〇1-7 はじめまして
まぶたの外で食器がぶつかる音がする。
何度かそれが繰り返され、誰かが片付けでもしているらしかった。キルカはなぜだかそれが懐かしくて、じっくりと聴いていたくなり、意識を徐々に覚醒させながら寝たふりを続けた。
身体の感覚から、いつの間にかキルカは居間の大きな赤いソファに仰向けになって寝ていたようだった。お腹の上にはタオルケットが掛かっていて、柔らかくて温かかった。自分の知らぬ間にソファで寝直してしまったのかもしれない。タオルケットは見た覚えがなかったので、誰かがかけてくれたのかもしれない。
静かだった。たまに歩く足音は小さくて、寝ているキルカに気を遣っているのかもしれなかった。
起きよう。
トマリの妹が来るのは明日のはずだから、トマリ本人か誰かだろう。
しかしふと、彼は「合鍵がない」と言っていたことを思い出す。
キルカはもぞもぞと隠れるように、ソファの背もたれ越しにキッチンをのぞいた。
赤い髪の女性の後ろ姿があった。肩あたりまでのセミロングヘアで、その髪は緩くウェーブがかかっている。皺のない白いシャツを着て、背が高めですらりとした体格。キッチンの奥の食器棚をいじっているようだった。
女性が振り返りそうだったので、キルカはしれっと元の寝る体勢に戻った。身体を包む薄水色のタオルケットからは、うっすらとヒノキの香りがした。タオルケットにくるまったまま第一声をどうしようか考えているうちに、ソファへ足音が近づいてきた。
「おや、おきてた」
目が合った。キルカは身を包んでいたタオルケットを畳んで、前髪を撫でつけながらソファに座り直した。
「おはようございます」
「うん。おはよう」
リビングの窓からのまぶしい朝の日差しを受けながら、女性がにこやかにうなずく。
赤い髪と、それよりも濃い赤のフレームの四角い眼鏡が目立ち、金の輪のイヤリングが揺れた。白いシャツと黒い細身のパンツで、仕事のあとのような姿だった。両手で黒いお盆を支えており、盆の上にはコーヒーカップなどの食器がいくつか並んでいる。
「カッコつけてコーヒーの香りで起きてもらおうと思ってたよー」
女性は柔らかい笑みを浮かべている。ソファの前の木のテーブルにお盆を置いて、カーペットの敷かれた床に両膝をつく。さながら子どもに目線を合わせるように、彼女はキルカを見た。
思わずキルカはごくりと唾を飲んで姿勢を正した。
なんだか大人の余裕のようなものを感じた。
「あ、あたしキルカです。キルカ・ヴァルカン。昨日トマリさんに案内されて……お部屋、いました」
「聞いてるよー。だから急いで帰ってきた。いやでしょ、女の子ひとりって」
女性は自分の前髪を整えた。
「私はアカギ・カギリ。アカギがファミリーネーム。あのうさんくさいトマリの妹。ややこしくなるから、下の名前で呼んでねー」
ようやくしっかりと目が合った。
眼鏡越しの彼女の大きな瞳のなかに、緑色の光が揺らめいている。普通の眼ではないことは本能的にわかった。
魔人だ。
「カギリさん」
「うん。よろしく、キルカちゃん」
カギリはお湯をキッチンから持ってきて、ソファの前のテーブルで静かにコーヒーを淹れ、キルカに差し出した。
渡されたカップから立ちのぼる湯気にキルカは目を細め、口をつけた。ネルドリップの淹れたてコーヒーを飲むのは初めてで、コーヒーの旨味のようなものをキルカは初めて感じた。昨日のカフェオレとはジャンルの全然違う飲み物に感じ、つい味を確かめるように飲んでしまう。
「あったかおいしいです」
「お。どんな味? くわしく聞きたい」
「うーん、なんか口当たりがまろやか……弱めの酸味がちょうどよくて、ぜんぜん苦くなくて、おいしさ味わっちゃう感じ……、あ、水よりするっと飲み込める?」
白いコーヒーカップを持ち上げながらキルカは黒い液面を見下ろす。
「へー、軟水だからかな。私は味覚だとかがへなちょこだから、コーヒーの細かい味とかのことはよく分かってないんだよね。大抵、豆嗅いで選んでる」
そういうものなのか。キルカは再度、温かいコーヒーを味わった。
「味がわかる子がいるならなんか書いてもらおうかなー。ほら、お客さまには結構豆のこと訊かれるんだけど、香りベースでテキトーに説明してるんだ」
「テキトーなんですか?」
「いい加減って意味ではないけどね。たぶん普通の味覚感とは違うから、お客さまのご期待には添えてないかもって思っててさー」
カギリは床に座ってゆったりした様子で、特段の距離感も感じさせないフラットな雰囲気だった。どこかトマリとも似ており、血縁なのも納得がいく。どちらかといえば、カギリのほうがもっと平坦な印象だ。
「でもコーヒーは好きだから続けられてる。ちょっとは喜んでもらえてるもんねー」
自分で淹れたコーヒーを満足そうに飲むカギリ。明確に好きなものがあるのはうらやましかった。
キルカとカギリはソファに一緒に座ってしばらく話した。お互いの細かい身の上の話はせずに、カギリの店の話を中心にして。
店は彼女が形式上の店長で、トマリがオーナーをしており、会計などの財務は彼がやりたがるので丸投げしているそうだった。それゆえに客単価の高い夜の営業を積極的にやるよう指導が入っており、カギリもコーヒーのためにバー営業をこなしているらしい。
客に魔人が多く、バイトがすぐやめてしまうというのはトマリとカギリの共通課題のようだった。時間限定の日雇いバイトで繋いでいるようだが、なかなか定着はしないらしい。キルカは酔った客の相手や厄介な相手、荒事にも耐性はあるので、その点は問題を感じなかった。
「じゃあよし面接おわり。ごうかーく」
「えっ! いまの面接だったんですか?」
「一応面接したって形の方がよくないかな。私は面接をしてキルカちゃんを採用した。すごくシンプル」
「それは、たしかに」
曖昧な流れよりは健全なのかもしれない。なにより遊郭に入れられた経緯こそ全てが不明瞭だった。あの時は母に言われるがままで、生活の延長として受け入れていたというのもあるけれど。
「ちなみにキルカちゃんて料理できる?」
「ぜんぜんできません」
「いっしょだ。私なんか、ちゃんと飲食のお店出すための資格も取ったのにねー」
くすくすと笑った。
「出来合いのものとか出前で済ませちゃってるんだけど、やっぱりお店らしくするにはそこが課題?」
カギリはぽつりと呟いた。キルカに対してなにかしらの期待や要求をするような素振りではなく、身構える必要はなさそうだった。
名乗ってから一時間も経っていないなか、キルカはカギリの持つ雰囲気に一方的に居心地のよさを感じた。トマリはカギリについて人付き合いが下手と言っていたことを思い出すが、そうは見えなかった。
「よーし、とりあえずお昼から服買いにいこー」
「服?」
「うちの接客用のやつ」
「もしかして支給してくれるんですか?」
「するするー。いい感じのやつ選ぼう」
「やった」
「お。乗り気だー」
カギリがキルカに向ける視線は、欲望でも好奇でも敵意でも期待でもなかった。
瞳はしっかりこちらを見て逸らさないけれど、探ってくるようなものでなく、穏やかな感情しか感じられない。
キルカにとって彼女は、今まで出会ったことのないタイプの人間のように思えた。
緊張する場面が多かった生活だったこともあり、彼女と話すほどに少しずつ身体がほぐれる気がする。
この人のそばなら大丈夫そう。と、つい考えてしまうくらいに。
「そうだカギリさん、お店の名前きいてもいいですか。服の雰囲気合わせられるかも」
「うん。それいいかもね」
カギリはふんふんと頷きながら腕を組む。
「店の名前は『みちる』。何年か前に亡くなった兄の奥さんと同じ名前なんだ。いい名前だよねー」
「えっ……。……そう、なんですか……」
聞き違えかと思った。
あまりにもさらりと言われたことに違和感を覚えながら、キルカは静かにソファに座り直した。




