エンカウンター
武器が無い。
防具が無い。
戦いの気構えが無い。
あまりにも駿馬は無防備だった。
まず考えたのは逃げることだ。
戦いの目的が自己の生存であるならば、逃げることは最も優れた戦術と言える。
そもそも危機に出会わないようにするという戦略は既に破綻している。
敵は巨大ハリネズミ。
眼が四つあったり、脚が硬質の鱗に覆われていたり、両脚の親指の爪にあたるものが凶悪な銀色の鉤爪になっていたり、そもそも巨大すぎるなど、駿馬の知るハリネズミとは多少のディテールは違うが、絶対に背中の棘に触れたくないあたりは同じだ。
現在地、駿馬所有の土地、本棟と新厨房の間。
となれば、とっとと建物の中に避難すべきだ。
背中の針がいかに鋭くても、建築物を破壊するには至らないだろう。
本棟の中には駿馬の装備があるし、立て籠もっているうちに頼れる戦闘員が帰ってくるかもしれない。
無闇に敵対する必要は無い。捕食対象と見なされているかもしれないが、身の危険を犯してまで捕食する価値がこの中年の身体にあるとは思えない。
腰のサロンを外し、防御と威嚇に使うため右手に巻く。
目線はハリネズミから外さない。
もし恐れから目を逸らせば、すぐにでも襲いかかってくるだろう。けんかはビビった方が負ける。
戦意を出す。気合いを入れる。
「やんのかこの野郎…!!」
と言いながら。
抜き足差し足忍び足でジワリジワリと距離を取り、本棟の入り口を目指す。
みんなも猛獣に遭遇した時はこのように逃げよう。おじさんとの約束だ。
少しずつ。少しずつ。逃走ルートに近づく駿馬。
獣がドアを開閉出来ないことを考えると、既に最低限の避難は完了したとみていい。
ドアノブに手をかけて、ハリネズミを刺激しないように開ける。
距離をとったことでハリネズミも駿馬への興味を失ったようで、鼻をヒクヒクさせながら次の目的へと顔を向ける。
その目は厨房へと向けられていた。
厨房の入り口は駿馬の手によって開け放たれ、力なくテーブルに上半身を預けて座る、ラシャの姿がハリネズミからは見えていることだろう。
「…くるるぅ…!」
やけに可愛い声を上げ、厨房の入り口に向けて跳躍するハリネズミ。
一歩の距離が長い。
あと二歩で入り口に届いてしまう。
「ドアぁ、閉めろおおお!!」
ラシャが自分で厨房のドアを閉めて籠城出来る見込みは、ハッキリ言って無い。
駿馬はハリネズミに向けて走り出した。
「くるるるるるるるぅ!!!」
なんとも可愛い威嚇の声だが、四つの眼はキッチリ駿馬を獲物として捉えていた。
駿馬は、まずは【無価値】を作動させた。
無価値の状態の駿馬は、他者から認識され難い。同じ人間からすれば最悪の能力と言える。
だがこれは同じ人間にしか基本的に作用しない能力だ。アスラ人にすら通用しない。
よって当然魔獣に対しても通用しないだろう。
当然ながら悪手だ。
だが、ルーティンというものがある。
自分の精神状態を戦闘に適したものにするために、敢えて無駄を行なった。
視力に集めた身体の価値は消え、身体能力は並以下に落ちる。
ここに至っては正しく無価値な能力だ。
その並以下の中年の身体のまま、巨大ハリネズミの眼前に飛び出し、右手の布を振り回す。
「おらぁっ!死にてえか!」
「くるるぅっ!」
攻撃力も無いその布から身を躱すように、ハリネズミは後ろへと跳躍して下がった。野生の生物とは慎重なものだ。
案外と人間以上にハッタリが効くものだ。
駿馬は【無価値】を解除する。
そして厨房のドアを閉め、ラシャに被害が及ばない状況を作る。
「…出てくんなよ…」
ラシャが何故だか調子を崩しているのは、幸か不幸か。元気だったら駿馬を心配して出てきてしまうかもしれない。
あとは駿馬がハリネズミの気を引いて逃げればいい。
「…あれ、俺も籠城すればよかったか?」
厨房は料理人の戦場だ。中には包丁などの武器に転用できるものもあった。大寸胴をかき混ぜるための閻魔棒などもいい武器になっただろう。
ああ、愚かなり江戸川駿馬。
「くるるるるるるるぅ!!!」
背中の針を放射状に逆だたせて威嚇するハリネズミ。
「…話せば分かる」
待った、の姿勢で牽制する駿馬。
もちろん通じるわけも無い。
「クルゥ!!」
ハリネズミは駿馬を屠るための攻撃を始めた。
ハリネズミの攻撃は単調だった。
二本の後脚で跳躍してのしかかろうとしてくるか、ショルダータックルのように身体の軸をずらして針をぶつけようとしてくるばかりだ。
だが、それはこの生物にとって最適とする攻撃方法であり、無駄が無く素早い。
駿馬は時に地面を転がり、時に無防備な背中を晒して逃げ回った。
剣が有れば顔面を突く。剣は自室に有る。
自室に逃げ込む余裕が無い。
財布が有れば【最高品質の剣】が使える。財布は自室に有る。
自室に以下同文。
ハンシイへの牽制に暫くは浄財の入った財布を常時携帯していたというのに、こんな時だけ持っていない。
マーフィーの法則とは、こういうのだったか。
だが、駿馬はそろそろこのハリネズミの単調な攻撃に慣れ、躱すだけなら危なげなくなってきていた。
反撃の手はまだ見つからないが、この調子で逃げ回り、どうにか武器を手に入れる。
あるいは敷地の外に誘い出し、民間人を巻き込みつつ衛兵に助けを求める。
どちらかと言えば後者だ。被害に会うだろうご近所さんにゃ、後で謝れば良し!!死んだらごめん!!
方針が固まったところだった。
「くる…くるるるぅ…」
「…ん?」
ハリネズミが脚を止めた。
(…フェイントか…?)
こちらの攻撃を誘って、カウンターを入れるつもりだろうか。
駿馬にそんな気は毛頭無い。時間をもらえるなら、休んで息を整えるだけだ。
無闇に距離を空けるつもりもない。
無いとは思うが、背中の針を射出してくる、なんて技を出されたら詰む。飽くまでこの拮抗した状態を維持したい。
「…諦めろ。…諦めろ。俺は美味くないぞ…ラーメン食いたいなら、食わしてやるから…」
そう。憎しみの連鎖を断ち切るんだ。
争いはやめようじゃないか…!
「共に文化的に発展していこうじゃないか、ハリネズミくん…俺たちは争わないことが出来るはずだ…!」
素晴らしきかな、平和。
平和は人類の宝だ。
平和なうちにキチンと準備を整えて、次は一方的に勝ってみせる。
平和は勝機。平和は戦争。
だがそんな平和への祈りは打ち砕かれる。
「くるるるるるるるぅ!!!」
ハリネズミが四本の脚で足踏みを始めると、背中の針が上下に揺さぶられ、小刻みに伸縮を始める。
ブゥゥゥン…と、駿馬の鼓膜を震わせるのは、何の音だろうか。
「…やめよう。マジで。頼むから」
得体の知れないハリネズミの行動。
やはり、針を飛ばしてくるのだろうか。
「…評価!」
駿馬は右手のサロンの価値を評価する。
人の手によって織られた、身体を保護するための布。
大事に使えば何年も身体を保護し続けてくれる。厚い毛皮のない人類の得た、優秀な防具だ。
寒さからも、暑さからも、毒からも、刃物からも。
必ずや駿馬を保護してくれることだろう。その存在が尽き果てるまで。
うすボンヤリとサロンが光を帯びる。それを両手で持ち直し、来たる攻撃へと備える。
「上級品質の布!頼むから破れてくれるなよ!!」
「くるるぉーーん!!」
射出武器を警戒した駿馬だったが、しかしその後に起こった現象はまるで的外れだった。
駿馬は、空を飛んでいた。




