王太子殿下の婚約破棄宣言に一同驚愕……その衝撃の理由に涙が止まらない……
国立アームストロング大学は、当時王国学術院の院長を務めていたアームストロング公爵夫人によって、身分を問わず学び、王国に役立つ人材を育成することを目的に設立された。500年の歴史を持ち、貴族の子女のみならず、商人あるいは農家の子など、ありとあらゆる身分の国民が学んでいる。
その中には王族や公国出身者も過去現在問わず多くいた。
現在、籍を置いているのは王太子ミランと、その婚約者で公女のアレクサンドラである。
今日も学び舎の一角から、二人の言い争う声が聞こえてきた。
「破棄してやる! そんなもの!」
白昼堂々行われた3日ぶり33回目の婚約破棄宣言に、空気がざわめいた。
金髪の美少年、王太子ミラン。まだ幼さの抜けきっていない容貌に、小柄な体格。それを精一杯大きく見せて威嚇するようにふんぞり返って、長身の美女見上げる。彼の頭のてっぺんは、みぞおち辺りの高さであった。
アレクサンドラ――サシャは、ミランを見下ろして、ニコニコと笑っていた。それは傍目に、年の離れた姉弟のようであった。
彼女の特徴はなんといっても、長く腰まである黒い髪であろう。しめやかに美しく、あるいは妖艶さを感じさせる黒である。そしてその髪色とは対照的に肌は白く、母親譲りと言われる怜悧な美貌が、よりいっそう映える。胸は慎ましく、目を引くものではないが、まとったタイトな衣装に浮き出る豊満な腰つきは、悩ましいほどに視線を誘導してやまない。
「サシャ! お前の顔なんてもう見たくない!」
「あら、どうしてそんなことをおっしゃるの?」
「おまえを見てるとムカムカしてくるんだ!」
「あらまあ。婚約を破棄するには、それ相応の理由が必要ですのよ。王太子殿下」
「ならば言ってやろうではないか! 夕べの晩餐だ! あの時、お前は唐揚げにレモンを搾ったな!」
昨晩のことである。
学問を終え、大学を後にしたミランは、いつものようにサシャを伴って家へ帰った。王都アームストロング邸である。その日は、屋敷の主であるサシャの母、アームストロング公爵夫人が不在であった。「奥様は武闘会へお出かけになりました」――とは、執事の弁である。ゆえに、夕食はサシャと二人でとることとなった。
食卓には、優れた料理人による優れた料理が一品ずつ置かれている。唐揚げもその中の一つだった。(おいしそう)と、ミランが真っ先に目をつけたのは唐揚げである。大好物だ。食前の祈りを唱和して、手を伸ばそうとした。そして愕然とした。
目の前で、酸っぱいニオイの汁がダラダラと唐揚げにかけられていくではないか。犯人はもちろん、対面に座るサシャだった。口を半開きにして、呆然と唐揚げではない何かに変貌してしまった大好物を見るミランを尻目に、サシャは、それはもうおいしそうに、唐揚げを食べるのである。――レモンなんて、この世から消えてなくなればいいのに。王太子は、レモンが嫌いだった。というか、酸っぱいもの全般が嫌いだった。
「それはそれは申し訳ございませんわ」
王太子の弾劾に対して、サシャは全く事もなげに言い放った。
これにはミランも面白くなかった。なおも言い募る。
「まだある! お前は寝相が悪いと何度言ったらわかるんだ! 夜中に何度目が覚めたと思ってる!? おかげで寝不足だ!」
これも昨晩のことである。
食事を終えた二人は、一緒に少し汗をかいてから、一緒にお風呂に入ったあと、一緒に寝床に入った。
普段はそういうこともないのに、この時ばかりはドキドキしてしまう。ミランはほとんど抱きまくらのような形で寝るハメになるのが常である。
慎ましやかながらも柔らかな乳房がシルクのネグリジェ越しに押し当てられるのは、まったくもって幸せというほかない。体がホカホカしていい気分で眠りに落ちそうになる。しかし彼女が完全に寝入ると、地獄に変身だ。抱きしめが強くなり、甘い寝息が耳元に吹きかけられる。
寝られるはずもない。
ミランは浅い睡眠を何度も繰り返して、ようやく朝日が昇ると解放されるのである。先に起きたサシャが身だしなみを整えるまでの間に、深い眠りにつくことができるのだ。
「あらあら、それはそれは……」
「くっ、なんだその笑みは! ええい、とにかく! 極めつけは今日の朝だ! 目玉焼きにソースだと!? ありえん!」
「お母様の方針ですわ」
「なら仕方ないな」
サシャの母親は目玉焼きにソース派であった。ゆえに、彼女の家において目玉焼きに醤油という選択肢はありえない。王家は醤油派であったから、その点でミランとサシャは相容れないのであった。
だが公爵夫人は恐ろしい。一も二も無くミランは手のひらを返した。
「あとは……ってサシャ! お前さっきから、近いぞ!」
「申し訳ありませんわ。つい」
いつの間に、これほどまでに距離を詰めていたのか。それは、ほとんど彼女の匂いを感じられるほど。
ミランは思わず狼狽え、後ずさった。
「お前というやつは……! もういい! 俺はいくぞっ――っておい、何故ついてくる」
「いけませんか?」
「いや、それは、おまえ」
「いけませんか」
「……勝手にしろ!」
公女が王太子の半歩後ろを付いて去っていくの見届けて、遠巻きに先程の光景を眺めていた同級生たちは、ぱらぱらと散らばっていった。彼らにとっては、日常風景に過ぎなかった。
了