1 ティルベル坂通り十四番地
七月の終わりの、むしあつい午後のことです。マルーセット島の入り江の船着き場に、連絡船が到着して、たったひとりの客だった男の人が、汗をふきながら降りてきました。マルーセット島の男なら、この季節には、タンクトップや半ズボンですごすと決まっているのに、この人ときたら仕立てのいい麻のシャツを着て、ちょっとした旅行ができるぐらいの大きさのかばんを提げていました。
男の人はハンカチをしまうと、小さな広場を見わたして、五十年前からそこに建っている雑貨屋〈ヤシの実〉を見、波止場に仲よくならんで出番を待っている、釣り船やヨットやモーターボートを見ました。港のずっと右のほうには、きれいな弧を描いた砂浜があって、たったひとりでサーフィンをしている人が見えました。
「こんなところに住んでいるのか、彼女は」
男の人は胸ポケットからメモを取り出して、そうつぶやきました。まるで、話題にあがっている人物には、こんな小さな島はふさわしくないと言っているようでした。そして手描きの地図をたよりに、港から高台へと続いているティルベル坂通りをのぼっていき、港と高台のちょうど中間の場所に建つ、たばこの箱のような形をしたホテルの前で足を止めました。本当のことを言えば、そこがホテルとして使われていたのはずいぶん前の話で、今は〈仕立てとがらくたの店、トゥールズ〉という看板がかかっていました。男の人はひとつ息をついて、また汗をふきました。ドアを開け、はっきりした声で言いました。
「ごめんください。ミラベル・トゥールズさんのお宅はこちらですか?」
その様子を、すこし離れたところから見ている子どもがいました。ティルベル坂通りのわきに一本だけ生えている、島の子どもたちが〈おばけの木〉と呼ぶタブノキに、金髪の男の子がのぼって、ミラベル・トゥールズのお客を見下ろしていました。男の子は、自分の太ももほどもある枝に腰かけ、ニヤニヤしながらぱちんこを構えて、店の前に立つ男の人の頭をねらっていました。けれど男の子が、強く引っぱったゴムを離して、ビー玉をとばした時、男の人はちょうど店のなかに消えたところでした。男の子は心底がっかりしましたが、すぐに気を取り直し、子ザルのように元気いっぱいに木からすべりおりて、店の窓をそっとのぞきこみました。男の子の目はほんのすこし意地悪そうに、そして、とびきりおもしろい事件を見つけたとでもいうように、きらめいていました。
「ごめんください」男の人はもう一度言いました。「どなたか、いらっしゃいませんか?」
店のなかは、静まり返っていました。玄関から入ってすぐのところの、むかしはロビーだったはずのぽっかりあいた空間に、広い台があって、貝細工の小箱や色ガラスのビーズ一式、クマノミがプリントされたゴムのボールや、箱入りのクレヨン、木彫りのイルカ、からっぽの植木鉢を五個重ねてひもでくくったものなどが、ごちゃごちゃにならべられていました。壁は、天井から床まで本棚に覆われていて、ひと目で古いものだとわかる本が、きつきつに詰めこまれていました。カウンターのうえのレジスターは、今時めずらしい手まわし式で、部屋の角に押しやられるように置かれたソファーからは、ばねがとびだしていました。
「なるほど、がらくたの店というのは、本当のようだ」
男の人は、くすんだ着せ替え人形を手にとって、つぶやきました。(その人形はエリーちゃんという名前で、二十年ぐらい前に、小さな女の子の間ではやったものでした。)その時、男の人が窓のほうを振り向いたのは、だれかに見られているような気がしたためだったのですが、店の外にいる金髪のいたずらっ子は、すばやく頭をひっこめたので、見つかることはありませんでした。男の人は、気のせいだったかと肩をすくめ、ミラベル・トゥールズはいったいどこに行ってしまったのだろうと途方に暮れながら、店のなかを見わたしました。ロビーの奥には、ホテルだった頃のなごりの、ふたりならんでのぼれるぐらいの広さの階段があって、さあどうぞ、だれでも二階へおあがりください、と言っているふうでしたけれど、とつぜん訪ねてきたよそものが、うえの階にまで人をさがしに行くのは失礼だと、男の人は考えました。
さて、そうして男の人がまごまごしているうちに、カウンターの奥から、リンと鈴の鳴るような音がしました。男の人ははっとして、カウンターの奥のドアを見ました。古めかしい木のドアが、ほんのすこし開いていることに、やっと気がついたのです。男の人はつばを飲みこみ、ハンカチで汗をふきました。物音に驚いたのはもちろんでしたけれど、その音が聞き覚えのあるものだったことに、何倍も驚いていました。
「ミラベル・トゥールズ?」男の人は、期待と緊張の入りまじった声で言うと、ドアをそっと押し開けました。「いらっしゃるのですか?」
ミラベル・トゥールズは、たしかにそこにいました。日の当たる窓辺に腰かけ、織り機のうえに覆いかぶさり、なにか重要なことを考えているとでもいうように目を閉じて、手足の感覚だけをたよりに布を織っていました。ミラベルの手が、横糸を通すための木の道具を右から左へとあやつり、ミラベルの爪が縦糸を掻きました。ミラベルの足が、ゆっくりペダルを踏みました。男の人がドアを開けたことに、ミラベルは気がついてもいませんでした。自分だけの世界にこもっているようなその姿に、男の人は思わず引きこまれましたが、すぐに奇妙なことに気がつきました。ミラベルがどれだけ織り機を動かしても、機械のきしむ音がすこしもなく、ペダルを踏みこむ音さえしないのです。まるで、ミラベルのまわりだけ、音という音が抜け落ちてしまったかのようでした。男の人は、おそろしくなって身ぶるいしました。次に、音と呼べるものが聞こえたのは、ミラベルが、額にかかった髪をはらいのけた時でした。ミラベルの首に巻かれたチョーカーの、小さな鈴の飾りがゆれて、リンと音を立てたのです。それでもまだ、ミラベルは来客に気がついていなかったので、男の人はとうとう心を決めて、尊敬をこめた声で言いました。「カルブ・ミラベル・トゥールズ!」
カルブというのは、このあたりの島の人たちが、年上の女の人を呼ぶ時に使う、一番ていねいな言い方でした。ミラベル・トゥールズは、この言葉を聞いて、ようやく顔を上げました。いまはじめて、自分を呼ぶ声を聞いたという顔でした。ミラベルは織機のまえに腰かけたまま、ぐいと体の向きを変えて、男の人を見ました。ミラベルは色の黒い、体の大きな女の人で、唇はぶあつく、髪は縮れていました。そして、今は警戒心に満ちた目をしていました。彼女自身がマルーセット島の人たちに語ったところによれば、今年三十五歳ということでしたが、もっと年寄りに見えました。ミラベルは耳に手をやって、イヤホンをはずしました。お気に入りの遠い島の音楽を、耳が割れるほどの大音量で聴いていたのです。
「だれだい?」ミラベルが、厳しく言いました。
「議会騎士団から参りました、イーガン・ハモンドです」
男の人は、胸に手をそえて、おだやかに答えました。
議会騎士団、という、今日ではおおよそ使われなくなった言葉を聞いて、ミラベルの顔に、ほんの一瞬、なつかしむような表情がうかびました。議会騎士団というのは、なんのことはない、このあたり一帯の島じまを守っている海軍のことで、嵐で漁船が行方不明になったり海賊船が姿を見せたりするたびに、大砲を積んだ船に乗りこんで、海に出るのが仕事でした。とは言えマルーセット島は、都からも砦の島からもひどく離れていましたから、海軍の船を見かけることも、海軍の兵隊がやってくることも、ほとんどないのでした。この島で、議会騎士団、などというしゃちほこばった呼び名を耳にしたら、多くの人は、おなかを抱えて笑うことでしょう。「なに、その言い方? 時代劇じゃないんだから!」
ミラベル・トゥールズは笑わずに、ちょっと考えこむ顔をしました。
「ハモンド? イーガン・ハモンド?」一瞬だけのぞかせたなつかしさをひっこめて、遠い思い出をたぐり寄せるように、眉間をおさえました。「参謀長のハモンドじいさんの息子?」
イーガン・ハモンドの顔に、これ以上ないほどの笑みが広がりました。
「そうです!」イーガンは、まるで女神が自分の名前を呼んでくれたとでもいうような感激をこめて、何度もうなずきました。「まさか、覚えていてくださったなんて!」
「あんたは、じいさんにそっくりになってきた」
ミラベルは、おもしろくもなさそうに言いました。どんなことをする時でも、不作法なほど愛想のない顔をするのが、彼女流のやり方でした。ミラベルは、これ見よがしにため息をついて織り機の前を離れると、やかんを火にかけました。望んでもいないお客が来てしまった以上、今日はもう機織りに没頭することはできないと、態度にあらわしたのです。
「最後にお会いした時、わたしはまだ子どもでしたから。でも、あれから十年もたっているというのに、あなたはすこしも変わっていらっしゃらない」
イーガンは女主人の態度に腹も立てず、それどころか、憧れるような眼差しで言いました。輝きに満ちたイーガンの目が、ミラベルの縮れた髪、ミラベルのまるい鼻、ミラベルのふくれた唇を見ました。イーガンは照れもせず、感嘆をこめた声で「本当に」と言いました。
ミラベルがはじめて、ちらりと笑いました。
「なるほどね、あんたにはそう見えるわけだ‥‥。ハモンドのじいさんは元気かい?」
「父は去年、退役しました」
イーガンは、織り機のうえで、いままさに織りあげられている、色あざやかな布を横目で気にしながら言いました。それは、ひどく変わった布で、クジャク色の地のなかに、白やオレンジ色の虫のような模様が、何百個も何千個もならんでいるのでした。
(たいしたものだな)イーガンは何千個もの虫の模様を見つめて、心のなかでつぶやきました。(父さんに聞かされていたとおり、たしかに、すべて古代文字のようだ。おれにも、いくつかは読めるな。なんだ? 赤の季節、終わりを知らず‥‥?)
「読めるのかい?」
とつぜん、まうしろからミラベルの声がしたので、イーガンはいたずらをしかられた子どものようにとびあがって、顔をそむけました。
「見たけりゃ、見ていいよ」
インスタントコーヒーのびんをさがしながら、ミラベルがぶっきらぼうに言いました。
「いいえ、とんでもない! あなたの作品を読んでいいのは、かぎられたものだけだと、父より聞かされています。申しわけない。その、ちょっと、好奇心に負けてしまって」
イーガンはことさらに背すじをのばして言うと、まわれ右をして織り機に背を向け、それきり振り向こうとしませんでした。ミラベルが、つまらなそうに鼻を鳴らしました。
「そうかい? あんたがそいつを読めるっていうなら、読んでもばちは当たらないと思うけどね。まあいい。それより、あんたも、こんな話をしにマルーセットまで来たわけじゃないだろう? そろそろ、あたしにわたしてもらいたいんだけどね」
ミラベルがまっすぐ差し出した手のひらを、イーガンは見ました。次に、ミラベルの顔を見ました。いかにも海の男らしい日焼けした顔から、いたずらを見とがめられた子どもの表情が消えて、憧れに満ちた青年の眼差しも消えました。イーガンは、ひどく緊張していました。
「どうした?」ミラベルが、けげんな顔をしました。「ハモンドのじいさんが、依頼の手紙を持たせたんじゃないのかい?」
イーガンは首を振りました。
「カルブ・トゥールズ、わたしは、議会の命を受けて来たわけではないのです」
ミラベルはため息をついて、頭のうしろを掻きました。議会の命令で来たわけではない、というたったひとことで、この不思議な女の人は、自分がやっかいなできごとに巻きこまれはじめていると、気がついてしまったようでした。ミラベルは織り機の置かれた部屋を出ると、がらくたと古本だらけの店内を横切り、表のドアに〈準備中〉の札をかけました。
「これで、じゃまは入らない」イーガンを振り向くと、ミラベルはにこりともせずに言いました。「とりあえず、コーヒーを飲むとしよう。あたしはいいかげん、のどがかわいたんでね。あんたも、好きなだけ飲んでいくといい。話はそれから、ゆっくり聞くよ」
ミラベルののど元で、チョーカーの鈴がリンと鳴りました。
ミラベル・トゥールズの店の外では、ポケットからぱちんこをはみ出させた金髪の男の子がスパイのように息を殺しながら、ドアにぴったり背中をつけてしゃがみこんでいました。男の子は自分の頭のうえにある、ドアの小窓を見上げて、ほっと息をつきました。ドアには、四枚のガラスがはめこまれていて、ガラスの内側に〈準備中〉の札がかかっています。札をかけにきたミラベルは、男の子に気がつかなかったようでした。男の子はそろりそろりと立ち上がり、ガラスをのぞきこんで、もうだれの姿も見えないことを確かめました。と、急にがまんできなくなったようにとびあがって、キャッと声をあげました。驚いたわけではありません。それどころか、喜んでいたのです。男の子は、ホテルの壁にそってまわりこむように走って、裏庭に向かいました。
裏庭は〈仕立てとがらくたの店、トゥールズ〉のなかで一番と言っていいぐらい、気持ちのいい場所でした。芝生はよく手入れされているし、とんでもなく背の高いヤシが生えているし、なにより海が見えるのです。カモメはニャアニャア鳴いています。ひどく落ち着いた感じの、トビ色の髪の男の子がひとり、真っ白に塗られた垣根に寄りかかって、裏道を通りかかった女の子と話していました。
「ありがとう、弟が喜ぶわ」女の子がそう言って、男の子の手から、蒸気機関車のおもちゃを受け取りました。「パパでも直せなかったから、半分はあきらめていたの」
「お金はいいよ」女の子が、ウサギのプリントされたコインケースを開けようとしたのを見て、男の子がすかさず言いました。「ちょうどぴったりの大きさのねじがあったし、お金をもらうほどじゃないもの。うちの店に、修理に出してもらったわけでもないんだしさ」
「困ったな。わたし、そんなつもりじゃなかったんだけど」
ポケットからぱちんこをはみ出させた金髪の男の子が、大急ぎでやってきたのは、この時でした。「おおい、アズール!」
女の子が、きゅっと眉間にしわを寄せ、頬に手をそえて、心底ぞっとするというふうに言いました。「いやだ、ジオだわ。あいつ、今日は学校で遊んでいると思っていた」
トビ色の髪の男の子は笑って、垣根から背中を離しました。
「さあ、行って! また、ジオのやつにおさげをひっぱられたくないだろう?」
「そのとおりよ」
女の子はため息をついて、まったくもう、だれかれ構わずぱちんこを向けるちびのジオと、おもちゃを直してくれるやさしいアズールが、おなじ人に育てられたなんて信じられない、という顔をしました。
ところで、その時のジオにはもともと、通りすがりの女の子のおさげをひっぱってやるつもりなど、これっぽっちもありませんでした。ジオはただ、とりすまして女の子を見送っているアズールを振り向かせてやりたくて、ポケットのなかに手を入れ、たくさんのビー玉の奥から、先のとがった巻き貝をつかみ出しました。「アズール!」
アズールが振り向き、ジオが巻き貝を投げつけました。体をよじってかわす間もなく、巻き貝はアズールの目にあたりました。アズールが目もとをおさえて、小さなうめき声をあげました。それがとびきりおもしろい冗談だとでもいうように、ジオは目を輝かせて、アズールの腕をひっぱりました。
「ねえ、目に刺さった? 血がいっぱい出た?」
「ばか言え。まぶたに当たっただけだ」
「ええ! 残念だなあ。目に刺さらないんなら、おでこに刺さるのでもよかった。おでこが切れると、血がいっぱい出るって、パパ・ヤーガが言っていた。おでこって、皮がうすいんだって。そうだな。アズールのおでこで試すんじゃなくて、ぼくのおでこでやってもいいや。血がいっぱい出て、目に入ると、なんでも真っ赤に見えるって本当なのかな?」
「おまえ、本当にそれをやったら、ミラベルに殺されるぞ」
ジオは、急に口をつぐんだかと思うと、なにかしぶいものでも食べてしまった時のように、ぶるっとふるえました。「そいつは、いやだな。うん、たしかにいやだ。――そうだ。そんなことよりぼく、とびきりのニュースを見つけてきたんだ。さっきの船で、島の外から人が来たの。そいつ、まっすぐうちの店に入っていった!」
「いつも依頼を持ってくる、船長みたいな帽子をかぶった男?」
アズールが、つまらなそうに言いました。
「ちがう」
「じゃあ、おそろしくえらの張った顔の、ホオジロザメ氏? それとも、年に一度ぐらいやってくる、カワウソみたいに目の離れたじいさん?」
「いいから、ちょっとは黙ってよ! ぼくが見たそいつは、いままで一度も見たことのないやつだったけど、まちがいなくミラベルのお客なんだ。いまはふたりで話している。ねえ、賭けようよ! 今夜こそ、ぼくたちの出番があるかどうか!」
「出番なんてないよ」アズールが、冷や水をあびせるように言いました。「仕事なら、パパ・ヤーガが行くに決まっているだろ。あの人、夜の便で帰ってくるんだし」
「じゃあさ、じゃあさ、もし帰ってこなかったら?」
「知らないよ」
「パパ・ヤーガは、お元気にしていらっしゃいますか?」
イーガンが、コーヒーに砂糖を入れながら言いました。
「いまは、出かけているよ」
ミラベルが、西日が強くなってきたなというように目をほそめて、ブラインドを半分だけおろしました。窓の外は裏庭で、ふたりの男の子が垣根にもたれているのが見えました。
「近所の子ですか?」イーガンがのんびり聞きました。
「あたしの子さ」
カン、という音がして、スプーンが床に落ちました。イーガンが、ぎこちなく拾いました。イーガンは驚きのあまり、すっかり青ざめていました。かわいたのどをゴクリと鳴らして、頭を振りました。口を開けたり閉めたりしましたが、言葉は出てきませんでした。
「おめでとうございます」イーガンは頭がこんぐらがって、気がつくと、そんなことを口走っていました。「ご結婚されていたとは、知らなかった」
その言葉にびっくりしたのは、ミラベルのほうでした。とは言っても、彼女はいつもどおりの頑固そうな顔をして、ちょっと片方の眉をあげただけでしたけれど。
「いや、そうじゃない」ミラベルは目をすがめ、口もとに笑みのようなものをうかべて言いました。「言い方が悪かったね。結婚したことは一度もないし、あたしが産んだ覚えもない。あたしはただ、行き場のない子たちを引き取っただけさ。トビ色の髪の子は五年前、金髪の子はおととしだったね。ほかにも、今日出かけている子が、ひとりいる」
イーガンの顔に、血の気がもどってきました。憧れの人が、手の届かないところに行ってしまったわけではないとわかって、イーガンは安心したようにほほえみました。
「驚いた」イーガンが言いました。「三人も」
ミラベルは、たいしたことじゃないと首を振り、二杯めのコーヒーをつぎました。「それで?」と、そろそろ用事をすませたいというように言いました。
「はい、それでです、カルブ・トゥールズ。わたしの父はあなたがたの、とりわけパパ・ヤーガのお力を借りることができれば、きっとうまくいくと考えています。なにしろ、パパ・ヤーガは騎士団にいた頃から、闇を這うものを相手にしさえすれば、都で一番の戦士だったのですから。ことの起こりは五日前です。ここからずっと東の海域で漁をしていた人びとから、幽霊船があらわれたという知らせが、騎士団の支部にもたらされました。嵐の夜に、鬼火をまとわりつかせながら、青白く光っている船を見たというのです。ふだんなら、なにかの見まちがいだろうということで相手にしないのですが、騎士団が出動したのは、その幽霊船とやらに、海賊旗がかかげられていたという話だったからです。海賊旗というのは、あれです、口に剣をくわえた竜の絵が描かれている旗‥‥むかし話でおなじみの、あの旗のことです。そんなおおむかしの印をかかげる海賊が、いまでもたまにいるんですよ。騎士団は小型艇を何隻も出して、幽霊船があらわれたというあたりをくまなくまわり、濃い霧の出た早朝、ついにその船を見つけました。クレ島の沖です。わたしも騎士団の一員としてそこにいましたが、その船は――いいえ、鬼火をまとわりつかせてはいませんでした――帆の裂けたぼろぼろのヨットでした。五人の騎士がはしけをつけて、ヨットに乗りこみました。わたしは残念ながら、艦に残るほうの組でした。彼らはピストルを持って、海賊の姿をさがしましたが、見つけることはできなかった。かわりに彼らが船室で見たのは、本物の竜だった、というのです」
「なんだって?」ミラベルが、耳を疑ったという声で言いました。
「騎士のひとりが、その時に見たものを、あとで描きました」
イーガンはかばんのポケットから、たたんだ画用紙を取り出しました。ミラベルは、じっくりと見ました。鉛筆で描かれているのは、おとぎ話に出てくる竜とは、似ても似つかない姿でした。うろこにおおわれたトカゲのような体も、コウモリのような大きな翼もなく、のっぺりと平たい顔に、顔とおなじ太さの胴がつながっています。似ている生きものをむりやりさがすなら、それはジンベエザメの親戚のようにも見えました。
「大きさは、六スーク(約二百四十センチ)ぐらいだそうです」
イーガンが、メモを見ながら言いました。
「こんなものが、船のなかにいすわっていたって言うのかい?」
「この〈竜〉は、騎士たちと向き合うと、牛のような吠え声で脅しつけ、甲板への階段を這いあがりました。騎士たちはもちろん追いかけて、尾ひれに一発撃ちこみましたが、間にあわなかった。〈竜〉は海にとびこんで、その後見つけることはできませんでした」
イーガンは息をついて、ミラベルの顔をひたと見すえました。
「この生きものを〈竜〉だと言ったのは、実はわたしの父なのです。父はあいつを〈闇を這うもの〉だと考えています」
「そうだね」ミラベルが、画用紙から目を離さずに言いました。「なるほど、こいつはたしかに竜だろう。こういうやっかいな生きものを相手にするなら、あたしらはぴったりだ。だけど、その竜はクレ島の沖かい。ちょっと遠いね」
イーガンは、さすがはカルブ・トゥールズだ、話が早いというふうにうなずきました。
「騎士団は、クレ島の砦の〈運び手〉たちに、竜退治を命じようとしていたようです。けれど、騎士団長の相談を受けたわたしの父は、それでは意味がないと言って、カルブ・トゥールズ、あなたに使いを送ると言いました。わたしはたまたま、休暇でヴェッパ島まで来ていたところ、こうして使いの役目を授かりました」
「どういうことだろう?」
ミラベルは、ビスケットを奥歯でかみつぶしながら、眉間にしわを寄せて考えこみました。イーガンは、その様子をチラチラとうかがいながら、言うか言うまいか迷っていました。
「実はもうひとつ、お伝えするように言われていたことがあるのです」気が進まないという顔のまま、とうとう言いました。「わたしが見た旗のことを。幽霊船――ぼろぼろのヨットには、たしかに海賊旗がかかっていました。裂けた帆に、絵が描いてあったというだけですけれど。口に剣をくわえた竜の、おとぎ話に出てくるトカゲに似ているほうの竜の、海賊旗でした。ただ、その竜はすこし変わっていました。首のしたに、鈴が結わえつけられているように見えたのです。そう、カルブ・トゥールズ、あなたのように」
話している途中で、よく似ていることに気がついて、イーガンは鈴のついたチョーカーを見つめました。ミラベルは表情をこりかたまらせ、黙ってのどもとの鈴にふれました。
「旗が奇妙だったのは、それだけではありません。わたしの見ている前で、竜の首に結わえつけられた鈴は、すうっと消えてしまいました。ただの、口に剣をくわえた竜の絵に変わってしまったのです。ほかの騎士に聞いてみても、だれも鈴など見ていないという返事でした。たしかに霧も濃かったし、見まちがいだったのかもしれない。自分でも、そう思いました。ところが、わたしの話を聞いた父は、その鈴の話はとても大事だ、ぜひともミラベル・トゥールズにお話ししなさい、と言ったのです」
イーガンは、恥じ入るように肩をすぼめました。島じまを守る騎士ともあろうものが、はっきりしないまぼろしを見るなど、あってはならないことだと思っていたのです。
「鈴をつけた竜の海賊旗。それがだれのものなのか、あんたは知っているのかい?」
ミラベルが、感情の読み取れない声で言いました。
「ええ、まあ」イーガンは、自信のない言い方をしました。「女海賊リブラの旗ですよね。海賊と名乗っていたって言っても、むやみに港や船をおそうのではなく、〈闇を這うもの〉たちの残した財宝を追っていたっていう。でも、もう十年以上も名前を聞かないし、リブラの冒険物語は、西や東の海賊たちの自慢話がつぎはぎされたもので、本当はリブラなんていう海賊は、どこにもいなかったんじゃないかっていう話も聞きます」
「そうかい」
ミラベルは、ひどく老けこんだ目つきで言いました。まるで、リブラの冒険物語が輝きを失ってしまった今日という時代は、一滴の水も望めない荒野とおなじだと言っているようでした。
「カルブ・ミラベル・トゥールズ」イーガンは、背すじをのばして言いました。「幽霊船から逃げた竜の退治、あなたとパパ・ヤーガにお願いしてもよろしいでしょうか?」
「ああ、そうだね」
ミラベルは、考えこむような顔でうなずきました。どんなたのみごとを聞く時も、彼女は考えこむような顔をするのでしたが、今日は様子がちがうようでした。ブラインドのかげの、気持ちのいい暗がりのなかで、ミラベルの目も暗く輝いています。
(カルブ・トゥールズは、この仕事がつらいのだろうか?)
イーガンは、そう考えました。けれど、ミラベルの目の奥の強い光は、この時を待ちこがれていたと言っているようにも見えました。
「ただね、パパ・ヤーガは、今夜はもどらないかもしれないんだよ」
ミラベルは、かげりのある表情をさっさとひっこめると、古い小さなテレビをつけました。ちょうど、天気予報の時間でした。マルーセット島からすこし北に行ったところにある、ヴェッパ島という場所が、ひどい雨風におそわれているという話をしています。ヴェッパ島の通りに立っている天気予報のお姉さんは、いまにも吹きとばされそうでした。
「そんな」イーガンは、息をのみました。「わたしは、ヴェッパ島までは飛行機で来たのです。嵐なんて、近づいてはいなかった、風も海もおだやかだったのに」
「この嵐、まもなくマルーセットにも来るだろうよ。だけど、それはそれだ。いまの問題は、実のところ、今日パパ・ヤーガはヴェッパ島に仕入れに行っていて、いまごろは次の船がいつ出るのか、とほうにくれているだろうっていうことさ」
イーガンは気の毒なほど青ざめました。
「それでは、だれが竜を退治するというのです!」
「心配いらない」ミラベルは自信たっぷりに言ってブラインドを押しあげ、まぶしい日差しに手をかざしながら呼びました。「アズール! ジオ!」
裏庭の子どもたちが、ミラベルを見ました。
「ちょっと入っておいで」
この子たちふたりは、まるで正反対だ。
部屋の入口に立っているふたりの子どもを見て、イーガンはそう思いました。
イーガンと目が合うと、行儀よく会釈した男の子は十一歳ぐらいで、その年のわりには背の高い、賢そうな子どもでした。トビ色の髪はくせが強くて、耳のうしろの毛が、四方八方にはねまわっています。ヤシの葉のような深い緑色のタンクトップを着て、木のビーズをつなぎあわせて作ったブレスレットをしていました。本当なら、それは魅力的に見えなければならないはずですが、あまり似合っているように思えないのは、この男の子が血色が悪く、腕まで青ざめて見えるためでした。鼻は大きく、あごはのみでけずりこんだようにとがっていて、口もとは気持ちよく引きしまっていました。
けれど、なんと言っても印象的なのはこの子の目だな、と、イーガン・ハモンドは考えました。考え深そうな目は、たいへんめずらしい紫色で、妖精がガラス玉の内側で、沖の海の色の火を燃やしているように、ぼんやり輝いて見えました。
「紫色の目をした人はね」イーガンはとつぜん、亡くなったおばあさんが話していたことを思い出しました。「未来のできごとが見えるっていう、言い伝えがあるんだよ」
男の子は、お客様をむかえるのにふさわしいように、背すじをぴんとのばしていましたけれど、ちょっと身じろぎしたかと思うと、右目を指でこすりました。
そして、さあ。問題は、この礼儀正しい子のわきにいる、金髪の小僧のほうでした。
トビ色の髪のお兄さんより、ふたまわりも小柄な男の子は、非の打ちどころがないと言ってもいいぐらい、魅力的な姿の持ち主でした。金色の巻き毛はくるくると顔のまわりで踊りまわり、うす青色の目は、おもちゃ箱の中でものぞきこんでいるような、楽しさいっぱいの光をうかべて、部屋のあちこちを盗み見ていました。すべすべした頬はバラ色で、口もとにはえくぼがありました。プリントのTシャツには、ジュースかなにかをこぼしたしみがあって、運動靴のつま先には、かわいた泥がこびりついていました。いたずらっ子は、行儀よくするのは性にあわないとばかりに腰のうしろに両手をかくして、もぞもぞと体を動かしているのでした。
「アズールとジオだよ」
ミラベルはそっけなく紹介しましたが、アズールがまた目をこすったので、厳しい声で言いました。
「ジオ、またアズールに、なにかぶつけたんじゃないだろうね?」
「なんでもない」
すぐさま言ったのは、アズールのほうでした。ジオが一瞬、きまりわるそうな顔をしました。ミラベルは毛ほども信じていない様子で、ふたりの男の子をじろじろ見ていましたが、それ以上、むちを打つようなことは言いませんでした。
「イーガン・ハモンド、今度の仕事はパパ・ヤーガにかわって、この子たちが引き受けるよ」
かわりに、ミラベルはふたりの男の子をあごでしめして、そう言いました。まるで、いまの時刻は四時十五分だと教えるような、あたりまえの口調でした。
イーガン・ハモンドは、この店にやってきてからもう何度びっくりしたか知れないけれど、今度こそ最大の驚きを味わって、目をぱちぱちさせました。アズールも目を大きくして、ミラベルは本気で言っているのだろうか、という顔をしました。ジオの顔には満面の笑みが広がり、とびはねたくてしかたないというように、そろえたかかとをトン、トンと床に打ちつけました。
「カルブ・トゥールズ、では彼らも〈運び手〉だというのですか?」やっと口が利けるようになったイーガンが言いました。「まだ、子どもじゃありませんか!」
「そう、たしかにひよっこだ」ミラベルが言いました。「まだ、あまったれの見習いだけどね、ふたりそろえば竜相手でもなんとかなる、とあたしは思っている。だいたい、むかしは子どもだろうと〈運び手〉は〈運び手〉らしく、みごとに戦ったものだよ。〈衣〉をまとった幼子たちがたいまつを燃やし、闇を追って夜の浜を駆ける様子は、すばらしかったものさ。それに実際、パパ・ヤーガがもどらないなら、この子たちがやるしかない。本当は、もうひとりのうちの子も〈運び手〉なんだけど、その子はパパ・ヤーガといっしょに仕入れに出ている。なあに、ふたりだけでも、うまくやるさ」
イーガンは、これっぽっちも安心できない、というように頭を振りました。いくらこの子たちが本物の〈運び手〉だとしても、幽霊船から逃げた謎の生きものの退治を、こんな小さな子にまかせるなんて! この子たちが竜に食べられてしまったら、どうするんだ?
「ミラベル、ぼくたち、なにを殺せばいいの?」
うれしさのあまり、何度もトン、トンとかかとを鳴らしていたジオが、がまんできなくなって、うきうきしながら言いました。
「ジオ」アズールが、あまり不作法なことはするなよという気持ちをこめて言いました。
「ああ、あとで話してやるよ」
ミラベルがいつもどおり、ぶっきらぼうに言いました。殺す、などというおそろしい言葉をジオが口にしても動じない彼女ときたら、まったく、岩のようでした。
「さあ、イーガン・ハモンド。あんたの父さんのたのみごとは、あたしたちが引き受けた。あんたの役目は、これで終わりさ。ヴェッパ島の嵐がここまでやってきて、船という船が動かなくなるまえに、さっさと島を離れたほうがいい。なに、竜退治を見届けたいって? ばかを言っちゃあいけないよ。闇との戦いの場はあたしたちのものであって、あんたたちのものではないんだからね。あんたの父さんも、それぐらいはわかってくれるさ。まあ、そうだね。次の連絡船が出るまでは、うちでゆっくりしていくかい? 船のうえで食べられるように、サンドウィッチでも用意してやるよ」