第八十九話 穴に落ちたアリスは
誰かが手を振っている。自分に向かって。どこが上かも下かも、右か左かもわからない。まるで雲の上を歩いているかのような感覚、空間。自分に手を振っている誰かは、ゆっくりと自分に向かって来る。なんでこっちに来る?その誰かに抱いた印象は恐怖だった。相手はそれに気づいたのか、ニィと笑いかける。嗚呼、自分は。
近づいて来るその誰かから逃げたいのに足は動いてくれない。いや、動いてはいる。相手が早すぎるのだ。走っている先にまた誰かが現れた。背中だけでも誰だかはっきりわかる。その肩を掴み、助けを求めるかのように勢いよく引いた。
「?!」
振り返ったその顔は、真っ赤に染まっていた。
「これが、君の運命だ」
…*…
「……じ………み……紅葉!」
紅葉は薙の声に意識を急上昇させた。ハッと目を開け、起き上がると自分の周りには薙の他に心配そうな表情をした雛丸と白桜がいた。自分だけが起きていなかったのかと少し迷惑をかけたような気がした。大丈夫だと彼らに笑いかけ、ゆっくりと辺りを見渡した。そこら中、瓦礫だらけだった。まるで『創造華』の廃墟のようだと紅葉は思った。え?廃墟?
「?此処どこ?僕達、多分神子さんが開けた穴に落ちて…?」
何処だかわからない場所に驚きを隠せぬまま、紅葉が状況を整理するように言う。その問いに白桜が答えかけ、口を閉ざした。その動作でなんとなく分かってしまうのは何故だろうか?一瞬、姿勢をさ迷わせた後、白桜が言った。
「『アルカイド』。別名『神国』と呼ばれる帝が住む地下の都です。私達は神子様の能力…かは分かりませんがそれによって地下にまで落下したようです」
「ええ!?此処、『アルカイド』なの!?」
白桜の答えに紅葉は食いつくように叫んだ。地下に広がる都、『アルカイド』。帝が治め、住んでいる都である。だが、何故そんな都がこんな廃墟のような場所に?神子の力にも驚いたが、何かの勘違いではないのか?そう紅葉は思ってしまう。それは雛丸も同じようだった。
「そうだよね!ボクも驚いちゃった。薙、合ってるんだよね?『アルカイド』に来たことあるの薙だけでしょ?」
「え、そうだったの薙ちゃん?!」
「初めて知りました」
雛丸のまさかの言葉に兄弟は驚いたようだった。それに薙は苦笑を漏らしながら立ち上がった。今紅葉達がいるのは平らな場所。もとはホテルとかのロビーだったのだろう、広い空間が広がっている。紅葉達がいる場所にのみ上手い具合に瓦礫などは落下していないが、最近になって壊れたのか埃が舞っている。埃を吸ったのか白桜が袖口で口元を押さえながら咳き込んだ。雛丸も「くしゅん」とくしゃみをしていた。埃が自分達に被害をもたらしているようだ。紅葉も背後の壁を使って立ち上がるとタイミング良く、薙が言う。
「嗚呼、一回だけだけどな。紅葉や雛丸が疑うのも無理はねぇよ。でも、此処は『アルカイド』だ。間違いない」
薙の言葉に我知らず息を呑んだ。薙が嘘をついているようには見えない。もっとも、こんなところで嘘をつくメリットがない。それになにより、薙の真剣な表情と真実を語る声、そして信頼する薙だからこそ信じられた。だがそれでも、話に聞いていた美しくも暖かい都と云う言葉も面影も見当たらず、不安になる。それが三人の顔に出ていたのか、薙はスタスタと何処かに向かって歩き出すとある場所に立ち止まった。薙が立ち止まった前方には埃にまみれて何も見えない壁があり、薙は突然抜刀し、その壁に向けて切りかかった。
「な、薙ちゃん!?なにしてるの?!」
「ほら、これ見ろ」
何事だと驚く彼らを横目に薙が壁を示す。なんだなんだと紅葉達が近寄り、壁に大きく刻まれた紋様に目を見張った。
「これって…」
「嗚呼。『勇使』関連、帝からと云う署名として押されている印だ。この印が刻まれているのは帝の膝元である都、唯一『アルカイド』だけだ。これが、妾が確信する理由だ」
ワナワナと震えた手で壁の紋様を指差す白桜。そう、壁に大きく刻まれた紋様は自分達がよく見る紋様だった。この紋様は帝自身と『アルカイド』を示している。『勇使』にとっては書類上でも何度も目にする常識中の常識であり、『勇使』の相方である者達にとっても最低限知らなければいけない常識である。つまり、此処は『アルカイド』と云う事だ。だが、
「でもなんでこんなことになってるの?最初からこうだったわけじゃないでしょ?」
誰もが思っている疑問を雛丸が薙の方へ身を乗り出すようにして問うと彼女は肯定の意で頷いたが、次第に顔は曇り、俯いてしまった。その動作だけで薙が来たときは普通に都だったことが読み取れるし、薙が知らない間にこうなったということもわかる。その知らない間がわからないが。と、その時、脳裏に甦ったのは穴に落ちる前、神子が言った言葉だった。
「神子さんが言ってた紅と関係あるんじゃない?」
「さあ…だが、その名が異変の原因だとしてもその正体は?」
「……う、分かんない」
腕を組み、考え込む薙にそう一刀両断され、紅葉は顔をしかめた。双璧が言っていたあの人の名前なのだろうか。だとしたら、異変の真の原因と云うそれは、一体何が目的なのだ?もし、この都を壊した張本人だとしてもその理由なんてわからない。ピースが足りないのは承知の事実だった。名前なのか名なのか、まるで雲を掴むような感覚だ。例えピースが全て集まったとしても、例え一本の線になったとしても何かが違和感を主張してくる。だが、全ては、此処に存在しているのだと云うことは分かった。悩んでいたって仕方がない、と云うように雛丸が言った。
「白桜が神子さんの能力かどうかわからなかったって、なんか意外だね」
「ええ、私も不思議なのです。予知と同じような、固有や共通とは違う特殊かもしれません」
雛丸の疑問に紅葉がそうだそうだと頷く。だいたいの能力の違いがわかる白桜がわからないなんて驚きでならない。だが、白桜もわからなかったらしく、不思議そうに首を傾げていた。
「兄さんにも分からない事があるんだねぇ」
「全部わかってたら凄くね?帝になれんぞ」
「ダメー!」
「私は帝にはなれませんよ」
ハハハ、と楽しそうな声が反響した。ただ、場所が場所なだけに笑っても重たい空気は変わらない。と、紅葉はまたあの気配を感じ、振り返った。あの気配は『隻眼の双璧』のものだと思っていた。自分達を執拗に狙って来ていたのだからあり得ない話ではない。だが、今此処に彼らはいない。じゃあ一体、誰だと云うのだ。まさか…。ゾワッとした寒気に襲われ、紅葉は自身の体を思いっきり抱き締めた。紅葉の異変に白桜が気付き、心配そうに彼を覗き込んだが、紅葉は大丈夫だと笑ってみせた。それに横目で気付きながら、薙が瓦礫の隙間から見える光に向かって歩き始めた。
一週間ぶりです!さてさて、終盤に近づく章に入りますよ!そして!「説明が分からなくなったらスルーしようね」章でもあります…




