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エドガー商会美人秘書ラシャ

 

 鳩尾に衝撃があった。

 肋骨の下、腹との境、その中心の窪みのところだ。

 ここには各内臓の神経が集中していて、打たれると横隔膜が痙攣して呼吸困難になる。

 人体急所の一つだ。

 声が上げられない。息が出来ない。身体が動かない。

 空気を求めて身体がガクガクと震える。


 ラシャは和装の男に突然暴力を振るわれたのだ。


 ラシャは家を持たない貧民で、そこそこ器量が整っている自覚があった。

 今まで何度も男に誘われ、男に襲われ、危険な目にあったことがある。

 その度に知恵で凌いできた。

 ラシャには危険に対応する知恵がある。知り合いの娼婦から教わった技術がある。


 だが、それは女を性的に暴行しようとする男への対処であり、単純な暴力に対しては無力だと、ラシャはこの時改めて実感した。


 男はラシャに猿轡を噛ませ、その身を縛り上げると担ぎ上げ、路地に隠された荷車に載せた。

 ムシロを被せて外から見えないようにすると、顎を何度か叩いた。

 そんなに強い殴り方ではなかった。なのに、ラシャはたちまち脳震盪を起こして気絶してしまったのだ。


 男は、とても手馴れていた。


 気がついた時には、もう辺りは真っ暗で、ラシャは自分が今どこにいるのか分からなかった。

 腕を後ろに縛られていて、身動きが取れない。

 どうやら屋内のようだった。

 ラシャは誘拐されたようだ。


 悪い夢ではないか。そう疑ったが、腕を縛る縄の食い込む痛みが現実であることを告げる。

 ラシャは知っている。

 貧民を商品として扱う存在がいることを。


 ああ、そうか。

 これまでが夢だったのだ。

 今日は人生最良の日だった。

 綺麗な服を着て、身体を酷使しない仕事をして、ちゃんとした人達に囲まれて、たくさんの人の優しさに触れた。今日は汚い男達に身体を触られることもなかった。

 自分は人間なのだと。

 この国という大きな群れの仲間なのだと。


 全部夢だったのだろう。


 だから、悲しくなんてないのだ。

 もとあった場所に帰るだけ。

 いつか送られる場所に送られるだけ。

 半ば以上、ラシャは諦めの気持ちに支配されていた。


「きみは運がいい」


 扉が開かれ、暗闇の中に明かりが灯った。

 獣脂の焼ける臭いがする。行灯に誰かが火をつけたのだろう。小さな灯火を覆った薄紙を通した間接照明が部屋を仄かに照らす。

 入ってきたのは和装の男だった。ラシャに声をかけた男だ。

 整った顔で鮫のように笑う、恐ろしい男だ。


「浮浪者として生きてきたのだろう。これからきみの人生は変わる」

「…売られるんですか」

「そうさ。でも喜びたまえ。相手は一級国民。やんごとなきお方だ」

「…へ?」


 この男はなんと言った?

 一級国民と言ったのだろうか。


「…貴族さま?」

「そうだとも。大農家、《亥子の豪農》を知っているかい?」

「…ううん。でも、凄い農家様がこの国にいるのは知ってます」

「ああ、その方だ」


 とんでもない話だった。

 使用人であれ性奴隷であれ、一級国民に召し抱えられるということは、隔離区域《神域》に住めるということだ。

 ラシャからすれば遥か雲上人の二級国民すら自由に出入りすることが出来ない場所だ。

 エドガーさえ三級国民だというのに。


「きみのご主人様になる方は高潔な方だ。きみのような卑しい生まれの者を救済することを好む」

 これは、玉の輿の話だ。


「きみはもう、物乞いや、身体を売ったりしなくてもいいんだ」

 素晴らしい待遇で勧誘を受けている。これは試金石だ。ラシャに反抗の意思が有れば、躾けを行うつもりだろう。


「きみを運んだ時に気付いたんだが、随分と荒れた手指をしているね。ひどい仕事ばかりしてきたんだろう。もうそんな仕事をする必要なんてないんだ」

 なるほどラシャの手は荒れている。縄仕事で出来た豆だってたくさんある。


「きみは、ただ綺麗にしていればいいんだよ」


「…てやんでえ、べらぼうめ…」


 ラシャは鮫男に聞こえないように、小さく呟いた。

 エドガーは腹が立った時に、こう言っていたハズだ。

 意味は分からないが、多分【ぶっ飛ばすぞこの野郎】とか、そういうことだろう。


 とても腹が立った。

 上から目線の言い方に、非常に腹が立った。

 自分の力で生きていけない子供を保護するかのような言い方に凄く腹が立った。

 仕事を頑張った証である、この手を馬鹿にされたのがもう、トドメとばかりに腹が立った。


 生きることは大変だ。何ももたないラシャはそのことをよく知っている。

 それでもラシャは生きてきたのだ。

 恥もなく、見栄もなく。がむしゃらに生きてきたのだ。

 それを、「ただ綺麗にしていればいい」と言ったのか、この鮫男は。

 あったまきた!


「この、すっとこどっこい…」


 意味は分からないが剽軽な響きなので、たぶん【馬鹿野郎】とかそういうことだろう。


 以前のラシャならば、大人しく従っていたかもしれない。

 だが、今のラシャは違う。

 エドガー商会美人秘書ラシャは、男を手玉にとって会社に利益をもたらす、やり手の悪女なのだ。


「人、働いて強くなる…!」


(美人秘書心得その一!)

(自分は馬鹿だと思わせろ!)


「あの、お兄さん…聞いていいですか?」

「うん、なんだい?」

「あ、あたし…これしか服持ってないんです。綺麗になんて、出来ません…」

 鮫男はキョトンとしたあと、愉快そうに笑った。

「馬鹿だねきみは!もちろんいい服に着替えさせてから届けるに決まってるじゃないか!いやそのままの方が気に入られるかもしれないがね?なに、いずれにしてもあの方が服の十枚や二十枚買ってくれるとも!ははは…ひょっとしたら、私と同じ和服を着せてくれるかもしれないよ?ははははは…!」


 なんとも楽しそうな鮫男。


(美人秘書心得その二!)

(男は馬鹿だ!とにかく褒めろ!)


「和服って、そのカッコいい服のことですか?あたし、見たことなくって…」

「そうだとも!きみにも分かるか!これは特別な服なんだ!きっときみも着られるさ。女性の和服は男性より華やかなのだよ!」

「わ、わあ…」


 期待に胸踊っている、そんなフリをする。

 ラシャは演技が得意だ。


(美人秘書心得その三!)

(お願い事はあっけらかんと!)


「うむ。その様子なら心配は無いようだね。手荒な真似をして悪かった。だが全てきみのためだったんだ。分かるよね?」

「はい!あ、でも…」

「うん?」

「あの…痣とか、出来たら、嫌だなって。縄、ほどいて…?」

「む…そうだな。腕は痛むかな?」

「少しだけ…」

「ふむ…きみが逃げたりしないと約束してくれるなら、縄を解こう。見張りはいるけどね」

「え…だって、逃げたら貴族さまのお嫁さんになれない…」

「そのとおりだ。きみはとても良い子だ。きっとお気に召されるだろう…」


 ラシャの縄は解かれた。

 長い間雑に縛られていたせいで、ジンジンする。


「出発は朝だ。今日はもう休んでいいよ。ベットなど使ったことがないだろう?」

「はい。ベットって、暖かいんですね…」

「明日からはもっとよい寝床で寝られるさ。さて、私はまだ仕事があるので、これで失礼するよ。他に何かあるかな?」

「お水と、手ぬぐいをくれますか?」

「うん?いいけど、何故だい?」


(美人秘書心得その四!)

(あたしの身体を狙う男から、利益を差し出させろ!)


「外の人たち…味見、したいんじゃないかなって」

「ふむ…粗暴な奴らだからな。不安かね」

「お兄さんならいいけど、臭くて怖い人は嫌いなの…」

「む…」


 考え込む鮫男。


「あの方が聖別されれば、後を継ぐのは私だ。いずれきみは私の物になるかもしれないな。いや、そうなるハズだ」


 かかった。


「分かった。絶対にきみに手を出さないよう厳命しよう」

「うれしい!…でも、今日はもう来てくれないんですか?」

「…仕事が終わるまで、待たせるが」

「身体を綺麗にして、待ってます」

「…湯と、清潔な布を用意させよう」


 鮫男は出て行った。


 自分の女に手を出されて喜ぶ男などいないだろう。

 これでラシャの身の安全はある程度確保出来た。

 だが鮫男は勘違いしている。

 ラシャは鮫男の女ではない。

 エドガーの女だ。


「美人秘書心得その五…」

 頰をペチンと叩いて気合を入れる。

「社員の引き抜き、のーさんきゅー!」


 意味は分からないが、きっとエドガーは助けにきてくれる。そういうことだろう。


 ラシャの力では脱出は無理だ。時間を稼ぐしかない。

 朝には出発だと鮫男は言った。

 出発を遅らせる。

 商品が整わないうちに出荷することはない。


 弱者の戦いを見せてやる。


 ラシャはその決意のもと、死体になった。





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