陸鮫のガトー♯4
六賢老のみんなは疲れてるだろうと思い、駿馬は一人で《岩鳥の巣亭》へ行こうと思ったのだが、小太郎が付き合ってくれた。
三人分のほうとうもどきの入った鉄鍋が重いので、正直助かった。
「兄貴一人行かせたら、また朝帰りになりそうだからね」
「いや、さすがの俺でも、今はあの店で遊ぼうとは思わないって…」
「多少は所帯持ちの自覚が出てきたようで結構!いい仕事してるなラシャは」
「俺の薔薇色余生はどこへ…」
鍋の中身が溢れないよう、小太郎は静かに優雅に歩みを進めてくれた。駿馬の尻にも優しいエコドライブモードだ。
それでもやはり速い。
この分なら雨が降り出す前に帰ってこれるだろうと、駿馬は喜んでいた。
もう随分と暗くなった。そろそろ後午の鐘が鳴る。午後七時ということだ。
もう、江戸時代の日本の呼び方でいいのではないかと、駿馬は思う。暮れ七つとかのあれだ。変にその辺の知識があるせいで、駿馬は全然この時間呼称に馴染めなかった。
「あ、社長!」
「おお、ディン!頑張ってるか!メシ持ってきたぞ、三人で食え」
「あざす!レニ呼んできます!」
《岩鳥の巣亭》に着くと、ディンが外で箒がけをしていた。就業時間はまだ先のはずだが、暇だったのだろうか。
「ラシャもな。晩飯まだだろうから」
「はい!」
元気に走っていくディンに、駿馬は目を細める。
だが宿の中を走ると、多分亭主に怒られるだろうと思った。今も元気に営みをしている人が二階にはたくさんいるだろうから。
その辺も含めて駿馬の生暖かい目はディンに注がれていた。
「ちょっといい顔になってきたね、あの子」
「だな。ヤンチャな小僧が仕事を覚え出した感じだ。ほんとはアイツには職人仕事やらしてやりたいんだがな」
「向いてそう?」
「もう、顔が職人ヅラ!ぜってぇ大工とか鍛冶屋のツラ、あれ!」
「じゃ、ノワールさんとこに?」
「それもいいな。でも、自治会長に預けるのもいいかもな」
「職人さんなんだっけ。あれ、名前なんていったかな…」
「…そういや、なんて名前だっけか…」
人は役職を得ると、名前を忘れられがちだ。
ディンとレニが三階から降りてきた。
「こんばんは、社長」
「おう、今日もおつかれさん。仕事は上手いことやってるかい?」
「はい。おかげさまで、大分教わったことが出来るようになってきました」
「普段どんな仕事してるんだ?」
「お洗濯と、お掃除が多いです。ラシャの服はちょっと恐れ多くて洗えませんけど」
「はは、今度二人にも制服支給してやるよ。メイド服と執事服がいいかな。それともディンには鳶服がいいか。超々ロングとか似合いそうだな」
もしくは昔の不良御用達の洋ランなんか似合いそうだ。特攻服も楽しそうだ。
「それで、恐れ多い服着たお姫様はどこだい?」
「あれ、社長のとこにいるのかなって」
「夕方に顔出したけどな。こっちに帰って来てるだろ?」
「えっと、じゃあ…服屋さんに行ってると思います」
「ほ、ほほう…なんとも、女の子らしいとこあるじゃないか…」
駿馬はなんとなく嬉しくなった。
駿馬が求めていたのはこういうのかもしれない。
駿馬の知る《女の子》とは、能天気で、お洒落に余念が無く、バイトで得たお金で遊びまわる存在だ。
今日の糧を得るために盗みを働く存在ではない。
ただ生きるためだけに、不細工なオッさんの女になろうなんて考えてはいけないのだ。
だが、はて。
駿馬のあげたお小遣いで、女の子の欲しがる服は買えるだろうか。
この世界では生活必需品は得てして高い。服は特に高く感じる。
渡した通過は銅貨十枚。駿馬の感覚では、三千円くらいの価値だ。それは食材の値段から導いたものだ。
銅貨一枚で買えるパンで、一日分の量が賄える。
服の相場は随分違う。シンプルな普段着でさえ、銀貨一枚はする。
銀貨一枚は三万円くらいの感覚だ。
金貨一枚は三十万円。してみるとラシャの制服がいかに高価なものかが分かる。
「…何を買いにいったんだろう?下着や靴も揃ってると思うが…アクセか?」
「いえ、お洗濯を任せられる業者さんはいないかと」
「洗濯?…ああ!そっか!シルクっぽいもんなあの生地!」
「シルクっていうんですか?」
「多分な。違ったらアレだけと、シルクは蚕っていう虫の糸なんだ」
「虫の糸なんですか!?」
「高いんだぞ?絹って言ったら通じるかな…」
「…良かった、洗わなくて…」
「むう…高い服も良し悪しだな。うかつに自分で洗えもしないとか…洗濯代も支給してやらんと」
悪いことをしたかもしれない。
だが、服の良し悪しは身分を表す。あの服を着ていれば、ちんぴらに絡まれることもないだろう。
安全性は高い。それに商売の質も上がる。
無駄な投資ではないはずだ。
「じゃ、まだ帰ってきてないってことか。どこまでいってるんだかな…ああ、《紫》か」
あの店ならお抱えの業者もいるだろう。
この宿からそんなには離れていないはずだが。ちと遅い気もする。
「あ、社長…これなんですけど」
「ん?」
ディンが差し出してきたのは一振りの短剣だ。
見覚えのあるデザインだった。
確かあれは…
「兄貴、これは」
「…似てるな。なんでここにあるんだ?」
「…あの時は、ホントに、すみませんでした。おれが社長に向けた剣です。旦那さんが、社長に渡すようにって」
「…確か、盗んだって言ってたよな、ディン」
「はい」
「…どっから盗んだ?」
「あの…おれらの寝ぐらのまわりをウロついてた奴らからです…」
駿馬は、どうにも嫌な予感がしてきた。というより、確信めいたものがあった。
今すぐ走り出さないといけないのかもしれない。あるいは手遅れか。
杞憂であればいいが。
「確か、二振り持ってたな。…今もあるのか?」
雰囲気が変わった駿馬に、ディンは少し怯えている。怒られると思っているのかもしれない。
「もう一本は、さっきラシャに持たせました」
「馬鹿野郎!!」
ビクッと慄いたディン。
駿馬が怒った理由がまだ分かっていないはずだ。
「レニ!ラシャは制服を着て行ったか!?」
「あ、い、いえ…」
「ちっくしょう!なんてこった!!」
「兄貴、まずいよ」
「ああ、多分そうだ。おい、レニ!」
「はい!」
「俺らの家、分かるな!!ひとっ走りして、ウチの連中に知らせろ!ラシャが拐かされたかもしれん!」
「………え………」
ディンの持っていた短剣は、先日小太郎が蹴り殺したちんぴらの持っていた短剣と同じものだった。鋳造の安物だ。
貧民街をウロついていた者と、あのちんぴらは同じ組織の者に違いない。
つまり、人喰いだ。
今考えれば、貧民街は人気が少なかった。明らかに、もう狩りが始まっている。
そこに、こんな時間に、貧民然とした格好の娘が一人でぶらつき、ご丁寧に奴らの代紋を見せびらかしていたらどうなるか。
喰ってくれと言っているに等しい。
鞘から引き抜いてみても、短剣自体はなんの飾り気も無いものだ。少し湾曲しているのが特徴と言えば特徴か。
だが、出来の悪いこの短剣は何十振りも存在する。
抜けても抜けてもまた生え替わる、鮫の歯と同じだ。
「陸鮫のガトー」
駿馬が忌み嫌う男だ。




