新たな婚姻
王子であるマティアス・ファン・アールセンは、長年煩わしかったヘルディナ・ローデンビュルフとの婚約を取り消した。そして国の光であり、彼の愛しい聖女、ステファニー・カルス男爵令嬢と婚約を結んだ。
男爵令嬢であるステファニーとの婚約の取り決めは、それは苦労を強いられた。なんとか父であるマールテン・ファン・アールセン国王を説き伏せて、ヘルディナを追いやって空席にした枠にねじ込んだ。
国王は何度も王子へ、『ローデンビュルフ家との婚姻は、国にとっても重要なことだ』と説明をしたが、恋慕の情を抱く息子は折れようとしない。
聖女であることを押し通せば、マールテン国王も最終的には折れた。
聡明であり、いつもマティアスを説き伏せているマールテン国王が折れることは珍しく、これはマティアスの自信を増幅させる一因にもなった。
彼にとって悪女たるヘルディナは、巷で話題の悪魔の巣窟と言われているギルドの管理をするため、追放された。
当然の報いだろう――マティアスはそう思っていた。
いくら優秀なヘルディナであっても、あの恐ろしいギルドでは一日と持たない。
生まれてからずっと貴族令嬢として過ごしてきたあの女のことだ。すぐに逃げ出して、父親であるテオドール公爵へ泣きつくに違いない、そんな甘い考えで。
マティアスにとって、聖女であり愛しのステファニーと結婚が決まったことは、強みである。
聖女でもない〝小煩いだけの公爵令嬢〟になんぞ、付け入る隙はないと考えていた。
「マティアス、はい。あーん!」
「ふふ、あーん」
「美味しい? わたし、これとーっても好きなの」
「あぁ、美味しいよ。ステファニーが食べさせてくれているから、余計に美味しく感じる」
「きゃーっ♡」
このコロコロと変わる表情が、マティアスにとってはなんとも愛らしく感じる。小鳥のような声色は、マティアスをいつも安心させた。
あの仮面のような計算された表情の、ヘルディナとは大違いだ。会うたびに小言を聞かせてきたあの女。思い出すだけでも吐き気がする。
「マティアス……」
「どうした?」
「お願いがあるの」
「どんな願いだ、言ってみてくれ」
「あのね……」
ステファニーは声を震わせながら、ヘルディナに対する恐怖を語った。
羅列されるのは、腸が煮えくり返るほどの悪行。成り上がりの男爵令嬢だからと、礼儀がなっていないからと。
ヘルディナがいなくなった今でも、夢を見るらしい。うなされて汗だくで起きて、もう二度と害されないはずなのに。
だからそんな恐怖から逃れるためにも、ヘルディナには〝仕置き〟をして欲しいと頼んだ。
「お仕置き、か……」
「何か王家の秘密の依頼とかないかなぁ? 難しくて、ヘルディナ様でも嫌がりそうなものが良いの」
「分かった。探して依頼してみる」
「どんなのを依頼したか、わたしにも教えてね?」
「ああ、もちろんだとも」
マティアスは調子のいい返事をしたが、実際はそう簡単なものでは無かった。
鋭い父・マールテンの目を逃れながら、重要書類を読み漁るのは至難の業。
しかし幸運にも、最近の国王は体調を崩して寝室から出てこない日も多くなっていた。マティアスはその好機を逃さず、部屋に忍び込んで書類を漁った。
冒険者ギルドなどに依頼をした書類の写しを見ていると、そこに飛び込んできたのは過去に依頼をしたドラゴンについて。他の著名なギルドに断られるほどの、高難度の依頼だった。
それを見つけた瞬間、マティアスは笑みを深くした。
早速大金を積んで、ヘルディナのいるブラッディ・ベアへ討伐依頼を提出した。
「ほう。お前の仕込んだ書類に目を留めたか。あの馬鹿王子も役に立つ」
「……」
「今後も国王と王子への対処を任せたぞ。〝紅茶〟が切れたら、また言うといい。手配しよう」
「……まだ頂いた在庫がありますので」
彼の名前はコーバス・カルス男爵。
もとは爵位のない商人だったが、その手腕で大金を手に入れて爵位を買った。様々な事業に手を出して、金のためならばどんなことでもやってのける。
王国を裏で支配していると言っても過言ではなく、たいていの物には彼の名前がついて回る。生産であったり、輸送であったり、販売であったり。どこかで彼が関わっていることが多々あった。
彼が富者になってから手に入れた土地では、上質で十分なほどの魔石が取れる。
魔石とは、魔法を使えない若しくは魔力が微弱な人間にとって、魔法を使うためのアイテムのようなもの。
剣士の才能はあっても魔法が使えない兵士のために、軍の支給品として与えられたり、貴族達の日々の生活を楽にするための魔法道具として組み込まれたりする。
アールセン王国にとっては、なくてはならない存在なのだ。
その殆どを、カルス男爵は牛耳っていると言っても過言ではない。
そしてそんなコーバス・カルスの娘が、かの聖女であり新たな王子の婚約者――ステファニー・カルスである。
「それにしても、あの年寄り。なかなかしぶとい。まだ倒れそうにないか?」
「王宮魔法使いも常駐しておりますから、体調不良にはいち早く対処しているのでしょう」
「ブレヒチェを解雇したが、まだ〝駄目〟か。まあ、あまりに急激な体調変化だと、逆に魔法使いをより動かしてしまう。気付かれては元も子もない」
王宮に勤める魔法使いは、王家に仕えて戦うのもそうだが、医師では感知できない魔法や魔力による体調不良にも対処する。
魔力の使いすぎで暴走しかけている王族を落ち着けたり、戦闘で負った魔法による傷の処置をしたりなど、様々だ。
多様なことに対応する必要があるため、魔法使いの中でも最も優秀な人材が選ばれる。
ブレヒチェ・オンネス――またの名をブレヒチェ・アルテナは、その優秀な魔法使いの中でも更に秀才。
魔法全般を得意としており、彼女が一人いれば戦争は安泰と言われるほど。
そんな彼女が王宮から出ていったのは、彼女の意思ではなく追放されたからだ。
「……ふん、まあいい。煩わしい公爵の娘も消えた、計画は順調。私もお前を育て上げた甲斐があったというわけだ」
「ですが、お父様……。獣人虐殺の件を王家に擦り付けるというのは――」
「はあ?」
「……ッ」
ステファニーは『しまった』と感じた。その予想は的中し、コーバスは気分の良さそうな表情から一転。
高く拳を掲げると、力のままにステファニーを殴り始めた。ステファニーは抵抗をすることもなく、ひたすら身を小さくして己を守っているだけ。
機嫌を損ねたコーバスへ、抵抗の意思を見せればより厳しい仕置きが待っている。引き取られた数年間でよく学んだことだ。
ただ静かに彼の気分が落ち着くのを待つ他ない。
「お前がッ、どこで、何をしていたと思っている! 掃き溜めから拾い上げて! ここまで育てた親への恩を忘れたかァ!? そのお前の大切な掃き溜めをどうにか出来る私に、口答えをする気かぁあ!?」
「うっ、ぐっ、……もし、わけ……もう、しわけござ…いません……! 申し訳ございません……!」
ステファニーは殴られているのにも関わらず、頭を地面にこすりつけて、許しを請うた。
心の底から許してほしいわけではなく、こうして醜く縋れば、コーバスが気分を良くして早めに切り上げるからだ。これは引き取られて数ヶ月ほどで学んだ、〝生きる術〟である。
ステファニーの予想通り、情けない姿を見せればコーバスの手が止まる。
全身が打撲でじくじくと痛み、身動きもままならない。
コーバスはハンカチを取り出して、己の拳を拭った。ぼんやりと見ていたステファニーは、そこに血液が付着しているのが見えた。
これはコーバスの血液ではなく、ステファニーのものだった。気付かぬうちに、血が出るまで殴られていたようだった。
コーバスは自分で殴ったというのに、血を流しているステファニーを不愉快そうに眺めている。
「チッ、傷は治しておけ」
「ゲホッ、ゲホ、……はい……」
彼はステファニーを立たせてやる様子もなく、部屋にあった鏡を見て身なりを整える。少しの〝運動〟で乱れてしまった服を直して、髪型のチェックも怠らない。
怒りに満ちた表情も、鏡の前で調整をする。口角を少し上げて、微かに笑えば。愛想の良い商人の出来上がりだ。
「私は午後から商談がある。お前もせいぜい、あの無能王子の相手でもしておけ。……ああ、そうだ」
「……」
「子でも成せば、より上手くいくだろう?」
コーバスはそんな言葉を吐き捨てて、部屋から出ていった。
――ぞっとした。
この男の手駒として、人生のピースの一つとして行きてきたステファニーであったが、その扱いは最早娼婦だ。
王子の子を孕み、関係を確かなものにさせれば、婚姻――さらには王家に取り入る理由として、より強いものになる。
世間一般での認識の〝ステファニー・カルス〟からすれば、王子との子をもうけて結婚をすれば、さぞ嬉しいことだろう。
だが本来の彼女にとっては、地獄でしかない。
(〝あんな男〟と……寝ろと? この下衆が……!)
ステファニー・カルス。本当の名前を〝スー〟。
親の顔も知らない、ファミリーネームもない、スラムで育った孤児。
いち早く聖女の力を発見したコーバスによって、スラムから引き取られた少女。
当時、幼く教養もなかった彼女は、コーバスの言葉巧みな誘いを断れなかった。定期的なスラムへの支援を持ち出されれば、慈悲深い聖女の素質のある彼女はすぐに養女となった。
しかしそれはコーバスによる嘘であり、はじめの数ヶ月はごく少量の寄付こそあったものの、ある時からパタリとなくなった。
それだけではなく、淑女として教育を受けて知恵を持ち始めたステファニーに対して、『反論するのならばスラムを取り壊す』と脅し始めた。
実際にその頃には、コーバスの社会的地位や商人としての認知度は上がっており、ステファニーが声を荒げたところで聞いてくれる人もいなかった。
味方が誰もいないなか、ステファニーはただ与えられた仕事をこなすだけ。
スラムにも良くしてくれる――尊敬しているローデンビュルフ家の公爵令嬢を蹴り落とし、愛してもいない頭の悪い王子を騙して愛した。
年を経るごとに、ステファニーは汚れていった。内側がじわじわと、汚染されていく。
スラムにいた頃は、劣悪な環境と貧しさはあったものの、幸せだった。血は繋がらずとも家族がいて、楽しく笑っていた。
(……ふっ、あははは。汚れた聖女の私を助けてくれる人は、いないのかな……)
戻りたいと何度願っただろうか。
聖女の願いは聞き届けられず、静かな部屋に一人の泣き声が響くだけだった。




