第一話 ガイドブックは白紙でした
死後の世界というものは、平たく言えば人生の総決算だ。
メジャーな宗教はどれも『善良な生き方をすれば素晴らしい死後の世界に行けて、悪い生き方をすればとても辛い死後の世界に送られますよ』と教えている。身も蓋もない表現だが、人々に『良い生き方』をさせるテクニックという奴だろう。
最大のポイントは、どんな死語の世界に送られるかという判定基準が、それまでの人生の総合評価にあるという点である。
死んでからジタバタしても始まらない。そもそもとっくに終わっているのだから始めようがない。喩えるなら入学試験。試験とはそれまでに身に付けた知識と学力の総力戦であり、試験が始まってから挽回しようとしても手遅れだ。死後の世界もそれと同じだ。
そのはずなんだけれど――
「ぜんぜん話が頭に入ってないみたいですねー。もう一度最初から説明しましょうか」
俺は、真っ白な空間にいた。上も下も分からないが、かといって無重力という感じもしない。あまりにも静かすぎて吐き気がしそうになる。
この場所にいるのは、俺ともう一人。背景に溶け込みそうなくらいに真っ白な服を着て、鮮やかな金色の髪をさらりと背中に流した、俺と同年代の外見の少女だ。
「改めて結論を言いますね。真壁有理くん十七歳。君は既に死亡しました」
「……はいはい」
さっきと同じように全力で疑いの眼差しを向ける。これが普通のリアクションだ。そうだったのか!と真に受ける奴は詐欺に遭いやすいタイプに違いない。
「むぅー、やっぱり疑ってますね」
「当たり前だろ。そんな覚えは全くないんだから。だいたいアンタ誰だよ」
「覚えてなくて当然ですよぉ。ボクが記憶にロックを掛けましたから」
記憶にロック? あっけらかんと言われて頭を抱えたくなる。しかも後半の質問はナチュラルにスルーされてしまった。
「死ぬ瞬間は死ぬほど痛いんですよ? それでまたショック死されたら大変じゃないですか。だから、思い出しても大丈夫って判断できるまでは、ボクが責任持って記憶を封印しておくんです。死んだ状態でまた死んだら今度こそ完全消滅ですよ」
「そりゃーまー、死ぬんだから死ぬほど痛いに決まってるよねぇ」
「うわぁ、なんて心の篭ってないリアクション。そんなに言うなら、ちょっと前のこと思い出してみたらどうですか。どーせ無理ですから」
心底馬鹿らしいと思いながら、記憶の糸を手繰り寄せてみる。
簡単に思い出せるに決まっている。学校から帰ってどこかに――どこだったか――出かけ、行き先で誰かと――誰だったか――と会って、銀色の何かが――
「……っ!」
鋭い痛みが頭を貫く。意識が頭の外に弾き飛ばされそうになる。まるで、記憶の糸を手繰る手を何者かに叩き落とされたかのような感覚だ。痛みが引いてからも頭がぐわんぐわんと揺れている。
只事じゃない。目の前の女が言っていたことが急に信憑性を帯びてきた。俺の記憶は……いや、俺の頭は確実にどこかがおかしくなっている。
「あ、さっきは自己紹介してなかったかな。ボクはノルンって言います」
目の前で他人が苦しんでいるのに、ノルンと名乗る金髪の少女は平然と話を先に進めていた。自分が思い出せと言ったにも関わらずだ。
「とにかく。君は残念ながら死んでしまったわけです。ですが困ったことに受け入れ先が決まっていないんですよね。楽園に行けるほどの善行は積んでいないけれど、地獄に落とされるような悪行もしていない。だからどちらにも送られない。それは大変可哀想なのでぇ……」
ノルンがぱちんと指を鳴らす。次の瞬間、俺の手元に一冊の本が突然出現した。
「うわっ!」
咄嗟に掴み取ると、片手に余る大きさ相応の重みがずっしりと伝わってきた。
「これは『試練の書』というものです。君には試練の書に記された課題をひとつずつクリアして貰います。見事達成すれば楽園行き。途中で脱落すれば地獄行き――とはならずに、第二の死を迎えてサヨウナラ。分かりやすいでしょう?」
とてもじゃないが信じられない話である。しかし、何もない空間からいきなり本が現れた時点で、これからどんなに奇妙な事が起こっても不思議ではなくなってしまった。
これは夢だと自分に言い聞かせるのは簡単だ。けれど、手に持った本の圧倒的な現実感が、夢オチなんていう情けない逃げ道を容赦なく塞いでいる。
息を呑んで、気合の入った金細工で飾られた表紙をめくる。
「……あれ? 白紙じゃないか」
表紙の荘厳さとは裏腹に、中のページは全くの白紙。染み一つない新品だった。
「そこが重要なんです。試練の書には一ページずつ課題と助言が出現するようになっています。最初のページは試練が始まったら浮かび上がって、課題をクリアしたら次のページの課題と助言が浮かんで! 最後のページまで達成すれば楽園に!」
ノルンがオーバーなボディランゲージで何事か訴えかけている。今の俺にはそれを理解する余裕も理解したい気持ちも全くなかったが。
「つまり試練の書とは! 『死後の世界で自堕落生活を送るための最強ガイドブック』というわけなのです! きゃー! どうです? やる気が湧いてきたでしょう? ボクに感謝してくれてもいいんですよ?」
そう言ってノルンは何故か胸を張った。
この女は脳みその代わりにプリンでも詰まっているんじゃないだろうか。
率直な感想は胸にしまい込んで、改めて試練の書とやらのページをめくってみる。どこまでめくっても白、白、白。最後のページも当然のように真っ白だ。
「死後のガイドブック……エジプトの死者の書みたいだな」
「おや! 死者の書をご存知でしたか」
「えっと、まぁ、それなりに」
余り大きな声では言いたくないが、実は中学生の頃にオカルトやらファンタジーやらにハマっていた時期がある。それもなかなかに痛々しいハマり方だった。忘れたい過去ではあるのだが、身に付けてしまった知識はどう頑張っても消えてはくれない。
「いわゆる死者の書、正確には日下出現の書と訳すのが適切ですが、確かにあれも死後のガイドブックと呼ぶべきものですね。楽園へ至るまでの間に待ち受ける試練と、それらを突破するための文言を記した、まさに死者のためのガイドブック! 試練の書との最大の違いは――」
「あっちは最初から最後まで全部書いてあるんだろ。白紙だなんて意地の悪いことはしないでさ」
「いやいや実にお詳しい。ですが試練の書が情報を小出しにするのも、ちゃんと意味があるんですよ。試練を進めていけば理解できると思います」
そんな会話を交している間にも、辺りの白さが刻々と強さを増している。異物を塗り潰すように、押し潰すように。ノルンの姿も暴力的な白さに飲み込まれ、だんだん見えづらくなっていく。
手に持った試練の書までもが霞がかって見えてきた。このペースだとすぐに何も見えなくなってしまうなと、他人事のように冷静に考えている自分がいた。
「残念ですが君に拒否権はありません。制限時間は無制限。ステージは日本でも地球でもない違う世界。次に目を覚ましたら試練のスタートです。サービスでお祈りもしておきますね? どうかどうか、君の旅路に精一杯の幸運が待っていますように――」
薄れ行く意識の中、俺は今までの出来事が全て夢であることを祈っていた。それが無駄な抵抗であることはとっくに理解できていたけれど。
――割とどうでもいい話だが。
死者の書は、記された内容の通りに動けば楽園に行けるという代物ではない。神様の裁きの結果は生前の行いによって決まるので、品行方正に生きなかった奴は問答無用で有罪判決を食らってしまうのだ。
言い換えるなら、裁判所までの道のりがとても険しいだけ。大昔のエジプトでもやっぱり死後の世界は人生の総決算。どう生きたかが全てを決めるのである。
だとしたら――
――試練とやらを潜り抜けた先に、本当に楽園が待っているのだろうか。
正直言って疑わしい。ノルンが言っていたことを信じる根拠は何もない。
それでも俺には拒否権なんてものはなく、なすがままに意識を引っ張られていくことしかできなかった――