〇1-6 ひとり
ルナは笑顔を見せ、シンジュクの街のなかに消えていった。
キルカは、できるだけ何も考えないように何度も深く早い呼吸をした。のどの奥が震えて、身体の芯が焼けるように熱かった。
トマリは車の助手席のドアを開ける。
「急にノコノコやってきた僕にも責任がある」
彼は自分の後ろ髪を何度か撫でつけながら、キルカの顔を見ずに呟いた。
「とりあえず乗って。誰がなんて言ったって、君は僕の恩人の娘さん。いまのルナさんの話についても、少しだけ補足したい」
キルカは思考したくなくて、足に力が入らないまま助手席に乗り込んだ。ハザードの音が無機質に鳴り続ける車内には余計なものが一切なく、この車がレンタカーであることに気付いた。
トマリが運転席に乗り込むと、エンジンが掛かって車が揺れる。
「勝手で悪いけど。キルカさんには一旦、僕の妹の部屋に泊まってもらおうと思ってるんだ。妹にも連絡はしてて、了解は得てる」
キルカは返事をせずに目を見開いて、フロントガラスから見える昼の街の景色をひたすら眺めた。呼吸をゆっくり整えた。どうしても、まばたきをしたくなかった。
「うちの妹ね。ちょっと人付き合いが下手だったり色々あるんだけど、キルカさんにはちょっとの間……あ、気に入ってもらったらしばらくの間かな、僕のもってるお店で、妹と一緒に働いてもらおうと思ってる。行き場がないなら、だけどね」
キルカはため息をついた。
「風俗?」
「ちがうよ。シンジュクのカフェバー。お昼は喫茶店で、夜はバーのお店。妹は昼だけやりたいってちょっと前までは言ってたんたけど、経営のこと考えると夜もやる必要があって、まあまあ忙しいんだ。だけど夜の営業中はやんちゃな魔人が多いっていうのもあって、バイトの人が定着しなくて困ってる」
「あたしがちょうどいいってこと」
「その通り。ヴァルクさんに恩返ししたいのは本当なんだけど、君の様子をみていると、ただ保護してやるぞーなんて言われても嫌がるだろうとも思ってるから、交換条件ということにしようか」
「交換、条件……」
「あとで部屋を借りるからしばらく働いてよ。それで落ち着いてきたらまた考え直せばいい。僕は知らなかったけど、ゆっくり考える時間って人生には結構大事みたいだから」
しばらく車に運ばれた。二人とも無言であったけれど、トマリは平然としていたため窮屈な空気ではなかった。
キルカはとりあえずトマリの話に流されてみることにした。
これが嘘なら、不満があるなら、全部ぶっ壊せばいい。
たぶん自分にはそれができて、そう思われるような存在なのだ。先ほどのルナの顔を見て、自分への認識を改めるべきだと考えた。
「……鳴牙組のサクライと他数人はね。例の日の騒ぎを起こしたことが遠因になって、結果的には組から除名されている」
唐突だった。
キルカは目を丸くしてトマリを見た。彼は無表情に正面を見ている。
「【ジュリエット】でお世話になっている人にも結構色々種類がいるんだ。その日のあと、店の常連で集まってサクライたちをどう吊るし上げようかって話も起きたくらいだよ。よくないフィルムのクリエイターも面白がって手を挙げ出したから、結果的に有耶無耶になったんだけど」
何故経緯を知っているのだろうか。しかし話の腰は折れない。
「それで……、わき上がった話をおさめて、サクライをこの界隈から排除させるように手を回していたのがリルハさん。僕に久々に連絡が来たのも、だいたいその頃になる」
キルカは自分の肩を強く掴んだ。
「サクライについてはそんな経過があった。だから、君は責められるような立場ではないよ。例の日だってリルハさんがサクライをどうにか収めたとは聞いているし……君が思っているほどのことは起きてない、と思うんだけど……」
また鼻の奥が熱くなってしまった。
「さっきのあの子も、もう少し状況はわかっていると思う。ただ色々なタイミングもあって掛け違えてしまったのかな。ほら、こんな胡散臭いおじさんと一緒にいるの見られたわけだし、そこは申し訳ないよ」
「……いえ。ていうか……トマリさんって何やってる人なんですか。普通の人じゃないですよね」
「普通にカフェバーのオーナーだよ。前職は医者で……あ、強いていえば娘は溺愛してる。六歳なんだ。妻に似ていてとっても可愛い。医者やめた理由も娘と居るため。あとで待受みる?」
くすくすとトマリは笑う。
「要するに僕はそういう親バカおじさん。ちょっと友達は多いかもね」
◇
トマリの運転する車でキルカの暮らしていたネットカフェに寄り、必要な荷物を回収して大きなスポーツバッグに詰め、あとは捨てた。
「ここが妹の部屋だよ」
トマリに案内されたのはマンションの二階で、2LDKらしい普通の部屋だった。
玄関には黒いパンプスが一足だけあり、部屋用のもふもふしたスリッパが無造作に落ちていた。居間への廊下はほとんど物がなく、居間に入ると大きく赤いソファが目立って、それ以外はどこででも買えそうな白い住宅家具一式がずらりと並んでいる。
ゴミの類はないがインテリア雑誌や服が散らかっていた。個性的なものはないものの、部屋の匂いやティッシュ箱などの小物に花や動物の意匠が見られ、女性らしさが伺える。
「休養を兼ねた豆選びで、妹が帰ってくるのは明後日の予定。妹は独り暮らしで、この部屋で好きにしてていいって言ってたから、しばらくのんびりしていきなよ」
トマリは部屋の端で立ったままだった。これで好きにしろと言われても非常に居心地が悪く、キルカも荷物の入った大きなスポーツバッグを肩に提げて突っ立っていた。
「ええと。座らないのかな」
「だって人のお家だし……」
「座るの苦手?」
「そんな人いるの」
「いる」
いるんだ。じゃあ自分も苦手だ。
そのまま二秒ほど経って、トマリは目を丸くした。
「そうだね鍵渡してなかった」
変な形の赤いモグラのキーホルダーが付いた鍵を差し出してきたので、キルカはおずおずと受け取った。
「よし。合鍵はないから落とさないように。これから僕も忙しいから、妹が帰ってきたあとで仕事の話をしよう」
「えっと……」
「リルハさんには僕から連絡をしておくよ。なんとなく、返事は来ない気がするけど」
ではまた。と、トマリはあっさりと居間を出ていき、すぐさま玄関のドアが締まった音がした。
「あれ、こっちの連絡先とか……、まじか……」
トマリのことを信用したわけではなかったが、本当にただこの部屋に連れてくるのが目的だったらしい。もちろんまだこの部屋にトマリと入れ替わりで誰かが押し入ってきて、キルカに襲いかかってくる可能性はある。
とりあえず玄関に行って、音が立たないように鍵を閉め、チェーンをかけてみた。
外には誰の気配もなく、平日の昼はただ静か。キルカが動くのをやめると、しんと空気が止まる。
キルカが休む場所は駅や公園やネットカフェが中心で、稀に時間の都合で女性専用カプセルホテルに泊まるくらいだった。
遊郭の借り上げアパートの寮でも常に誰かがいた生活で、ここまでパーソナルな空間が与えられるのは父がいたときのマンション暮らしだった頃。もう六年ほど前になる遥か昔のことで、いま独りでいることには違和感すらあった。
どうしたものかと考えつつ、居間の隅の床に座ってスマートフォンに触った。
昨日からほとんど寝ていなくて意識を失いそうになり、気付いたらスポーツバッグを枕に床に寝ていた。
「!」
目を覚ました。部屋は静かで暗かった。
自分が一瞬どこにいるか分からなくなり混乱して、壁際に身を寄せた。
他人の部屋の中で活動するのはなんだか忍びなくて、荷物を持って外に出た。近場のコインランドリーに行って手持ちの服を全部突っ込み、そのすぐそばの銭湯に行ってゆっくりと時間を潰した。直近の出来事を咀嚼するように、自分の行動の正否を意味もなく考えた。
ランドリーで服を回収して、コンビニで身支度用の道具や甘いカフェオレと菓子パンを一つずつ買って部屋に戻ってきた。
やはり誰も居なかった。ドアに紙を挟んだり、足元にティッシュ箱などを置いたりしてから部屋を出ていたが、キルカがいた状態からなんの変化もなかった。
とりあえず、ドアをロックした。
ひとりだ。
部屋の隅に座った。春の夜は少し寒くて、暗い部屋にスマートフォンの光だけが灯る。最近のニュースを眺め、昨日のキルカの暴行動画がどうなったか少しだけ気にして、検索してみるのはやめた。
たぶんキリがない。ルナの様子からすれば、もう削除しているかもしれない。
自然と今日のルナの顔を思い出して少し心臓の鼓動が速くなり、何度か深呼吸をした。
こんなふうに落ち着かないとき、たくさん呼吸をするとよいというのは、父に教わったものだったことを思い出した。
「……ぅ」
胸が苦しくなり、うめき声のようなものが胸からせり上がった。もっと未来のことを考えたいのに、勝手に過去ばかり振り返ろうとしている。振り返ったところで今につながるものはほとんどないのに。
座ったまま、身体を横に倒してスポーツバッグに顔を埋め、できるだけ静かにうめいた。誰にも声を聞かれたくなかったけれど、勝手に声が喉奥からあふれてきた。
他人は自分が強いと言うけれど自分は弱い。
ただ力が強いだけで、弱い自分のことをうんざりするほどよく知っている。たまに眠れなくなる夜、もやもやとして苦しくなる。何も考えず眠るために、ひたすら働いて敢えてクタクタになった日も、家無しバイト生活のなかでたくさんあった。
今も自分がなさけない。母の連絡先は新しいスマートフォンには無かった。トマリの話を聞いても、いままでの母の意図や、会った時の接し方が想像できなかった。会えばまた顔を殴られるのではないかと、ただ恐れてしまっていた。
自分の居場所が見いだせなかった。
しかしそれでも今、こうして安全な場所にいられるのは父のおかげらしくて、その理由もよくわからない。ルナの怒りを買うような「なにか」に恵まれてしまっている自分の適切な立ち位置は、とても見えてきそうになかった。
スポーツバッグの中の服は、コインランドリーの洗濯乾燥機のおかげで優しい香りがして、乾いた熱がこもっていた。
キルカはその温かさを強く抱きしめ、胸から溢れて出てくるものを噛み殺した。




