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駿馬は生き急ぐ♯2

 

 美人秘書はちょっと苦戦していた。

 今日はいつもの営業と少し違う。小太郎と伊吹と三人で得意先をまわっている。


 《プジョーズ》でのことだ。


「猪よりも、クセが無くて、扱いやすいと思いますよ…?」

「うーむ…しかしね…」

「お値段も、この通り。一割は安くなりますので」

「ふむ…値段はずっとこのまま?」

「上がることはありません」

「下がることはある、ということかな」

「はい。今商品を豚に切り替えてくれた方は特に優遇させてもらいます。具体的には…」

「ま、次回から考えるよ。今日は猪を頼む」

「…はい。では、試供品を置いていきますので、どうかお試しくださいね」

「ほう。これが豚肉かね。随分と色味が薄いね、それに脂が多い」

「三枚肉という部位です。バラとも言います。脂が少ないところがよければ、腕肉あたりがいいでしょうか」

「焼いて食べるのに適した方をおくれ」

「では…横隔膜が焼くと美味しいと聞きましたので。ハラミ、と呼びます」

「ふむ。試してみようか」


 伊吹が予定通りの肉と脂を運びこんでいく。

 提案は失敗だ。

 荷車には、今日納品予定の猪肉と、数匹の豚肉が載っている。

 猪肉の注文を、豚肉に代えてもらう。

 そして今後も豚肉にしてもらう。

 最終的には猪肉の扱いはやめる、というのがエドガーの方針だった。


「ごめんなさい…また上手くいきませんでした…」

「ラシャが無理ならボク達にはもっと無理だ」

「お屋形様の方がこういう交渉は得意であろうな」

「あの人は詐欺師だ。上手くはないにしても、詐欺師の気がある」

「ははは…」


 なにやらエドガーは精力的に活動しだしていた。

 朝起きればまず、豚に進化した猪を掘り出して、新しい猪を埋め込み、妙な儀式を行う。最近では早起きした子供達まで一緒に参加させている。

 午前中は必ず授業に顔を出してさまざまな講義をしていく。…授業内容は、正直ハンシイに任せておいた方がいいのではないか、というところもあるが。

 昼からは出かける。さまざまな商会に顔を出しているという話だ。先日は属国にまで出向いたそうだ。

 お土産の海老煎餅は美味しかった。

 夜は厨房にこもって何かをしている。

 美味しそうな匂いがするので、多分料理だろう。

 このごろでは、水車に併設された小屋の中でも何かやっている。

 ラシャはなにかこう、最近おざなりに扱われているような気がしてならない。


「ちょっと元気が無いんじゃないかい、ラシャ」

「そんなこと…なくは無いですけども…」

「結局、お屋形様はラシャを娶るのか?」

「う、ど真ん中…」

「ボクが尋ねても、はぐらかされたな…」

「そうか…まあ、悪いようにはするまいよ。なるようになろう」

「考えても仕方ないね。さっさと今日の分終わらせて帰ろうか」

「うむ。市場に寄っていくか?」

「生臭いから、あそこは苦手だ…」

「鼻がよいのも辛いところだな…青果の区画ならどうだ」

「野菜は結構在庫あったんじゃないかな。今日はいいよ多分」

「うむ。では急ごうか」

「わお、恋愛相談の流れじゃないんですね」

「そういうのはモーリーだ。トラ子も意外とイケる口みたいだから、そっちにするといい」

「ですよねー…」


 やはり美人秘書の扱いが雑だと、ラシャは心の中でブチブチ言うのだった。



 夜中、駿馬は熱気むんむんの厨房にこもっていた。

 二つの大寸胴に湯が張られ、湯気を立てている。

 その一つの方には、よく洗った豚の骨が入っている。

 脊髄や大腿骨など、太いところを見繕った。

 足踏み送風機で空気を送り、強火で沸騰させる。

 十分程したら、雪平鍋を使って湯を汲み出し、軽くなったらかまどから外す。

 湯は全部捨てる。

 骨を冷水にさらし、冷やしつつ洗う。

 まだ冷め切っていない骨を一個ずつ取り出し、空の寸胴の上に敷かれたまな板の上に置き、鉈で真っ二つに叩き割り、寸胴に投下する。

 全ての骨に同じ作業をする。

 これで、骨の中の骨髄が抽出できる。

 骨髄とは、コラーゲンだ。ゼラチンだ。

 ゼラチンはつまり、ゼリーの元だ。

 駿馬のラーメンのスープは、冷えたらゼリーになってしまうほど、コラーゲンが無ければいけない。

 コラーゲンが大量に含まれたスープは、とろみがある。そのとろみはスープを飲んだ時に舌に絡みつく。

 サラサラのスープより、遥かに旨味を感じ易くなるのだ。

 一口目から美味い。それで無ければ駿馬のラーメンとは言えない。

 またこのとろみこそ、麺に絡みつきスープリフト力の助けとなるものだ。

 とろみを安易につけるために、小麦粉や片栗粉、コーンスターチを使ってはいけない。

 いや、それはそれで街中華のラーメン、うま煮そばやもやしそばとかになるので、嫌いではないのだが…

 ともかく、駿馬のラーメンとはそういうものではない。


 鶏の足を、その形状からモミジと呼ぶ。豚足はゲンコツと呼ぶ。

 この二つの材料を目立たせているラーメン屋は間違いないと駿馬は思っている。コクとはコラーゲンのとろみのことだと、駿馬は決めつけている。

 モミジはよく洗ってから、豚骨と同じように茹でこぼす。そして冷水にとり、爪を根本で叩き切り、表面の皮を剥がす。

 鳥の足にも肉球のようなものがあるが、黒くガチガチになっているところは取ってしまった方がいい。

 そして下処理の終わったモミジを、豚の骨と一緒に煮込む。


 よく勘違いしがちだが、トンコツスープとは、本来博多ラーメンのように白濁したものを指すわけではない。あれは、言わば豚白湯(ブタパイタン)というべきものだ。

 丁寧に取ったトンコツスープは、普通に透明だ。

 白濁しているスープは、白い色が付いているわけではない。乳化という現象が起こっているだけだ。

 乳化とは、水と油というくらい混ざりにくい両者が、コラーゲンを媒介として混ざり合い、光が屈折してしまうために白く濁って見える状態だ。

 なので、コラーゲンを大量に含有したスープは、沸騰させると油と混ざってしまい、白くなってしまう。

 駿馬のスープは透明でなければいけない。


 最初に一度沸騰させる。そうすると余計なタンパク質が凝固して、灰汁になる。それを取り除く。

 それ以降はスープを絶対に沸騰させてはいけない。

 必ず八十度以上をキープする。出来れば九十度くらいがいい。

 浮いてきた脂を丁寧に取り除く。

 ある程度溜まってからでいい。

 鳥と豚の脂が混ざっているので、ラーメンには使わない。普段の炒め物などに使えるので、取っておくべきだ。


 ここまでが、スープの第一工程だ。あとはこの状態をキープする。最低十二時間はこのままだ。ただし焦げ付かないように底を掻くように時々混ぜてやり、水分が減ったら足してやる。

 勘違いしてはいけない。これは飽くまでコラーゲンを抽出する作業だ。旨味を取る作業ではない。

 旨味はどうしても劣化する。だから食べる直前にするべきだ。それが駿馬のラーメンだ。


 第二工程までの間に、具材の仕込みを始める。

 まずは花形、チャーシューだ。

 駿馬のチャーシューは低温調理のローストポーク風。

 スープに旨味を与えるためにスープと一緒に煮込んだりはしない。

 まずはタコ糸でガッチリと縛る。縛りが甘いと後で痛い目を見る。

 そして、必ず常温に戻しておくことが大事だ。

 冷えている状態で調理すると、中まで熱が通らない。これはとても大事なコツだ。ローストビーフを作る際にも念頭に置いて欲しい。

 きちんと全面を焼く。とても大切だ。フライパンで焼くより、オーブンで遠赤外線で炙った方が間違いない。

 表面を焼き締めて、旨味が外に出ないようにする。

 そして、八十度の熱で四時間キープする。

 温度計が無いので非常に難しい作業だ。

 IHなどで温度をキープしたお湯でやると楽なのだが、無いものは仕方がない。

 オーブンの温度を手で見ながら、肉を出したり入れたりして、文字通り手探りで肉に火を通していく。

 出来上がったと判断したら、ゆっくりと冷ましていく。

 出来上がりをすぐに切ってはいけない。せっかく閉じ込めた旨味の汁が溢れてしまう。また、表面のピンク色は空気に触れるとすぐに劣化してしまうのだ。

 提供する直前まで出来は分からない。こればかりは一発勝負だ。


 メンマはこの世界に無い。製法は残しておきたいところだが、無いものは無いので、代用する。

 春に収穫された筍の乾燥したものが乾物屋で仕入れられたので、それを使う。なければ芋の蔓を使うことも考えた。

 まず、よく塩を抜かねばならない。

 よく洗ってから、水に漬ける。

 水を取り替えて漬け、水を取り替えて漬け、最後に少し塩を入れた水に漬けて、水を抜く。塩を抜くための、呼び塩というべきものだ。

 そして、砂糖醤油で煮込む。

 メンマも筍の煮物の一種と捉える駿馬は、甘じょっぱい味付けにするのだ。

 スープとの調和が崩れるという人もいようが、駿馬的には全体の味のメリハリも必要だと思っている。


 海苔は無い。ここは諦めよう。

 いつか自分の手で作るのも悪くは無い。

 この世界でなら、スサビ海苔ではなくアサクサ海苔が作れるかもしれない。


 ネギを切る。

 冬場はネギが旬なのでとても良い。

 縦に二つに割り、刻んでいく。

 何度も水洗いしてから、桶に入れて水に晒す。

 ネギ臭さを取らなければ、使ってはいけない。

 獣臭さを前面に出したラーメンならば、そのままが合うが、駿馬のラーメンには不要だ。


 さあ、もう一踏ん張りだ。

 スープの仕上げが終われば、世界一美味いものをみんなに提供できる。

 駿馬は燃えていた。


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