プロローグ
新緑の頃、大型連休を使って篠崎は、赤く塗られた大きな橋の真ん中でじっと渦巻く海を見ていた。
ここは、全国でも有名な自殺スポットだ。
まだ陽の昇らぬうちに家をでて、誰もいない橋の上から飛び降りるつもりだった。
漫然と日常を過ごし、なんの取柄もなく、可も不可もない人生だった。
何十社も受けてようやく内定が取れた会社に入社できたものの、特にやりたかった仕事でもなんでもなく、
周りの同期の輝かしい若さが、やけにまぶしく、自分の陰がより一層深くなるのを感じる日々だった。
期待されてないことはわかっていたが、期待されてないなりにやるべきことはやらなければ会社での存在意義を失う。
新人という立場なので、ある程度の失敗は許されるのかもしれないが、失敗どうこうというレベルではなく、
篠崎は周りに圧倒されて、ろくすっぽまともに話すことができず、篠崎の採用事態が失敗というレベルのものだった。
緊張で、体中から嫌な汗が出る。
パニックに陥って、周りが見えなくなる。
言いたいことがあっても、口が震える。
どもって、何が言いたいのかわからなくなる。
社会人として、絶望的なコミュニケーション能力のなさだった。
当然、周りは察する。
ああ、この子はダメだと。
そして、誰も構わなくなる。そっとしておかれる。
周りが、忙しくしている中、何も与えられない。
与えられてもそれは、社員でなくても誰でもできる機械でもできる仕事。
一人離れた島の机に座り、うつむいてコツコツと作業をするが、誰とも何も話さず、なんのためにここにいるのか自問自答をしだしてまたどっと汗がでてくる。
その汗は次第に冷えて、全身が冷たくなっていく。
自分がないものとして扱われる感覚は、そうなったものにしかわからないだろう。
単純な作業にも関わらず、針のむしろのような会社の中で、神経をすり減らし、冷や汗の中で絶望していく。
このままこの日々がずっと続いていくのかと思うと恐怖で呼吸が荒くなっていく。
無能な自分が、これから大きく変わることなんてないだろう。
篠崎は、そうして死ぬことを決断したのだ。
今、目の前に大きな渦を巻いて、海が手招きしている。
この橋の欄干に足をかけて、登り切って、飛び降りれば、海がすべて飲み込んでくれるだろう。
もう明日が来ない。
明日を生きなくてすむ。
篠崎は、意を決した。
欄干に手をかける。
そのとき、篠崎の右わき腹のシャツをつかんだ者がいた。
振り返ると一人の女性が立っていた。
「もし、死ぬほどの勇気と覚悟があるのならどうか私の願いを聞いてください。
私も死ぬつもりでしたが、このまま死ぬのが歯がゆいのです。
貴方が望みを聞いてくれるのならば、なんでもします」
女性は、目に涙をためて、じっと篠崎を見つめている。
黒いストレートの髪が、潮風になびき、蒼白の顔を朝日が照らし出す。
死への助走を途中で止められ、篠崎は我に返った。
「この煮えたぎる怒りと憎しみから解放されたい。死んでも死にきれない。
私を死に追いやったある男を一緒に殺してほしいのです」
篠崎が、驚いて目をみはる。
「この願いがかなえられたあかつきには、私も死にます。
最期の願いです。力を貸してほしいのです。
貴方のご家族には迷惑のかからないようにします。
私がすべて行ったことにしますので」
篠崎は、女のまっすぐな眼差しを見て、その思いが本物であることを直感した。
生まれてきてこのかた、誰の役にも立ったことがない。
最期の最期が、殺人で人の役に立つとは、この平坦な人生の幕切れには少々大きすぎる花火であったが、打ち上げることになんの違和感も感じなかった。
お笑いだ。
殺人で自己実現。
人を殺すことで、自分の承認欲求を満たし、罪の中で自己陶酔しながら死んでいく。
篠崎は自身を嘲笑した。
心の中で笑っていたはずなのに、いつのまにか声に出して笑っていた。
大声で笑っていた。
こんなに笑ったのは、何年ぶりだろうか。
泣きながら笑った。
「いいよ。アンタの願い、かなえてやるよ」
女性は、驚いていた。
でもぐっと目を閉じて、震える声で「ありがとう」と言った。
朝日が眩しかった。
橋の上で、自殺しようとしていた二人が出会い、死を前に盛大に仇花を咲かせることを誓う。
陽が昇っていく。
見知らぬ一日が始まる。