煉獄への階段
汲み置きの水で顔だけを拭いて着替える。
一張羅のコートと昨夜脱いだ服は、籐の籠にまとめてあった。
財布も入っていた。
ドアの脇に立てかけてある愛用の細剣を取り、左腰のベルトに差し込む。
今日は装備帯は付けない。
麻の袋をコートの内ポケットにねじ込む。エコバッグだ。
《岩鳥の巣亭》は集合施設と言ってもいい。付近では最も規模の大きい宿だ。
木造三階建ての宿泊施設だが、様々な役割を担っている。
三階は一月ごとの賃貸宿。マンスリーマンションとなっている。広めの間取りで八室あり、駿馬も一室借りていた。
二階は大分狭い作りになっており、二十四室ある。
一日ごとの利用ができ、二時間程の利用もできる。ビジネスホテルのような、ラブホテルのような。そういう扱いだ。
一階にはまず宿の受付がある。
家族経営で、深夜も誰かしらは人がいる。二十四時間営業は駿馬が嫌うところだが、いつでも簡単な日用雑貨やらを買うことが出来るので、実際便利であり文句は無い。
夜回りの衛兵に軽食を出したりもしているようだ。
壁に沿って屋台が所狭しと並び、中央に飲食スペースがある。要はフードコートだ。
調理場は別棟にあるので、屋内に煙が溜まったりはしない。火事の心配や害虫害獣の心配も無い。
調理された品を売るだけの、良く考えられた作りだ。
昼夜問わず持ち帰りに対応しているので、宿を利用しない人も多数訪れる。むしろ宿泊客よりはるかに多い。
今も、料理人達が仕込みをしている様子が窺える。
なお、テナント料を払えば出店出来るが、三階の部屋を借りて住めば無料となる。
三階は常に満室だ。
江戸時代のころの日本には、宿場には飯盛女という存在がいた。銭湯には湯女がいた。
人が、特に男が集まる施設には付き物の、性的サービスを生業とした女たちだ。
必ずしもそれだけを提供するわけではない。
男の相手をする時以外は、店舗の本業に従事もする。
ここの女達はみな別館に宿をとって住み、掃除や洗濯などの雑務を引き受け、一階で客をとる。そのあがりは全て自分のものとなる。
宿代をその中から亭主に払う。それをもって客引きの場所代とする。
飽くまで私娼であり、宿は関与しないというスタイルだ。
飛び込みは断っており、それ故にある程度身元が確かな女しかいない。
客としては安心して女を買える。
チキンな駿馬はそこを気に入っていた。
(そのはずなんだけどなあ…)
二階は掃除の時間となっており、全ての部屋の扉が開け放たれていた。
当番らしき娘が何人も忙しそうに動き回っている。
階段をトフトフと力無く降りる駿馬に話しかけようと寄ってくる娘がいた。
「おはよー、エドガー先生!昨夜はごちそうさま!」
「はいよお早うさん」
リノという娘だ。
代々輸送業の家系だが、数年前に大事故があり、その時に親族の男衆と商売道具の馬車など全てを失い、積荷の賠償で破産となった。
この仕事で資金を貯め、また事業を興すつもりだという、逞しい娘だ。
客が少ない日には、駿馬はよくこの娘を買う。
ふと、呼び名が気になった。
「ん、先生ってなに?」
「そりゃ、昨夜の、腰布一丁エドガー先生の人生講義さぁ。あれ、頭痛いのかい。酔ってたもんねぇ」
駿馬は頭を抱えた。
二日酔いのせいじゃない、こんな酷い頭痛。
どこまで追い詰めても虚しいため、どうかそっとしといてほしい。
「オトコって奴をたっぷり見せてもらったよ。いやありゃあ惚れるね」
「むう…俺の、オトコに、惚れたと?」
腰布からチラチラと見える愛刀がまた一人犠牲者を増やしてしまったということか。
抜けば玉散る氷の刃。今宵の愛刀は血に飢えておるわ。
血に飢えて…うっ、頭が!
リノのヨイショに、駿馬の気持ちは少しアガった。
「そんな粗末なモンの話じゃないよ」
「粗末…!!」
ヨイショではなかった。
駿馬は膝から崩れ落ちた。
ラシャが咄嗟に支えていなければ、池田屋の階段落ちを披露していたに違いない。
「おじさん…」
慰めの言葉をかけようとするラシャ。
「あたしにはちょうど良かったよ?」
「慰めになってねえ…」
追撃という意味でのフォローを決めてくるチビッ娘に戦慄する駿馬だった。
「なんだい、ちゃんとやるコタ済ましたんじゃないか。ちゃんと責任とってもらうんだよ。あんだけ大見得きったんだからね」
「あ、はい!がんばります!」
「俺は何をしたんだ…」
リノは掃除に戻っていった。
駿馬は大して長くもない階段を降りるのに、多大な労苦を払って一階に到着した。
どうにも気持ちの悪い胃袋に早いとこ湯冷ましを流し込みたい一心で、ふらふらと給水機に向かう。
そこに、声がかかった。馴染み深い声だ。
「おーい兄貴ー、こっちだこっちー」
「しゃちょー!お水あるよー!」
「お、おお…戻ってたんだな、友よ…」
涙が溢れそうだった。
圧倒的。あまりにも圧倒的安心感…
万の味方を得たが如き心地。
地獄に仏。掃き溜めに鶴。
苦楽を共にした友たちがいる。
もう、何も怖くない…
全幅の信頼を寄せる、腹心達の声だった。