薔薇のブローチ
マリー・アンにまつわる記録は少し奇妙のものだった。
王都で政変の際捕えられた貴族の娘とされているのだが、その一族は既に王都で皆殺しになっている。捕えられたのではなく、混乱のなか兵士に殺されたそうだ。
父親が要人であったため、見せしめの意味もあったのだろう。
何も知らずに巻き込まれた家族は哀れだ。その狂乱のなか、マリー・アンはたった一人逃げ延びたらしい。だが、関係者の逃亡先など、情報を知らない小娘を生かして閉じ込めておく意味などないはずだ。
では、どうして無事でいるのか?
彼女の言っていた言葉を思い出す。
『自分は前王の子の生き残り』。本当でも嘘でも構わないと思っていた。だが、もしそれが本当だとしたら。今の王は彼女を生かしておきたくはないだろう。それなのに無事で生きている。
彼女を保護している者がいるのかもしれない。
*
「ごきげんよう。ゾルバさん」
久し振りに見るお姫様は、はにかむような笑顔を浮かべ、俺の視線から逃げるように椅子へ座った。何か言いたげでありながら、言い出せないようでこちらを伺っている。言い出すのを待ってみたが埒が明かないので、こちらの要件を先にいうことにした。
「身の回りで変わったことはないか? 例えば知らない奴が部屋に訪れるような事とか」
一瞬顔を赤くしたお姫様だが、彼女の思っていた質問と違ったようだ。何のことかと顔をあげて確かめるように俺を見つめる。
「いいえ。牢番のサムさんと、お世話役のメグさんしかいらっしゃいませんわ」
「そうか」
「何かございまして?」
遠まわしに言うのは慣れてない。
俺は先日、暴漢にあった事を話した。そして、その男が『王都から送られてきた女』を探しているということも。
「俺の知る限り、当てはまる囚人はアンタしかいない」
「そんな……」
青い顔で不安そうに視線をさまよわせる。
「アンタが此処へ連れてこられた時の記録を見たよ。王女ではなく、貴族の令嬢と記されていた」
マリー・アンは驚いたように顔を上げた。
本当に知らなかったらしい様子で俺と目を合わせる。
念のため父親とされる貴族の名前を言ってみたが、全然知らない人物だと首を振った。
「どういうことでしょう? 私は誰かの代わりにここに入れられているのでしょうか?」
「いや、アンタが王女であることを伏せているだけかもしれねぇよ。所で、お姫様の食事や部屋の代金を出しているのは誰だ?」
利用価値のない貴族の娘が、最上階で特別扱いをされるには後ろ盾がいるはずだ。それを聞きたかったのだが。
「ごめんなさい。私、牢に居るためにお金がかかるなんて知らなかったのです。だから、何方が資金を用意されたのか知らなくて」
どうやら親切な誰かさんは姿を見られたくないらしい。
誰か分かれば、ここが安全でなくなったと警告を出すことも出来たのだが。
「誰か知り合いということはないのか?」
「私の知り合いなどほとんど居ません。それに、国王から私を隠しおおせるほど力のある方など尚更」
ガキの頃からロクでもない場所で育ってきたせいか、俺は人の嘘を見抜くことが出来た。上手く説明出来ないが、視線だったり仕草だったり、言い回しだったり、嘘による不自然さがそんなものから滲み出して来るのだ。
だが、このお姫様から嘘を感じることは無かった。
今も今までも。
お姫様は、スカートのフリルの中から小さなネックレスを取り出した。美しい楕円形のカメオには厳しい紋章が刻まれ、かなり高価なものだとひと目でわかる細工が施されていた。ロケットになっているらしく、マリー・アンは本を開くように蓋を開いた。小窓へ近付けるだけ近寄り、格子越しにそれをこちらへ見せる。
後ろから覗かれても危険がないくらいに、俺もなるべく側へ寄った。
中には壮年の男と若い女性が描かれている。この国の人間なら、その男が王だと直ぐにわかるだろう。蓋の裏には年号と日付『我が恋人ヘンリエッタへ』と刻まれていた。
するとそばに居るのは。
「私の母です。よく似ていますでしょう?」
マリー・アンが生まれた年に王が母に贈ったものなのだそうな。
それと共に、紋章の刻まれた指輪を持たされたという。ネックレスのチェーンに繋がれた男物の指輪を見て俺は息を呑んだ。
「こんな物しまって置け。見つかれば間違いなく殺される」
「大丈夫です。いつも分からないところに隠しています」
「なぜ俺に見せた? 俺は監獄の人間だぞ。これを証拠に殺されたかもしれないんだぞ!」
全くなんて馬鹿なお姫様だ!
こんなものを軽々しく赤の他人に見せるものではない!
直ぐにしまえと険しい顔をする俺とは対照的に、マリー・アンはとても嬉しそうな顔をした。
「いいえ、貴方はそんな事なさらないわ。今こうして私を危険から遠ざけようと叱ってくださるんですから。私、人を見る目はあるんです」
「俺はそういったことに関わり合いを持ちたくないだけだ。もし、そうじゃ無かったら、アンタは今ここで死んでいる!」
「でも、そうはならないようですね」
俺は試されたらしい。
だが、この試験はマリー・アンの生死をかけたものだ。こんな馬鹿げた賭けをするなど、なにを考えているのやら。
「何故こんなことをした? 何が目的だ?」
誰かと連絡をとりたいのか?
それとも監獄から逃げたすための手引きをしてほしいのか?
今までに突きつけられたことのある要望が、味わった数々の痛みと共に次から次と思い起こされた。
「悪いが協力できない。俺に脱獄を頼むなら話し相手もこれっきりだ」
「違います。何かして欲しいわけじゃないの」
席を立とうとする俺の手に、格子の隙間から差し込まれたマリー・アンの指先が辛うじて触れる。
「知っていて欲しかったのです。貴方には」
必死に言葉を継ぎ、俺はそれを聞いてしまったが為に席を立つタイミングを外した。
「私はここかは出られないかもしれないのでしょう? なら、ゾルバさんに、私の事を覚えていて欲しかったのです」
俺になど覚えられたところでなんだと言うのだ。
マリー・アンは照れた様に視線を胸元に飾った赤い薔薇へ落とした。
「お花を下さってありがとうございます。とても……嬉しかったです」
マリー・アンは十歳まで母親の生家で育ったらしい。
王の情がかかり、子を持ったことから結婚することも出来ず、流行り病でこの世を去るまで女手一つでマリー・アンを育てたそうな。
「母の家の庭にも、これと同じバラが咲いていました。思えばあの時が一番幸せでした」
再三の招きにも関わらず、母親は王都へ行くのを嫌がっていたそうだ。外から見れば輝かしい王宮も、権謀術数の渦巻く魍魎の館だと言うことを彼女はよく理解していたのかもしれない。
「ですが、牢の中にはおりますけれど。このようにゾルバさんとお話出来て、穏やかに暮らせるのは悪くないですわ」
虐げようとする者も利用しようという者もいない。
傷付きながら気を張って生きなくてもいい場所が監獄とは。
「大したことは出来ない。俺の仕事に携わること以外で、何か望むことはあるか?」
こんな風に誰かに訪ねたのはいつだったか。
手に余ることを望まれては果たせずに失ってきた。繰り返すうちに問いかけすら忘れてしまった。
「お花を下さいませ。この花が枯れてしまう前に」