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ネタ帳  作者: 加茂セイ
8/21

冒険者タイエ

(1)


 古い石造りの建物が連なる王都ジュール。その下層区にある住宅街の片隅に、小さな物置小屋があった。

 いや、正確に表現するならば、それは物置小屋だったものを改造した住居だった。

 間取りは寝室と食堂兼炊事場のみ。周囲の三方を高い壁に囲まれているため、日当たりと風通しは最悪。夏は熱がこもり、冬はとことん冷え込む。雨風を防げることだけが救いという、家畜小屋と比べてもどっこいどっこいの粗末な家である。

 季節は秋が深まりかけた頃。

 時刻は夕暮れ時。

 その小さな住居に、控えめな炊事の香りが立ち込めていた。

 かまどの中で頼りなさそうに燃えているのは、街路樹の枝を乾燥させたもの。スープの具材は野草とキノコ。パンは自家製だが、素人が粗末な小麦粉で作ったものなので、味も形もよろしくない。しかし焼き立てであれば食べられないことはないし、木の実を砕いたものを混ぜてあるので、多少は香ばしいだろう。

 炊事場で踏み台の上に立ってナイフを握っていたのは、今年で六歳になったばかりの幼い少年だった。

 黒髪に青色の瞳という組み合わせは、この国ではちょっと珍しい。栄養が足りていないのか痩せ細っているが、表情や仕草には悲壮感を感じさせない無邪気さがある。継ぎ接ぎだらけの服も薄汚れてはいないし、髪もさらさらだ。

 少年は細かく刻んだ香草を鍋に入れると、踏み台から飛び降りて、テーブルの上に食器を並び始めた。

 二人分である。

 毎回用意される食器は、しかしここ十日ばかりひとり分しか使われていなかった。余った料理も翌日に回されることになる。それでも少年は、いつ戻ってくるともしれない家族のための準備を怠らない。

 テーブルの上の花瓶に草花を挿して多少なりとも食卓を彩ってから、少年は満足そうに椅子に腰をかけた。

 それから、声に出して数を数え始める。

「いーち、にー、さーん……」

 五百まで数え終えたら、ひとりぼっちの食事を開始する。それが、少年が自らに定めたルールだった。

 最初は百だったものを少しずつ増やしていった理由について、当人はいっぱい数を覚えるためだと認識していたが、それとは別の幼い感情を否定することはできないだろう。

 その証拠に、数えている途中で玄関の扉が叩かれた時、少年は自分の願いが適ったことにびっくりして、それから弾かれたように駆け出したのである。

 扉の鍵が開き、夕日を背に現れたのは……。

「――父ちゃん!」

「タイエ! 父ちゃん、帰ってきたぞ!」

 がに股でしゃがんで両手を大きく広げた影に、少年――タイエは全力で飛び込んだ。

 分厚い革鎧を身にまとっていた父親は、ややふらついたものの、何とか踏ん張って、それからタイエを抱き上げた。

「しばらく見ないうちに、また重くなったなぁ」

 たった十日のことで体重が増えるわけがない。しかしこれは毎度の台詞であり、挨拶みたいなものなので、タイエは否定しない。

 逆に、心配そうに父親の姿を観察した。

「父ちゃんは……ちょっと痩せた?」

「仕事帰りだからな」

 タイエの父親の名前はライルという。黒髪に茶色の瞳を持つ、筋骨逞しい三十五歳。男くさい顔立ちをしているが、満面の笑顔にはどこか愛嬌がある。

「ちょうど今、晩御飯作ったところ。父ちゃんも食べる?」

「おう! はらぺこで死にそうだ」

 ぎゅっと抱きしめられたところで、タイエは気付いた。

 父親が、泥と汗まみれであることを。

 髪は脂ぎっていて、無精ひげも生え放題。

 ……しかも、かなり匂う。

 革鎧の首の辺りに鼻を寄せてすんと匂いを嗅いだ瞬間、タイエは身体を弓なりにして、顔を遠ざけた。

「――父ちゃん臭すぎ! 晩御飯はお風呂に入ってから!」

 幼い息子の無慈悲な宣告に、ライルの笑顔はしぼみ、心底情けない顔になった。

 水浴びをするには季節的に厳しい。かといって、今から水を汲んでお湯を沸かしていては、どれだけ時間がかかるか分からない。

「ちょ、ちょっと待ってくれよ。お前に会うために、仲間との打ち上げも延期して走ってきたんだぞ」

 恩着せがましいことを口にするライルだったが、タイエはすまし顔で言った。

「だいじょうぶ。水はもう汲んであるから。薪もあるし、あとは火をつけるだけ」

「そ、そうか」

「すぐに準備するから、父ちゃんは鎧のお手入れでもしていて」

「お、おう」

 ライルが身につけているのは、年季の入った厚手の革鎧である。手入れを怠れば、品質がすぐに劣化してしまう。

「着替えは洗濯してあるけど、お風呂に入るまで着ちゃだめだよ」

 そう言い残して、タイエは玄関先から裏手へと向かった。調理場の方から漂ってくるパンとスープの匂いに、思わずライルが鼻をひくつかせる。

 ――と、家の角からタイエが顔を出して、思い出したように付け加えた。

「あ、つまみ食いはだめだよ。いっしょに食べるんだから」

「す、すまん」

 何もしていないのに謝ってしまい、ライルは頭をかいた。無精ひげの生えた口元に、嬉しいような、少しだけ寂しいような苦笑が浮かんでいる。

 出来のよすぎる息子の仕草や発言に、一瞬だけ――今は亡き妻の面影を垣間見たからである。




 タイエの家には風呂がある。

 それは家の裏に設置された大きな木の樽で、元々は大量の肉を塩漬けにするためのものだったらしい。その樽をどこからか譲り受けてきたライルが、樽の底の部分にいくつもの穴を開け、これまたどこから手に入れてきた巨大な鉄鍋を張り付けた。桶の中に水を溜めて鍋の部分を加熱すれば、立派な風呂になるわけだ。

 大きさは親子でやっと入れるくらいだが、六歳の身体でこの風呂桶に水を溜めるのは容易なことではない。タイエは毎日街の共同井戸から水を汲んできて、何日もかけて少しずつ溜めていた。およそ一週間で風呂に入れる計算である。

 お湯を沸かす薪についても同様で、根気よく街中を歩き回り、燃やせるものを拾い集めてくる。

「――すまん、お湯を汚しちまった」

 そんな息子の苦労を使い果たして、ライルは申し訳なさそうに謝った。

「いいの。父ちゃんは、仕事で疲れてるんだから」

 ひさしぶりの家族の食事。幼い少年は終始興奮気味で、父親の仕事について次々と質問した。

 ライルの職業は、冒険者である。

 様々な人々から依頼を受けてこなす肉体労働者の総称だが、その仕事の内容は大きく五種類に分けられる。

 討伐ミッション護衛ガード探索クエスト調査サーチ、そして雑務タスクだ。

「今回の依頼は、ロイズ商会の荷馬車の護衛だった。こう――たくさんの馬がだな、いくつもの馬車を引いて、隊列を組むんだ」

「たいれつって?」

「……う~ん。ありんこみたいに、一列になって進むんだよ」

 唾を飛ばしながら、ライルは大げさな身振り手振りで説明する。

「目的地は、東の果てにある小さな村だ。俺たちが運ぶ荷物が届かないと、村人たちは冬は越せない。下手をすると餓死者が出る。俺たちの到着を、首を長くして待っているんだ」

 しかし、道中には深い森と沼地があり、そこを住処としている魔物――蜥蜴男リザードマンの群れに襲われたという。

 ライルは自分の目の下を指差した。

「知ってるか? あいつらはな、まぶたが下についてるんだ。ちろちろと細い舌を出して、空気の動きや匂いを探る。二本の足としっぽでバランスをとって、がに股で歩く。そして意外なことに、手先が器用で頭がいい。金属製の武器や防具を作る技術を持っている。鱗は硬いし、力だって人間より強い――はっきり言って強敵だ。そんなやつらがぞろぞろと、三十匹ほど現れやがった」

「人間より強いの? それじゃ負けちゃうよ」

 ライルはにやりと笑うと、スプーンの先をタイエに向けた。

「だがな、やつらは寒さに弱いんだ。夏場だったらやばかったが、もうそんな季節じゃないからな。動きはそれほど早くはない」

 そして力では負けても、持久力は人間の方があるという。

「俺の相手は巨大な斧を持ったでかぶつだった。一撃でも喰らっちまったら、そこでおしまいだ。盾で防いでも吹き飛ばされる。俺は、必死にやつの攻撃を避け続けた。そしてやつが疲れきったところで、反撃したんだ」

 ――結果、商隊に雇われた冒険者たちは、蜥蜴男の群れの半数を倒すことに成功し、残りの半数は散り散りになって逃げ去ったらしい。

「父ちゃんは、どれだけ倒したの?」

「うん? そうだな……まあ、五匹ってところかな? とにかく、俺たちは大切な荷物を守りきり、無事に村に届けて、こうして元気に戻ってきたってわけだ」

「すごいや、父ちゃん!」

 夕食が終わることには、すっかり夜も更けていた。

 油がもったいないので、親子はすぐにベッドに入る。スペース的な問題でベッドは一台しかない。身を寄せ合うようにして眠るわけだが、タイエはなかなか寝付けなかった。夢見る少年にとって大好きな父親が語る冒険活劇は、少々刺激が強すぎたようだ。

「ねえ、父ちゃん。冒険者の中で一番強いのはだれなの?」

「一番かぁ」

 ライルはう~んと唸って考え込む。

 少年としては、父親に自分だと言ってもらいたかったのだろう。しかし、父親の答えはやや抽象的なものだった。

「それは、勇者ってやつだろうな」

「ゆうしゃ?」

 勇者は人の名前ではなし、自分で名乗るものでもない。自然と人々に認識され、呼ばれることになる尊称だという。

「戦で活躍したやつは、英雄。そして――冒険で活躍したやつが、勇者だ。勇者はけちな仕事はやらねぇ。国や街にとらわれず、世界中を渡り歩いて、不幸な人々を手当たり次第に救っていくんだ」

 その活躍はやがて伝説となり、親から子へと語り継がれてゆく。

「ねぇ、父ちゃん」

「うん?」

「父ちゃんは、勇者にはならないの?」

「そうだなぁ……若い頃は憧れたけど、結局、諦めちまったな」

「え~、どうして?」

「まあ、その、なんだ……」

 少年は理由を聞きたがったが、父親は言葉を濁した。

「色々あるんだよ、大人ってやつにはな」




(2)


 翌日、ライルは冒険者ギルドへと向かった。

 冒険者の登録や依頼の受付、斡旋、報酬の受け渡し等を行う場所で、多くの冒険者たちでごったがえしている。

 まるでお城や教会のように立派な石造りの建物だが、貧困層が集まる下層区にある理由は、世間的に見て冒険者の地位が低いからである。

 喧嘩っ早い荒くれ者、礼儀知らず、根なし草、ろくでなし――物語の中では主役になることが多い彼らだが、同じ街に住む者たちにとっては、トラブルを巻き起こすはた迷惑な住人でしかないのだ。

「よう、ミラー。報酬をくれや」

 依頼人のサインが入った完了届をカウンターに置いて、ライルは若い男性のギルド職員に詰め寄った。

 声をかけられた職員は、眉ひとつ動かさなかった。

「……別室へどうぞ」

 報酬の受け渡しをカウンター越しに行うことはない。こんな目立つところで金銭のやりとりをしたら、帰りがけに襲われないとも限らないからだ。

 小さな個室に場所を移すと、ミラーと呼ばれたギルド職員は、依頼書と完了届のサインを照合した。

「イズミ村の害虫駆除、お疲れ様です」

「おう」

「報酬は金貨一枚と……」

「ああ、わりぃけど、仲間たちと分け合うんでな。金貨はやめて銀貨にしてくれねぇか」

「では、銀貨十六枚ですね」

 積み上げられた銀貨を確認して、ライルは上機嫌になった。

「――よしと。それから、他に何かいい仕事は入ってねぇか?」

「最近、北東部にある山岳地帯に、豚鬼オークが頻繁に姿を現しています。生息数は不明。古い鉱山洞窟をねぐらにしているようなのですが、ふもとの町――ビラクの町長から、調査依頼が出ています」

「ふ~ん」

 ライルはあまり興味を示さなかった。

「そういうのは、騎士様の仕事だな」

「まだ実害が出ていませんから。それに、王国騎士団は腰が重い」

「あいつら、性根が腐りきってるからなぁ。訓練もしてないだろうし、逆に被害を大きくしかねん」

「だからこそ、我々の仕事が捗る、ということもあるのですが……」

「言うじゃねぇか」

 ライルはにっと笑って、話を切り上げた。

「すまねぇな。いい雑務タスクが入ったら、また教えてくれや」

 冒険者ギルドを後にすると、ライルは待ち合わせ場所である“金麦屋”に向かった。同じく下層区にある料理屋で、味はそこそこ、値段は安い。まだ午前中ということもあって、客はまばらだった。

 待ち合わせの時間よりも少し早かったようだ。

「姉ちゃん、麦酒エールを一杯頼む」

 馴染みのウェイトレスに注文してから、ライルは一番奥のテーブルに陣取り、懐から小さな布袋を取り出した。

 中身は小麦粉と卵を練って焼いたお菓子だった。

「ちょっと、ライルさん。うちは持ち込み禁止――」

「硬いこと言うなって。仲間がそろったら、ちゃんと注文すっからよ」

 ウェイトレスを軽くあしらいながら、ひとつ食べてみる。

 意外なことに、ほのかに甘い。かすかに花の香りがする。ひとつひとつ噛み締めるように味わっていると、しばらくして仲間たちが現れた。

「おっちゃん、ちわっす」

「あーなんか食べてる!」

「乾杯前に飲んでるし……」

 二人は男、そしてひとりは女である。

 全員が二十歳になるかどうかといった年齢で、物腰もどことなく落ち着きがない。

「お前らも食うか? 仕事を頑張ったご褒美に、息子が焼いてくれたんだ」

 ウェイトレスの冷たい視線を受けつつ、三人の若者も焼き菓子をつまむ。

「う~ん、まあまあかな。カカの実と、桃蜜とうみつも入ってるし」

 女性の冒険者の言葉に、ライルは不思議そうに首を傾げた。

「とーみつってなんだ?」

「桃ユリっていう花の蜜よ。普通、香水なんかに使われるんだけど、お菓子に入れるなんて洒落てるじゃない?」

 とても高価な蜜なので、市場に出回ることは少ないという。

「それよりおっちゃん、分け前!」

「ああ、そうだな」

 今回の仕事――イズミ村の害虫駆除は、ライルが代表として受託した。

 若者の三人は、正式なパーティとして冒険者ギルドに登録しているが、ライルはソロである。依頼に合わせて、臨時のパーティの編成したのだ。

 銀貨を四枚づつ分け合ってから、打ち上げを兼ねた食事をする。

 ライルは麦酒のお代わりとつまみを注文した。

「あ~助かった。これで家賃が払えるぜ」

「俺は、鉄板鎧プレートメイルのために、貯金する」

「わたしは服を……って、買えるわけないかぁ。せめて、下着でも買い換えよう」

 三人の若者たちは、駆け出しの冒険者である。それぞれが田舎の村や町から出てきたらしく、冒険者ギルドの入口で所在なさ気に立ち尽くしていたところを、ライルが声をかけたのだ。

 こうして世話をした若手の冒険者たちをさそって、ライルはおもに雑務と呼ばれる種類の仕事をこなしていた。

 タイエに語って聞かせた冒険譚は、彼の若かりし頃の経験に創作を加えた作り話。子供の夢を壊さないための、大人の事情だったのである。

「しっかしお前ら、いつもながら貧乏だな。自炊してるんだったら、もう少し余裕あるだろう?」

「ねぇよ、そんなの」

「ライルさんだって、同じ稼ぎじゃない。息子さんもいるんでしょ? どうやって暮らしてるのよ」

「どうせ、小遣いなんか渡してないのさ」

「し、失礼な。ちゃんと渡してるぞ、生活費込みで――」

 週に、角銅貨三枚。

「やっす! ありえない! 息子さんかわいそう。ろくなもの食べさせてないんじゃない?」

「そ、そんなこと……ないはずだぞ」

 女冒険者に疑惑の視線を向けられて、ライルは動揺した。

「ほら、パンだって自分で作ってるみたいだし、木の実もよく拾ってくるし。スープの具材は野草とキノコだし。材料費だけ考えたら、たいしたことはないだろ?」

「薪代は?」

「……」

 まるで生活感のない中年男に、女冒険者はあきれたようだ。

「無理無理。薪代だけで角銅貨一枚はかかるのよ。小麦粉だって最近値上がりしてるし。それに、さっきも言ったけれど、焼き菓子に入っていた桃蜜は、高級品。砂糖や蜂蜜より高いの。銅貨なんかで買えるわけないじゃない」

「そ、そうなのか」

 女冒険者はライルの息子がよからぬことに手を染めているのではないかと疑ったが、タイエの年齢を聞いて、その考えを放棄した。

 たかが六歳の子供では、高級店で窃盗などできるはずもない。

「おまっ――うちの息子が、そんなことするはずないだろうが!」

「でたよ、お決まりの台詞が」

「子供というのは、親が思うほど純真じゃない。特に冒険者は家を空けることが多いからな。子供がぐれるのはよくある話らしい」

「反抗期になったら、絶対に家出するわね」

「お、おまえら……」

 その後、若者たちも麦酒を飲み出して、話は色々な方角に飛んでいった。

 誰もが心に負荷を感じ、自然と外に吐き出したくなるもの。それは、将来の希望と不安――仕事や生活に対する展望である。

「おっちゃん、俺は――もう雑務はやめるぞ!」

「そうだ。俺たちは、冒険者になってもう三ヶ月。次のステップに進んでもいい頃合いだ」

「もう貧乏暮らしはいや!」

 冒険者として大成する確率は、一割に満たないとされている。高額な報酬を得られる依頼は、常に命の危険と隣り合わせだ。かといって安全な依頼ばかりこなしていては、食い詰めることになる。将来引退した時のことを考えるならば、多少なりとも無理をしなくてはならない。

 こうして悩み、決断し、旅立っていく冒険者たちを、ライルは何十人と見送ってきた。中には勢いにのって成功した者もいるし、チャンスを掴めず引退した者もいるし、運悪く命を落とした者もいる。

「おっちゃんだって、昔はバリバリの冒険者だったんだろ? 俺たちのこと、応援してくれるよな!」

「ああ、分かった。してやるしてやる」

 熱く語りあう若者たちの熱気にやや当てられながらも、ライルは面倒見のよいベテラン冒険者を演じ続けた。



(3)



「ちょっと出かけてくる」

「――おい、待て」

 朝食後、両手に桶を持って外に飛び出そうとする息子を、ライルは呼び止めた。

 どう考えても遊びに出かける格好ではない。

 これまでタイエの行動について、特に気を留めることもなかったのだが、昨夜、生活費の関係で指摘されたことが気になった。

 自分が子供の頃はどうだっただろうか。思い返してみれば、どうしようもなく悪ガキで、悪戯か小遣いをせびることくらいしか考えていなかったような気がする。比べてうちの息子は、少々――いや、不自然なくらい出来が良すぎるのではないだろうか。

「タイエ」

「なに、父ちゃん」

「その、なんだ。生活費、足りてるか?」

「うん。だいじょうぶだよ」

「そ、そうか……」

 話が続かない。もともと裏表がなく、尋問などには向かない性格である。不思議そうに見上げてくる息子にたじろぎ、悩み、最終的にこうすることにした。

「今日は、父ちゃんがタイエに付き合ってやる」

「ほんと?」

「ああ、家のこととか、お前に任せっきりだったからな。たまには父ちゃんにも手伝わせてくれ」

 それならばと、桶を持たされて連れて行かれたのは、近所にある共同井戸だった。

「あら、タイちゃん。おはよう」

「おばちゃん、おはよう」

「ひょっとして、お父さんかい?」

「あ、ども」

 井戸の前で列を作っていたのは、数人の主婦だった。タイエの話によると、早朝よりも今の時間帯の方が空いているとのこと。順番待ちをしながらにこやかに会話するタイエは、主婦たちの間で人気者のようだ。

「タイちゃんは働き者で、本当にいい子だねぇ。いったいどういう育て方をしたんだい?」

「いや、その……」

「うちの子なんて、ふらりといなくなったかと思えば、泥んこになって帰ってくるばかり。手伝いも嫌がるし、口を開けば、腹へった腹へった――」

「ほんとにねぇ。タイちゃんはお父さんのことも大好きだし、よっぽど家でのしつけがいいんだね」

「……はは」

 実際のところは放任しており、どちらが躾をされているのかよく分からない状態である。息子のことを褒められるのは嬉しいが、自分の手柄だと胸を張ることはできないので、父親としては複雑な心境だった。

 井戸で汲んだ水を桶に入れると、こぼさないように、しかし早足で家に戻る。家の裏の風呂桶に入れて、再び共同井戸へ。五往復ほどしたが、風呂桶の中の水は三分の一も溜まらなかった。

「今日は、これでおしまい」

「もういいのか?」

「うん。また明日やるから」

 タイエは桶を片付けると、今度は大きな籠を背負った。乾燥させたあしを編んだもので、籠の中には幾つかの小箱が入っている。ライルは薪を運ぶ背負子しょいこを渡された。

「こんなの、家にあったか?」

「誕生日の時に父ちゃんに買ってもらった」

 かすかに記憶にあった。誕生日のプレゼントにノミ市で何か買ってやろうとしたのだが、タイエが選んだのが、よりによってこの籠と背負子だったのである。何故こんなものを欲しがるのか、その時は不思議で仕方がなかったのだが……。

「父ちゃん、走るよ」

「あ、おい――」

 タイエは幾つかの路地を駆け抜けて、街道に出る。

「ど、どこに行くんだよ」

「もうちょっと先」

 同じような会話を何度か繰り返してようやくたどり着いた場所は、街外れにある小さな森だった。街道との境目付近に枯れかけた大木があり、タイエと同じような籠を背負った子供が、五人ほど集まっていた。身につけている服や靴からして、みな下層区に住んでいる子供たちのようだ。

「あ、タイエ君きた!」

「おそいぞ、タイエ」

「ごめん、ごめん」

 子供たちはタイエを囲み、笑い合い、それから――不審そうな目でライルを見上げてきた。

「誰だよ、このおっさん」

「うん。うちの父ちゃん」

「あ――その、なんだ。いつも、うちのタイエと遊んでくれて、ありがとな」

「……」

 残念ながら父親らしい威厳を発揮することはできなかったようだ。どっちつかずの愛想笑いで挨拶をしたライルをのけ者にして、子供たちはひそひそ話を始めた。

「タイエ。あれ、ちゃんと持ってきたんだろうな?」

「うん、いっぱい作ってきた」

「よし、今日は一番を目指すぞ」

「そんなこと言って、また迷子になるんじゃない?」

「そうそう、泣きべそかいてさ」

「おい! そのことは忘れろよ!」

 それから子供たちは、互いに競争するかのように森の中へと駆け込んでいく。

「……どういう遊びなんだ、これは?」

 ぽつりと取り残されたライルがタイエに聞くと、遊びではなく仕事とのことだった。森の中でキノコや木の実などを集め、活躍した子供にご褒美を渡すのだという。そのご褒美というのは、ライルも食べたあの焼き菓子だった。下層区の子供たちにとって、甘いお菓子などは滅多に口にできるものではない。必死になって森の中を探し回るのも道理だろう。

「父ちゃんは、落ちてる枝を拾って。薪が少なくなってるから」

「おう、任せろ」

 手入れのされていない森である。獣道もないし、落ち葉が堆積した地面は歩きづらい。木の枝などは簡単に見つかるが、タイエはところどころで地面を掘ってキノコを探していた。やみくもに探しているのではなく、ある種類の木の根元を狙っているようだ。

「あ、桃ユリみっけ」

 藪の中の少し開けた空間に、鮮やかな桃色の植物が群生していた。花の根元――がくの部分にナイフで切れ目を入れると、とろりとした蜜が流れ落ちる。それをタイエは小さな木製の入れ物に集めていく。

「それ、桃蜜とうみつか?」

「よく知ってるね、父ちゃん」

「ああ、香水なんかに使われるんだろう?」

「そうなの?」

 どうやらその辺りの用途には詳しくないようだ。

「このまま飲むとお腹をこわしちゃうんだけど、煮詰めたらだいじょうぶ。うんと甘くなるんだ」

 他に集めたのは、何種類かのキノコと木の実、種類のよく分からない植物の葉など。太陽が傾く頃になると、子供たちは再び枯れた大木のところに集合して、それぞれの成果を発表し合う。

 籠の中身を確かめながら、タイエが点数計算をしていく。独自の計算方法があるようで、量を集めればよいというものでもないらしい。

 点数に応じて子供たちに焼き菓子が配られると、大木の幹を背にして、みんなで食べ始めた。

 お菓子を家に持って帰るのは厳禁とのこと。どこで手に入れたのか聞かれるとややこしくなるし、森の中での行動を咎められるかもしれない。証拠は腹の中というわけだ。

 みんなが集めた木の実やキノコは、タイエの籠にまとめる。桃蜜もかなりの量集まった。

「今日はコヤの実がいっぱいとれたから、次はコヤパイを作るよ」

「パイ? そんなの作れるのかよ」

「うん。ステラお婆さんが教えてくれるって」

 タイエの提案に大歓声が上がって、この日の仕事は終了。子供たちは解散していく。タイエは真っ直ぐ家には帰らず、その前に何箇所か寄り道をした。

「ガブおじいさん、こんにちわ」

 最初に訪れたのは、街外れにぽつんと立っている家だった。

 王都には人口が多く、その周辺で農作物を育てたり牧畜を営む人々がいる。作れば売れるという立地条件のよさから、比較的裕福な者が多い。

 その家の主は牧畜を営んでいる老人で、しわくちゃな顔に大きな傷跡があり、見るからに不機嫌そうだった。足が不自由なようで杖をついているが、機嫌を損なえば、その杖を振りかぶってくるかもしれない――そう思ったのはライルだけで、タイエの方はにこにこしている。

「今日はね、いっぱいとれたんだ」

 タイエが桃蜜の入った木製の入れ物を差し出すと、老人は無言のまま受け取り、ライルをぎろりと睨みつけてから、家の奥へ消えていく。

「……タイエ。あのじいさんと、知り合いなのか?」

「うん。さっきの森も、ガブおじいさんの森なんだよ」

 戻ってきた老人は、空になった入れ物と紙で包まれた塊を持っていた。

「――もってけ」

 交渉は成立したようだ。

 帰り道に確認してみると、包みの中は立派なベーコンだった。

「ガブおじいさんは、甘いものが大好きなんだ。でも、そのことは他の人には内緒なんだって」

 特に好きなのは、ミルクに桃蜜を入れて煮込んだ飲み物らしく、タイエたちが集めてくる桃蜜を、いつも楽しみにしているという。

「とてもそうは見えなかったけどな」

 むしろ、虫歯で顔をしかめているような顔つきだった。

「ん~。今日は、ちょっと機嫌が悪かったのかも」

 キノコや木の実は嫌いなようで、好きにしてよいという許可をもらっているらしい。

 タイエは王都の下層区に戻ると、幾つかの家を回って、森の恵みのお裾分けをした。表面に白い毛がいっぱい生えた葉は、リウマチに効く薬草らしく、粗末な家に住む老婆に渡す。老婆はとても喜んでくれた。近所の主婦たちにもキノコや木の実を配る。どの家も貧しく、明日の食糧にも事欠くような家庭ばかりだ。

「本当に助かるわ。いつもありがとうね、タイちゃん」

「ううん。困ったときは、お互い様だから」

 お返しとして、小麦粉やミルクを分けてもらったりもする。

 夕暮れ時になると家に帰り、タイエは夕食の準備に取りかかる。

 メニューは、木の実入りのパンと、ベーコンとキノコと野草を煮込んだミルクシチュー。

 ご馳走ではあるが、やはり味はいまいちだった。




(4)


 今にも消えそうなランプの炎が、不規則に揺れている。

 硬く冷たいベッドの中で確かなぬくもりを感じながら、ライルはじっと考えを巡らせていた。

 腕の中のタイエがいて、静かな寝息を立てている。

 額にかかった前髪も、少しだけ開いた口も、すべてを委ねきった無防備な表情も、この世のすべてと引き換えにしても惜しくないほどに愛しい。

 しかしライルは今、砂を噛むような悔恨と苛立ちの中にいた。

「父ちゃ……」

 タイエが寝返りを打って、腕を伸ばしてくる。

 何気なくつかんでみると、小さな手の平にはまめができていた。

 共同井戸で水を汲んで、五往復。大人の自分でも大変だと思った作業を、わずか六歳でしかない子供が、毎日続けているのだ。

 そして、森の中での収穫作業。タイエは俊敏に動き回り、的確に食材を発見していた。あしの籠と背負子しょいこを交換したとしても、おそらく自分はタイエ以上の成果を上げることは出来なかっただろう。

 あれは、昨日今日森に入った姿ではない。幼い子供ながらも、収穫者としての技量を垣間見ることができた。

 そうやって集めた食材でタイエが作ってくれる朝食と夕食。見かけや味はまだまだだ。せっかくの息子の手作りだからと我慢して食べてきたが、時には付き合いがあると言って、夜の街で飲み歩いたこともある。

 そんな自分の頬を、ぶん殴りたい気分だった。

 世界で一番大切なはずのひとり息子は、小さな身体をいっぱいに使って、走り回り、水を汲み、森の中で食材を探し、それを交換したりして、父親である自分のために最高の食事を作ってくれていたのだ。

 食事だけではない。家の掃除も、洗濯も、風呂の準備も――時には武具や防具の手入れまで手伝ってくれた。

 先日、若い冒険者たちとの打ち上げで使った金は、いくらだったろうか。

 ライルは自身の行為を思い返した。

 調子に乗っておごってやり、角銀貨を一枚支払ったはずだ。

 タイエに渡している一週間分の生活費よりも多い金額。

 ――馬鹿が!

 心の中で己を罵り、ライルはきつく目を閉じた。

 前々から分かってはいたが、自分はやはり馬鹿野郎だった。天国にいるはずの妻が見ていたら、こっぴどく叱られていたことだろう。

 大馬鹿ついでに、ここ数年間の行動を振り返ってみる。

 タイエにはもう自分しかいないのだからと自分に言い聞かせて、冒険者としての最前線からは引退した気持ちでいた。

 稼ぐ金は減ってもいい。それよりも、とにかく安全が第一だ。雑務ドブさらいのライルなどと馬鹿にされるたびに、心の中では反論しつつ、へらへらと笑い返していた。

 他人に何を言われようと構わない。自分には守るべきものがある。家の中では気持ちを切り替えて、毅然とした態度でタイエを育てていけばいい。

 ――そんな、小器用なやつじゃねぇ!

 布団の中で、思わず歯噛はがみする。

 自分は、頭の中で物事を整理し、きちんと道筋を立て、その通り行動できる人間ではない。一度気を抜いてしまえば、それは必ず普段の生活に影響してしまう。

 現に今、気の緩んだ自分は感謝の気持ちを忘れて、タイエに負担をかけてしまっているではないか。

 仕事を終えて家に帰るたびに、タイエに語って聞かせた架空の活躍話。息子に嫌われたくないばかりについた、愚かで痛々しい嘘。

 賢いタイエのことだから、あと数年もすれば父親の話に疑問を持つだろう。嘘を見破って、きっと幻滅するはずだ。そんなことすら考えずに、自分は――ぬるま湯のような自己満足に浸りきっていたのだ。

 たとえ息子に嫌われようとも、せめて自身を偽ることなく、自分の決めた道を押し通すべきだった。

 ……大嫌いだった、親父おやじのように。

 子供の頃のライルは、田舎の農村で来る日も来る日も農作業に勤しみ続ける父親を蔑んできた。石ころまみれの土を弄りながら、ずっと貧乏なまま、何も得ることなく、何かに影響を与えることもなく、ただ働いて、食べて、眠るだけの人生。

 それでは、生きている意味がない。

 夢も希望も、野心の欠片さえない父親のようには、絶対になりたくはない。

 しかし少なくとも、ライルの親父は、嘘だけはつかなかった。

 息子に嫌われていることは、おそらく分かっていただろう。

 それでも微動だにせず、黙々と畑を耕していた。

 自分に同じことができるだろうか。

 いや、俺には――無理だ。

 ほんのひと呼吸ほどで、ライルは結論づけた。

 たったひとりきりの家族に嫌われて、それでも毅然とした態度で生きていけるほど、心が強くない。

 人間が、出来ちゃいない。

 だったら、どうする?

 ライルは目を開けて、ランプで揺らめく炎を睨みつけた。

 しばらくじっと見ていると、ほどなく答えが浮かび上がった。

 簡単だ。嘘をつかなくても済むようにすればいい。

 タイエに語って聞かせた話を、現実のものにすればいい。

 自分の行動を、胸を張って自慢してやればいい。

 冒険者として、残された時間は多くない。三十五歳――すでに引退してもおかしくない年齢である。筋力と持久力はともかく、瞬発力は衰えているだろう。

 今からでも、間に合うだろうか。

 戦いの勘を、戦う気概を、取り戻せるだろうか。

 弱気になる心を、ライルは自嘲まじりの笑みで吹き飛ばした。

 ごたごた考えるのは、らしくない。

 昔から自分は、無鉄砲、考えなし、お調子者の三拍子。

 たったひとつ、大切なことだけを、心の奥に持っていればいい。

 ――息子に誇れるような、親父になる。

 あとは、前に進むだけだ。

 生まれ故郷の退屈な農村を飛び出した、あの時のように。




(5)


 短い紅葉の季節はあっという間に通り過ぎ、空気は一気に冷え込んだ。

 早朝。下層区のとある一角――古い家屋が取り壊され、その後の使い道が定められていない廃材置き場で、ひと組の親子が身体を動かしていた。

 ライルとタイエである。

 ご近所に迷惑がかからないように気合を押し殺しながら、ライルは訓練用の鉛剣マスコットソードを黙々と振っていた。上半身は袖のない肌着のみ。凍てつくような冷気の中、身体からはもうもうと湯気が上がっている。

 一方のタイエは、荒く削った木刀を構えていた。動きは単調で、身体に負担をかけない突き一本。風邪をひかないように無理やり厚着させられており、ころころした人形が飛び跳ねているようにしか見えない。

 こうした親子の光景は、ここふた月ほど、毎日休むことなく続いていた。

 身体を鍛え直し、戦いの勘を取り戻すためにライルが始め、「父ちゃんから剣術習いたい!」と、タイエが無理やりついてきたのである。

 勢いよく振り下ろした鉛剣を地面寸前でぴたりと止め、ライルは白く長い息を吐いた。

「ふしゅぅ~」

 東の方角を見上げると、暗灰色の家々の間に見える空が少しずつ色を変えつつある。周囲は一気に明るくなり、人々の活動も始まるだろう。こんな住宅街のど真ん中で剣を振っていると、不審物として通報されかねない。

「よし。今日の朝の鍛錬は、ここまでだ」

「はい、ししょー!」

 寒さと運動の熱のせいか、タイエの顔は頬だけが真っ赤になっていた。

 別にライルが言いつけたわけではないのだが、鍛錬中はタイエは父親のことを「ししょー」と呼んでいる。本人的には剣術の弟子入りしたつもりなのだろう。

 しっかりと汗を吹くと、親子は互いに競争するように家に帰り、それから共同井戸へと向かった。いつもはタイエがひとりでやっている水汲み作業だが、筋力トレーニングの一環として、最近はライルも手伝っていた。風呂桶に溜まる水の量も増え、また秋のうちに溜め込んだ薪も充分にあるので、今では三日に一度くらいは風呂に入ることができる。

 朝食のあとは家の仕事をこなしてから休憩し、お昼になると、親子は街外れの森へ行き、再び身体を動かす。

 今度は実践を想定した訓練である。

 木の枝からたくさんの紐を吊るし、その先に拾った小枝をくくりつける。小枝を的に見立てて、今度は愛剣である幅広剣ブロードソードを振るうのだ。左手には円形盾ラウンドシールド、そして厚革鎧ハードレザーアーマーも身につける。

 周囲に垂れ下がる小枝を最短の距離で、最速で切り払うという訓練。木の根と落ち葉のせいで、足場は悪い。最初の頃はもたついたものの、少しずつ俊敏さとバランス感覚を取り戻してきた。

 タイエの目から見ると、父親の動きはまるで魔法のようだった。

 気合の声とともに光の軌跡が走ったかと思えば、一瞬で複数の小枝が跳ね上がり、次の瞬間――父親の身体は最初にいた位置に戻っているのだ。

 自分も同じようなことをやりたかったが、まだまだ身体は小さいし、動きも遅い。こちらは一本だけ小枝を吊るし、父親が削り出した木刀で、単調な突きを繰り返していた。

 だが、つまらないとは思わなかった。

 憧れの父親に剣を教わって一緒に訓練することは、タイエにとって夢でもあったからである。

 木刀は小指から握りこむように。構え方は正面に対してやや半身。なるべく浮かさないように足を前に出し、身体を回転させながら真っ直ぐに突く。そしてすぐに、元いた位置と構えに戻る。

「盾を持つ場合は、盾を持った方の足を前に出す。防御優先の構えだな。それに対して、盾を持たない場合は、剣を持った方の足を前に出す。これは攻撃優先の構えだ」

 素人の場合、攻撃をする側が圧倒的に有利だということと、不測の事態に陥った時、盾の準備が間に合わない場合が多いということで、タイエは攻撃優先の構えをとることになった。

 父親の指導に何の疑問も持つことなく、ただひたすら単調なパターンを繰り返している。

 対照的に、ライルの動きは徐々に鋭さと複雑さを増していく。その剣捌きは決して洗練されたものではなかったが、野生的で、実践的だった。

 休憩中にライルは戦いのこつを語った。

「誰だって死にたくはないからな。いざ戦いになれば、相手も必死だ。それは人間でも魔物でも変わらない。だから、格好良く倒そうなんて考えちゃいけないぞ」

 タイエは不思議そうに首を傾げる。

「じゃあ、格好悪く倒す?」

「……まあ、そんな感じだ」

 身体のどの部分でもいい。腕でも膝でも、とにかく隙をみて傷を与える。

「血を流したら、どんな奴だって動揺する。心と身体は、そういうふうにできてるんだ。だから相手の全身を見て、剣が届きそうな部分を探す。そして剣を突き刺す。ダメージを与えれば、その分だけ有利になる。少しずつ相手を弱らせて、動きが鈍ったり、気力が弱まったところで――とどめを指す。それまでは、絶対気を抜いちゃいけないぞ」

「はい、ししょー」

 子供に教えるにはあまりにも物騒な事柄だが、タイエは真剣に頷いた。

 夕方に近づくと、家に戻って、風呂と食事の準備をする。

 このふた月の間、ライルは冒険者としての仕事を受けていなかった。若い頃の蓄えを切り崩しているわけだが、今後の生活の安定を捨ててまで彼が手に入れようとしているものは、実にあやふやで、大雑把なものだった。

 父親の尊厳。

 あるいは親父オヤジの意地――

 やはり自分は大馬鹿者だと改めて結論付けながらも、ライルの気分は晴れやかだった。

 鍛錬のあとの風呂もまた格別である。家の裏手にある風呂場は使い古しのシーツで仕切られており、景色は悪いが、頭上には鮮やかな夕焼けの空が見える。

 ライルは風呂桶の中で胡坐をかき、両手を大きく広げて、樽の縁にかけた。タイエも一緒に入っている。つぶれたまめをお湯に浸けて痛そうにしているが、泣き言は言わない。

 一緒に鍛錬をしてみて、タイエは自分とはまったく性格が異なるということを、ライルは実感した。 

 子供は落ち着きがなく、注意力が散漫で、飽きっぽい生き物である。単調な作業を長時間続けることは難しい。

 しかしタイエには、それができる。

 一度木刀を振れと命じれば、ずっと振り続けるだろう。それこそ、何ヶ月でも、何年でも……。

 その性質は、風呂の水汲みや街路樹の枝拾い等の、家の仕事でも見受けられた。

 こいつには、根気がある。

 成長の速度は遅いかもしれないが、着実に成果を積み上げていくタイプだ。

 そしていつか――その才能は、一気に花開く。

 そうあって欲しい。

 親の欲目かもしれないが、タイエには不思議な力があると思えるのだ。

 自分のように敵に向かって突進するしか能のない男には、決してならないだろう。戦況を見てパーティをコントロールするリーダー。そんな役割こそふさわしいかもしれない。

 いや、先走り過ぎだなと、ライルは妄想を振り払った。

 タイエが冒険者になると決まったわけではない。大人になるにつれて現実を知るようになり、堅実な職業につくことを目指すかもしれない。

 それならば、それでいい。

 ライルはお湯で顔を洗って、タイエに話をした。

「……父ちゃんな、明日から仕事をする」

 タイエは俯いて、一瞬悲しそうな顔をした。雑務専門とはいえ、冒険者は家を空けることが多い。子供が寂しがるのは当然の反応だった。

 しかしタイエはすぐに顔を上げると、期待に満ちた顔で問いかけてきた。

「また、誰かが困ってるの?」

「そうだ」

 王都の北東部にある山岳地帯。その麓にあるビラクの町からの依頼だった。古い鉱山洞窟に豚鬼オークが住み着き、人々の生活を脅かしているという。

「他の冒険者たちが調査をしていてな、どうやら二十匹ほどの豚鬼がいるらしい。たぶん、国を追われたはぐれ鬼豚だろう」

 鬼豚は強いリーダーを中心とした群れ――氏族を構成する。そして、少しでも上位の氏族になろうと、群れの中で、あるいは群れのリーダー同士が争う性質がある。戦いに敗れたリーダーは普通殺されるものだが、中には生き残り、自分の氏族を連れて国を抜けるものもいる。それが、はぐれ豚鬼と呼ばれる集団だった。

「やつらはしょっちゅう喧嘩してるからな。腕っ節は強い。鉄を作る技術はないが、交易――食べ物や毛皮なんかと交換して、手に入れることがある。それでも、槍の穂先がせいぜいだろう。鎧はおそらく革だ。……問題は、数だな。豚鬼は繁殖力が強い。子供をいっぱい生むってことだ。春になったらさらに数が増えるだろう。食糧の乏しい場所だから、いずれは町を襲う可能性が高い」

 ――その前に、始末する。

 依頼内容は、すでに調査サーチから討伐ミッションに移行していた。

「ビラクの町にも自警団ってのがあるが、どうも実践不足みたいでな」

「じけいだん?」

「自分たちの町を守る戦士だ」

 とはいっても、比較的若い男、というだけだろう。統率力は皆無。足手まといにはなったとしても、戦力にはなりそうにない。

 そして、国の騎士団はあてにできない。

 だからこそ、荒くれ者の冒険者が必要とされるのだ。

「明日、冒険者ギルドでブリーフィング――豚鬼退治の説明会がある。それから準備をして、すぐに出発だ。移動は馬車で一日。作戦で三日ってところか。五日もすれば戻ってこれると思う」

 危険度は高いが、雑務タスクと比べると報酬もいい。

 しかし、ライルが得ようとしているものは、金には換えられないものだ。

 心配と信頼が混じった目で見上げられて、ライルはにやりと笑った。

「だいじょうぶだ。今まで、父ちゃんが怪我をして帰ってきたことあったか?」

 ずるい問いかけである。ここ数年、比較的安全な雑務ばかりを選んできたので、怪我などをしたことはない。無言のまま、タイエは首を振った。

「それに、見ろ」

 ライルは両腕を曲げて力こぶを作った。

 タイエが「おー」と歓声を上げながら、ぺたぺたと触ってくる。

「父ちゃん、すっごい硬い!」

「わっはっは! こいつが、鋼の身体ってやつだ」

 最近は弛んで贅肉が増えていたのだが、ここふた月の鍛錬でずいぶんとましになった。正直、実践の勘についてはまだ不安がある。しかしそれは、鍛錬だけでは戻らない。戦いの空気の中に身を置いた時、初めて分かるだろう。

「――父ちゃん」

「うん?」

 タイエは小さな拳を握って、宣言した。

「僕も毎日、“つき”の練習するよ!」

 鋭く拳を振るうと、お湯しぶきがライルにかかる。

「――っぷ、こら、風呂の中ではやめろ」

 お返しにと、ライルがタイエの脇をくすぐる。

 ひとり息子はじたばたと暴れて、父親も調子に乗り、かなりのお湯を無駄にしてしまった。




(6)


 ビラク町長からの依頼である豚鬼オーク討伐任務の説明会ブリーフィングは、冒険者ギルド内の会議室で行われることになった。

 すでに、十人以上の冒険者たちが集まっている。集合時間ぎりぎりに姿を現したライルは、その中に見知った顔を見つけて、意外そうに目を丸くした。

「何だお前ら。この依頼受けてたのか?」

 それは、ライルが半年くらい前から面倒をみてきた三人の冒険者だった。ふた月前にも害虫駆除の仕事をこなしている。業界の中では、ようやく尻についた卵の殻が取れた程度のひよっこだ。

「おっちゃん!」

 勢いよく立ち上がったのは、パーティのリーダー格であるジィン。その左右の椅子に座っていたカズンとメリアも目礼する。

 男ふたりに女ひとりという先行き不安な組み合わせで、冒険者ギルドでは“風車猫ふうしゃねこ”という、微妙に可愛らしいパーティ名で登録していた。

「よかった。最近見ないし、ひょっとして、来ないかと思ったぜ」

 彼らは生活するために王都にきた出稼ぎ冒険者である。これまで調査サーチ雑務タスクといった比較的安全な依頼をこなしてきた。貧乏生活から抜け出すために、意を決して討伐任務に打って出たのだろう。

「しっかし、駆け出しのくせに、よくこのレイドを受託できたなぁ」

 やや腑に落ちない顔で、ライルは三人の前の席に腰をかけた。

 ソロあるいは単独パーティでこなす討伐任務を、単純にミッション、複数パーティでの討伐任務をレイド・ミッションという。

 魔物としての豚鬼の危険度と、その数、さらに鉱山跡地に棲みついているという地理的条件等を考慮して、今回冒険者ギルドでは、レイドでの対応が必要と判断したのだ。

 冒険者ギルドでは、登録されている冒険者たちの実績を管理しており、窓口担当の職員が、依頼の難易度と冒険者たちの実績を比較して、受託可能かどうかを判断する。冒険者としての実績がなければ、難易度の高い――すなわち、報酬の高い仕事を受託することはできない。

「本当だったら、受けられないはずなんだけど……」

 ため息混じりにカズンが呟き、メリアが会話を引き継いだ。

「ライルさんがいっしょなら、ぎりぎり大丈夫だろうって」

「はぁ? 誰だよ、そんなこと言ったやつは」

「ミラーさん」

「……あの、鉄面皮め!」

 冷静沈着なギルド職員の顔を思い浮かべて、ライルは罵った。

 自分が経験の浅い若手冒険者たちのお目付け役にされたことを、直感で悟ったからである。

 抗議をしたところで無駄である。今から代わりの冒険者を集めるのは難しいだろうし、これまで面倒をみてきた若者たちを見捨てるような真似など、ライルに出来ようはずもない。

「雑務や調査と違って、討伐は何が起きるか分からないからな。お前ら、自分の身は自分で守るんだぞ」

 やや突き放すように言い方をしたのは、誰かに頼ることができるという安心感が、時に油断へと繋がるからだ。

 そして、討伐任務中の油断は、死へと直結する。

 ライルの口調と表情からそういった雰囲気を感じとったのだろう。ジィンは表情を引き締めて「分かってるよ」と頷いた。

 他の冒険者の中にライルの顔見知りはいなかった。ざっと観察したところ、二十代の半ばくらいの者が多い。熟練者ベテランとまではいかないまでも、ある程度は討伐任務を経験した者たちだ。そういうことは、どことなく雰囲気で分かる。

 しかし……。

「あ~あ。やっぱ、俺が一番年長者かよ」

 世代的に取り残された感じがして、ライルはぼやいた。

 定刻になると、会議室の扉が開いて二人の男が入ってきた。

 ひとりは仮面を被ったかのような無表情な青年。依頼担当窓口のギルド職員である鉄面皮こと、ミラーである。ライルが軽く睨みつけると、会釈を返してきた。神経のずぶとさは相変わらずだ。

 もうひとりは、肩につくほどの金髪を持つ青年だった。気難しそうに眉を寄せているが、どうやらそれが普段の表情らしい。身につけているものは、藍色の衣服に細かな細工の施された白銀色の鉄板鎧プレートメイル。腰にはこちらも細工の施された細突剣レイピア。純白の外套マントも上質なもので、とにかく目立つ。

 そしてもうひとつ目立つもの。

 金髪の青年の額には、奇妙な刺青があった。

 朱色の曲線で描かれているのは、太陽神アルスを表す文様。

「……聖印騎士団?」

 冒険者の誰かが呟き、会議室内の空気がざわめいた。

 聖印騎士団――それは、おもに王都内で活動している治安維持部隊である。王国騎士団が国王に仕えているのに対して、聖印騎士団は彼らが信じる神、アルスに忠誠を誓う。彼らが守るべきものは、教団が定めた教律であり、戒律であり、同じ神を仰ぐ信者たちであった。

 冒険者たちとは縁のない存在の登場に、周囲から不審そうな視線が注がれた。

「それでは、ビラク鉱山跡地に生息する鬼豚討伐任務に関するブリーフィングを始めます」

 抑揚のない声で、ミラーは淡々と説明する。

 依頼の概要から始まり、現地の地理および地形情報、想定される魔物の数、装備、種族的な特徴、全体スケジュールと詳細スケジュール、集合場所と移動手段、さらには歓待の食事会や宿泊施設の設備等、その説明は実に細々としていた。

 依頼を受ける側としてはありがたいのだが、必要とされる情報とそうでない情報が同じ密度で詰め込まれているので、全体像がぼやけてしまう。特に、初めて討伐依頼を受ける“風車猫”の三人は、それこそ獲物を狙う猫のごとく目を丸くして、ひとつの単語さえ聞き逃さないように集中していた。

 質疑応答が終わると、今度は金髪の聖印騎士団がその場を仕切った。

「我が名は、エリプス。神聖なる御神の忠実なる使途――叙階第七位である」

 まだ二十代と思われる年齢にしては、実に尊大な口調である。

 冒険者たちの幾人かが、露骨に顔をしかめた。

「今回の討伐任務レイド・ミッションで、作戦指揮をとることになった。みなの奮戦を期待する」

 事前にそんな説明はされていない。ざわめき声が溢れ出し、金髪の聖印騎士は気を悪くしたように口元を歪めた。

 レイド・ミッションで一番最初に問題になるのが、リーダーの選定である。通常は担当のギルド職員がメンバーの中でもっとも信用の置ける者を選ぶのだが、それ相応の理由がなければ、他の冒険者たちが納得しない。

 今回の場合は、冒険者ですらないのだ。

 ということは、客観的に判断を下す立場にある冒険者ギルドが、その人となりや実績を把握していないということになる。

 ざわめき声は少しずつ大きくなっていく。

 金髪の聖印騎士エリプスが眉根を寄せ、怒りに任せて口を開きかけたところで、

「――補足説明をした方がよさそうですね」

 隣にいたミラーが横槍を入れた。

「今回の依頼ですが、聖印騎士団からの援助がなければ、成立しません。何しろ、皆さんに報酬そのものを支払うことができませんので」

 かつてビラクの町の北方にある鉱山地帯では、銀が産出されていた。しかし、百年ほど前に鉱脈が尽きて廃坑になって以来、その産業は廃坑跡を利用したキノコ作りに移った。人口も減少し、町の財政も人々の蓄えも逼迫している。

「このような状況もあり、当初、ビラク町長からの依頼は単独パーティによる豚鬼討伐でした」

 しかし危険性を鑑みて、ミラーが却下したという。

 その後、ビラク町長は一縷いちるの望みを託して、上層区にあるアルス教団を訪問し、資金援助を約束されたという。その際に出た条件が、教団に所属する聖印騎士団が作戦指揮を取ること。

「アルス教団からは、移動用の馬車の提供、戦闘で使用した消耗品の補充、破損した装備品の修繕、そして――結果の如何に関わらず追加の報酬が出ます。参加されるかどうかは自由ですが、まずは、作戦の内容を確認してから判断してもよいのではないでしょうか」

 これは重要な要件だった。いかに報酬が高くても、移動日数がかかったり、支出がかさんだりしては意味がない。豪儀ごうぎなことに、追加の報酬まで出るという。現金なもので、冒険者たちの目も色めき立ち、真剣に話を聞こうという姿勢になった。

「ただし、これにはひとつ条件があるそうです」

 と、ミラーは一本指を立てた。

「これは対外的な話ですが……。もし、豚鬼討伐に成功した場合、その手柄は聖印騎士団――ひいてはアルス教団のもの。そして失敗した場合の責任は、このレイドに参加した皆さまが負うことになります。もちろん賠償金が発生するという意味ではありません。アルス教団や聖印騎士団の名前を表に出さないということです。先ほど追加報酬が出るという話をしましたが、これは成功報酬であり、失敗報酬でもあります。ようするに、口止め料ですね」

「――なっ、貴様!」

 予想外の展開に驚いたのは、エリプスだった。

 おそらく、アルス教団、ビラク町長、そして冒険者ギルドの三者で交わされた密約――エリプスとしては、ぎりぎりまで隠したかった事情だったのだろう。冒険者たちに伝えるとしても、もっと湾曲的な表現を使いたかったはず。

 金髪の騎士の怒りの視線を真っ直ぐに受けながら、ミラーは抑揚のない声で説明した。

「エリプス様、彼らはプロです。報酬を約束し、それが納得する事柄であれば、彼らは従います。しかし、慈善事業など信じません。こちらの腹の内を見せなければ、信頼を得ることはできないでしょう。作戦指揮をとる上でも、よい結果が出ると判断しました」

「……くっ」

 歯噛みするものの、今さら取り繕うこともできない。

 忌々しそうに、エリプスは命令した。

「私は、時間の無駄が嫌いだ。さっさと資料を配り給え!」

 冒険者ギルドが用意した資料は、豚鬼が潜んでいる鉱山跡地の図面だった。冒険者たちの進路や立ち位置等が記載されている。

「資料は一パーティ一枚です。自分の分を取ったら、後ろの方に回してください」

 どこか気の抜けたような空気の中、にやにやと含み笑いを浮かべながら、冒険者たちが手を動かしていく。

「言うじゃねぇか……」

 ライルは感心しかけたものの、素直に賞賛するのも悔しいと思い直し、舌打ち交じりに唸った。




(7)


 最短で結着かたをつける――これが、今回の討伐任務の大前提である。

 雪が降ると行軍や戦闘が厳しくなるし、かといって春を待っていては、豚鬼オークたちは子を産み、警戒心と強暴性を増すだろう。

 ゆえに、説明会ブリーフィング後の作戦行動は迅速だった。

 準備期間は僅か一日。出発の日には六頭立ての馬車が三台、冒険者ギルド前に横付けされていた。幌には派手な太陽神アルスの文様が描かれており、乗り込むときには多少勇気が必要だが、移動速度は軍用馬車並みである。

 総勢十三名の冒険者たちは、三つのパーティと二人のソロで構成されていた。最年長であるライルの発案で、パーティメンバー同士で固まらないように馬車に乗り込むことになった。暇な道中を互いのことを知る時間に宛てるというのが狙いだ。そういったやりとりを好まない冒険者もいるが、和気藹々と盛り上がる必要はないし、仕切る人間が年長者であれば、それほど角は立たない。歳をとってよかったと思う、数少ないことのひとつだ。

 自己紹介や雑談で時間を潰しつつ、ひと眠りした頃には景色も空気も一変しており、ほんの半日足らずでビラクの町に到着した。

「……なんだか、しけた町だな。ひと住んでんのか?」

 正直な感想を呟いたのは、ジィンである。

 かつては有用な鉱石を産出し、栄えた町なのだろう。レンガ造りの家屋や倉庫などが荒れ果てたまま放置されており、町の景観をよりいっそう寂しいものにしていた。冒険者たちが案内された宿舎は、そういった建物を再利用したものらしい。

「――はぁ。やっぱり個室ってわけにはいかないか」

 そう言ってぼやいたメリアに、ライルが業界の常識を諭す。

「当り前だろ。屋根と壁とベッドがあるだけでも、上等だ」

 世間的にみて、冒険者の評判はよろしくない。長居をされないようにあえて粗末な宿をあてがわれるというのは、不本意ながらよくある話なのである。今回の高待遇はアルス教団と聖印騎士団の威光のおかげとみて間違いなだろう。

 部屋の中でくつろいでいると、金髪の作戦指揮者――エリプスがやってきた。

「夕食は部屋に運ばせるので、それまでは待機。食事のあとは不用意な外出はせず、眠るように。睡眠不足は、明日の作戦指揮に影響を与えるかもしれんからな」

「それはいいが、夜は冷えるだろう? 酒くらいは用意してもらわないと、ふらりと酒場へくりだすかもしれないぜ」

「……善処しよう」

 こういった交渉は、ライルの得意分野である。

「晩餐会には、あいつだけが出席するんだろうな。手柄を独り占めするつもりか」

 カズンの推測は、おそらく正鵠を得ている。

 豪華で暖かい食事を期待していたのか、ジィンが口を尖らせた。

「ちぇ。実際に戦うのは俺たちだってのに」

 アルス教はここ十年くらいで勢力を拡大してきた新興宗教である。

 その教義ドグマは、現世で秩序や戒律を守ることで、来世での幸福の実現を目指すというもの。国が荒廃し、王国騎士団が堕落を極めた今、主に富裕階層を中心に大きな救いをもたらす存在として注目を浴びているようだ。国や、今回のように地方の町や村にも働きかけを強めており、その勢力を着実に拡大させつつある。馬車や追加報酬の件を考えても、相当な財力を保持していることが予想できた。

「ま、いいじゃねぇか。考えるのは仕事が終わってからにしようや」

 いち冒険者であるライルには、何の関係もない話である。

 彼が今ここで仕事をしているのは、金を稼ぐためであり、家族のためであり、何よりも自分のためだ。冒険者たちが頼みとするのは、神ではなく――運。そして、幸運を引き寄せてくれるのは、鍛え抜かれた肉体と、手入れの行き届いた武器や防具だ。アルス教団の勢力やその思惑など、まったく興味がなかった。

 久しぶりの討伐任務で高ぶった気持ちを酒で和らげつつ、ライルは若者たちに実践でのアドバイスを送りながら、その日は大人しく休むことにした。

 翌日は、あいにくの曇り空。

 中央広場でささやかな送迎の式典が催された。

 町長が集まった人々に対し、アレク教団の援助により鬼豚討伐を依頼することができたことを説明し、エリプスを紹介する。

 エリプスは町長の話の倍以上の時間をかけて長々と教団の教義を説明してから、最後に鬼豚討伐を成し遂げ、この町に秩序と安全を取り戻すことを宣言した。

「――太陽神アルスよ、照覧あれ!」

 銀色に輝く剣を抜き、天に向かって突き上げる。

 その立ち姿は、まさに英雄を模した彫像のよう。

 残念ながら太陽は出ておらず、長話に飽きた町人たちの反応もいまいちだった。

 魔物が棲みつく鉱山跡地に向かうには、森の中の獣道を通る必要があるので、徒歩での移動となる。

「目的地まではまだ距離はあるが、決して油断すまいぞ」

 メンバーの中でもっとも経験が浅いのは、おそらく当のエリプスだろう。“風車猫”の三人でさえ、こういった場所での歩き方は心得ている。

 目に見えないものを探そうとすると、その動きは不自然なものとなり、逆に注意力が散漫になる場合がある。

 目ではなく、耳で周囲を感じるのだ。

 幸いなことに、待ち伏せや哨戒に出会うこともなく、討伐部隊レイド・メンバーは、目的地へとたどり着くことができた。

 案内役の男が、怯えたように茂みの先を指差す。

「この先が、鉱山の跡地でさ」

「出入り口はひとつで間違いないのだな?」

「え、ええ――しかし、三十年も前のことですけぇ、今はどうなっとるのか」

「すでに聞いておる。案内大儀であった」

 エリプスは冒険者たちのなかで俊敏そうな者を選び、偵察に向かわせた。

 今回の作戦は、決して複雑なものではない。

 もし見張りがいるならば、入口の左右から同時に襲い掛かり、これを倒す。

 それから、鉱山の中に少し入った辺りで木の枝を燃やし、洞窟内に煙を充満させる。さらに鐘を鳴らし、大声を張り上げる。

 その目的は、豚鬼たちを混乱させることにあった。

 豚鬼たちは力は強いが、技を受け継ぐことをしない。つまり、戦いに特化した冒険者たちが隙なく装備を整えていれば、一対一で負けることはないのだ。

 問題は、統率がとられ、複数で囲まれたときである。

 ゆえに、混乱させる。

 氏族のリーダーである豚鬼頭オークヘッドは、仲間たちを落ち着かせようとするだろう。しかし、煙でその姿が見えず、鐘の音で声が届かなければ、まとまるものもまとまらない。

 あとは鉱山の外に半包囲陣形を敷き、煙で燻し出された豚鬼たちを、安全に、そして確実に倒していく。

 調査サーチの情報では、鉱山跡に棲む豚鬼たちの数は、二十数頭。しかし、中には雌も子供もいるだろうから、戦闘員としてはこちらと大差はないはず。奇襲をする有利さもあり、負けるはずがない。

 ブリーフィングで鼻息荒く語っていたエリプスだったが、作戦開始を前にして、やや不安になってきたようだ。

「大丈夫だ。私の作戦は、完璧のはずだ。そうであろう?」

 などと、年長者であるライルに確認を求めてくる。

 面倒くさいやつだと思いながらも、指揮官が怯えていては戦いにならないので、ライルは「わるくねぇと思うぜ」と、適当に励ますことにした。

 唯一の不安要素は、他に出入り口があるかもしれないということだ。事前の調査で発見されなかった抜け道から豚鬼たちが逃げ出したときには、追撃する必要がある。その場合は、改めて作戦を立て直す必要があるだろう。

「見張りの数は、二。武器は短槍ショートスピアに、ぼろっちい木盾ウッドシールドだ」

 偵察から戻ってきた冒険者が情報を持ち帰り、エリプスが決断を下した。

「で、では――予定通り、ここで火を熾し、二手に分かれて行動する。くれぐれも、身勝手な行動は慎むように」

 鉱山内に突撃する部隊は経験と冷静さが必要ということで、今回“風車猫”の三人は、鉱山の外で豚鬼を待ち伏せする役割となった。お目付け役であるライルも同じ配置である。

「いいかお前ら、俺たちは騎士じゃない。丸腰の鬼豚が命乞いをしてきても、躊躇わずに殺すんだぞ。やらなきゃ自分が、仲間がやられる。そして力のない町の人たちが報復されると思え」

 言葉では理解していても、実際に身体が動くかどうかは別問題である。

 ひと型の生き物をあやめるという潜在的な抵抗感は、本人が思っている以上に大きいものだ。無我夢中で仕留めてしまうか、あるいはその理由を他に預け、冷静に処理するか――どちらにしろ、今後も冒険者として活動できるかどうかの別れ目になるだろう。

 もちろん、生き残ることができなければ、それまでである。

 討伐部隊は二手に分かれ、森を大きく迂回しつつ、鉱山入口の左右に展開した。

 見張りの豚鬼が、いた。

 背丈は人間の大人くらい。ただし、横幅は二倍以上ある。胴長短足で、腹が出ている。鼻や口は猪に似ており、醜悪の極みだ。

 規律性をあまり重視しない種族なので、口を大きく開けてあくびをしたり、うつらうつらと頭を垂れ、はっと気づいたように周囲を見渡したりしていた。

 頭頂部から背中にかけて立派なたてがみがあり、氏族のリーダーである豚鬼頭は、その鬣が銀色に輝くという。

 豚鬼たちは視力は悪いが、嗅覚に優れている。松明が燃えている匂いを嗅ぎ取ったのか、鼻をひくひくと動かし始めた。

 すぐにこちらの動きに気づかれるだろう。

 見張りの豚鬼は二頭。これを四人で仕留める。

 松明を持った者と燃やす材料を持った者が鉱山の中に入り、火をつけ、煙を充満させる。

 スピードのとタイミングの勝負だ。

 二手に別れた討伐部隊の双方で、合図を担当する者が心の中で数を数えていた。

 “時合わせ”――冒険者としては基本的な、そして大切な技能でもある。

 その数が一千に達したとき、静かに戦端は開かれた。

 息を潜め、かけ声ひとつかけない。

 野生の肉食獣さながらの動きで、冒険者たちは襲いかかったのである。




(8)


 聖印騎士団の一員であるエリプスは、自分の立案した作戦に自信を持っていたが、確信を得るまでには至らなかった。

 とはいえ、豚鬼オークたちの知能はそれほど高くはない。本能的な行動に従うため、その反応も予測がしやすい。豚鬼頭オークヘッドさえ仕留めてしまえば、すべてが片付くだろう。

 未確定要素のひとつだったのが、金で雇った冒険者たちの実力だが、実戦経験のない騎士団の団員たちよりは、遥かにましなようである。これは嬉しい誤算だった。

 地方への布教活動に冒険者ギルドを利用することを上層部に提言し、実行案を組み立てたのはエリプスである。

 聖印騎士団の幹部に、剣の実力は必要ない。人脈コネや財力、相手を陥れるための陰謀がものをいう。

 しかしそれらのすべてと、エリプスは縁がなかった。凡庸な出自と、潔癖症な性格ゆえに、である。

 このような状況の中で、熾烈な権力争いに生き残り、同年代の仲間たちに一歩でも先んずるにはどうすればいいのか。他人がしないことに手を出し、実績を出すしかない――彼は、そう考えたのである。

 ビラクの町の町長には、資金援助を行う前提条件として、アルス教の布教活動に協力することと、その拠点となる場所の提供を約束させていた。教団としては、わずかな投資と労力で大きな成果を上げることができるわけだ。 

 そしてこのパターンは、横展開することが可能である。

 ビラクの町で実績を作り、その情報を他の地方に流す。王国騎士団が頼りにならない今、魔物たちに悩まされている町や村は多い。そのほとんどが財政的にも苦しんでいる。彼らの代表は、冒険者ギルドに依頼する前に、教団の門を叩くことになるだろう。

 アルス教団への貢献度は、そのまま聖印騎士団での評価に繋がる。

 少々気は早いかもしれないが、今後数年間で自分が積み上げことになる実績は、他者の追従を許さないものになるだろうと、彼は期待を込めて予測していた。

 そのためにも、今回の討伐任務レイド・ミッションを失敗するわけにはいかないのだ。

「……火が、ついたようだな」

 隣にいた中年の冒険者の声に、エリプスはふと我に返った。

 鉱山跡地の出入口前。洞窟の内部から白い煙が流れ出ている。

 しばらくすると、甲高い鐘の音が鳴り響いた。

「おえっ、ちくしょう、目に染みやがるぜ!」

 中で木の枝を燃やしていた冒険者たちが、ぞろぞろと出てきて出入口を固める。

 二重の半円。たとえ一頭たりとも逃がすつもりはない。

「よう、お疲れ。中の様子はどうだ?」

 エリプスを無視して、中年の冒険者が仲間に問いかけた。黒髪の男くさい顔立ちで、無精ひげを生やしている。名前は確か――ライルと言ったはずだ。

「相当混乱してるみたいだ。ぴーぴー泣き叫んでやがる。そろそろ来るぜ」

「よし、お前ら。出番だぞ!」

 ライルのかけ声に、三人の若い冒険者たちがこくりと頷き、剣や盾を構えたまま出入口に集中した。

 エリプスとしてはどことなく面白くない。自分が常に注目を集める立場にいないと、我慢ができない性格なのだ。

「余計なおしゃべりは慎みたまえ。戦闘中であるぞ」

 しかし、彼の言葉を聞いている者はいなかった。

 もうもうと湧き出る白煙の中から、ずんぐりとした影が飛び出してきたからである。

 見張り役の鬼豚よりも、ひと回りほど大きな影姿シルエット。防具は身につけておらず、薄汚れた革製の服のみ。右手には粗末な槍。左手には木の板を貼り付けただけの盾。

 風の流れで煙が切れて、その頭上に輝く銀色のたてがみが露になった。

 冒険者たちがざわめく。

鬼豚頭オークヘッド! いきなりお出ましか!」

「隊列を崩すな。後続がくるぞ!」

 煙に目をやられたのだろう。目から涙を流しながら、豚鬼頭は怒りの咆哮を上げた。

 それは、甲高く、野太く、そして不快な声だった。

 豚鬼頭は冒険者たちの集団を見渡すと、こともあろうに最後尾にいるエリプスに目をつけた。その立ち位置や装備品から、彼が群れのリーダーであることを見抜いたのだ。

 より強い固体が氏族を率いる豚鬼である。相手のリーダーを倒すことにすべてをかけるのは、自然な行為と言えた。

「ブギャーッ!」

「――ひっ!」

 叫び声を上げ、涎を撒き散らしながら突進してくる豚鬼頭の姿に、エリプスの指揮官としての矜持は、一瞬、吹き飛びかけた。

 一歩二歩と後ずさるが、そこで何とか踏み留まる。

 繊細な精神が回復し、理性が作用したわけではない。彼の前に立ち塞がるように、幅広剣ブロードソード円形盾ラウンドシールドを構えたライルがどっしりと身構えており、その逞しい後ろ姿が視界に入ったからである。

『邪魔ヲ、スルナッ!』

「こいつは驚きだな。共通語をしゃべれるのか。しかも、俺よりうめぇ」

 豚鬼頭はとりあえずの標的を変更したようだ。どすどすと土煙を上げながら突進し、ライルに向かって槍を突き出す。

 金属と金属がぶつかり合う音。

 槍の穂先がすべり――いや、受け流され、豚鬼頭の体制が崩れた。

 無言のままライルが剣を横薙よこなぎに振り、豚鬼頭の胸にひとすじの傷がつく。

「ブギャーッ!」

「ジィン! ヤツの後ろから牽制けんせいしろ! カズンとメリアは待機。他の豚鬼が来るぞ!」

「わ、分かった!」

「了解」

「き――来たわ! こっちは二匹!」

 乱戦になれば、完全な包囲陣形をとり続けることはできない。

 討伐部隊レイドメンバーの隊列は崩れたが、鉱山跡から出てくる豚鬼たちは統率がされていない。複数の冒険者たちに囲まれて、各個撃破の対象になる。

 甲高い断末魔の声。

 互いに情報を共有し合う冒険者たちの掛け声。

 いつの間にか白煙が収まり、視界がクリアになった。

 ここにきて、ようやくエリプスも落ち着きを取り戻すことができた。

 どこからどう見ても、戦況は有利である。命を落とすどころか、怪我をした冒険者たちもいないようだ。一方の豚鬼たちは、醜い死体を晒し、大地を穢れた血で染め上げている。

 一番の強敵である豚鬼頭も全身に傷を負い、徐々に動きを鈍らせているようだ。

 どれだけ攻めてもライルの防御を崩すことができず、後方から若い冒険者にちくちく攻撃される。その度に豚鬼頭は槍を振り回し、苦しそうな雄叫びを上げた。

「いいか、ジィン。焦るんじゃねぇぞ。ここからが、本当の勝負だ」

 熟練ベテランの冒険者は、若手に注意を促す余裕すらあるようだ。伊達に年は重ねていないということだろう。

 その後も一方的な戦い――あるいは惨殺が続き、ついに豚鬼頭も覚悟を決めたようである。

 不意に槍を地面に突き刺すと、怒りの眼差しをライルに向けたまま、こう呟いた。

『……オ前タチノ、勝チダ。降伏シヨウ』

 闘争本能に身を委ねる豚鬼にしては、珍しい行動である。しかし、国を追われた“はぐれ鬼豚”であるからには、敗北も降伏も経験済みということなのだろう。

 もちろんエリプスは、不浄な魔物の降伏など認めるつもりはなかった。

 初めての戦い。そして、目前に迫った初めての勝利。

 これまで経験したことのないほど精神が高揚していた彼は、こう考えたのである。

 最後は、自分の剣で豚鬼頭の首を刈り取ってやるのが、この戦いに相応しい決着であろうと。

『ふっ、魔物にしては、殊勝な心がけであるな』

 流暢な共通語で呟きながら、ゆっくりと近づいていく。

 その行動に驚いたのはライルだった。

「――馬鹿野郎っ! 来るんじゃねぇ!」

「えっ?」

 それは、一瞬の出来事だった。

 ライルが視線を切った瞬間、豚鬼頭はエリプス目がけて突進してきたのである。

 武器は持っていないが、その巨体を受け止めることはできない。

 衝突し、吹き飛ばされた。

「うわっ!」

 尻餅をついた指揮官を、しかし豚鬼頭は無視した。

 体中から血を撒き散らしながら、そのまま直進する。その先は森の茂み――豚鬼頭は、住処と仲間たちを見捨てて、逃げ出したのである。

「やべぇ、逃げたぞ!」

 ライルの声に、冒険者たちの注意が集まる。

 初動が遅れた。間に合わない。

 しかし、魔物の巨体が森の中に消えようとしたその瞬間、誰もが予想もしていないことが起きた。




 豚鬼頭が、森に弾き飛ばされた――

 ライルの目には、そう映った。

 木の幹にぶつかったわけではない。

 茂みの中に、何かがいる。

 しなやかな足音とともに姿を現したのは、巨大な灰色の魔狼ヴァルウルフ

 そして、その背中に跨っているのは、仮面を被った豚鬼オークだった。

「……狼乗オーク豚鬼ライダー?」

 不測の事態に直面した時、考えを切り替えて、今自分ができることにのみ集中する。長年に渡る冒険者としての本能を働かせ、ライルは自分の精神を切り離した。

 人間の前には滅多に姿を現さない魔物である。ライルも知識としてその姿を知っているだけだ。

 危険極まりない相手である。

 ライルは大声で魔物の名前を叫び、仲間たちに注意を促した。

 その特徴や戦い方を知らない者も多いはず。

「やつらの正面には立つな! 吹っ飛ばされるぞ! それから――狼がジャンプしたら、転がって避けるんだ。頭上から飛びかかってくる!」

 森の木陰から、次々と狼乗豚鬼が姿を現す。

 動揺したのは冒険者たちだけではない。

 森の中に逃げようとしていた豚鬼頭オークヘッドも、地面に倒れたまま恐れおののいていた。

 先頭の狼乗豚鬼が鬼豚頭に近づき、狼の上から長槍ロングスピアを繰り出した。

 豚鬼頭の右目に槍の穂先が突き刺さり、一瞬びくんと痙攣して、豚鬼頭は動かなくなった。

 狼乗豚鬼オークライダー――彼らは、彼らの国に所属している特殊な部隊である。

 その任務は、国を追われた同族を、狩ること。

 飼い慣らした灰色狼とともに、地の果てまで追い続けるという。

 頭の片隅から知識を捻り出し、ライルは自分と仲間の不幸を恨んだ。

 作戦行動が一日遅かったら、あるいは一日早かったならば、このような展開にはならなかっただろう。互いの部隊が豚鬼の住処を襲う算段をしており、そのタイミングが、わずかに重なったということだ。

 再び精神を切り離し、ライルは指示を出す。

「四人ひと組だ! 山を背にしろ!」

 ここで散開し逃げ出したとしても、簡単に追いつかれてしまう。逆にこちらが各個撃破の憂き目にあうだろう。

 皆の疲労もピークに達しているだろうが、戦うしかない。

 仲間たちの手本を示すように、ライルはジィン、カズン、メリアを連れて移動し、鉱山跡の山肌を背に、小さな陣形を構えた。

 この位置であれば、魔狼が突進してくることはない。

 それに、戦場が見渡せる場所でもある。

 森の中から出てきた狼乗豚鬼の数は、二十組。全員が革鎧レザーアーマー長槍ロングスピアで統一しており、さらには魔狼の凶暴な牙もある。

 ひと際大きな灰色の狼が、甲高い遠吠えを上げた。

 つられるように、他の十九頭も続く。

「ひっ――ひぃ、ひやぁああああ!」

 恐慌をきたしたのか、素っ頓狂な声を上げて、金髪の指揮官――エリプスが逃げ出した。

 彼が討伐部隊レイドメンバーを掌握できるほどの人格と能力があったならば、この瞬間、部隊は大混乱に陥ったことだろう。最悪、指揮官に従って全員が散り散りになり、乗狼豚鬼に追い回されていたに違いない。

 だが、彼が単なるお飾りであったことが、幸いした。

 多少なりとも知識のあることを示したライルの指示に、他の冒険者たちが従ったのである。

 これで、味方は十三名。

 とても互角とは言えないが、耐えることはできる、かもしれない。

『ヨウ、オ前、ボス、カ?』

 つたない共通語で、ライルは一頭の豚鬼に声をかける。

『俺モ、オ前モ、目的、達成シタ。引キ分ケ、シナイカ?』

 その豚鬼の仮面は他の鬼豚たちとは違い、派手な羽根飾りがついていた。乗っている魔狼も最初に遠吠えをしたはず。

 ――交渉するなら、一番偉いやつに限る。

 それはライルの得意分野。しかし、夜の食事にワインを追加させるのとはわけが違う。生死をかけた場面で、こちらが圧倒的に不利な状況。しかも、細かなニュアンスを伝えられない共通語。

 さらに付け加えるならば、相手側に交渉をする余地はなかった。

『……我々ノ任務ハ、確カニ完了シタ。シカシ、オ前タチハ同胞ヲ殺シタ。見逃スコトハ、出来ナイ」

 一縷の望みをかけたライルの行為は、無駄に終わった。

「狼の、足だ!」

 羽根仮面の豚鬼が、長槍を頭上に掲げる。

「他には、目をくれるな!」

 一瞬の静止の後、長槍が振り下ろされる。

「絶対に、生き残れ!」

 腹の底から、ライルは叫んだ。

 背中の後ろで震えている、若い冒険者たちに――そして、自分自身に言い聞かせるかのように。




(9)


 いつものように五百を数えてから、タイエはやや遅めの夕食を開始する。

 ひとりきりの食事を終えると、少しだけお湯を沸かした。

 身震いするような寒さを我慢して、服を脱ぐ。布をお湯に浸し、身体を拭う。ほっそりとした腕をたたんで、力を込めてみる。

 父親のような立派な力こぶはできない。

「……まだまだ、しゅぎよーが足りないや」

 自分なりに分析してから、タイエは残りのお湯で髪をゆすいだ。

 父親が仕事に出かけたあとも、タイエはひとり剣の訓練を続けていた。

 唯一教わった技――突きである。

 本当は、父親のように飛び跳ねたり回転しながら剣を振り回したかったのだが、十年早いと言われたので、我慢している。

 だから、朝から夕暮れまで同じ動作の繰り返し。それでも、自分で納得のできる動きは、ほとんどできていない。よくて百回に一回というところか。

 びゅっと腕がしなって、ぶんと止まる。

 その時に身体がふらつかなければ完璧だ。

 成功した時の感触だけを求めて剣を振っていると、いつの間にか時間は過ぎてしまう。

 身体は重くなり、手の皮は破れ、血が滲み出す。

 それでもタイエは、辛いとは思わなかった。

 今、少年の目標は、明確に確立していた。

 大人になったら冒険者になって、父親といっしょに冒険をする。世界中を旅して回り、困った人たちを助けて、笑顔でいっぱいにするのだ。

 冒険者として尊敬する父親の弟子になったわけだから、夢の実現に向けて一歩を踏み出したところ。どんな辛い“しゅぎょー”でもへっちゃらだった。

 そして。

 タイエにはもうひとつ、喜ばしいことがあった。

 最近、父ちゃんがかっこいい。

 これまで剣を振っている姿なんて見せたこともなかったのに、突然「特訓する!」と宣言して、身体を動かし始めたのである。

 以来、大好きなお酒も飲んでいないようだ。いつも同じベッドに寝ているから、酔っ払っていなくても、すぐに分かるのである。

 変わったのではない。本来の姿に戻ったのだと、タイエは解釈していた。

 冒険者の中で一番強いのは、勇者だと父親は言った。そして、こうも言った。昔は自分も勇者を目指していたが、もうあきらめたのだと。

 タイエは不思議だった。父親はどうして勇者を目指さないのか。なれるかどうかは分からなくても、目指すだけならば、ただなのだから。

 でも、最近の父親は違う。びゅびゅん剣を振り回し、毎日滝のような汗をかいている。

 ひょっとすると父親は――また、勇者を目指し始めたのではないだろうか。

 そんなことを想像していると、わくわくするとともに、居ても立ってもいられない気持ちになる。

 自分が子供であることが、くやしい。

 ひょろりとした腕が、なさけない。

 早く、大人になりたい。

「……父ちゃん、僕が大人になるまで、勇者になるの待っててくれるかなぁ」

 頭と身体がすっきりしたところで、着替えをして、明日に備えて眠ることにする。

 ――と。

 玄関の扉がノックされた、ような気がした。

 父親が仕事に出かけてから、今日で四日が経つ。そろそろ帰ってくる頃だと期待してたから、タイエは喜び勇んで玄関へと向かった。「……」

 扉の前でしばらく待ってみたものの、何も聞こえない。

「――だれ?」

 父親であれば、鍵で扉を開けるはずである。ひょっとして空耳だったのかと、肩を落としかけたタイエだったが、

「俺だ、父ちゃんだ」

 聞き慣れた声に驚き、急いで扉の鍵を開けた。

 夜の闇を背に、父親が立っていた。

 いつもだったらタイエを抱きしめようとするのに、そうはしない。はっきりとは分からないが、何かが違っているような気がした。

「よう、遅くなってわるかったな」

 父親が陽気な声でにかっと笑ったので、ようやく安心して家に招き入れる。

「どうしたの、父ちゃん。家の鍵、なくしたの?」

 ふわりとした白い粒が家の中に迷い込んできた。

「あ――雪だ」

「……そうか。どうりで、冷え込むと思った」 

 父親は剣と盾を壁に立てかけると、椅子に座ってやれやれとひと息つく。

 革鎧やブーツを脱ぐのをタイエも手伝ったのだが、父親の身体に包帯が巻かれているのを見て、びっくりしてしまった。

「父ちゃん、怪我してる!」

 特に腹の辺りは血が滲んでおり、黒っぽく変色していた。

 お医者さんを呼ばなくちゃと家を飛び出そうとするタイエを、父親は止めた。もう治療は終わっているし、こんな寒い夜中に来てくれる医者はいないだろう。明日になってからいけばいい。

「そう……。痛くない?」

「だいじょうぶだ。そんなやわな鍛え方、してねぇよ」

 苦笑する父親を見て、それならばとタイエは新しい服を用意する。

「そうだ、スープとパンがあるんだ。すぐに暖めるから、父ちゃん食べる?」

「ん~。いいや、腹はへってないんだ。それより――」

 父親は言った。

 ちょっとだけ疲れたから、今日はもう寝ようぜ、と。

 ランプの火の加減だろうか。父親の顔は白っぽく見えた。

 雪が舞い散る夜は、とても静かである。みなが寒さに身を震わせ、息を潜め合っているからなのだろう。

 ランプの火を吹き消してベッドに入ると、父親はタイエの髪を撫でた。

 感触を面白がるように指で髪を撒きつける。

「……ねえ父ちゃん」

「ん?」

「ほんとに身体、だいじょうぶなの?」

「ああ。疲れてるだけだって」

「明日、しゅぎょーできる?」

「……」

 意表をつかれたように、父親の手が止まる。

「――ふっ」

 擦れるような声で笑って、くしゃくしゃと髪をかき混ぜた。

「呆れるほど頑張り屋だな、お前は」

 そう言って父親は、明日も特訓をすることを約束した。

「……ねえ父ちゃん」

「ん?」

「お仕事、どうだった?」

 いつものように、タイエは仕事の話をせがんだ。

 今回の仕事は、王都の北にあるビラクの町で、豚鬼オーク退治をするということだった。凶暴な魔物なので、町の人たちが不安がっている。だから、町を代表して町長が冒険者ギルドに救いを求めてきたのだ。

 闇の中で父親が考えるような素振りを見せたので、少し不安になる。

「……失敗、したの?」

「いや、そんなことはないぞ」

 見事に豚鬼たちを追い返したという。

「集まった冒険者は、俺を含めて十三人だった。中にはひよっこもいたが、みんな気合の入った頼もしいやつらだ」

「れいど、みっしょん?」

「おう、そうだ。よく覚えてたな」

 冒険者のパーティは、通常三人か四人が多いという。十三人ということは、複数パーティだ。たくさんの冒険者やそのパーティが集まってひとつの仕事をすることを“れいどみっしょん”といい、“ちょーせー”が大変であることを、タイエは知っていた。

 何でも、みんなで仲良くするのが難しいのだという。

「今回の魔物――豚鬼は、鉱山跡を寝ぐらにしていた。つまり、洞窟だ。下手に中に入り込むと、待ち伏せに合うかもしれねぇ。だから俺たちは、奴らを燻り出す作戦に出た」

「いぶりだす?」

「洞窟の中で焚火をして、煙で魔物を追い出すんだ」

「おー」

 父親の話は続いた。おどけた口調ながらも、その語り口調は次第に熱を帯びていく。

「俺とジィン――若い冒険者が戦ったのは、豚鬼頭オークヘッド。群れのリーダーだ。他の豚鬼とはちょっと様子が違っていて、頭や背中に銀色のたてがみが生えている」

「かっこいい」

「かっこいいだけじゃないぞ。身体の大きさもひと回りでかいし、力もつえぇ。それに、頭もいいんだ。あいつ、共通語を喋りやがったからな」

「……魔物と、お喋りできるの?」

「ああ、希にな。そういうこともある。話してみると、何ていうか、俺らとそんなに変わらねぇんだと思ったね。怒りもするし、怯えもする」

 不利を悟った豚鬼頭は降伏したものの、間抜けな指揮官のせいで取り逃がしてしまった。そして、鬼豚頭の行く手を塞ぐように、突然現れた狼乗豚鬼オークライダー

 乗り手は仮面を被った鬼豚で、身体の小さなものが選ばれるようだという。たぶん狼の負担を減らすためだろう。そして、やっかいなのは魔狼ヴァルウルフだ。

 人間よりも大きく、体重があり、俊敏さも上。

 おまけに鋭い牙を持っている。

「それじゃ、勝てないよ」

「いや?」

 父親は不敵な笑みらしきものを浮かべながら、「俺たちは奴らを――」と、言いかけたところで、口をつぐんだ。

「もう、……はつかないって……決めたんだったな」

 父親の声はひび割れ、急に力を失ったように感じられた。

「やつらは、半端なく強かった。こっちは、五人やられた」

「……え?」

 狼乗豚鬼の数は二十。冒険者たちは屋外で戦う不利を悟り、一か八かの賭けで、豚鬼たちの住処だった鉱山跡に逃げ込んだ。

 鉱山内には豚鬼たちの生き残りがいるかもしれない。しかし、中の敵と外の敵は、仲間同士ではない。それに、狭い洞窟内であれば、数の不利をなくすことができる。

「初めから、そうすべきだった。俺の――判断ミスだ」

「……」

 幸いなことに洞窟内には戦力となるべき敵はおらず、それからは狭い通路に縦列陣形を敷くことで、敵と互角に戦うことができた。

 睨み合いが続き、夜が来て、不安な朝を迎え――再び幾つかの衝突が起きる。

 そして、昼を過ぎた頃、狼乗鬼豚たちは姿を消した。

「俺たちも、あいつらも、たくさん怪我をして、たくさんの仲間を失った。もう潮時だと思ったのかもしれねぇな」

 町の人々には感謝されたが、それだけだ。

 死んだ人間は、生き返らない。

「これが、冒険者ってやつだ」

 父親は、力なく呟いた。

「大変だぞ。仕事はきついし、危険だし、それに見合った金がもらえるとは限らない。それでもお前は――」

 冒険者になりたいかと、父親は聞いた。

 一瞬の逡巡もなく、タイエは頷いた。

「なるよ」

「……」

「大人になったら冒険者になって。それから、勇者になる」

 暗闇の中、父親は笑った、ような気がした。

「勇者……ね」

「父ちゃんといっしょに、なる」

「お、俺もか?」

 こればかりは譲らないと、タイエは父親の服の胸の辺りを、ぎゅっと握りしめる。

 やがて、父親はタイエの頭をぽんと叩いた。

「いいな、それ」

 明日も朝っても“しゅぎょー”して、ご飯をいっぱい食べて、強くなる。だからそれまで、待ってて欲しい。

 勇気を出して口にすると、父親は「へへっ」と、掠れた声で笑う。

「お前なら、だいじょうぶだ」

「父ちゃんもいっしょなの!」

「……ああ、そうだったな」

 父親はひと息つくと、「疲れてから、そろそろ寝るぞ」と言った。

 布団の中に入っていても、寒さが入り込んでくる。

 タイエは父親に抱きついた。

「タイエ……」

「なに?」

「いろいろ……とうな」

「……?」

 寝言、だろうか。

 父親は目を閉じ、静かに眠りについた。



(10)


 翌朝。

 目が覚めると、父親の身体は冷たくなっていた。

 呼吸を、していない。胸の辺りに耳を押し当てても、心臓の鼓動は聞こえない。

「……僕の、せい?」

 昨夜、父親が怪我をしていることを知った時に、無理やりにでも医者を連れてくるべきだった。最初から、様子がおかしいことには気づいていた。でも、父親に会えたことが嬉しくて、正しく対処することを怠った。

 ベッドに入った後も、父親はしばらく話ができるほど元気があったのだから、迅速かつ適切な治療を施すことができたなら、助かったかもしれない。

 六歳という年齢にしては、驚くほど明晰な頭脳と判断力を持つタイエだが、その心と精神は歳相応である。頭では父親の死を理解したものの、その事実を受け入れることができなかった。

「父ちゃん、父ちゃん!」

 タイエは混乱――いや、錯乱した。

 全身の血が瞬間的に凍りつき、それから一気に沸騰し、身体中を駆け巡る。

 視界が真っ赤に染まり、意識が闇に沈んでいく。

 身体が熱い。

 頭が、痛い。

「……はぁ、はぁ、はぁ」

 荒い息を吐きながら、タイエはベッドに横たわる父親の腹の辺りに、右手を置いた。

「早く、治さなきゃ」

 理屈など、すでに吹き飛んでいた。

 理解など、すでに意味を成さなかった。

 少年の記憶の中に唯一残っている、母親の記憶。転んで大泣きしてしまった時に、優しく頭を撫でながら、母親が何度も呟いた、魔法の言葉。

 救いを求め、神に祈るかのように、少年の口が紡ぎ出す。

「痛いの痛いの、飛んでけ」

 頭の中に釘を打ち込まれたような鈍痛。

 水の中にいるかのような息苦しさ。

 身体中が炎に包まれてしまったかのような熱さ。

「痛いの痛いの、飛んでけ。痛いの痛いの……」

 消えかかる意識を必死に繋ぎ留めながら、タイエは魔法の言葉を呟き続けた。

 お腹の辺りがじんじんと痛んで、脈動し、そこから何か――おぞましい力の塊のようなものが、溢れ出す。

 これは、だめだ。

 本能的に、少年は恐怖した。

 これは、抑えなくてはいけないものだ。

 でなければ、身体が――何かが、もたない。

 激情の渦の中にいる少年の抵抗は、しかし一瞬の均衡でしかなかった。カップに注がれた水が溢れ出す瞬間、その縁を丸く覆い、それから一気に決壊するかのように、形容のしがたい力の奔流が、ほとばしった。

 力を解き放ちながら、少年はこうも思った。

 すべてが、消えてしまえばいい。

 現実の冷たさも、過去の悔恨も、未来の絶望も、そして、自分自身さえも――消え去ってしまえばいい。

「痛いの痛いの、飛んでけ――飛んでけっ!」

 身体の奥底から、決して開いてはいけない部分から解き放たれた力は、タイエの全身を怒涛のように駆け巡った。

 髪が逆立ち、眼は充血し、肌が泡立つ。

 真っ赤に染まった視界の中に映る右手が、ぼんやりと白い輝きを放つ。

 しかし、その力を外に吐き出す仕組みがない。

 方法が――わからない。

 どん詰まりになった力は、行き場を失い、少年の小さな身体の中でどんどん膨らんでいく。

「あ、あ、ああ……」

 熱い涙が、文字通りの血の涙が、両目から溢れ出す。

 全身の毛穴という毛穴が開き、煙のようなものが立ち昇る。

 力は留めなく溢れ、飽和状態になり、やがて――

「あ、ああ――ああっ!」

 右手が、弾け飛んだ。

 血しぶきと骨と肉片を撒き散らしながら、バンという破裂音とともに、肘から先が爆発したのである。

 衝撃で、タイエは後方に吹き飛ばされた。

 獣のような雄叫びを上げながら、しかしタイエは意識を繋ぎ止めた。

 ここで気を失ってしまったら、父親の傷を癒せない。

 父親を、助けることができない。

「……う、ううっ」

 残った左腕と両足を使って、タイエは這うようにして、ベッドに戻ってくる。

 父親の顔は、血塗れになっていた。

 タイエの行為を待ち望んでいるかのように、穏やかに微笑んでいた。

「痛いの痛いの、飛んでけ……」

 朦朧とする意識の中で、タイエは失った右手の先を父親の身体に当てて、魔法の言葉を呟き続けた。

 身体の奥から沸き出る力は、まるで正しい道を見出したかのように、右肘の切断面から外に放出されていく。

 ぼんやりとした白い光が触手のような形をとり、父親の身体に入り込む。

「痛いの痛いの、飛んでけ。痛いの痛いの、飛んでけ……」

 しかし、何も起こらない。

 確かに現象は発言しているはずなのに、変化が起こらない。

 そんなはずはない。力が、足りないだけだと、タイエは思った。

 もっと時間をかければ、きっとよくなる。

 父ちゃんを、治さなきゃ。

 父ちゃんを、治さなきゃ。






 爆発の音と叫び声に驚き、急いで駆けつけた近所の住人が見たものは、全身を血に染めながら、父親の遺体にすがりつき、ぶつぶつと虚ろに呟く少年の姿だった。

 思わず悲鳴を上げ、少年に駆け寄り、無事を確かめる。

 右手の肘――半分から先が、ない。

 すぐに、医者が呼ばれた。

 早朝から叩き起こされて不機嫌そうにしていた医者は、すでに気を失っていた少年の様子を一瞥して、顔を青ざめた。

 血を、流し過ぎている。

 それに、とても助かるような傷ではない。

 しかし右肘を調べると、奇妙なことが判明した。

 ……傷口が、ないのだ。

 まるで、最初からその先など存在しなかったかのように、切断面はすでに皮膚で覆われていた。

 部屋の中の状態はひどいものである。まるで血の塊が爆発したかのように、床や壁に血しぶきが飛び散っている。

「悪魔、憑き……」

 自分の言葉に恐れ慄くかのように、医者はぶるりと震えた。

 ごく稀に、幼い子供がこのような状態に陥ることがある。

 原因は不明だが、あまりにも強い感情の爆発が、そのまま身体の一部を吹き飛ばしてしまうのだ。

 だから、ほとんどの場合、助からない。

 ごく稀に、奇跡的な確率で助かる子供がいたとしても、その子供には悪魔が取り憑き、長くは生きられないとされている。 

 少年に対しては安静にするよう指示を出して、医者は血塗れのベッドに寝ている父親の状態を確かめた。

 こちらは、すでにこと切れていた。

 腹部に巻かれた包帯に血が滲んでいるので、おそらくそれが原因だろうと医者は結論付けた。

 傷口が内臓まで達していた場合、助かる可能性は低い。しばらくは無事であっても、身体の中に血がたまり――やがて死ぬ。

 医者の診療は、終わった。

 近所の住人たちは、少年の身内を探し出そうとした。

 母親は三年前に亡くなっている。父親が所属していた冒険者ギルドにも問い合わせてみたが、出身地の登録がされていなかったようで、何も分からずじまいだった。

 利発なことで近所でも評判の少年である。

 困り果てた住人たちは、互いに相談し合ったが、身寄りのない子供を養えるほど余裕のある家などありはしなかった。

 少年は、とある孤児院に預けられることになった。




(11)


 私の名前は、ユリィ。ここでは、“アルスの巫女”と呼ばれている。

 白銀色の髪が、その証だという。

 琥珀色の瞳が、その証だという。

 だから私は、毎朝のお祈りの時、みんなが並ぶ列から離れて、ひとり祭壇に立つ。

 祭壇は東側の壁際にあって、大きな丸い窓から朝日が入り込んでくる。その光を背中に浴びながら、私は両手を広げて、太陽神アルスへの祈りを紡ぐ。

 

 ――我らがもとに蘇りし神よ。

 

 私の言葉が、復唱される。


 ――暗く、寒く、険しい道を、お照らしください。


 すべての視線が、集まっている。


 ――迷える我らを、真なる“陽の世界”へと、お導きください。


 礼拝堂に集まった五十人以上の子供たちは、様々な事情で家族を失い、故郷を離れてこの施設に迷い込んできた。

 かくいう私も、そのひとりである。

 辺境の農家の娘として生まれた私は、この特殊な髪の色と瞳の色のせいで、両親にすら疎まれていた。雪原狼スノウウルフに取り憑かれた、忌み子。狼の子。いつの日か、必ずや獣の血が騒ぎ出すだろう。

 私は村の子供たちからも恐れられ、罵られ、石のつぶてを投げつけられた。

 いつも部屋の片隅で震えて、声を殺しながら泣いていたような気がする。

 そんな私は、四歳の時、村を訪れたアルス教団の聖職者に預けられることになった。

 僅かばかりのお金の受け渡しがあったことを、私は知っている。

 ようするに、私は――親に捨てられたのだ。

 王都からやや離れた郊外にあるこの孤児院は、“太陽の広場”と呼ばれていた。

 見上げるほど高く頑強な石壁に囲まれた灰色の建物。ここが、私の生活の場になった。

 アルスさまに誓いを捧げた仲間――使徒しと同士は、争ってはいけない。厳しい戒律のおかげで、私は生まれて初めて、穏やかに生きることができたのである。

 次に転機を迎えたのは、八歳の時。

 老司祭さまが私をお呼びになり、皺だらけの穏やかな顔に好々爺とした笑みを湛えながら、こうおっしゃった。

 みなを照らす光に、おなりなさい、と。

 院長先生は少し厳しいが、老司祭さまはいつもお優しい。

 そして、正しいものの見方を教えてくださる。

 世の中の秩序が乱れているから、ひとの心もまた、乱れる。ゆえに、正さなければならない。悪しき心を、粛正しなくてはならない。

 そうすれば、仮初めの現世――“蔭の世界”で、不幸に嘆き悲しむ者はいなくなるだろう。真の来世――“陽の世界”では、みながわけ隔てなく、幸福に生きることができるだろう。

 老司祭さまのお言葉を聞いているうちに、鼓動が高鳴り、視界が鮮やかに輝いたような気がした。

 一所懸命お祈りをすれば、“陽の世界”では、私のように、みんなに虐められて、親に捨てられる子も、いなくなりますか?

 問いかけると、老司祭さまはにっこり笑って、しっかりと頷かれた。

 その日、私はアルスの巫女になった。

 以来二年間、私は一日も欠かさず、祭壇に立ち続けている。


 ――ああ、神よ。“蔭の世界”は穢れに満ちております。


 子供たちは私を見つめている。


 ――私たちを、お救いください。


 中には涙を流している子もいる。


 ――その鮮烈な光で、焼き尽くしてください。


 院長先生は厳格な表情のまま、司祭さまはにっこり笑ってらっしゃる。


 ――悪しき心を、焼き尽くしてください。


 違和感を覚えた。

 こちらの方角からは、朝日のおかげでみんなの顔がよく見える。ひとりだけ、私を見ていない子がいることに、私は気づいた。

 右から三列目。前から七番目。姿勢よく立ちながら、前を向き、みんなと同じように復唱している。

 真っ直ぐな黒い髪と、青い瞳。右手の先を失った十歳くらいの男の子。

 真面目に祈りを捧げている風だが、熱心というにはほど遠い。その眼は、心底つまらなそうな色を湛えていた。馬鹿馬鹿しい義務、あるいは仕事とばかりに、口だけを動かしているように見えた。

 “太陽の広場”に来たばかりの子であれば、こういった反応も頷ける。わけもわからず連れてこられて、意味の分からない祈りを捧げなくてはならないのだから。

 しかし少年は、この施設に来てから、三、四年は経っているはずだった。何度も見かけたことはあるし、教義室の中で会話をしたこともある。

 名前は、タイエ。

 狂犬のタイエ。

 熱心な使徒である年上のグループに目をつけられて、彼が酷い虐めを受けているらしいことを、私は噂で聞いていた。

「――」

 不意に、視線が合った。

 黒髪碧眼の少年はにこりと笑い、まるで悪戯がばれたことを誤魔化すかのように、ぺろりと舌を出す。

 どきりと、鼓動が高鳴る。


 ――い、一点の曇りのない信仰を、捧げまぬ。


 私は動揺して、最後の祈りを失敗してしまった。

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