貧民街の姫
《紫》ではその後トラ子ちゃんに着せる用のワンピース的なものと、最高級のブラシを購入した。荷物は全て運んでもらうことにした。
ラシャは青と金の装いのまま連れていく。
街を歩くラシャを、誰もが振り返って観ている。
女性店員の中には理髪の心得がある者がおり、ラシャは髪まで整えてもらっていた。
駿馬はとても気分が良かった。
何かアクセサリーも…と商品棚を見渡して、気になった物があった。
水色のガラス玉だ。
少し涙型の丸っこいフォルム。
「おお、まるでスライムのようだ…」
この世界にはスライムがいない。駿馬はそれがとても不満だった。
もっと面白可愛いモンスターがいる、すっとぼけた世界だったらいいのにな…と。
そんな未練からスライム根付を二個購入し、一つはラシャの腰布にくくりつけてやった。
もう一つは自分の財布にでも…と思ったが、ペアになってしまうことに気づいて照れ臭くなり、懐にしまった。
《プジョーズ》にて昼食をとった。
駿馬の好物のおこげの海鮮あんかけと、揚げ小麦棒の蜂蜜和えに、ラシャは目を白黒させながら舌鼓を打った。せっかくの新しい服が汚れないよう、前掛けを付けさせていたのは良い判断だった。
ラシャは米を口にするのは初めてだと言った。
調子に乗った駿馬は、猪肉の唐揚げとナッツの甘酢あんかけを追加し、杏仁豆腐をデザートに振る舞った。杏の種の中身を使った本物だ。駿馬の伝授した一品だったりする。
ラシャは未知の美食に感動していた。
駿馬は物凄くいい気分だった。
雑貨屋で紙の束と墨の壺と革の鞄を購入した。これからのラシャの仕事道具だ。
駿馬の営業の仕事を手伝わせることにする。
得意先を回る。
いずれの店主もラシャを見て目を奪われていた。
ラシャは字を書けないかと思っていたが、本人にも意外なことに、ある程度の文字を書くことができた。
不思議に、書いてみたら書けた、ということらしい。
生まれてからこれまでに見たことのある文字が、モーリーの羽根ペンを紙に走らせたら、手に湧いてきた、との談。
パソコンやワープロに慣れて、手が字を忘れがちな駿馬にはひどく羨ましかった。
ラシャは天才だったりするのだろうか?
日が傾いてきた。秋の日は釣瓶落としと言うが、この世界でもそれは同じようで、暗くなるのが日々早くなってきた。
夕食の材料を買って家に帰ろう。駿馬は家が大好きだ。
いつもパンを買う店に向かう。
店の前でのことだった。
先程まで上機嫌に見えたラシャだが、突然立ち止まり、俯いていた。
「…どうした?」
「おじさん…今日は、ホントに、ありがとうね。凄く…凄く楽しかった」
…おっと?
駿馬は腹の内に気持ち悪いものが湧いてくるのを感じた。駿馬の嫌な予感は、腹にくる。
基本的に空気を読めない駿馬だが、過去に経験したパターンくらいは一応感じ取れる。
これは、従業員が退職をほのめかしたり、あるいは女に振られるパターンの雰囲気だと感じた。
つまり、別れの雰囲気。
嫌な雰囲気だ。
「…俺の好きでしてることだよ。俺も楽しかった」
努めて優しい話し方を心がける。
「ううん。ホントに…ありがとう、ございました」
頭を下げてくるラシャ。
きたよ過去形。
ため息が駿馬の口から漏れ出た。
「あのね。…あの、今から、おじさんを、怒らせることを、言います。台無しにしちゃうことを、言います」
「あんまし、聞きたくねぇなぁ…」
いいけどさ。慣れてるっちゃ慣れてるし…どうせモテない村出身だからさ…
落ち着くところに落ち着くってもんだ。
ああそうか。いつまでもハッキリしない自分の代わりに、この妙な関係に終止符を打ってくれるということなのか。
そう思うと、駿馬の方こそ申し訳ない気持ちになった。
意を決したように、ラシャは駿馬の目を見て言った。
「この、お洋服…売っても、いい?」
ラシャは、とても楽しかった。
後ろめたい気持ちが晴れ、年頃の少女として生まれて初めてはしゃいだ。
エドガーに服を買ってもらった。とても高価な、美しい服だ。
この服を着れば、どんな醜女でも美しくなれる。
鏡に映った自分の姿を、ラシャは一生忘れないだろう。
その姿で街を歩く。
何人もの人が自分を振り向いて観る。
最初は怖かった。人目を避けて生きてきたラシャにとって、何より怖いものだった。
だが、エドガーは言ってくれた。
似合ってる、と。
街ゆく人が、目で賞賛してる、と。
ラシャは舞い上がった。
ああ、なんて俗物。なんて単純…
ラシャは、自分が綺麗だと褒められるのが、とてもとても気持ちが良かった。
エドガーの仕事相手の人たちはみな身なりがよく、纏っている雰囲気が、やはり上の人だと感じた。
その立派な人が、エドガーと親しそうにしている。
その立派な人が、自分を褒めてくれる。
「ラシャさん、次からは貴女が注文とりにきてくださいよ?あたしゃもうムサいオッサンの顔には飽き飽きしていてね」
「そりゃないよ会頭…俺だって我慢してんのに」
「お互い様でしたか!ははははは!」
「じゃ、うちのラシャが来た時は割増ね。美人税」
「お待ちなさい。彼女はあたしが雇うから、美人税はこちらにいただこう」
「はっはっは、ぬかせこのハゲ」
「はっはっは、すぐにキミもこっちに来るさ…!」
噂に聞く、女の取り合いだろうか。
剣呑な雰囲気の中で、それでもラシャはひたすらに気持ちが良かった。
ラシャの仕事が決まった。秘書とは、注文を取りに回る仕事らしい。
男は美人を見ると財布の紐が緩むらしい。
色々高く売り付けろよ、と言われた。
ああ、なんて楽しいのだろう。
今日の営業は全て終わった。
帰り道に、【美人秘書心得】なるものを教授された。
「いいかラシャ。商売相手にナメられるな」
「お前は若くて美人だ。それは武器だ」
「空気を読むなよ。経験の無さを、逆に活かせ」
「あっけらかんと、軽く頼んでみるんだ。恩には切るな。男は美人に弱い。みんながお前の気を引きたい。向こうから勝手に利益を寄越すよう仕向けろ。どんなにデカイ恩を受けても、ちょっとしたことのように受け取れ」
「お前が賢いのを俺は知っている。だが敢えて馬鹿を演じろ。馬鹿な美人は可愛い。男は可愛いものに弱い。自分が賢いことを相手に教えるのは賢くないんだ」
「だがナメられて利用されるな。奪われるな。騙すんだ。お前になら出来るさ」
美人局のことも蒸し返されたが、それは才能だと褒められた。
エドガーは、騙されていなかったが、出来ればちゃんと騙して欲しかったのだと。男は馬鹿なんだよ、と言った。
ラシャにはまだまだ理解できないことが多かったが、きっと彼の経験からくる、本当のことなのだろう。
この人は、愚かなのか賢いのか、ラシャには全然分からなかった。
ワクワクする。明日からラシャはどんな新しいラシャになれるのだろう。
早く仕事がしたい。たくさん働いて、もっと褒められたい。もっと色々教えて欲しい。
役に立ったら、また新しい服を買ってくれるだろうか。もっと綺麗になりたい。
そうしたら、エドガーは自分をいつか、本当に嫁にしてくれるだろうか…
見覚えのあるお店に着いた。
小麦の焼ける、温かく甘い香りの漂うお店。
ラシャはこのお店のパンの味を知っている。
何度も何度も、エドガーから盗んだパンの味。
とても昔のように思える。その実、まだわずか七日ほどの昔の話。
胸が苦しくなった。
悪いことをした。
でも、ゆるしてもらったのだ。
だから、もう、それはいいはず。
でも、そうじゃない。
悪くないことをしたことは、まだゆるしてもらっていない。
どうか、エドガーにゆるしてほしい。
悪くないことを、することを。
そうしないと、ラシャはこれからもずっと、悪い娘のままなのだ。
「この、お洋服…売っても、いい?」




