侵入者
監獄に設けられた首切り役人の控え室に侵入した者がいたらしい。酷く荒らされはしなかったが、断りもなくあちこち探られるのは嫌な気分だ。何が目的かは知らないが、あそこで埃をかぶっている本や記録は、普通の人間には何の役にも立たない。
前任者の記録や過去の処刑リスト。良く手入れのされた剣や斧。最近は使われなくなったが、処刑台に上がる時、執行人が被るグロテスクなデザインのマスク等、過去にまつわる様々なガラクタが保管されている。
そこから何を探していたのか。
引き出しや棚の中の書類がグチャグチャになっている。日付順に保管されているというのに。
俺は仕事場へ来た早々、片付けものに追われる羽目になった。
ところが、被害にあったのは俺の部屋だけではないらしい。
監獄長の部屋も荒らされた。金目のものはそのままで、囚人のリストだけが荒らされていたと言うから奇妙な話だ。
そう言えば、俺のところも荒らされたのは書類ばかりだ。強盗の目的は囚人の情報なのかもしれない。誰を探している?
大した被害もなく、気味が悪いが犯人も特定できない。まぁ、内部の人間じゃないと言い切れないところが情けないが。警備を強化しただけで、それ以上の調査はされ無かった。
そのドタバタのおかげで、今日は下手くそな処刑の見届けはしなくて済んだから俺としては良かったのだが。
*
お姫様に会うのは、日も大きく傾き出した頃。
夕方に差し掛かろうという時間になった。思わぬトラブルに遭い、報告や片づけ物に手間取ると分かった時に日時の変更を打診したのだが、お姫さまは了承しなかった。遅くなってもいいから連絡が欲しい。そんな言伝をよこした。
こんな時間に行ったところで話す時間などほとんど無いのだが。それでいいと言うならこちらも文句はない。『話を聞く仕事』が短くなるだけの話だ。
外は夕映えに染まることなく、今にも降り出しそうな怪しい雲行きをしていた。
帰りには降り出すだろう。雨よけのフードを羽織り迎えの馬車に乗り込んだ。
陽射しが入らない室内は薄暗く、気持ちを鬱々とさせる。燭台の頼りない明かりを手に、懺悔の部屋に入ると、格子の向こう側から明るい声が響いた。同じ暗がりでもどこか違う。花のような香りのせいだろうか? 狭い部屋には冷たい雨が石壁を湿らせる匂いのほかに、お姫さまから漂うのか微かな花の匂いがした。
「ごきげんよう。ゾルバさん。あいにくの天気になってしまいましたわね」
「そうだな」
「……」
「なんだ?」
お姫様が急に息を呑んで沈黙する。
椅子に手をかけた俺は、その間を訝しく思って問いかける。いつものように、明り取りの窓から日差しの入らない格子の向こうは暗闇に沈み、少女の姿は良く見えない。
仕切りの格子のそばに置かれた椅子の背に手をかけ、手に持っている燭台を、テーブルの上に置こうとして止められた。
「待って! もう少しそのまま……」
理由の分からん願いだったが、急に言われて動きを止めた。
しばしの沈黙。
「何だ? もう座ってもいいか?」
「はい」
名残惜し気に返事をするお姫さまに、俺は内心首をかしげながら燭台を置いて椅子に座る。
すると。
「あの、明かりをもう少し近くに寄せてもらえますか?」
暗いのが嫌なのか?
言われた通り燭台を乗せたテーブルを少し近くへ寄せた。
「ゾルバ様の瞳は金色なのですね。茶色だと思っていました。黒い服に黒い髪。遠い南の国にいる黒豹のようですね。私は本物を見たことはないけれど、絵で見たことがあります」
そうか。明かりのせいでこちらが良く見えるんだな。
この地域ではあまり見られないこの瞳の色が、俺をなおさら悪魔じみて見せるらしい。怖がるものも多い。
「気味が悪いか?」
「いえ、そうではないのです。その……とても綺麗です。できればもう少し、傍に来てはもらえませんか?」
仕切りの壁に設けられた小さな格子窓の向こう。暗がりから、彼女はどんな顔で俺を見ているのだろうか?
好奇心にかられ、奥を覗くように少しだけ近づく。
微かに鎖の音がして、暗がりより白く細い指が現れると格子へ掛かる。こちら側へ侵入した指先の薄紅色の花びらのような爪が蝋燭の光を艶やかに反射していた。
その指先に触れてみたいと思った。
こちらから漏れるオレンジ色の薄明かりの向こう、彼女の顔が浮かび上がる。星のように輝く青い瞳が、柔らかさと、俺の知らない僅かな熱を帯びて交わった。格子へ掛かったマリー・アンのしなやかな指が招くように握り直される。
誘われるまま、俺が手を伸ばそうとした時。
ノックの音が響いた。
微かな音だったが、それは俺を現実に引き戻すのに十分な音だった。
お姫様はハッと我に返り、恥じ入るように手を引っ込めると、ドアの向こうへ姿を消した。俺はなんとも言い難い余韻の残る部屋で、自分に起きた理解し難い感情を持て余した。
教会の外は既に大雨だった。
叩きつける雨音はそれ以外の音を遮断して暗闇を満たしている。
時々木を引き裂くような轟音とともに、稲妻が雨雲の腹を撫でてあたりを照らす。
馬車を出すかと小僧に聞かれたが断った。
囚人に感情を持つなど、俺はどうにかしている。頭を冷やすべきだ。冷たい雨の中足を踏み出す。あっと言う間にずぶ濡れになったローブは重く、体を冷やしていった。
耳を塞ぐような雨音のなか、俺は歩き出した。
足早にスラムの入り組んだ路地に入ると、立ち並ぶ家が風雨を妨げるのか雨は弱くなった。フードをとり髪を伝う雫を払う。息が白くなったことに気がついた。
ここまでくればもう少しで家だという辺で人に襲われた。
後ろから人の気配がして、脇道へ入ってまこうとしたとたん前から現れた男に義足を払われた。バランスを失った所で壁に押さえつけられる。
心当たりならいくらでもある。
恨まれる仕事しかしていないからだ。
いつもはもっと用心深くしているのだが、今日の俺はいつもと違った。
「ゾルバ・コンスタンティンだな?」
「だとしたら何だ?」
面を見られたくないのか、背後から俺の頭と背をひねり上げた腕とともに壁に押し付けてくる。馬鹿力め!
「王都から送られてきた女に心当たりは?」
たくさんある。だがこの状況で答える義理はない。
男が再び何か話そうとした隙を狙って壁を蹴った。倒れ込むままに男の鳩尾に肘を入れる。取り押さえようと走りよってきた仲間の手を転がって避け、脛を義足で思いっきり蹴り飛ばした。素早く立ち上がり脇道へ逃げ込むと、窓に出っ張った鉄の花台に捕まってテラスへよじ登る。さらに上のテラスへ飛びついて屋根まで上がり身を伏せた。
下では俺を襲ったヤツらが騒いでいる。
多勢に無勢だ。このまま雨に紛れて逃げることにしよう。
剣は持っているがこういう輩をいちいち切っていたのでは切りがない。恨みの上塗りをするだけ、殺すのは仕事だけでいい。
俺は屋根伝いに遠回りをし、屋敷の庭に降りた。
ずぶ濡れの泥まみれの俺を見て、住み込みの婆さんが狼狽えていたがその他に問題はなさそうだ。
熱い湯に入り服を着替え、ハルバードを手元に置いて酒を飲む。
体が温まってゆくにつれ、先ほどの男の言葉を考える。
『王都から送られてきた女に心当たりは?』
王都から送られてきた女なら、たくさん知っている。
どの女のことを言っていたのかは分からないが、今生きているのは1人だけだ。
逆恨みによる敵討ちか。
それとも。
不意にお姫様の指を思い出す。
デキャンタの置かれたサイドテーブルの艶のある縁を指でなぞった。