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ある研究員による報告書

作者: 髪をかきあげた女

 人間は、巧妙に計算され尽くした抗いがたい設計図の上で踊らされている。


 我々研究員の任務はその設計図の概観を明らかにすることだ。人間が我々に要求することはもう一つ上の段階のものである。それは、設計図の書き換えである。制約から解放され自由になりたい、より幸福を享受したいというのが人間の願いだった。人間の要求はおおよそ我々の目指すところと一致している。我々は期待に応えるべく日夜研究を重ねた。彫刻刀で掘っていくみたいに、少しずつ慎重に丁寧に。


 設計図の概観を明らかにするところまでは順調だった。しかし書き換えとなるとこれは無謀な挑戦だった。設計されたものたちは頑として秩序を保ち続けている。


 結果として我々は科学による設計図の書き換えを断念した。失望の声は大きかったが、人間は個々に処世術を身に付けたり、科学的根拠の見受けられない根性論や哲学、宗教といったものを信奉することによって、何とか折り合いをつけて生きているようだった。その代わり、科学の権威は失墜した。我々の地位も危うくなっている。


 最近、我々はある一つのものに着目している。あらゆるものをおもちゃのコインさながらにさせてしまうものがあるのだ。


 それは、夏である。


 近頃、夏になるとみな気がおかしくなる。屈強な精神だけが自慢のメンタルビルダーでも気がおかしくなる。人間という人間がみな狂気にあてられてしまう。散歩がてら人を殺そうが、そんなことに驚くほうが尋常ではないといったふうに思わせるのが夏の魔力なのである。つまり、夏はあらゆる常識を覆しあらゆる狂気を正当化させる効力を持つのだ。


 狂気にあてられた人間は制約から解放され自由になり、ようやく幸福を享受することとなった。人間が信奉していたものはおろか、我々がよすがとする科学でさえも、夏になってしまえばもはや無価値なガラクタ同然になってしまった。


 だからといって、我々が科学を放棄することなどありえず、この夏の異常現象について科学をもって解明しようとしている。これは科学の権威を回復するための大きなチャンスで、我々にとっては天の恵みである。以下に我々が考察し発見したことを記述する。


 まず、狂気にあてられるとはどういうことだろうか。サイコパスになってしまうということではない。犯罪が増えたということも聞かない。ではどういうことだろうか。我々は「内に秘めていた生命エネルギーが一気に外へ放出されること」だと定義している。馬鹿らしいと思われるだろうが、けたたましい程にさんざめくセミと狂気にあてられた人間には何か共通点や関連性があるのではないかということで、現在セミについての研究を重ねているところである。


 次に、狂気にあてられていることを自覚している人間はいるのだろうか。残念ながら、ほとんどの人間は狂気の薬物のような心地の良さに魅せられてどっぷりと浸かってしまうために、自分が狂気にあてられていることに気付いてない、あるいは忘れてしまっている。狂気にあてられてもなお心もとない理性を保ち続けられる人間は本当にごくわずかで、それが我々なのである。希少価値の高いレアな存在のようにみえるが、実はこれはれっきとしたハズレくじだ。狂気にあてられてしまえばどれほど楽になれるだろうか。我々の心中は想像に難くないと思われる。


 我々は我々にできることを模索した。同胞たちの多くは道中尽き果て狂気にあてられていったが、ついに我々は三つ目の事実を発見することになった。絶対に見える夏の魔力にも効果の限界が存在することが明らかになったのである。a.m.5:00という極めて限定された時間にのみ。


 これは数多くの奇妙な事例を集め抽出した結果に得られた事実である。気のおけない友人たちと朝まで肩を組み合ってお酒を飲んでいたところ急に小瓶を投げ合うことになったという事例。永遠の愛を誓った恋人と日の出を見に行ったつもりが気付けば恋人の婚約指輪をはめた薬指を切り落とさんと躍起になっていたという事例。狂気から目を覚まし、本来の正常な思考を取り戻すことのできる時間の存在。それが夏のa.m.5:00なのである。我々は何か究明に繋がる大きな手がかりを得たように感じた。


 なぜa.m.5:00なのかについて、日夜議論が交わされている。我々の間で支持されている最も有力な説は、a.m.5:00は一日の中で最も気温が低い時間帯であるから何か気温が関係しているのではないかという説であるが、あまりに稚拙なために私は支持していない。また、他にも検証されていない様々な説があるため、未だ真相の解明には至っていないといえる。


 まもなくa.m.5:00だ。科学の権威、そして我々の地位の回復のためには寝る間も惜しい。狂気にあてられてもなお理性を保ち続けられる人間として私は、我々の未来のために、夏の究明に尽力しなけれzsxdcfvgbnmk・・・・・・・・・・。



 ・・・



 研究員の報告書は途中で読めなくなっていた。報告書を見た他の研究員はまたかと言ってため息をついた。その研究員の話を以下に記す。

 

 彼―この報告書を書いた研究員―は夏になった途端、まるで人が変わったように研究に没頭していました。成果はともかくとして、研究室一のお荷物と呼ばれていた彼が心を入れ替えて頑張っている様子を見て、私は感心していたんです。


 でも、どうやら研究が進むにつれてそうではないことが分りました。彼は決して心を入れ替えたわけではありません。お荷物と呼ばれていた彼の心の内には虚栄心とか劣等感とかそんなどす黒い感情が渦巻いておりました。それらが夏をきっかけに放出されてしまったのです。そして、この報告書を書いている途中、a.m.5:00を迎えてしまったことで彼は正気を取り戻した。目の前にあるのは身に覚えのない報告書。彼は続きを書くことができないこの報告書を途中で投げ捨ててしまったんでしょう。いつものことです。今はまだ報告書の不備だけで済んでいます。しかし、もし正確性が求められる研究でこんなことをされたならばたまったものじゃない。夏の狂気にあてられた彼はもはや我々の研究の邪魔でしかない。彼は再び我々のお荷物になってしまったのです。彼が研究室にいられるのも時間の問題でしょう。

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― 新着の感想 ―
[一言] 狂気から目を覚まし、本来の正常な思考を取り戻すことのできる時間の存在ーーそれが夏のa.m.5:00である、というユニークな発想がいいですね! どんな場所で研究を行っていたのかな、と思ったり…
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