エンカウンター♯2
「な・ん・で・じゃああああ!?」
空を飛ぶ。それは人類の夢ではある。
人はいつか重力の垣根を越え、月へと至る…
それは、魚が陸へ上がり、両生類に進化したのと同じように、人類にとっての進化に違いない。
だが海から陸に上がり、また海へと帰ったという鯨のように、人は大地を離れては生きられない。
まあつまり、高いところは危険ということだ。
駿馬の視界には、屋敷の屋根が映っている。
屋敷の本棟は二階建だ。
駿馬は今、ざっと地上十数メートルを浮いていた。
そう、浮いていた。
跳ね飛ばされたとか、投げ飛ばされたとかではない。
まるで宇宙を遊泳するような、頼りない感覚。
重力を失ったように、浮いていた。
あまりにも異常な事態に困惑を極めた駿馬は、切り札を使うことにした。
「【評価】、【簒奪】、【移譲】!」
自身の上着を評価する。
厨房で使うための調理着。汚れと熱に強い、質実剛健な一品だ。
その価値を【評価】で引き出し、【簒奪】で奪い取り、【移譲】で自身の脳に与える。
人は死が間近に迫る時、走馬灯を見る、あるいは時が止まったような感覚を得るという。
それは脳がリミッターを外し、高速で機能することで起こす奇跡。
駿馬はそれを意図的に起こした。
今、駿馬は限りなく無に近い時間の流れの中で、思考だけを行う特権を得た。
(…これやっちまうと、後が続かないんだがな…しゃあねえか…)
それは無理がある行為だった。
布の持つ価値が脳の機能と適応するはずもない。
だが、そこを無理やり通すのがこの能力。【価値の簒奪者】だった。
しっぺ返し有りの万能能力。
駿馬はこの後数分で気絶するだろう。
(さあて、状況を整理しようじゃないか、エドガーさんよ…)
あまり時間が有るとは言えない。
続ければ続けるほど脳がダメージを受けるのは自明。
ただでさえ良くない頭に負担を強いているのだ。
必要なことだけを考えるべきだ。
敵、巨大なハリネズミ。何故かいきなり湧いて出た。
何故か…いや、これは余計だ。
対処方法。殺害、無力化、追い払う…何か武器。或いは逃走、避難…
いや、それよりまずは。
(なんで空飛んでんだ!?)
地上十数メートル。落下すれば即死とまではいかないまでも、骨折や内臓損傷。首や頭から落下すれば即死もある。
(…あのハリネズミがやってる、ってことか…?いやいやいやいや!あるかそんなこと!いやしかし、他に原因も無いか…)
謎の予備動作。貧乏揺すりめいた動き…
今考えると、発電でもしてそうな動きではあった。
電気ナマズのような発電機関を備えていたのかもしれない。
発電したからといって、何故駿馬が宙に浮かされねばならないのかサッパリだが、常識的な生き物の範疇に収まるとは考えない方がいいだろう。
実際に今駿馬は宙に浮いている。そういう能力を持っていると考えるべきだ。
となると…
(あ、このまま落ちたら、下にハリネズミが控えて串刺しって流れか…)
なるほどなるほど。背中にある針山を有効に活用するには、獲物を空に浮かべて落とせばいい、と。
やはり野生の獣の生態は理に適っている。
(って嘘つけ!!)
脳内一人ノリツッコミをしている時間は無い。
魔法だ。もう魔法ということで対処しよう。
駿馬とて魔法めいたことをしているのだから、魔獣だって魔法の一つや二つ使うだろう。
火を吐く生き物には遭遇したことがある。
腐食毒を生成する生き物にも遭遇したことがある。
珍しくない。全然珍しくない。
馬の身体から人の上半身が生えるより、重力をいじられる方が全然あり得る。
(オーケーオーケー、重力魔法な。大丈夫。若い頃は結構ゲームもやった。重力ゼロ倍とかそういうことな。ブラックホールとか作られるより全然僥倖だ)
どうやって、なんて考えても仕方ない。
それよりも生存のための方法を考えるべきだ。
おそらくあと数秒のうちに、駿馬にかかる重力は通常に戻るだろう。
ハリネズミに串刺しにされるか、地面に打ち付けられてからトドメを刺されるかの違いであり、落下すればゲームオーバーだ。
落下してはいけない。
(…いや、してはいけないっても…)
落下の衝撃を逃す方法はある。衝撃を分散させるのだ。
まずは普通に脚で落ちること。その際膝を曲げておき、あまり踏ん張らないようにする。そして膝を地面につき、次は腰、次は肩…というように、転がるように順番に衝撃を流していくのだ。一瞬のうちに。
パラシュートで降下した際に衝撃を逃すあれだ。
駿馬には当然出来ない。
それに、下にハリネズミがいた場合普通に刺さる。
(…無理!)
空を飛んで逃げる。
幸い布を持っているので、こう…ムササビのように。忍者のように。
(…無理!)
ジェット推進。
体内のガスの価値を上げて、こう、ブーッと。
(…下品!)
思考が残念な方向に流れてきてる。
どうやら限界が近いようだ。
(なんかねえのか!なんか!)
藁にも縋る気持ちで、脳に与えた価値を目に少し移していく。視力が上がり、情報が脳に飛び込んでくる。
同時に、世界が少しずつ動き出す。
思ったとうり、ハリネズミが此方を見上げて、落下予定地点に移動しようとしていた。
串刺す気だ。
だが、そんなに上手くいくだろうか。
重力が無いということは、風の影響でかなり誤差が出るはずだ。駿馬が元いた場所に落ちるということは無いだろう。
落下している時は重力有りなので、あまりズレない。そこでまた位置を微調整してくるつもりか。
(………お!!)
駿馬は脳に与えた価値を全て両手に持った【上級品質の布】に移し、更なる価値を追加する。【最高品質】には程遠いが、これで中々の品質になるだろう。
同時に世界が動き出す。擬似時間停止の荒技は終了だ。
「ムササビの術で決定だぜ!!」
両手に持った布を、ばさばさと振り、風を起こす。その勢いは駿馬を徐々に横へとずらしていく。
無重力の宇宙空間を舞台にした映画で、空気の噴射で移動しているのを見たことがある。重力が再びかかる前なら、これで移動できるだろう。
ついでにバタ足で少しでも空気を動かす足しにしてやる。
目的地は、建物の上、本棟の屋根の上だ。
「くるるぅ!?」
ハリネズミは焦ったような声を上げた。
その瞬間、駿馬の身体に重力が戻った。
内臓になんとも言えない不快感が訪れ、視界がブレる。
そして駿馬は本棟の屋根に叩きつけられ、そのまま屋根を突き破って部屋の中へと落下した。
その場所は丁度駿馬の一人部屋であり、愛用の装備が揃っている部屋だった。
しかもベットの上に落下出来たので、それほどのダメージも無い。
屋根材のカケラがボロボロと落ちてくるが、駿馬の上にはあまり落ちてこない。
勝者とはこういうものだ。
最適の回答を出した者とは、こういうものだ。
「…くっくっく…」
ムクリと起き上がり、コートに手をかけ、調理着の上から羽織る。
装備帯を腰に巻き、武器をとりつける。
懐から取り出した煙管に草を詰め、マッチで火をつけ、思い切り吸い込む。
…ぷっはー…
脳の痛みが尋常じゃない。
限界が近い。今すぐに決着をつけてやろう。
階段を降りながら財布を取り出し、【評価】をかける。眩い光が無人の屋内を照らす。埃が舞っているのがよくわかるので、大掃除しようと心に決めた。
ドアを開け、愛用の細剣を抜き放つ。
ノワール氏により打ち直された細剣は切れ味よりも頑丈さを重視され、根元が少し太くなっている。
「くるるるるるるるる!!」
財布の中身は、あれから二度の集金を経て、大分温かくなっていた。今やその金額三千六百万円。
その価値を【簒奪】し、細剣に移譲する。
「…【最高品質の剣】…!」
金色の飛沫輝く、深い琥珀色の刀身が姿を現わす。
「く、くるるるっ!?」
「さあーて…随分とおイタしてくれたね、ハリネズミくんよ…」
「くるるっ!くるるっ!」
「うんうん。分かった分かった。死ね」
ハリネズミが駿馬から向かって右側に走り出した。
駿馬がそちらに剣を振ると、地面が裂けた。
ハリネズミの針が五、六本地面に落ちた。
「…動くな…高いんだぜ、これ…」
「…くるるぉぉ…」
絶望の表情で此方を振り返るハリネズミ。
プルプルと震えている。
背中の針が、切られていない部分もポロポロと落ちていく。
「くるるるるるるるぅ!!!」
「はい、終わり」
覚悟を決めて飛びかかってきたハリネズミを、袈裟懸けに斬り捨てる。
頭から尻までを一刀の元に両断され、ハリネズミは二つに分かれて地面に転がった。
駿馬は急いで【最高品質の剣】を解除して中身を確認すると、大金貨のインゴットが一つ減り、金貨七枚が増えていた。
つまり金貨三枚分の消費。九十万円ほどの散財ということだ。
陸鮫の時ほどの消費が無くて、駿馬はほっとした。
ズキズキと頭が痛む。そろそろ意識を失うだろう。
せめて屋内で倒れよう。
ラシャのいる厨房に向かおうとした駿馬の足に何かが当たった。
それは、ハリネズミの落とした背中の針だった。
なにかの役に立つものだと嬉しい。それなら苦労した甲斐があったというものだが。
「…ドロップアイテムってわけでもなかろうがな…」
ブラブラとだらしなく歩きながら拾った針を眺める駿馬。
針とは言うが、駿馬の細剣より立派なサイズだ。
質感は水晶のよう。透明に近い白色。
何かに似ている。
なんだったか…
「…最後、自切してたな…」
ポロポロと針を何本か落としていた。
トカゲが自分の尻尾を自切して落とすのは、それが獲物として、食料としての価値があるからだろう。
この針になんの価値があるというのか。
「…まさか…」
駿馬はその針についた土をサッと払って舐めてみた。
「…甘い…嘘だろ…」
口の中に広がる甘味。
濁りがなく、どこまでも純粋な甘味。
まるで上白糖のような、精製された甘味だった。
駿馬は似たような生物を知っていた。
それは、この世界独特の生物で、乱獲からの絶滅を危惧し、近々捕獲して養殖してやろうかと思っていたもの。
「…コイツ、山砂糖だったのかよ…」
砂糖を使って殺されそうになっていたという馬鹿らしさから、駿馬は一気に脱力し、厨房の入り口手前で力尽きた。




