って、しばらく床下に頭をつっこんでいたかと思うと、がんじょうなガラスびんをとりだしました。ピクルスを漬けるための、ふたに金具のついた密閉びんで、まるで鉱石を煮こんだかのように、とろりと青く輝く水が入っているのです。
「三年ものの〈水あかり〉だ。いままでパパ・ヤーガのほかに、口にしたものはいない。でも、今夜はおまえたちのものだよ」
ミラベルが、青い水をスプーンですくって言いました。
アズールは、うながされるまま飲みくだしてみましたが、舌にはなんの味も感じませんでした。かすかに、潮のかおりがしました。〈水あかり〉というのは、パパ・ヤーガがお父さんから受け継いだ秘伝のくすりで、満月の夜にくんだ潮の流れのはやいところの水を、まじないの言葉をとなえながら十二回にわたって麻布でこし、真珠をひとつぶ沈めて床下の暗がりで寝かせておくと、真珠はあとかたもなくとけてしまって、暗闇でも目が見えるようになる飲みぐすりになる、というものでした。
「いいにおい」
アズールに続いて飲みくだしたジオが、にっこりして言いました。
外は、人のすがたも動物のすがたもなく〈おばけの木〉がくろぐろとした影のように、背中をまるめていました。アズールとジオは、ミラベルが水着の生地で縫いあげた大きなポーチを腰にくくりつけ、雨をぱしゃぱしゃ蹴立てながら、はだしで歩きだしました。ビニールのレインコートを着て、懐中電灯を手にしたミラベルまでもが、あたりまえのような顔でついてきたので、アズールはぎょっとしました。
「ミラベルも来るの?」
アズールの声にはめずらしく、はっきりと不満があらわれていました。
「わるいかい?」
ミラベルの声も不満そうでした。
「だって、ミラベルはもう〈運び手〉を引退したじゃないか」
アズールが怒ったように言ったのは、自分たちの初仕事をミラベルに参観されるなんて、まったくさまにならない、と思ったからでした。たくましいパパ・ヤーガなら、かまわないのですけれど、いつもごはんを作ってくれる、ぼってりとしたからだつきのミラベルに見られるなんて、なんだかはずかしいことのように思えたのです。
「たしかに引退したよ。だが、見ていることはできるだろう。パパ・ヤーガのかわりだと思えばいい」
ミラベルはそう言うと、先に立って歩きだしました。
入り江は、高い波にくりかえし洗われ、桟橋は波頭の下にちらちら顔をのぞかせていました。舟という舟は宵のうちに、おかに上げられていました。海そのものが、オーブンの中のスポンジケーキのように、黒くふくれあがっているのでした。
雑貨屋〈ヤシの実〉の軒下にミラベルを残して、アズールとジオは、砂浜に立ちました。〈水あかり〉の効きめがあらわれてきたらしく、沖合いでうねる海面や、まっくらな水平線とまっくらな空のさかいまで、よく見えました。銀色の雲が流れていきました。
「なんにもいないね」
ジオがおそれも感じずに言いました。
「みんな、海の底にかくれているんだ。島の人たちだって、息をひそめている。今夜はおれたちの仕事のじゃまをしないようにって、村長が言ってくれたんだ」
アズールはくちばやに言いながら、ジオぐらい鈍感な心臓がほしかったと思いました。海はこんなに広いのに、どこからやってくるかもわからない〈竜〉を、いちはやく見つけだすことができるのでしょうか?
「どうしたの?」
ジオがもぞもぞとワンピースのすそをいじくっていることが気にかかって、アズールはいくぶん冷静な声で言いました。
「なんでもない。灯台には、火が入っているね」
ジオはそう言って、口笛を吹きました。
五分がすぎ、十分がすぎました。
ふいに、なまあたたかい風が吹きぬけたかと思うと、島じゅうの木という木、茂みという茂みがざわざわと鳴り、おおつぶの雨がたたきつけました。空はごおーっと悲鳴をあげ、波は壁のように立ちあがりました。
「来るよ!」
ミラベルが〈ヤシの実〉の軒下から身を乗りだして、言いました。アズールはうなずくことも忘れて、海面のあちこちに目を走らせました。
(どこだ? どこだ? どこだ?)
アズールの心臓は、とんでもない速さで打っていました。
「いた!」
ジオがゆびをさして、かん高い声で言いました。
ジンベエザメを小さくしたようなその生きものは、海面からなかば顔を出すようにして近づいてくるところでした。ジオはよく見つけたものです! 波間に生まれた、目立たないこぶのように見えましたし、まだ、だいぶ距離がありました。
(おれでも、あそこまで泳いでいくには、晴れた日で三分はかかる)
泳ぎが得意なアズールが、そう思ったほどでした。
「むずかしく考える必要はない!」
ミラベルの声は、ほとんど風の音にかき消されていました。
マル―セット島を飲みこもうとおそいかかってくる、ひときわ高い波にむかって、アズールは駆けだしました。アズールのからだは、小さな虫のように波の下に消えました。海の底のほうにむかって、何度もでんぐり返しをうちながらぐんぐんひっぱられたかと思うと、深海の水で染めたようなワンピースが落下傘のように広がり、潮の流れをとらえてアズールを支えました。おそろしくあれた海のなかで、アズールは姿勢を立て直したばかりか、耳の下がぱっくり割れて、えらが生まれたのを感じました。今では、海面の下でも、まったく楽に息ができます。すべてはこの、ミラベルの縫ったワンピース、彼女が〈衣〉と呼ぶ不思議な衣裳のしわざなのだと、アズールはよく知っていました。
ざぶんという音がして、ジオが泡のつぶをまきちらしながら、とびこんできました。ジオの〈衣〉も水のなかで広がり、ジオの耳の下にも、かわいいえらが生まれました。けれど、どうしたことでしょう。一度は広がった〈衣〉が、海のなかでどうふるまったらいいかわからないとでもいうようにゆらゆらして、ジオの足にまとわりつくのでした。ジオはスカートを足からひきはがしながら、あぶなく波に流されそうになりました。
(あいつ、どうしてこんな時だけ、ぐずなんだろう!)
アズールは、立ち泳ぎをしながら思いました。
底の泥がまきあげられて、暗くにごった海のなかでも、金色に輝くふたつの目が近づいてくる様子は、はっきりと見てとれるものでした。〈竜〉は、すばらしく泳ぎのうまい生きものでした。腕っぷしの強い大波にも負けず、のっぺりとした長いしっぽを潮の流れに立てて、まっすぐにマル―セット島のほうへ、アズールたちのほうへ向かってきました。
「いいか? はじめは、戦おうなんて思わないことさ」アズールの胸に、むかしパパ・ヤーガが話してくれた〈運び手〉の心得が、陽気な口調でよみがえりました。「けんかしないで相手が帰ってくれるなら、それに越したことはないんだからな。〈闇を這うもの〉が百スーク(約四十メートル)まで近づいたら、まず〈海底花火〉をお見舞いすることだ。相手が気の弱いやつならば、それだけでびっくりして引きあげてしまう。いいな。かならず、百スークだ。どんなにおれたちががんばったところで〈海底花火〉はそれ以上、とんでいきやしない作りなんだからね」
アズールはひとつ身ぶるいして、腰にしばりつけたポーチのなかをさぐりました。お目当てのものは、すぐ見つかりました。〈海底花火〉は、鉛筆の頭にかぶせるキャップを、ふたまわりも大きくしたようなかたちのもので、ひらべったいおしりには、コルクの栓が詰まっています。アズールはそれを胸のまえで構えると、ぐんぐん近づいてくる〈竜〉を見すえました。すこしずつ、けれど見る見るうちに大きくなってきた〈竜〉の姿が、もう百スークのところに来ているのか、それともまだ二百スークなのか、それはよくわかりませんでした。けれど、アズールはとにかく力をこめて〈海底花火〉の栓を抜きました。
ひゅるるる、と音がして〈海底花火〉のとがった先っぽから、ほそい光がとびだしました。光はまっしぐらに〈竜〉めがけてのびていったかと思うと、その目の前ではじけとんで、子どものゾウほどもあるような、光の花を咲かせました。打ち上げ花火そのもの、目のくらむようなながめでしたが、〈竜〉はびくともしませんでした。
〈竜〉はただ、いらいらしたようにのどを鳴らして、アズールとジオをにらみました。いぼのようなでこぼこがある四角いひたいも、横に大きく広がった口を真一文字に引きむすんでいるさまも、ずんぐりした体からとびだした短い四本の足も、いまではすぐそこに見えました。本当に、とても大きな生きものでした。金色の目は真剣で、なにかうったえたいことがあるように見えました。いますぐマル―セットの浜辺へ身を躍らせたいと思っているけれど、そのまえに、この小さな戦士たちをこらしめてやるのもいいかもしれないと、思いついてしまったようにも見えました。
(ものを考えている目だ。この世の生きものではないような姿だけれど、これでも生きているんだ。そしていま、おれたちを食べてしまおうと、心に決めたんだ!)
アズールは、ぞっとした自分をふるいたたせようと、ももをつねりました。
「ジオ! 次だ!」
えらを手に入れたアズールが、水の泡をはきながらさけびました。
ジオはまだ、もたもたと泳いでいましたが、アズールをがんばりを見ていなかったわけではありませんでした。ジオはこっくりとうなずくと、自分のポーチをさぐって、真っ白に輝くぱちんこを取りだしました。いいえ。昼間、遊びに使っていた、おもちゃのぱちんこではありません。まるで真珠でできているような輝きようで、ふたまたにわかれた腕のところは、ひと組の翼が広がったかたちになっているのです。ジオは苦しそうに泳ぎながら、〈竜〉の背中にねらいをさだめて、ぱちんこのゴムを引きました。アズールが〈衣〉をひらめかせながら、気をひくように〈竜〉の目をまえを横切ったちょうどその時、ジオのぱちんこからはなたれた銀色の玉が、〈竜〉の灰色の背中にはりつきました。
「手をはなすなよ!」
と、アズールが言い、
「わかってる!」
と、ジオが言いました。
〈竜〉に命中した銀色の玉も、やっぱり、ただのぱちんこ玉ではありませんでした。玉から六本の虫の足のようなものが生えて、〈竜〉のぬめぬめした肌に、しっかりとしがみついているのです。そして、その虫の背中からはゴムのように伸び縮みする糸がのびて、ジオのにぎっているぱちんこに、しっかり結びついているのでした。ジオはぱちんこを胸に抱いて「さあ、これで逃げられないぞ」とばかりに〈竜〉をにらみつけました。
〈竜〉は、いよいようるさく感じたようで、勢いよく体をふるわせました。かわいそうに、ゴムの糸をつかんでいるジオも海の底でふりこのようにゆられ、砂のなかに両足をふんばりました。〈竜〉がそばにやってくると、海藻という海藻が、おそろしそうにしおれていきます。アズールは、めげずに〈竜〉の顔のまんまえまで行って、二発めの〈海底花火〉を破裂させました。大きな体を折りまげて、ひれのような前足でジオをなぎはらおうとしていた〈竜〉は、さすがに目がくらんだらしく、ぐう、と声をもらしました。
(気絶してくれればいいんだけど!)
アズールのいのりは、聞き入れられませんでした。〈竜〉は海の底にすっくと立って、海面を、そのむこうにあるはずのマル―セット島を見上げました。
「ジオ! 糸をつかんだまま、そいつのまわりを何周も泳いで、そいつをぐるぐる巻きにしてやってくれないか! そいつ、おれたちよりも、島に興味があるんだ!」
アズールが、ポーチから〈泡立ちラッパ〉を取りだして言いました。
もしも〈竜〉が気絶してくれたなら、今夜の仕事はすべてうまくいくように、アズールには思われました。戦いのさいちゅうに〈闇を這うもの〉が気を失ったなら、すぐさま彼らをしばりあげ、沖までひっぱっていって〈闇のくすり〉を嗅がせてしまうといい、というのが、パパ・ヤーガの教えでした。このくすりには〈闇を這うもの〉のふるさとである深海のにおいが詰まっていて、くすりを嗅いだ彼らは、ふるさとがなつかしくなって、深海に帰っていくというのです。けれど、もしも〈竜〉が気絶してくれないのであれば、どうにかしてくすりを嗅がせる手立てを考えなければなりません。
「ジオ!」
返事がないことに腹を立て、アズールがもう一度呼びました。
ジオは海の底で重ったるくただよいながら、潮の流れにさからって首をめぐらせ、なんだかうるさそうにアズールを見ました。ジオの顔が、いつになく青黒く見えました。
(ぐずなんじゃないや。あいつ、ぐあいが悪いのか?)
アズールはそう思ったとたんに、水のなかにいるにもかかわらず、どっと汗が噴きだすのを感じました。ジオの〈衣〉のすそが、やけに大きく広がって、おぼれかけたくらげのようにひらひらしていることにも気がつきました。青いスカートのおしりのところが一フィリオン(約四センチ)も裂けていて、そこからこまかな泡がこぼれているのです。
アズールはとつぜん、夕方のスコールのことを思い出しました。
(雷が鳴って、おれの部屋で大きな音がして、おれがいそいで駆けつけたとき、ジオのやつは〈衣〉を着て、床にひっくり返っていた。あいつ、あの時すっころんで〈衣〉を破ったのか? 破れたのをわかっていて、ミラベルにも黙っていたのか?)
ジオはたしかに、ぐあいが悪いようでした。〈運び手〉の泳ぎをたすけ、その首すじにえらまでもたらしてくれる〈衣〉がざっくり破れていたとしたら、水の底にいる〈運び手〉がどうなってしまうのか、アズールには想像もつきませんでした。
アズールは、いますぐ全速力で泳いでいって、ジオの頭をひっぱたいてやりたい、と思いました。いますぐミラベルにたすけをもとめるべきだ、とも思いました。
ところが、ジオはアズールを横目でにらむと、ぱちんこからのびる糸をたぐりながら、〈竜〉に近づいていきました。円をえがくように〈竜〉のまわりを二周して、あっというまに〈竜〉のからだに糸を巻きつけてしまうジオの泳ぎときたら、みごとなものでした。円をえがいて泳ぐなんて、なかなかむずかしいことですからね。
「アズール! ラッパ!」
からだをよじって糸をふりはらおうとする〈竜〉の背中にしがみつきながら、ジオが短くさけびました。それで、アズールも落ち着きました。アズールのからだはぜんまいを巻かれた人形のように、ほとんど勝手に動きました。アズールは〈泡吹きラッパ〉を口にあてがうと、力のかぎり吹き鳴らしました。ラッパから噴きだした七色の泡は、あたり一面を覆いつくし、一フィリオン先も見えなくなりました。海に沈めたピアノ線かなにかをひっかいたかのように、水という水がふるえ、耳の奥が痛くなりました。人間の耳には聞こえないけれど、〈竜〉の耳には聞こえるとても高い音が、無数の泡といっしょにはなたれたのです。そして、それは〈竜〉のきらう音なのでした。
はじめて、〈竜〉は、驚いたようでした。
ぼこぼこ、ぷくぷく、と輝く泡が海面へのぼっていくなかで、〈竜〉はタチウオのようにからだを立てて、ぼうぜんとしていました。ぐう、と声がもれたのが聞こえました。
(まったく、ひどいラッパだ)
アズールは、くらくらする頭をおさえながら、そう思いました。〈闇を這うもの〉に効果抜群の〈泡吹きラッパ〉ですけれど、コーラのなかでおぼれるような泡まみれの思いをしたり、耳が痛くなったりしたあとでは、気分も変になるというものです。ジオも〈竜〉をしっかりとつかまえながら、目をぱちぱちさせているところでした。
「だれかいる!」
とつぜん、ジオがさけびました。
「なんだって?」
アズールはわけがわからず、聞き返しました。
「この〈竜〉の口のなかに、だれか人がいる! この〈竜〉、人をくわえてるよ! 食べてるんだ!」
ジオは夢中になって、真一文字に結ばれている〈竜〉の口をゆびさしていました。
アズールが目をこらしてみると、たしかに〈竜〉のくちびるのはしから、白いフリルのついたきれがはみだし、潮の流れにのってゆらゆらしているのがわかりました。そのフリルのかげになっている棒っきれのようなものは、人の腕のように見えるのでした。それがどんなにおそろしいながめか、見たことのある人にしかわからないでしょう。腕はだらりとたれさがって、ほんのすこしだって動きませんでした。
「殺そう! こいつを殺して、あの人をたすけよう!」
ジオが興奮して、〈竜〉の背中をなぐりつけました。ジオの顔は血の気がもどって、笑っているように見えました。〈竜〉は首をねじって、ぎろりとジオをにらみつけました。
「だめだ! パパ・ヤーガの教えを忘れたのか! 〈闇を這うもの〉は、決して殺してはいけないんだ! 彼らの血は、島の土をけがしてしまうんだ!」
アズールは胸が苦しくなるほど緊張しながら、腰のポーチをさぐりました。〈海底花火〉の残りがひとつと、〈闇のくすり〉の小びんと、水のなかでも食べることのできるもくずのゼリー、そしてゴクラクチョウの羽のようにあざやかな色の短剣が出てきました。ジオが今夜、翼を広げたかたちのぱちんこを手にしているように、この短剣こそが〈運び手〉としてのアズールのたよれるどうぐなのでした。アズールは思わず、短剣を、うろこのついたさやから抜きました。さあ、〈竜〉を刺してしまえ! と、短剣はそそのかしているようでした。アズールは身ぶるいして、短剣をさやにおさめました。
「じゃあ、どうするのさ!」
と、ジオが気色ばんだ時には、アズールは両腕をひろげて、〈竜〉の岩のような頭にとりついていました。鼻が曲がるほど、なまぐさいにおいがしました。アズールは〈衣〉からにょっきりつき出たあしを〈竜〉のくびに巻きつけ、巨大なあごを両手でこじ開けようとしました。うまくいかなかったので、さやにおさめたままの短剣を、〈竜〉のくちびるのあいだにさしいれて、てこのように動かしてみました。ジオが歓声をあげました。
〈竜〉は、口のなかの人をしっかりとくわえこんだまま、いかりの声をあげました。そしてからだじゅうを、ものすごくすばやいへびのようにうねらせたために、アズールははじきとばされて、海底の砂のなかにしりもちをつきました。〈竜〉は背中にジオをくっつけたまま、見る間に海面までのぼっていき、トビウオのように宙におどりでました。たかくたかくとびあがった〈竜〉は、なめらかなはだを銀色にきらめかせながら、まっすぐにマル―セット島の浜辺めがけて落ちていきました。
アズールができうるかぎりの速さで泳ぎついた時、〈竜〉はもう浜のまんなかに立ちあがっていました。二本のあしで立ちあがったからだは、水のなかにいた時よりずっとにぶそうで、ずっとぶかっこうに見えました。ミラベルがレインコートのフードをぬいで、自分の顔がよく見えるようにしながら、〈竜〉を見上げていました。ジオは彼女のわきにいて、勇敢な騎士のようにぱちんこをかまえていました。〈竜〉のからだをしばりあげている糸は、まだしっかりと、ジオの手に結びついていました。
「ミラベル! ジオ! それを吸いこんじゃいけない!」
〈竜〉のからだを、うす黄色いもやのようなものがとりまいていることに気がついて、アズールがさけびました。このもやこそが、島の土をけがす〈竜〉の息なのだということも、パパ・ヤーガの話を聞いていなければわからなかったでしょう。アズールは、自分のことがなさけなくて、ひざのちからがぬけるのを感じました。
(おれたちは、役目をはたせなかった。島を守れなかったんだ)
そう思うと、おそろしさのあまり、からだがふるえてきました。
「アズール、まだ終わっちゃいないよ」
ミラベルが、力強い声で言いました。彼女は、ぱちんこも短剣も持っていないのに、この別世界の生きものをおそろしいと思っていないようでした。そして、からだじゅうの神経を、ぴりぴりさせているのでした。
「うん、わかっている」
アズールは、自分をはげますように言いました。
「なんの用だね」
ミラベルは、まるで人間にむかってするように、彼女らしくぶしつけに、〈竜〉に話しかけました。
〈竜〉はおじぎをするように、ミラベルのまえに頭をたれました。それでやっと、金色のさらのような〈竜〉の目が、ミラベルの顔の高さになりました。〈竜〉は、それまでのあらあらしさがうそのように、おとなしくくちを開いて、くわえていたものをそっと砂浜に落としました。
たっぷりとしたフリルのあるシュミーズを着た、人間の女の子でした。
女の子は糸の切れたあやつり人形のように手足を投げだして、たおれました。アズールとジオは駆けよろうとしましたが、ミラベルがふたりの肩をしっかりとつかんでいました。女の子は、もぞもぞと身動きして起きあがり、ぼんやりした目で〈竜〉を見あげました。あわい茶色の、びっくりするほど大きな、まるい目でした。
女の子はほほえんで、〈竜〉に手をさしのべました。〈竜〉が、ぐふ、と鳴いて、あまえるように、女の子のほおにくちをすりよせました。
(この子を、あなたにとどけたかった)
海の底からひびくように低く、やさしい声がそう言ったのを聞いたような気がして、アズールはあたりを見まわしました。ミラベルの声ではありませんでしたし、もちろんジオでもありませんでした。〈竜〉がくちをきいたのだと気が付いた時、アズールは心の底からびっくりしました。人間のかたちをしていないものが人間の言葉を話すのを、アズールはうまれてはじめて聞いたのです。
(カルブ・ミラベル・トゥールズ、この子をあなたにとどけるのが、わたしの最後の仕事だった。なにものも、わたしを止めることはできないだろう。とてもかよわい子どもだけれど、この子はあなたの助けになるだろう。どうか、この子をお願いします。わたしにできるのは、ここまでだから)
そう言うと、〈竜〉の目からひとつぶの涙がこぼれて、女の子のほおに落ちました。〈竜〉は自分の子どもを見るような、いつくしみのこもったまなざしで、女の子を見つめていました。女の子ははちみつの入ったミルクでも飲まされたように、心地よさそうに目を閉じると、音もたてずにたおれました。
「おまえの望むままにしよう。おまえがこれ以上、この島をけがさないと誓うのなら」
ミラベルが〈竜〉の目をとらえて言いました。
ふうっと、なまぐさい息が〈竜〉のくちからもれて、どうやらこの生きものは、ほほえんだようでした。
くさったたまごのにおいがしはじめているのに気がついて、アズールはぎくりとしました。お日さまの下で食べるアイスクリームのように、〈竜〉のからだが、ふちのほうからとけかかっていました。ジオがはじかれたように、鼻をおさえました。〈竜〉は自分の身に起こっていることなどまるで気にならないといったふうで、眠っている女の子の顔をじっと見つめています。まえあしがとけて砂のうえにクリームだまりをつくり、しっぽがとけてなくなりました。うす黄色い毒のもやは、どんどん濃くなります。アズールは、いますぐ女の子をかかえて、この場から逃げだしたほうがいいと思いました。けれど、ミラベルはアズールとジオの肩をつかんだまま、食いいるように〈竜〉を見つめているのでした。
(カルブ・トゥールズ、あなたに平安がありますように‥‥)
泣いているような笑っているような、その言葉を最後に、〈竜〉の頭も胸もかき消えて、銀色の水たまりだけが残り、そのまんなかに、女の子が横たわっているのでした。〈竜〉をとらえていたぱちんこの糸は、するするとジオの手にもどりました。
「〈竜〉、死んだの?」
それが、ひどくふしぎなことであるかのように、ジオがたずねました。
「闇のかけらが、光の世界にとけていったんだ。それだけのことだ」
ミラベルは、沈んだ声でそう言って、人間が天にめされた時にするように、両手をあわせました。アズールもおなじことをしたのは、なぜかはわからないけれど、あの大きな生きものがしようとしたことに、うやまいの気持ちを感じたからでした。
(あの〈竜〉は、ただからだが弱って死んだのではないんだ。ミラベルに誓ったことを守るため、島をこれ以上けがさないために、自分を殺してしまったんだ)
アズールはそう思って、おそろしさに身ぶるいしました。
「さあ、帰るよ。アズール、てつだっておくれ」
ミラベルが、銀色の水たまりをぴちゃぴちゃとふんで、女の子をかかえあげました。雨がだんだん弱くなっていきます。〈闇を這うもの〉が光にとけたいま、この嵐がじきに去るということが、なぜだかアズールにもジオにも、よくわかっていました。