魔理歌(マリカ)
(1)
「やっべ、すっげぇ会いてぇ」
残業も早々に切り上げて地下鉄に飛び乗った俺は、我知らず呟いていた。
周囲の乗客たちに奇異の視線を向けられて、やばいのは自分の言動だということに気づく。俺――九条英貴は、苦し紛れの咳払いをして、何気ない仕草で車内の広告に目を移した。
今日は月曜日。次の週末まで一番長い時間のある、ちょっとブルーなはずの日。
だが、俺の周囲には、ブルーどころかピンク色のシャボン玉がふわふわと舞い上がっていた。
昨夜……俺は、プロポーズを成功させたのだ!
お相手は魔理歌という二四歳の女性で、俺とは同い年である。
まあ、美人ではあるのだが、それ以上に可愛らしいタイプ。
両肩の上できれいに切り揃えられた薄茶色の髪に、淡雪のような白い肌。そして淡い緑色の瞳。鼻はそれほど高くはなく、驚くほど顔が小さい。実年齢よりも若々しくて、十代後半くらいに見える。
明るく素敵な外国人の彼女だった。
魔理歌という名前は発音だけが正解で、どうやら当て字らしい。
国籍は……実は、まだ教えてもらっていない。日本語がぺらぺらなので、こちらで過ごした期間が長いのだろうと推測された。
魔理歌とは大学からの付き合いで、ある意味、涙が出るほど苦労した。
いや、過去形で語るのはまだ早いだろう。現在進行形で、今なお苦労している。
五年前、大学のキャンパス――体中の勇気を振り絞って告白した俺に、魔理歌は白い頬を染めながらこくりと頷き、たったひとつの、絶望的な条件をつけてきたのだ。
『わたくし、結婚するまで、殿方に身体を許すつもりはありませんの』
一瞬、全身の血が引く音が聞こえた。
やや視線を下げて、形のよいバストとほっそりとしたウェストを視界に入れ、フリーズしかかった頭をカラカラと回転させながら、俺はこう言った。
『ボ、僕モ、ソノツモリデス!』
こうして二人の、嬉し恥ずかし中学生のような、清らかな交際がスタートしたのである。
魔理歌は白くてふわりとしたスカートを好む家庭的な女性だったが、家事はまったくできなかった。見事な肩透かしである。
付き合い始めてすぐに同棲したのだが、お茶くらいしか出してもらったことがない。
しかも、ペットボトルのお茶を注いだだけ。
……まあいい。そんなことは些細な問題だ。
今、俺は高らかに宣言する。声には出せないので、心の中で宣言する。
俺は、ついにやりとげたのだ!
学業と家事を両立し、バイトをして結婚資金を貯め、就職活動に勤しみ、まずまずの企業に就職し、笑顔を絶やさず、一切不満を口に出さず、もちろん浮気もせず、見事に試練を乗り切ったのだ!
偉いぞ、俺。よく頑張った!
大学時代についた俺のあだ名――尽くす男。
その名も報われたというものであろう。
熱い感動と感涙を噛み締めているうちに、電車は駅に到着した。
俺が住んでいるアパートは、会社から地下鉄一本で、約二〇分。朝の通勤ラッシュもそこそこで、生活環境的にはわるくない。
部屋の間取りはワンルーム。ロフトがついているので、実際にはひと部屋半といったところ。家賃は安く、会社の補助のおかげで、さらに負担は少なくてすむ。
新婚生活のために、もっと大きな部屋を選んでもよかったのだが、この年にして俺は「家庭」というものを強く意識していた。
近い将来、郊外の戸建てかマンションを購入する資金を捻出するために、あえて粗末な我が家を選んだというわけだ。
すまない魔理歌、いましばらく辛抱してくれ。
電車を降りて、改札口へと向かう下りのエスカレーターに乗りながら、腕時計を確認する。これだけは無理をして買った、オメガのシーマスターだ。
午後七時半。
魔理歌はお腹を空かせて待っていることだろう。俺の名前と夕食のメニューを呟きながら、テーブルの上に突っ伏しているに違いない。
さて、今夜の夕食はチャーハンか、焼きそばか、野菜炒めか……。
そういえば、キャベツがなかったな。それと、お茶の葉が残り少なかったはず。
駅前のスーパーに寄って帰ろう。
もちろん、ダッシュで。
「すわー、待ってろよ、まりかぁ~」
改札口を出た瞬間、俺はまたもや危ない言動で注目を浴びてしまった。
両手がふさがっていたので、俺はインターフォンを押し、
「帰ったよ、ハニー♪」
と、赤面ものの台詞を口にした。
今だからこそ分かる。愛という助走距離さえあれば、ひとは羞恥心という壁すら突破することができるのだ。
もちろん、部屋の鍵は持っているので、買い物袋をいったん置いて、扉を開ければいいわけだが、やはりその役目は彼女に任せたい。
そして、こう言われるのだ。
『お帰りなさい、ダーリン♪』
と。
照れくさそうにはにかむ彼女。俺は勇気を振り絞って、二度目のキスをする……。
驚くことなかれ。プロポーズをした昨夜、俺と魔理歌は初めてのキスをしたのだ。
婚約が成立して、ようやく唇を許してもらえたわけである。思わず涙を零してしまったのは、本当の話。
カチャリ。
「お帰りなさい、だ~りん」
甘美な妄想に浸っていた俺は、まったく予想外の展開に、思わず買い物袋を落としてしまった。安売りの卵が割れてしまったかどうか、確認する余裕すらなかった。
台詞はよい。完璧だ。
だが、声が違う。発音が違う。
笑顔が違う。髪が違う。目が違う。手も足も、雰囲気も――いや、それ以前に、人物そのものが違った。
俺の目の前で邪悪そうな笑みを浮かべたのは、齢八〇を越そうかという白髪の老婆だったのだ。
だ~りんと呼ばれてしまったぞ。
魔理歌にも、まだ呼ばれたことないのに。
「……あ、エイキ。お帰りなさい」
すっかり硬直していると、細長い廊下の奥から天使の声が放たれる。
こちらは本物の魔理歌だ。ちょっと表情が曇っているような気もするが、相変わらず可愛いらしい。家の中だというのに、まるでお出かけ用の白いワンピースが、何とも場違いで、よく似合っていた。
「なぁにを固まっておる、さっさと中に入らんか」
魔理歌が天使の声ならば、こちらはしわがれた地獄の声だろう。
謎の老婆は、俺の胸ほどの背丈もなかった。
白い髪を頭の後ろで団子にしており、濃い紺色の小さな花柄のワンピースを身につけている。こちらもまあ、体型的には似合っていると思うが、可愛いらしくはない。しわだらけの顔に気難しい表情を浮かべながら、射抜くような視線で俺を見上げていた。
「えっと、どちらさまでしょうか?」
当然ともいえる俺の問いに、老婆は不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「ふん、話はあとじゃ。まずは食事の支度をせい!」
「は、はあ。……あの、魔理歌?」
困ったような表情の彼女に説明を求めた俺は、
ドスン!
「ぐはぁっ!」
突然、腹に重い衝撃を受けて、その場に尻餅をついた。
な、なんだ!?
「エ、エイキ! ――大丈夫ですか!」
魔理歌が叫んで駆け寄ってくる。うずくまる俺の後頭部に手を当てて、よしよしと撫でてくれた。
いや、それは「おりこうさん」の撫で撫でだろう。腹とは関係ないぞ。
突っ込みを入れる前に、魔理歌は老婆に向き直った。
「何をするの、ガルダ!」
「マリカさまを呼び捨てにするなど、言語道断ですじゃ。まずは、その思い上がった性根を叩き直す必要がありますからの」
わけが分からない。老婆に殴られたわけではない。
突然、衝撃だけが襲ってきたのだ。
ひょっとして――気孔というやつか?
幸いなことに胃液を撒き散らすことなく、荒い息をつきながらも俺は立ち上がった。
老婆は邪悪な笑みを浮かべている。
――ううっ。
俺の頭の中に、危険警報がびびびと鳴り響いた。
本能的に悟った。
この婆さん、やばい。よく分からんが、本気でやばい!
限られた情報から、できる限りの状況を把握し、即座に行動に移す。相手の表情と雰囲気から、感情を読み取る。
これが俺の――営業マンの技術だ。
「ま、魔理歌さま。まずは、お食事のご用意をいたしマス」
「あ、あの、エイキ?」
「ささ、お客さまも、奥の部屋へ。むさ苦しいところデスガ」
「……む、変わり身の早いやつじゃの」
二人を部屋の中に押しやってから、俺は全力投球で夜食作りにとりかかった。
むろん、時間稼ぎのためである。
混乱する頭の中で、俺は必死に状況を整理した。
マリカさま――あの老婆は、魔理歌のことを確かにそう呼んだ。
今どき「さま」付けされるような人間など、限られている。というよりも、絶滅危惧種に近いだろう。
ずっと前からそうではないかと思っていたのだが……。
やはり魔理歌は、いいところのお嬢さまだったのだ!
外国の社長令嬢とか、ひょっとするともう一ランクアップして、財閥の令嬢とか!
それならば、家事手伝いがまったくできないことも頷けた。
世間知らずで、電車の改札口さえ通れなかったことも納得できた。
まずは、冷凍していたご飯をレンジで解凍。その間に豚バラ肉、卵、キャベツ、アスパラガスなどを準備する。チャーハンだけではさすがに寂しいので、野菜スープと作り置きの焼売、さらにサラダを作ることにする。
「う~ん。デザートに、杏仁豆腐も出すか」
こちらは作り置きがある。
おそらく、あの老婆は魔理歌の世話役か、あるいはお目付け役で、俺がプロポーズしたことを魔理歌から聞き、駆けつけたのだろう。
……何のために?
決まっている!
俺という人間を見定めるため。
あるいは、婚約を――解消させるため。
「げげっ、やばいじゃねーか!」
チンッ。
ご飯の解凍完了。中華鍋の中で油を滑らせ、まず卵を炒める。ジュジュジュ――焦げ目がつく前に皿に引き上げ、ご飯と具にチェンジ。俺の特製チャーハンは、日本酒と中華スープの素で味付けをする。水分が多くなるとご飯が重くなるので、手早く鍋を扱う必要があるのだが、そこはそれ、腕の見せどころというやつだ。空中で直接ご飯に火を当て、ちりちりと水分を飛ばしていく。
出汁をとってスープを煮込む時間はなさそうに思えた。固形スープの素を選択。具はレタスと玉ねぎと卵。片栗粉でとろみをつけ、塩胡椒で味を調える。
――身分違いも甚だしい!
おそらくあの老婆は、そう思っているに違いないだろう。
俺は何者だ? 日本社会の片隅であくせく働くサラリーマンだ。最前線の営業マンだ。
今月の給料は、手取りで一八万三千五百円。家賃、光熱費、食費を除くと、約一二万。月七万円をマンションの頭金用に預金しているので、自由に扱える金額は少ない。
「課長に飲みに誘われると、厳しいんだよな。奢ってくれないし……」
課長の家は小遣い制だ。先輩の話によると、月一万五千円くらいだそうだ。それでも俺を誘ってくるのは、やはり上司として、部下とのコミュニケーションが必要だと感じているからだろう。
そんなに気をつかわなくてもいいのに。お互い金がないんだから、牛丼屋でビールでも飲めばいいのだ。
安いし、美味いし、お腹も膨れるし……。
「ふむ、牛丼か」
そういえば、どう頑張っても、あの味が再現できないんだよな。
俺の作る牛丼は、それはそれで魔理歌には大好評なのだが、何かが違うような気がする。
そう。あとひと味足りないような……。
「煮汁が違うんだよな、煮汁が」
昔、牛丼屋でバイトをしていた大学の友人に、こっそり秘密を聞いてみようか。
(2)
杏仁豆腐をきれいに平らげ、ウーロン茶をすっかり飲み干してから、老婆は高級そうなハンカチで口元を拭い、ちょっと悔しそうにガルダと名乗った。
おそらく、俺の料理にケチをつけるつもりだったのだろう。だが、魔理歌のために研究と努力を積み重ねてきた俺の料理は、そんじゃそこらの定食屋では相手にならないほどのレベルにまで達しているのだ。安い食材を使わせたら、レストランのシェフにも負けはしないだろう。
「あいかわらず、エイキの作るアスパラあんかけチャーハンは、美味しいです。杏仁豆腐も。……エイキは食べないのですか?」
幸せに満たされたような表情で微笑んでいる魔理歌。
俺はエプロンをつけたまま、愛想笑いで給仕の役割をこなしていた。
食卓が狭く、二人分しか並べられないため、あとで食べようと思っていたのだが、この婆さん、三杯もお代わりをして、俺の分まで平らげやがった。
今夜は食パンとマーガリンで我慢しよう。
「ふん、宮殿の料理に比べたら、まだまだじゃの」
なら、お代わりするなよ! と突っ込みそうになった俺は、新たな単語に瞠目した。
「……あの。宮殿といいますと、どちらの宮殿でしょうか?」
「シャドゥー・テン宮殿に決まっておろうが。何も知らんのか?」
しゃ、しゃーどぅーてん……なんだ? 聞いたこともない名前だな。
「異国での実地研修を修業なされた姫さまは、これよりオハラマ王国へとご帰還あそばされ、王妹殿下としての公務につかれる。おぬし、九条と言ったか。この場で姫さまとの婚約を解消し、別れを告げよ」
「――ぐはぁっ!」
異国での研修、姫さま、オハラマ王国、王妹殿下……。重要なキーワードの意味を追求する前に、「婚約解消」という言葉に打ちのめされた。
エプロン姿でお盆を抱えながら、俺は魔理歌と過ごした五年間の、清らかで美しい、そしてちょっぴり切ない過去を、走馬灯のように思い出していた。
すべてを犠牲にして、ただひとつの――たったひとつのものだけを追い求め続けた、青春の日々。
最後の最後にして、俺は、この手につかむことができないのか!
婚約成立という天国から、婚約解消という地獄に突き落とされるのか!
ショックのあまり返答すらできない俺。
代わりに怒りを露にしたのは、魔理歌だった。
「ガルダ! わたくしは、そのような話、聞いてはおりません! 研修期間は本人の意志によって決められるはずです。それがたった五年だなんて――わたくしは、エイキの命が尽きるまで、最低でも五百年はここにいるつもりです!」
いや、魔理歌さん。いくらなんでも、俺の命はあと百年もたないぞ。
「それよりも、何故あなたが、エイキとわたくしの婚約を知っているのですか? わたくしは、王国に報告した覚えはありません。説明なさい!」
魔理歌は色白の頬をわずかに染めて、無理やり眉根を寄せていた。両手の小さな拳をきゅっと握り締め、相手を威嚇するように……。
何というか、ぷんすか怒ったという感じだな。
しかし、魔理歌の怒った顔は、初めて見たような気がする。それはそれで可愛いと思うが、珍しいこともあるものだ。
ガルダ婆さんにしても、予想外の反論だったようである。
「ああ、マリカさま。そのようにお声を荒げて、おいたわしや……。それもこれも、低俗なこの世界がわるいのです。狭くて息苦しい囚人部屋のような、この住処がわるいのです。どこの馬の骨とも分からぬ男と、しかも、婚約まで強要されて! 僭越ながら、姫さまは騙されていらっしゃるのです! 一刻も早く、王国に戻りましょう。さすれば、このような平々凡々な男のことなど――」
「……」
その言葉は逆効果だった。
お気に入りのものを、他人から否定されればされるほど、逆にむきになってしまう。そんな単純な心理法則を、ガルダ婆さんは知らなかったようだ。
無言のまま、魔理歌はすっと立ち上がると、俺の背後に回り込んだ。
そして、しなやかな両腕を俺の首に回して、ぎゅっと抱きしめた。
「わたくしは、エイキと結婚します。誰にも、邪魔はさせません!」
わおっ、胸の感触!
などと、ときめいている場合ではない。
老婆の様子を確認すると、しわくちゃの口元を歪め、目を白黒させ、壊れかけたロボットのようにがたがたと震えていた。
怒りというよりは、恐れをなしたという感じ。
……ふむ。魔理歌とこの老婆は、主従の関係にあるようだ。
明らかに、魔理歌の方が立場が上。ということは、魔理歌を味方につけている俺の立場はどの程度のものなのだろう。
俺は魔理歌の手に自分の手を沿えて、甘く囁いた。
「ありがとう。俺も、婚約を解消するつもりはないよ。君を、愛してるから」
「エイキ……」
そして、ガルダ婆さんに向かって、にやりと笑って見せる。
魔理歌からは見えない角度で。
「ぐっ! お、おぬし!」
ガルダ婆さんは敵意むき出しの目で俺を睨み、両手を胸の前で合わせた。
――や、やばい。先ほどの不可思議な技か。
だが、俺には魔理歌が抱きついている。
俺を攻撃すれば、当然のことながら魔理歌にも危害が及ぶわけで……ガルダ婆さんは無念そうに、がっくりと肩を下ろした。
この瞬間、俺とガルダ婆さんの立場は逆転したわけである。
ふふん、わるいな。だけど、いきなりの暴力はいけないと思うぞ。
その場の空気を取り繕うように、俺はごほんと咳払いをした。
「とにかく、だ。俺には何のことかさっぱり分からない。魔理歌の国のことも、魔理歌自身のことも。まだ何も聞いてないからね」
「ご、ごめんなさい、エイキ。本当は、話そうと思っていたの。でも、その前に、ガルダが来てしまったから」
それは知っている。今朝、会社に出かけるときに、魔理歌は言ったのだ。「今日は大切な話があるから、早く帰ってきてくださいね」と。俺としては、話よりも「いってきますのチュウ」が欲しかったのだが……。
「じゃあ、今夜はゆっくりと、その辺の事情を説明してもらおうかな。二人きりで」
「……はい」
俺と魔理歌のやりとりを、信じられないといった表情で見守っているガルダ婆さん。
わるいが、話の主導権を渡すわけにはいかない。
こちらはまだ、情報不足の準備不足。顧客の要望も把握せずにプレゼンテーションをする馬鹿な営業はいないのだ。
「というわけで、申し訳ないけれど、ガルダさんにはいったん、お引取りいただこうか」
「そうですね」
俺の背中にしっかりと抱きついたまま、魔理歌はガルダ婆さんに、有無を言わせぬ口調で命令した。
「ガルダ。あなたのお話は、明日うかがいます。ですから、今日のところはお帰りなさい」
「ひ、姫さま……」
「それと――」
ぎゅぎゅ。
わおっ、胸の感触!
「婚約だけは、絶対に、解消しませんから!」
ああ、五年間、我慢した甲斐があったなぁ。
どこか心細げな声が、俺の名を呼ぶ。
茫然自失といった様子の俺は、返事をするのも忘れていて、再び呼びかけられるまで、その声に応えることはできなかった。
「エイキ……」
「ん? ああ、どうした?」
部屋の明かりは蛍光灯がひとつ。オレンジ色の淡い豆球と薄い闇の中、ごそごそと魔理歌が身を寄せてきた。
俺と魔理歌はいつも同じ布団で寝ている。
だが、布団の中で許されている行為は、手を繋ぐことだけ。
これはある意味拷問に等しい状態なのではないかと、何度悩んだことか。
魔理歌は寝つきがいい。先に眠ってしまった彼女のぬくもりを感じながら、俺が己の欲望を抑え、眠れるようになるまで、同棲を始めてから半年ほどかかった。
のんびり屋の魔理歌だが、約束を守ることに関しては、極めて頑固な一面を見せる。
たとえどのような状況であれ、俺が魔理歌の身体を望んでしまえば、まるで童話の中の妖精のように、彼女は消えてしまうだろう。
そんな確固たる予感が、俺にはあった。
「わたくしのこと、嫌いになりましたか?」
俺の胸の上に小さな頭を乗せて、魔理歌が問いかけてくる。
ガルダ婆さんを追い返したあと、俺は魔理歌から彼女の事情を聞いた。
とりとめのない長い話だったが、簡単に要約すると……。
魔理歌はオハラマ王国の王女という身分である。
オハラマ王国の王族には、他国の生活を経験することを目的とした実地研修制度があり、魔理歌は身分を隠して日本の大学にやってきた。
そして、俺に出会った。
研修期間は自分で決めることができるので、魔理歌は俺との生活が続く限り、日本に留まるつもりでいた。
だが、魔理歌の教育係であるガルダ婆さんが、俺と魔理歌の婚約話を聞きつけ、突然訪ねてきた。
ガルダ婆さんは俺と魔理歌に、婚約を解消するように求めてきた。
……以上である。
それにしても、よりによって王女さまとは。
童話や漫画の中ではよく出てくる身分ではあるが、まさか実際に自分が出会って、プロポーズまでしてしまうとは思わなかった。
想定外の事態に、戸惑うばかりである。
だって王族だぞ、王族。金銭面の格差プラス、身分の差までついてくるじゃないか。
格差婚もここに極まれり、である。
オハラマ王国とやらが、どの程度の規模の国なのかは知らないが、国家権力に逆らって無事でいられると思うほど、俺は楽観主義者ではなかった。会社では上司に逆らっただけで査定を落とされてしまうほど、弱い立場の俺なのだから。
もし王国側が、魔理歌を取り戻そうと強硬な手段に出てきた場合、俺が選べる道は二つにひとつ。
魔理歌とどこか他の場所に身を隠すか、あるいは、ともに王国へ出向くか、だ。
――いや。魔理歌がガルダ婆さんを説得して、帰国を諦めさせるという道も、まだ残されているはずだった。
そう、判断を下すのはまだ早い。
覚悟を決めるには、時間が足りなかった。
「……エイキ?」
難しい顔で考え込んでいたせいで、魔理歌を心配させてしまったようだ。俺はさらさらとした黄金色の髪を撫でながら、子供を安心させるように言った。
「嫌いになるわけないだろう? これからのことを、考えていただけさ」
「これから、どうしましょうか」
魔理歌もまた、考えがまとまっていないようである。
「う~ん、昨日の今日だからなぁ。ガルダさんは、事実確認のために、ここへ来たんだと思う。誰が伝えたのかは知らないけれど、王国の大部分の人は、俺たちの関係を知らないんじゃないかな?」
だが、明らかに監視はされていたはずだ。
魔理歌は誰にも話していないというし、俺もごく限られた友人にしか、自分の決意を語っていない。どこから情報が漏れたのだろうか。
「でも、まいったよ。いきなり婚約を解消しろだもんな。やっぱり、東洋人を王族に迎え入れるのは難しいのかな? ……歴史的に、そういった前例ってある?」
魔理歌は小さく頭を振ることで、俺の問いに答えた。
……だろうと思った。
逆の立場で考えてみればよく分かる。日本の皇族に金髪の外人さんがなるなど、想像もつかない。
「婚約っていったって、お互いの両親に認められたわけじゃないし。法的に考えても、どこまで効力があるのやら」
「だいじょうぶです!」
やけに力強く、魔理歌が断言した。
「わたくしの国では、約束は神聖なもの。契約の神イシュディスに逆らうことは、たとえ国王であったとしても、許されることではありません。わたくしとエイキの双方が、婚約の解消を宣言しない限り、他の誰にも、二人の絆を断ち切ることはできないのです」
聞いたこともない怪しげな神さまの名前が出てきたが、深く追求することはやめておこう。もう夜も遅いし。
……しかし、そういう文化だったのか。
それならば、約束事に関する魔理歌の頑固さも理解することができた。
「二人の、絆……か」
それは果たして、強いものなのか、それとも弱いものなのか。
くだらないことを考えていると、魔理歌が俺の上に覆いかぶさってきた。
「エイキ……」
「――!」
ふいに、唇が重なった。
情けないことに、俺はキスに慣れていない。大学時代などは、一度もする機会に恵まれなかった。
呼吸が止まる。遅れて、鼓動が高鳴る。
互いに触れ合っていた時間は、五秒か一〇秒か、あるいは一分か。
甘い気分を堪能することもできずに、俺はただただ驚くばかりだった。
どちらかといえば、魔理歌は内気な女の子だと思う。
あまり激しい感情は表に出さないし、外で手を繋ぐことはあっても、腕を組むことはない。無防備そうに見えて、実はダイアモンドのように身持ちが硬く、彼氏である俺ですらキスをするまで五年の歳月が必要だった。
その魔理歌が、瞳を潤ませて、呼吸を乱しながら、確認してきたのである。
「わたくしたち、婚約者、ですよね?」
「……あ、ああ。もちろん、そうだけど」
「でしたら……その……」
肩にかかるくらいの髪が、ちょうど俺の頬に当たってくすぐったい。
影になってよく見えなかったが、魔理歌の顔は今、鬼灯のように真っ赤なのだろう。
「全部は、だめですけれど、その……」
は、鼻血が出るかと思った。
いや、Hなことを想像して鼻血を出す人間が、現実的にはほとんど存在しないことを、俺は知っている。
というか、全身の血が沸騰しそうなほど、俺は興奮してしまったのだ。
「胸だけなら、触っても、かまいませんから」
……ま、じ、で、やばい!
(3)
――と。
ここまでが、俺の妄想ではなく、昨夜の回想である。
にへらにへらにへらへら……。
目の下にクマを作り、しまりのない笑みを浮かべている俺は、どんな角度から見てもネジが一本抜けた危ない男だろう。
もうお昼どきだというのに、気味わるがって誰も話しかけてこない。
広くはあるが、雑然としたオフィス。俺が所属している営業部には、七人の社員がいるのだが、俺以外は全員外に出払っていた。
俺はひとり、パソコンで客先へ提出する資料を作っていた。
はっきり言って、ほとんど手につかない状態だった。
いかんな、これは。給料泥棒ではないか。
しかし……にへらにへらにへらへら。
「おいっ」
ぽんと、頭を叩かれた。
「ん? ……ああ、修か。どうした?」
俺の隣で丸めたノートを手にしていたのは、大学時代からの友人で、同期入社の田中修一だった。
身長一八五センチオーバー。正確に測ったことはないが、八頭身の体形で、まるで英国人のように足が長い。顔立ちは彫りが深く、ホスト並に整っている。髪は耳が隠れるほどの長さ。派手な黄金色に染め、芸の細かいことに、濃い紫色のカラーコンタクトまで入れている。就職場所を間違えたのではないかと疑いたくなるほど、その存在に違和感を感じさせる男だった。
うちの会社は私服が許可されていて、社外に出ることのない開発部門などは、ラフな格好でだらだらとキーボードを叩いているものだが、こいつは一部の隙なく、高級スーツを着こなしていた。ぴしりと音まで聞こえてきそうだ。
……お前、本当に俺と同じサラリーマンか?
「どうしたじゃないだろう? もう昼飯の時間だぞ」
そういえば、さっきチャイムが鳴ったような気がする。
「ったく、にやにやして気持ちわりぃな。ほら、さっさと行かねーと、店がいっぱいになっちまうぞ」
格好いいくせして気取らないその態度が、女性たちのハートを根こそぎ鷲づかみにしているらしい。どうでもいいことだが。
俺は作りかけのファイルを保存して、立ち上がった。
「誘ってくれるのはうれしいが。いいのかよ、あれは」
やや後方を確認すると、数人の女性社員が、フロアの入り口付近でたむろっており、獲物を狙う獣のような目で、俺たちの様子を窺っていた。
修を食事に誘おうと待ち構えている、通称――「修さま軍団」だ。
正確な人数は分からないが、構成員は三〇歳未満の独身女性に限られているそうな。
昔から、こいつはそうだった。異常なくらい女にモテるくせに、トラブルに陥いることなく、すべての関係をきれいに処理して、しかも平然としていた。ここまで圧倒的だと、他の男たちのやっかみの対象にすらならない。
近寄らぬが吉、である。
俺は特に気にはならなかったが、もし魔理歌という存在がいなければ、こいつの首を絞めていたかもしれない。
修は心底うんざりしたように自分の軍団を見やって、ため息をついた。
「ったく。年がら年中盛りのついた猫みたいに。いい加減勘弁して欲しいぜ。ちっとはほっとけってーの」
「俺を女避けの道具に使うなよ。あとで恨まれるだろう?」
「お、分かってるじゃないか、我が親友よ」
そう言って修は、俺の肩に手を回してきた。
そのまま貴婦人をエスコートするように、ハリウッド男優さながらの笑顔を振りまきながら、フロアを出て行く。
おい、勘弁してくれ。
「あ、あの……」
「わるい。今日はさ、こいつとの先約があるんだ。だからまた今度、ね?」
「は、はい……」
修さま軍団の筆頭である事務職の女性が、熱に浮かされたような顔で答え、健気に首を縦に振って、最後に俺を――ものすごい形相で睨みつけてきた。
彼女だけではない。修さま軍団全員が同じような反応である。
ううっ、すさまじい負のオーラを感じるぜ。
まあ、魔理歌がいる俺には、会社の中に恋を求める必要はないわけで。したがって、女性社員の評判など、気にする必要もないわけで。
……それでも、すごく悲しいぞ。
「うまくいったな、おい」
がっくりと肩を落とす俺の背中を、嬉しそうにばんばん叩く修。
「うまくいったのは、お前だけじゃ!」
ピシリ!
反射的に、手の甲で突っ込んでしまった。
「……ほんとうか! そいつはすごいな。直接か?」
小汚い中華料理屋の、薄汚れたふたりがけのテーブル。
俺たちが頼んだランチメニューは、半チャーラーメン。ラーメンに通常の半分の量のチャーハンがついてくる定食だが、修の皿に盛られたチャーハンの量は、明らかに俺のものより多かった。
この店の主人であるおばちゃんは、明るく元気で……おまけに面食いなのだ。
だが今の俺には、そんな差別など、心地よいそよ風程度にしか感じられなかった。
「いや、さすがに直接は無理だった。でも、何とか頼み込んで、パジャマのボタンは外させてもらったぞ」
「ようするに、ブラ乳か?」
「ああ、ブラ乳だ」
「やったな!」
「ああ。興奮して、朝まで眠れなかった」
まるで盛りのついた高校生のような会話である。
幸いなことに店内は騒がしく、俺たちの会話に耳を傾けている客はいない。
大学からの付き合いである修は、魔理歌にも話せない悩み事を気軽に相談できる、今となっては貴重な友人だった。こういった裏話に対しては意外なほど口が堅いし、何よりも俺の事情をよく分かっている。だから、魔理歌の胸に触ったという、大人の付き合いとしてはごく些細な行為にも、心底驚き、感心したのだ。
小さな丸椅子に窮屈そうに座っていた修は、平皿の上にレンゲを置くと、両腕を組んで感慨深げに唸った。
「この国に来るまでのマリカさまは、男性不信のきらいさえ感じられたからな。まさか五年間で、唇どころか胸まで許されるとは……。やはりお前は、たいしたやつだよ」
――ん? 今、何って言った?
「マリカさま? 婆さんじゃあるまいし、いったい何を……」
つい先ほどまで修は、魔理歌のことを呼び捨てにしていたはずだ。
軽く笑い飛ばそうとして、俺は失敗した。
昨夜、初めて知った魔理歌の事情は、まだ修には話していないはず。
目の前にいる優男は、普段のちゃらけた表情ではない、どこか風格さえ感じさせる笑みを浮かべながら、説明した。
「オハラマ王国の王族が、成人の儀を行ったあと、一定期間、他国へ居住を移すという話は聞いたな? 実地研修制度というやつだ。……そして五年前、マリカさまが選ばれた国が、ここ日本だった」
俺はぽかんと口を開けたまま硬直している。
「むろん、衣食住や生活費などに不自由することがないよう、最低限の便宜は図られる。だが、それ以外のこと――たとえば、異国の文化を学んだり、ご学友を作ったりといった行為は、そのお方の自由意志に任される」
「……」
「とはいえ、異国の地では何が起こるか分からんからな。完全に放任するわけにもいくまい? だから、現地の住民の姿を装い、さりげなくそのお方のサポートをしたり、密かに護衛したり、定期的に生活の状況を本国へ報告したりと……。まあ、監視人のような役割を担う者が送り込まれるわけだ。つまり――俺のことだが」
「……ちょっと待て」
またもや不意打ちである。
しかも、そんな重大な告白を、小汚い中華料理屋でするんじゃない!
魅惑的な香りを放つ中国茶をひと口飲んで、気を落ち着かせてから、俺はこめかみの辺りを揉み解した。
寝不足気味の頭に活を入れて、修との出会いを思い出す。
あれは確か大学のキャンパス内――魔理歌と初めて出会った、同じ日、同じ場所だった。
道に迷った子供のように、きょろきょろと挙動不審な様子で大学構内を歩いていた、外国人の美女。スケベ心を隠しながら、あくまでも紳士的に案内役を申し出た俺。
偶然、同じ講義を受けるところだったので、一緒に歩いていたら、いつの間にか修がいたのだ。
『いやー、助かったよ。ちょうど俺も、道に迷っていたところだったんだ。いや、この大学は広いねー。はっはっは』
とか、わざとらしく笑いながら。
最初のころは、魔理歌に声をかけるたびに修が現れて、何かと俺の行動が邪魔されていたような気がする。その時の俺は、修に対して魔理歌を争うライバル心をメラメラと燃やしていたものだが。
……ひょっとして、護衛、していたのか?
「何か質問がありそうだな、英貴?」
面白いことを隠しているような顔で、修が聞いてくる。
無言のまま、俺は右手を上げた。
「どうぞ」
「お前の名前は、田中修一。出身は山形県で、両親は専業農家。ヒトメボレを作っている」
「はずれだ。俺の本名は、シュウ。だから、いつものように呼んでくれればいい。出身はオハラマ王国の首都、ザンデだ。両親はいない」
「女にモテるために、髪を金色に染めて、いつもカラーコンタクトを入れている」
「はずれ。髪も目も自前だよ」
「オハラマ王国の住人である修君は、実は王女さまの監視人で、俺と魔理歌の生活を、ちくいち王国に報告していた」
「正解」
「そして、俺が魔理歌にプロポーズしたことも、密告った」
「――大正解!」
大喜びで拍手をする修。
てめぇ、このやろう!
「だが、密告るっていう表現はやめて欲しいな。こっちも仕事なんだ。もし俺が、お前とマリカさまの関係を黙認したら、どうなると思う? 俺は問答無用で解雇だし、すぐに代わりの守人――つまり監視人が来て、厳しく査定されるぞ」
「……査定?」
「お前が、マリカさまに相応しい男かどうかってことさ。砂糖とクリームをたっぷり入れた俺の報告書に、少しは感謝してもらいたいね」
「どれくらいだ?」
「うん?」
「お前の、俺に対する評価は、どれくらいだ?」
「う~ん、そうだな。俺たちの会社でいう、Bプラスってところか」
「……まあまあだな」
「だろう?」
一気に脱力してしまった。
のん気そうに話をしているが、その内容は極めてシュールである。
ようするに俺は、友人だと思っていた男に、ずっと騙されていたわけで……。素直に納得するには、色々と心の葛藤があった。
あったのだが……。
感情に任せて怒りをぶちまけたとしても、得られるものは何もないことくらい、俺にも分かっていた。こいつにも、こいつの事情があったのだ。
仕方がない。五年間の友情に期待して、せいぜい貴重な情報源になってもらおうか。
俺は再び右手を上げた。
「ブー、質問タイム終了」
「何でだよ!?」
修は苦笑して、幅の広い肩をすくめた。
こういう気障な仕草が、嫌味なくらいに似合う男だ。
「わるいな。今の俺には、自分の正体を明かすことくらいしかできないんだ。聞きたいことは山ほどあるだろうが、勘弁してくれ。時がきたら、いくらでも情報を提供するし、手助けもしてやれると思う」
さりげなく俺は、修の様子を観察した。
嘘をついている人間や、自分の言葉に自信を持てない人間の目には、力が宿らない。瞳の輪郭がぼやけ、視線が揺らぐことさえある。
しかし修の目には――力があった。
いつも冗談で生きているような、つかみどころのない男だったが、今は違う。
もしかすると、こちらが修の本性で、普段の軽薄そうな言動はすべて演技だったのかもしれない。
俺は吐息をつき、それから自分と修の湯のみにお茶を注いだ。
「分かったよ。今は何も聞かない。だが、ひとつだけ頼みがある」
「いいだろう」
そう。これだけは、是非ともお願いする必要があった。
俺はぱちんと両手を合わせて、頭を下げた。
「頼む! ブラ乳の件な、あれだけは、上に報告しないでくれ!」
「――」
修は一瞬、虚をつかれたような顔になり、それから……店の喧騒を吹き飛ばすくらいの大声で笑い出したのである。
(4)
俺が会社に行っている間、魔理歌は暇を持て余しているわけではない。
茶道、華道、日本舞踊、習字といった習い事に勤しんでいる。
花嫁修業の一環なのかと思っていたが、そうではなかった。
オハラマ王国の王女として、異国の文化に触れてみたいという好奇心の表れだったのだろう。
家にいる時には、おもに刺繍を縫ったり編み物をしたりしている。
そのおかげで、俺たちの部屋には、やけに格調高いテーブルクロスや、タペストリー、花柄模様のクッションなどが飾られていた。もちろん、セーターやマフラーや手袋に不自由したこともない。
習い事にかかる費用は、すべて魔理歌の口座から引き落とされているようだが、その残高については、魔理歌自身、把握していないという。
さらに、魔理歌の財布の中には、黒地に細かな模様が描かれた謎のクレジットカードが一枚入っていた。限度額が無制限という逸品で、請求書どころか、利用明細すら送られてこない。
おそらくこれが、修の話に出てきた「最低限の便宜」というやつなのだろう。
ちょっと怖かったので、なるべく使わせないようにしていたのだが……。
どうせなら、湯水のごとく使っちまえばよかったかな。
――さて。
本日の俺は、定時退社。
太陽が沈まぬうちに家に帰って、万全の体制で待ち構えていた。
どちらかといえば、俺よりも魔理歌のほうが気合が入っているようで、
「絶対に、エイキとの婚約を認めてもらいますから!」
と、頼もしい決意表明まで飛び出した。
とりあえず、ガルダ婆さんが再び迫ってくるであろう婚約解消の件について、俺と魔理歌は対策を考えていた。
オハラマ王国では、イシュディスとかいう契約の神さまの名の元に、約束事が大変重要視されているらしい。書面で交わさなくてもその効力が認められるほどで、俺と魔理歌の婚約を解消させるためには、当事者である俺たちが、そろって同意しなくてはならないそうだ。
極端なことを言うならば、俺たちが感情的になって拒否し続ければ、王国側は何もできないということだ。
だがそれでは、魔理歌と彼女の祖国との関係に、遺恨を残すことになるだろう。
だから、まずはガルダ婆さんの話を聞く。しっかり話を聞いて、それから粘り強く説得し、俺たちの関係を認めてもらう。
――これが基本方針である。
ようするに、大人の対応というやつだな。
問題は、ガルダ婆さんが大人気ないということだ。
プライドは高そうだし、頭は固いし、すぐに暴力を振るうし……そういえば、あの謎の攻撃、衝撃波のことを聞くのを忘れていたな。
来客を告げる呼び鈴が鳴ったのは、その時である。
玄関の扉を開けると、そこにはガルダ婆さんと修がいた。
「……」
喜劇役者のような、派手な格好で。
ガルダ婆さんは、白地のゆったりとした衣を身に着け、頭には奇妙な銀細工の冠をのせていた。服の裾は地面に触れるほど長く、尖った靴の先の部分だけが見えている。首には勾玉を繋ぎ合わせたようなネックレスをかけており、何というか、邪馬台国の巫女装束を連想させた。
そして修は、紺色と黒を貴重とした古風な礼服姿だ。ドーナツ型のボタンが、これでもかというくらいついており、尖った両肩の先には銀色の短い糸がモップのように張りついていた。胸元には白色のスカーフに、カメオのような飾り物。皮のベルトには、細かな浮き彫りが施された細身の剣を差し、膝まであるブーツは、左右の開き具合がきっかり六〇度で気をつけをしている。
「……いらっしゃい」
俺にできた反応は、それくらいだった。
知り合いでなければ、扉を閉めていたことだろう。
後ろからやってきた魔理歌に、ガルダ婆さんは恭しく一礼した。
そして修は、その場で肩膝と右手の拳を地面につけ、頭を垂れた。まるで、主に忠誠を誓う騎士のようなポーズ。
「お待ちしておりました。ガルダ、シュウイチ……いえ、シュウですね?」
「――はっ。守人の役目を仰せつかった身とはいえ、これまでの、姫さまへの数々のご無礼、お許しください」
「お顔を上げなさい、シュウ。わたくしもエイキも、あなたのことを親しい友人と思っています。それは、あなたの身分を知った今でも、変わることはありません」
「もったいないお言葉……」
真面目だ。
この人たちは、すごく真面目にやっている。
――どさり。
ふいに家の外から物音が聞こえ、ガルダ婆さんが反応した。
年に似合わない俊敏な動きで向き直り、両手を胸の前に合わせる。
ぎろりと睨みつけた視線の先には……。
お隣に住んでいるひょろりとした学生さんが、買い物袋を落としたまま、びっくりしていた。
「何ものじゃ」
……婆さん。そりゃあんたのほうだよ。
変人――おそらく、コスプレマニアと思われただろう。いい年こいた大人が、こんな格好して。とほほ……。
俺までお仲間と思われては、たまったものではない
「ああ、君。ちょっと待ってくれ。違うんだ、これは――」
……これは、何だろう?
本物? そっちのほうがやばいような気がする。
迷いに迷った挙句、俺はにっこりと笑って、
「これはね、コスプレなんだヨ」
学生さんは、後ずさりした。
八畳ほどのフロアの中央に置かれた、こたつテーブル。
座布団に座っているのは、俺と魔理歌と、邪馬台国の巫女と、軍服の騎士。
怪しげな二人の格好は、オハラマ王国の儀礼用のもので、正式な使者としての体裁を取り繕ったということらしい。
俺はお客さま用の紅茶、アールグレイを、きちんと温度と時間を計って出すことにした。
「九条殿――」
先日とは打って変わって、ガルダ婆さんは改まった口調で俺の名前を呼び、自己紹介と挨拶をしてから、用件を述べた。
「マリカさまのご学友として、貴殿を我がオハラマ王国に招待いたします」
婚約者ではなく、学友ときたか。
「招待されるとは恐縮ですが、俺は、何をすればいいのでしょう?」
「我が国の国王陛下は、現在、異国の地にて研修の儀を行われているご息女、マリカさまのことを、いたく気にかけていらっしゃいます。ご学友であらせられる九条殿をご招待し、マリカさまの普段の生活などを、直にお聞きしたいと……」
婆さんのこめかみのあたりがぴくぴく動いていた。一般ピープルである俺に対して、相当無理をして敬語を使っているようだ。
「学友ということは、俺は魔理歌の婚約者とて、認められないということでしょうか?」
「……」
ガルダ婆さんは沈黙する。
俺はちらりと魔理歌に視線を送った。
「答えなさい、ガルダ」
ぴくぴくぴく。
「……み、認める、認めないの問題ではございません。陛下は、魔理歌さまのご様子をお知りになりたいと。わたくしめは、その役目を授かりまして……」
苦しまぎれの国会答弁みたいだな。
俺としては、腹を割って話をしたかったのだが、相手側が駆け引きを仕掛けてきた。
さて、どうしたものだろうか。
婚約者の実家へ挨拶に行く――これは、男としては避けることのできない、人生最大級の試練である。ただでさえ重苦しいイベントなのに、その相手は国王陛下ときた。
これでは、断ることができないではないか。
断った瞬間、俺の株価は一気に大暴落。意地悪な婆さんは、俺がいかに無礼者であるかを、嬉々として魔理歌の両親に吹き込むことだろう。
一度失った信頼を取り戻すことは、容易なことではない。
訪問するのはやぶさかではないのだが、ひとつだけ懸念があった。
昨夜からのガルダ婆さんの言動からも分かる通り、どうやら俺は、魔理歌の婚約者として認められていないらしい。オハラマ王国へ旅立つのは二人で、帰国はひとりという寂しい状態だけは、何としてでも避ける必要があった。
「――分かりました」
俺は素直に頷き、婆さんの表情を観察した。
しわくちゃの口が少し緩む。
唇の端がわずかに上がり……しめしめといった表情。
しかし、分かりやすい婆さんだな。
俺は紅茶を口に含んで、背筋を正した。
「ところで、オハラマ王国での滞在期間はどれくらいでしょうか? 俺も仕事がありますので、あまり長期間というのは難しいのですが」
ガルダ婆さんは口元に手を当て、上品に笑った。
「ほっほっほ。心配には及びませぬ。そう――三日もあれば、よろしいかと」
「では、その後は俺と魔理歌は日本に帰って、この家で普段通りの生活に戻れるということですね?」
「そのように、考えております」
俺は信じなかった。
考えは、変わる恐れがあるからだ。
「では、オハラマ王国の名において、この場で約束してください。王国での滞在期間は三日間。その後には、必ず俺と魔理歌を、ともにこの家に送り届けることを。できれば、契約の神さまにも誓っていただけると、ありがたいのですが」
「……!」
約束事が神聖化されているオハラマ王国では、この俺の申し出は、はっきり言って無礼以外の何ものでもないのだろう。
だが俺には、自分たちの生活を守る義務がある。遠慮などしてはいられない。
老婆の目が細まり、口元が歪み、その隙間から唸るような声が漏れた。
「く、くじょぉぉぉ~」
こわい。呪い殺されそうだ。
空気が緊張し、老婆の白髪が静電気を帯びたように浮かび上がった。
おおっ。怒髪天を突くというのは、このような状態を指すのだろうか。
内心どころか全身に冷や汗をかきながら、俺は隣の魔理歌に視線を送った。
魔理歌はこくりと頷いて、
「ガルダ、約束なさい」
「ひ、姫さま!」
「そうでなければ、わたくしもエイキも、王国には行きません」
「……!」
はらりと白髪が落ち、長い沈黙が訪れた。
まったくもって、前途多難としか言いようがない状況である。
ニュースや新聞を見ていても、一国の姫君が他国の一市民と結婚したという話は、聞いたことがない。それだけ出会いの機会が少ないということと、互いの立場や身分が障害になるということだろう。
最終的には、駆け落ちか――
その不吉な未来の行く末を想像しようとして、やめた。
他人事であれば胸ときめく展開かもしれないが、現実的にはかなり難しいと思う。
何をするにしても金のかかるこの日本での、身を潜めながらの生活。俺はともかく、お嬢さま育ちの魔理歌には、耐えられないかもしれない。
「……分かりました。約束いたしましょう」
苦渋に満ちた表情で、ガルダ婆さんは頷いた。
それで、話は終わりだった。実際に話した時間は、三〇分に満たなかった。
今後のスケジュールについては、折をみて連絡すると言い残して、ガルダ婆さんと修は去っていった。
(5)
一時間ほど待ってから、俺は携帯電話で修を呼び出した。
どうやら俺からの電話を予想していたようで、修はすぐさまかけつけてきた。窮屈な軍服から、趣味のよい青色のシャツとジーンズに着替えている。
「いや、ガルダさまにはまいったよ。お前になめられるわけにはいかんと言われてな。あんな礼服を着せられて。しかも電車だぞ、電車。子供には笑われるし、女子高生には写真られるし。ネットに流れたらどうしよう」
「とっとと入れ」
ガルダ婆さんがいるときには、ほとんど何もしゃべらなかったが、どうやらいつもの修に戻ったようだ。
「飯は?」
「実は、まだ食ってないんだ。王室秘書局との連絡調整とか、忙しくてな」
「冷凍ピザならあるが、食うか?」
「食う食う。あ、ビールもある? 発泡酒じゃなくて、ビールね」
……贅沢なやつだ。
部屋に入ると、さすがの修も恐縮したように、頭をかきながら挨拶をした。
「マリカさま。ご無礼をいたしました」
「……」
魔理歌は修の顔を不思議そうに覗き込んで、
「シュウとは以前、王宮でお会いしていませんか?」
「はぁ。実は、俺は近衛隊に所属しておりまして。陛下の護衛中、何度かマリカさまにお会いしたことがあります。一度、お声もかけていただきました」
「なんだ。知り合いだったのに、今まで気づかなかったのか」
大学のキャンパスで俺と魔理歌と修が出会ったとき、三人そろって自己紹介をした記憶がある。
魔理歌は頬に指を当てて、可愛らしく考え込んだ。
「だって。あまりにも印象が違いましたので。よく似た方だろうと思ったんです」
「……印象?」
俺が放った缶ビールを受け取り、修が苦笑した。
「実はな。これでも俺は、国元じゃ無口で堅物の近衛騎士として有名だったんだ。だがそれでは、魔理歌さまの友人にはなれないだろう? 悩みに悩んだあげく、自分なりに明るいキャラを作ってみたんだが……。お前や他の連中とつるんでいるうちに、馬鹿馬鹿しくなっちまってな。今ではこの通りさ」
修の役目は魔理歌の守人――監視人である。友人としてそばにいることが、仕事を果たす上で都合がよかったのだろう。
しかし、無口な修というのも想像できないな。
「近衛騎士っていうと、SPみたいなものか?」
「警察じゃなくて軍人だが、まあよく似たようなものだ。おもな仕事は、王侯貴族や諸外国からくる要人たちの護衛だよ」
レンジがチンと音を立てた。
暖めたピザを出してやると、修はふはふと頬張り、美味そうにビールを飲んだ。
「……というわけで、オハラマ王国滞在中は、俺がお前とマリカさまの護衛役を、仰せつかることになった。よろしくな」
この言葉に喜んだのは魔理歌である。
「シュウがそばにいてくれるなら、心強いです」
口に出しては言わないが、俺も同じ気持ちだった。
まったく知らない国で、気心の知れた友人がひとりでもいるのといないのとでは、精神的な負担もかなり違ってくるだろう。
それに、色々と便宜も図ってくれるようだ。
とりあえず、オハラマ王国の状況を聞いてみることにした。
「俺と魔理歌の婚約の話、どのあたりまで広がってる?」
国中大騒ぎということはないだろうが、心構えだけはしておきたい。
「それを話すには、まず王国の組織から説明する必要がある。少し長くなるぞ」
ということなので、俺は冷蔵庫から缶ビールとイチゴの缶チューハイを取り出した。
俺はもっぱらビール党なのだが、魔理歌は苦い飲み物が苦手で、果実で割った甘い酒しか飲めない。アルコールは強くはないが、嫌いではないようだ。
「あ、俺ももう一本ね」
ささやかな嫌がらせとして、修には発泡酒を出してやる。
さらに、ひと口チョコとポテトチップスを用意したところで、話を聞く準備が整った。
「オハラマ王国には、日本でいう宮内庁のような組織があるんだ。名称は王室院といって、おもに王族の方々の生活の補助や、様々な祭事を取り仕切っている」
王室院は、三つの部署に分かれているという。
公務などのスケジュールを管理する、秘書局。
王室に関わる重要行事を取り仕切る、祭事局。
そして、王族の世話や教育を担当する、宮侍局。
「ガルダさまは宮侍局の長でな。さらに女官長も兼務されている。政治的な権限や決定権は持たないが、その分、王家の方々との距離が近い」
「信頼が厚いってことか?」
「そうだ。いわば、ご意見番のような存在だな。下手に逆らわないほうが身のためだぞ」
「……」
もう、手遅れデス。
そういうことは、もっと早く言って欲しかったデス。
「今のところ、お前とマリカさまの関係を知っているのは、国王陛下と王配殿下、王室院の三局長と、俺の上司である近衛隊長だけだ。そして三局長すべてが、この婚約は認め難いとの見解を示している」
……前途多難だな、おい。
「王配殿下ってのは?」
「ああ、聞き慣れないかもしれないな。今の国王は、マリカさまの母君――つまり、女王陛下なんだ。そしてマリカさまの父君は、国王の補佐役という位置付けになっている。その呼び名が、王配殿下だ」
「女王制ってやつか?」
「いや。長子相続制だ」
男女の別は問わず、第一子が王座を継ぐ制度らしい。
「魔理歌には、確か姉弟がいたよな?」
「はい。お姉さまと弟がいます」
ということは、魔理歌は第二王位継承権を持っているわけか。
そのお方――俺の隣に座っている王女さまは、両手で缶を支えながら、ちびりちびりとイチゴチューハイを飲んでいた。
そして、ひと口チョコをぱくり。
幸せを噛み締めるように、もぐもぐ。
……まるで実感が沸かないな。
「王室院とやらのトップに認められないと、王族は結婚できないのか?」
「いや、そういうわけじゃない。あくまでも、参考意見として取り上げられるだけさ。最終的な決定権は、ご本人並びにそのご両親にある」
「つまり、魔理歌の両親を納得させることができれば……」
俺の仮定に、修はちょっと自信なさそうに頷いた。
「理論的には、結婚は可能、かもしれない」
「どっちなんだよ」
「分かるもんか! 王位継承権を持つ王族と異国の一般庶民との結婚は、前例がないんだ。世論が納得するかという問題もあるし。こればっかりは予測がつかん」
修は一気に発泡酒を飲み干して、缶を握りつぶした。
「お代わり。ウィスキーはないのか? ロックで」
「わたくしも。大きなブドウのお酒がいいです」
くっ――今日だけは、こいつのご機嫌をとっておかなくてはならない。
戸棚の奥から貰いもののウィスキーを出し、二人分のグラスと氷を用意する。魔理歌には大きなブドウ――巨峰の缶チューハイだ。
「ちょっと待ってろ」
つまみがなくなりそうだったので、急いで出汁巻き玉子を作ることにした。溶き卵に粉末状の出汁の素を入れて、あとは玉子焼きと同じ要領。ものの十分とかからない。大根おろし&ポン酢で食べると、これがけっこういけるのだ。
オハラマ王国での滞在予定期間は三日間。
その間に、国のお偉い方を何人も説得することは、実質不可能に近いだろう。
ということは、魔理歌の両親――特に母親である女王さまに、俺たちの関係を認めてもらうしかない。
自分を売り込むのも営業の仕事ではあるが、果たして、異国の王族相手に通用するのだろうか。
少なくとも、事前準備はしっかりとしておかなくてはならない。
頬を上気させた魔理歌に、彼女の両親のひととなりを聞いてみることにした。
「お父さまは、大きくて、優しい方です。でも、わたくしをいつまでも子ども扱いするんです。異国での研修も、本当はもう少し早い時期に行っているはずだったのですが、まだマリカには危ないからと言って、なかなか許してもらえなくて……」
魔理歌は少し不満そうに口を尖らせる。
それから、けろりと笑って見せた。
「でも、そのおかげでエイキに会えましたから、今は感謝しています」
俺は心のメモに記入した。
魔理歌の父――娘を溺愛。身体が大きい → 力が強い。
優しいという項目は、あえて削除した。可愛い娘に甘くない父親などいないのだから。
昔のテレビドラマでは、娘の婚約者を父親が殴りつけるシーンが見られるが、実際にそんな目に会った人はいない。いないはずだ。デキちゃった婚でもないし、たぶん大丈夫だ。たぶん……。
「お母さまは、強くて美しい方。喧嘩では必ずお父さまに勝ちますし、宰相のオリンケさまや、ドルン将軍を呼び出して、いつもお説教をします。王宮では女王の中の女王と呼ばれているんですよ!」
魔理歌の母――強くて美しい。夫婦喧嘩では負けない → 気が強い。宰相と将軍を呼びつけて説教する → 気が強い。女王の中の女王 → 貫禄がある。
想像するに、相当プライドが高く、扱いづらい人物ではなかろうか。
俺の思考を読んだのか、グラスの氷を鳴らしながら、修がからかうように言った。
「どちらにしろ、ひと筋縄じゃいかないな」
「――るせい」
俺はウィスキーを一気に飲み干した。
とても素面でやってられる状況ではない。
つまみが足りないと修に文句をつけられたので、野菜炒めを作ることにした。具材は冷蔵庫の中のあまりもので、ゴーヤとベーコンと炒り卵。木耳があると触感にアクセントがついてさらに美味しくなるのだが……まあ、いいか。
中華スープの素で味付けをして、ゴーヤのシャキシャキ感が残る程度に軽く炒める。
平皿を片手に部屋に戻ると、魔理歌が真っ赤な顔をして、ふらふら揺れていた。
缶チューハイ二杯で、いい感じのようだ。
「魔理歌、そろそろ寝たほうがいいんじゃないか?」
「……エイキまで、わたくしのこと、子供扱いするんですかぁ?」
「いや、だってさ。酔っぱらってるだろう?」
「酔ってなんかいません。次は、赤いメロンのお酒です」
ふむ、どうするかな。
ここ数日で立て続けに起こった出来事により、魔理歌の精神もかなり不安定になっていたのだろう。
そうでなければ、あの恥ずかしがり屋の魔理歌が、背中から抱きついてきたり、自らキスをしたり、胸を触ってもいいなどと言うはずがない。
そうだな。今日は最後まで付き合うか。
「わたくしはぁ、もう子供ではありません」
「分かった分かった」
赤いメロンのお酒――夕張メロンチューハイを開けて渡してやる。
「エイキとと婚約しましたし、昨日は、ABCのBまでいきました」
「え、A、B、C……」
いったいいつの時代の話だよ。
「そんな言葉、どこで覚えた?」
「シュウに教えてもらいました」
野菜炒めをほお張っていた修が、ぼふっと咳込んだ。
「修、お前……」
「いや、待て。――違うんだ!」
グラスの酒を飲み込んで、再び咳き込む。
「マリカさま。まだ覚えていらっしゃったんですね」
「はい。恋愛のいろはです」
なんだそりゃ。
修はグラスに酒を足しながら、いい訳がましく言った。
「俺の仕事の中には、王族の研修先――つまり日本でのマナーや常識を、それとなく魔理歌さまにお伝えする、というものがあったんだ。だが、俺にしても日本は初めてだったし、恋愛ごとは苦手だったし。とにかく、その手の書物を読み漁ってな。……とある古雑誌の中に書いてあったんだよ。恋愛のいろは、それはABCってな。たぶん、三〇年くらい前の雑誌だったと思う」
「恋愛ごとが苦手だったのか?」
「言ったろ? 無口で堅物の近衛騎士だったって」
あまりにもお寒い話に俺と修が沈黙していると、不安そうに魔理歌が聞いてきた。
「……違うのですか?」
「いや、間違ってはないと思うけど、今はあまりそういう言い方はしないんだ」
「では、何と言えばいいのですか?」
……何だろう。
今だったら、付き合うイコールCだからな。
Bまでの関係……友達以上、恋人未満、か?
いやいや、それでは俺たちは、恋人未満ということになってしまう。
「う~ん、何ていうか、ほら……」
「分からないのですか?」
「う~む」
「では、お仕置きです」
「なんで?」
魔理歌は俺の後ろに回り込むと、「えい!」と、背中から抱きついてきた。
わおっ!
……って、こればっかりだな、俺。
酔っ払いお姫さまの素敵なお仕置きに、心底感動していると、
「ううっ、あのマリカさまが、自ら男に抱きつかれるとは、成長されたものだ」
修が腕を目に当てて泣きまねをする。
お前、酔ってるだろう。
くそう、どうやら乗り遅れたみたいだ。
今夜は俺も弾けるぞ!
(6)
ソファーの上にちょこんと座ったピンク色の物体を、俺はきっと睨みつけた。
だらしなく垂れ下がった両耳。ほとんど毛の中に埋もれてしまっている小さな黒目。そして顔の三分の一ほどもある大きな団子鼻。身体は頭部よりも小さく、短い尻尾はくるりと巻かれている。背中には羽根が二枚、アクセサリーのようについていた。
魔理歌が「ピーブゥ」呼んで可愛がっているぬいぐるみだが、俺はいつも「豚ウサギだな」と、心の中で訂正していた。
そいつの正面に向かい合って、俺は精神を集中させる。
それから、
「はぁっ!」
気合のこもった声とともに、腰のあたりに構えていた両手を前方に突き出した。
「……」
一秒、二秒、三秒……何も起こらない。
奇妙なポーズで固まっている俺に、座布団の上の魔理歌が遠慮がちに問いかけてきた。
「……エイキ。何をしているのですか?」
「いや、ガルダ婆さんの真似をしてみたんだが……」
そよ風すら起こらなかったというわけだ。
土曜日の朝、午後一〇時。
本日、オハラマ王国へと旅立つ予定である俺と魔理歌は、出発の準備を整えていた。
魔理歌の場合、実家に帰るだけなので、ほとんど手ぶらである。俺にしても、余計な大荷物を持ち歩く趣味はないので、着替えや洗面用具などを鞄に詰め込んでしまえば、それで完了だった。
時間的な余裕ができたところで、ふと思い出したのである。
「ほら、婆さんがこの部屋に来たとき。俺が魔理歌のことを呼び捨てにしたら、急に怒り出してさ」
合点がいったのか、マリカはちょっと申し訳なさそうに言った。
「気点のことですね」
「きてん?」
「陰の気点です」
「いんのきてん」
腑に落ちない俺の表情を見て、魔理歌は考え込むように少し眉根を寄せ、
「……気点というのは、媒介者が持つ力の一種です。零れ落ちる力と呼ばれたりもします」
にこりと笑って、説明を終えた。
おい、さっぱり分からんぞ。
「ばーみたんぐって?」
「万神と契約する者です。オハラマ王国では、成人になると、ほとんどの人が神門を潜って、媒介者になります」
じとりと、背中に嫌な汗が浮き出た。
なんか、やばい。
これ以上踏み込むのは危険のような気がして、俺は強引に話を切り替えた。
「と、ところでさ。オハラマ王国のことなんだけど」
今週、忙しい仕事の合間をぬって、俺はオハラマ王国に関する情報を集めていた。
おもにネットでの検索だが、分かったことはあまりにも少なかった。
どうやら西アジアとヨーロッパの中間くらい――地中海沿岸にある小さな国らしいのだが、人口や面積を含めた、その他の情報は一切不明。発音の関係か、国名も若干違って、「オフェラ国」という赤面ものの怪しげな名前だった。
ヒット件数もわずかに二件という有様である。
「
やっぱり、料理はトルコ系なのかな?」
再び考え事の顔をしてから、魔理歌は笑顔で答える。
「どちらかといえば、日本料理に近いと思います。素材の味を活かした、シンプルなものが多いですよ」
「そうか。やっぱり海とかが近いから、魚なんか美味しそうだな?」
「魚はあまりいません」
へ?
「どうしてだ? だって、海とかさ……」
「海は、光の及ばない魔の領域ですから。こちらのように青く美しくもないですし、魚たちも住んでいません。湖や川では取れますけど、小さいものばかりです。わたくしの国では、魚はとても高価な食材なんですよ」
「……魔の領域?」
「はい。魔の領域です」
と、遠い――魔理歌さんが、すごく遠い。
蛍光灯がきれいに反射している薄茶色の髪も、長い睫に覆われた淡い緑色の瞳も、小さな鼻も唇も、いつもの魔理歌と同じなのに、まるで別の世界の住人のようだ。
俺は魔理歌に手を伸ばすと、その白い頬に触れてみた。
「……エ、エイキ?」
そのまま親指で軽く撫でてみる。
「……」
最初は少し強張ったものの、頬がみるみる熱を持ち、力が抜けていく。
今度はかわいらしい耳たぶをつまんでみる。
「……あ、あの……」
うん、やっぱり魔理歌だな。
心地よい手触りを遠慮なく楽しんでいると、
ピンポーン。
と、インターフォンが鳴った。
どうやら修が迎えに来たらしい。
三人分の全身を映せるくらいの、大きな鏡台、のようなもの。
様々なレリーフが施された金属性のフレームの中には、何もはめ込まれてはおらず、その代わりに――
「……」
水差しの中で何種類もの絵の具をかきまぜたような、濃い紫色の空間が揺れていた。
俺と魔理歌が案内されたのは、空港でも港でもなく、修の部屋だった。
畳に換算すると二〇畳以上はあろうかという、広々としたワンルーム。ベッドと必要最低限の家具類しか置かれていない部屋の真ん中に、それはあった。
現実味の乏しい、違和感ありまくりの光景である。
俺はフレームの横に立っている修のシャツをつかみ、怒りを押し殺した声で尋ねた。
「……地中海はどこへいった?」
「地中海? 何を言っている?」
細やかな刺繍の施された白衣のようなシャツに、ゆったりとした黒色のズボン。オハラマ王国の服装なのだろうか、ちょっと異文化の風を感じさせる格好の修は、どことなく戸惑ったような表情である。
ちなみに俺は、真面目くさった紺色のスーツ姿だ。
「地中海の沿岸にな、オフェラ国っていう小さな国があるんだよ」
「ははぁ」
修は腕を組んで、
「お前、そこがオハラマ王国だと思っていたのか」
「……」
「いい加減、あきらめろよ。詳しく説明をしなかった俺も悪いが、薄々、お前も気づいていたんだろう?」
修はにやりと笑い、懐かしい題名を口にする。
「マラオドック・アドベンチャーだ」
「……!」
それは、学生時代――俺と魔理歌と修の三人で見に行った、超大作映画だった。
主人公の少年がふとしたことで家の中にある秘密の扉を開けてしまい、マラオドックと呼ばれる別世界へ紛れ込む。そこで少年は数々のトラブルに巻き込まれながらも、知恵と勇気と新しい仲間たちの力で活躍し、最後にはその国のお姫様とよい仲になるという、サクセスストーリー。
「はっきり言ってしまえば」
言うな。
「オハラマ王国は、地球上には存在しない国だ」
あっさり言うな。
「陳腐な表現で申し訳ないが、異世界という単語が一番分かりやすいと思う」
「……そうなのか?」
隣の魔理歌に確認すると、
「はい」
無邪気に頷かれてしまった。
今日の魔理歌は白を基調としたシンプルなデイ・ドレスで、細やかなレースの手袋を嵌めた手を、俺の腕に絡めていた。
ぴたりと身体を寄せ合う二人は、どこからどうみても仲睦まじい婚約者だ。
「……」
あまりにも大きな衝撃を受けると、現実感を失い、逆に冷静になってしまうようである。
俺は肺の奥底から空気を吐き出すと、鞄の中からパスポートを取り出した。
「話が早いな、英貴。預かっておこう。それからな――」
真面目な顔で、修は注意事項を付け加えてきた。
「電製品とかは持込み禁止だ。携帯、デジカメ、電気髭剃り、クォーツ時計もだめだ……」
「どうしてだ?」
「あちらの世界には、ちょっと気難しい神さまがいてな。自分の世界に存在しない異質な文化が持ち込まれると、へそを曲げてしまうんだ。最悪、くだかれたりももする」
「く、砕かれる?」
わがままな神さまもいたものである。
家の鍵に小さなペンライトがついていたが、これもだめだと言われた。
辛うじて、自動巻きの時計は大丈夫とのこと。
どうやら機械式はOKで、電気式はだめのようだ。
「その気難しい神さまは、契約の神さまとは別物なのか?」
「別物だ。摂理の神アライアスという。契約の神イシュディスとは……まあ、従兄弟のような関係かな?」
「……チョコレートはどうだ?」
「うん?」
「お土産に生チョコを買ったんだが、これもまずいのか?」
「食べ物は大丈夫だ。砕けても、食えるしな」
――おい、そういう問題なのか?
「さあ、時間も押してきているし、そろそろ行くぞ」
「……」
「行きましょう、エイキ」
ちょっと待て。
待ってくれ。
流れに流されまくっている気がするが。本当にこれでいいのだろうか?
整理をしてみよう。
俺の婚約者は、実は異世界のお姫様。
言葉にすると、たった一行。
「おい、修」
「往生際がわるいな。なんだ?」
「……俺たち、ちゃんと帰って来れるんだよな?」
「任せろ。俺が責任を持って、お前とマリカさまをお届けする。わるいようにはしないさ」
言ったな? 絶対にだぞ?
婚約者の故郷へ旅立つのだ。あまり不安そうな顔をしていると、魔理歌を不安がらせてしまうかもしれない。
顔中の筋肉を使って、俺はにかっと笑った。
「よ、よし。行くぞ、魔理歌」
「はい!」
俺と魔理歌はそろって紫色の空間の前に立ち、その足を進めたのである。