子供達の、始まり
ロクは見た。
《岩鳥の巣亭》の一階で行われている授業の本日の内容は、熊のお兄さんによる歴史の話だった。
ロクは書き写すための紙束が切れてしまったので、代表として宿舎に取りに戻ってきていた。
そこで目撃してしまったのだ。
エドガー社長が、空を飛んでいた。
ロクは知らなかった。考えたことも無かった。
人は、空を飛べるのだ。
『なんでじゃあああーーー!?』
エドガー社長すらも予想外のことだったのだろうか。
悲鳴を上げていた。
「社長やべー!!」
それはエドガーの身体を心配してのことではない。
羨望からの感想だった。
思えば、初めて会った時から理解の外にいる人だった。なんとなく凄い人なんだとは思ってはいた。
しかし、ロクはこの時初めて実感した。
エドガー社長は、空を飛べる!!
マトモな人間じゃない!!
『ムササビの術……ぜ!!』
あれは、魔法だ!!
魔法の名前を叫んだ!!
社長は魔法使いだったんだ!!
ロクは興奮していた。
屋敷の屋根に墜落したエドガーを後ろ目に、ロクは《岩鳥の巣亭》へと全速力で走り出した。
みんなに報告だ!!
「社長やばいよ!!マジでやばいよ!!」
「…一体何をされましたか、ロクくん。というか、ノートは?」
「そんなことより、みんな見に来て!社長空飛んでた!!」
『見に行くーー!!』
「…いなくても、掻き乱してくるのですね、あの人は…」
嘆息するハンシイ。
熊の大きな背中は、悲しさを漂わせていた。
暖かい教室の中には、今日はラミ子が控えていた。
とぐろを巻いて省スペースに努めるラミ子に、女の子が二人へばりついており、とぐろの中には一人隠れている。
ラミ子は巨大だが、生まれてまだ一年も経っていないので、なるべく授業を受けるようにシフトを組んである。
「…しゃちょー、空飛べたのかな?」
「ラミ子ちゃん、見たことないの?」
「うーん。無いけど…」
「じゃあ、飛べるように進化したんだよ!」
「おお…進化…!」
「ラミ子ちゃんも空飛べる?」
「羽根が…生えれば…!」
教室内の誰の頭にも、羽根が生えて空を飛び回る怪人の姿が思い浮かべられていた。
黒いコートをはためかせ、肉を焼いて煙草をふかす、髪の薄い中年男性。
よく分からない。
「…おとうさま…!?」
頭の良いベラだけが不穏なものを感じて、すぐさま走り出した。
「ラミ子ねえさま!おうちに戻ります!来てください!!」
「おえ!?あ、あいさー!!」
「みんなも行こう!」
「いやいやいや…ロクくん。みんなは勉強ね…」
「いいえ、ハンシイ先生!行きます!」
「え、なんで」
彼らは今までずっと、大人しかった。
子供らしくない、その大人しさを心配するよりも、従順に授業を受けてくれる楽さをハンシイは喜んでいた。
特にこのロクは吸収力も良く、与えられる知識を貪欲に求める、良い生徒だった。
「なんかこう…そうするべきだと!それも、みんなで見るべきものが、あると思いました!だから行きます!」
「あ、はい…」
ハンシイはすぐ折れた。
せめて、引率として着いていくことにした。
給料を貰っている手前、放置するわけにもいかないのだ。
とぐろジャンプで高速移動するラミ子に抱えられて、ベラはエドガー邸へ急いだ。
後ろをついてくる子供達、総勢21名。
ロクは既に往復しているというのに、目をキラキラさせて走っている。楽しいものを見つけた子供というのは、ほぼほぼ無限の体力をもつ。
他の子供達もみな、面白そうなことに惹かれ、真冬の寒さも関係なく走っている。
ハンシイは強靭な肉体でありながら、歩みが遅い。
興味が無いからだ。
子供達のはしゃぎようを見て、むしろ心が冷めてゆく。
大切なことは自分が教えてやれる。
その自分の教えより、何を優先するというのか。
ハンシイが旅をしていたのは、啓蒙のためだ。それも、目の前にいる子供達のような、先のある人間への。
非加盟部落に生まれ、今日明日の食事にも困る生き方を強いられる民を見てきた。
大きな国に生まれ、不自由な生き方をする民を見てきた。
その中の富裕層に生まれた者達はというと、実は酷いペテンの中に組み込まれ、実はどこにも幸せな民などいはしない。
ハンシイは、世界を変えたかった。
そのための手段が教育だ。
富める者の庇護に入り、生活を安定させ。その近辺の者へと高度な教育を施すこと。それがハンシイの望みだった。
エドガーという男に会い、志を共にする者だと思った。だが、少し方向性が違うのかもしれない。
彼は、即物的に過ぎる。
だからと言って、今の環境は捨てがたい。
折り合いをつけていくしかないのだが…
『おとーさん!!』
ラミ子の金切り声が響き渡った。
「ぬ…むう…生きてるよ…」
「ああ、おとうさま!一体、何が…!」
エドガー邸の新たに建築された宿舎の程近く、厨房専門の建屋の側に、エドガーは倒れていた。
「…ちと、無理をしちまった。悪いが、寝るわ…」
「お怪我は!?何があったのですか!」
「背中、結構打ち付けた…あと、頭が…悪い」
「それはいつものことでは」
「おお、熊公…ちょうどいい、近くにデケェはりねずみがいる。解剖してもらいたい。あれは、お宝かもしれねえ」
「…お宝、ですか?」
「ああ。とんでもないお宝かもな…とにかく、捨てんなよ」
「はあ…まあ、じゃあそうします」
「ベラ…ラミ子ちゃん…中にラシャがいる。調子悪そうだから、見てやってくれ…」
「…おとーさん…また、あれやったの…?」
「ああ…正解。だから…寝る…わ…」
「うん…ちゃんと、起きてね…」
「うい…」
エドガーは盛大ないびきをかきだした。
脳に大きなダメージを受けた時、人はこうなることがある。
「…ラミ子さん、彼は以前にもこういった…?」
「うん。だから、多分だいじょーぶ」
「そうですか…」
エドガーの頭を抱えて青ざめているベラに、ラミ子が安心させるために語りかけている。
脳障害のことを、ベラは知っているようだ。
ラミ子が大丈夫だというので、それを信用して介抱することにした。
この寒空の下では、脳が無事でも低体温症で命に関わることもある。他にも外傷があるなら治療すべきだ。
幸いハンシイには医療的知識がある。
だからと言って脳障害をどうこうできるわけではないので、できることをすべきだ。
エドガーはラミ子が抱えて、屋敷の中へと運んでいった。
「…はて、子供達はどこへ?」
「これ、甘いぞおおお!」
「ホントだあああ!」
「これ、キミたち」
夥しい体液を流して鎮座する巨大な獣に群がり、躊躇い無く異物を口にする子供達にハンシイは戦慄した。
それはまさにハリネズミ。
サイズはともかくハリネズミ。
「ええと、その…落ちてる物を食べてはいけませんよ?」
「大丈夫!アルコール消毒しました!」
「だからと言って!?」
驚くべき速さで厨房から除菌剤を確保してきたようだ。
それにしたって、得体の知れない獣の一部を、舐めてみるのはどうかと思うが、調理の一環として食肉の解体を覚えた子供というのは、何かタガが外れたところがあるのかも知れない。
野生の熊か何かじゃあるまいし。
「ハンシイ先生!」
「あ、はい、なんでしょうか」
「空飛びましょう!」
「………」
目をキラキラさせながら、ロクは言った。
ハンシイは泣きたくなった。




