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ネタ帳  作者: 加茂セイ
6/21

名探偵ロロ

(1)


「ようこそ、リーブス探偵事務所へ! ペット探しはもちろん、気になるお相手の身元調査から、あなたさまの身辺警護まで、ありとあらゆるサービスを……」


 爽やかな朝日が斜めに差し込む玄関前。俺を見上げるようにして立っていたのは、みすぼらしい灰色のケープを羽織った白髪の老婆だった。


「ひょーっひょっひょっ!」

「げっ、なんだ。タバコ屋の婆さんか」


 俺の営業スマイルはあっという間に霧散した。

 午前八時三十分。親父と妹を送り出し、さて、俺も仕事に出かけるかと気合を入れたところに、突然の来客。客人はどこか寂しげに佇んでいる謎の美女……ではなくて、近所に住んでいるタバコ屋の婆さんだった。


「久し振りじゃの、ロロ・リーブスよ」


 短い挨拶が終わるや否や、婆さんはいきなり俺に抱きついてきた。背丈は俺の半分くらいしかないので、足に飛びついたという表現が正しい。


「……いい年こいてその癖、何とかならんのか?」

「ひょっひょ、これだけが楽しみじゃからのぅ」


 ったく。この老婆は性格も体格も十年前から少しも変わっていない。恐るべき行動力である。

 俺は婆さんの両肩を掴むと、無理やり引っ剥がした。


「つれないのぉ、最近の若いもんは。いたいけな老人をいじめて、何が楽しいのか」

「いじめてないし、何も楽しくないぞ」


 ひとしきり笑い終えてから、婆さんは見事な白髪を揺らして振り返った。


「セーラや。何を恥ずかしがっておる。早く来んか」

「……はい」


 不覚にも気づかなかった。家の前の通りには小さな黒塗りの馬車が停まっており、その前に十六、七歳くらいの女性が立っていたのだ。

 美しい女性だった。星降る夜空で染め上げたような漆黒の髪は艶やかに輝き、どこまでも澄んだ青色の瞳はさわやかな笑顔によく似合っている。透かし細工の刺繍が施された白色のブラウスに同色のフレアスカート。レースの入った長手袋と花飾りの付いた麦わら帽子を身に着けており、遠目には清楚なお嬢様のように映った。


「セ、セーラ。……どうしてここに?」

「ロロさま、お久しゅうございます」


 黒髪碧眼の女性――セーラは、静々と歩み寄ってくると、両手を重ねて丁寧にお辞儀した。腰まで届く癖のない髪がさらりと流れ落ちる。非常に滑らかな動作だ。

 その頭が上がった瞬間、きらりと何かが光った。


「うおっ!」


 俺は仰け反るようにして身をかわすと、同時に右手で光をつかんでいた。ある程度は予想していたとはいえ、かなり心臓にわるい。


「お見事ですわ、ロロさまっ!」


 両手をぽんと叩いて、無邪気に微笑むセーラ。

 俺の右手には鋭く研ぎ澄まされた刃物が握られていた。闇に溶け込むような漆黒のナイフ。毒は塗られてないようだが、間違いなく暗殺用だ。その柄の部分だけをつかめたのは、ほとんど奇跡に近い。


「ふむ。ペット探しばかりしとるわりには、腕のほうは鈍っておらんようじゃの」

「はい、お婆さま」

「……」


 婆さんとセーラはしきりに頷き合っている。何をのんきに喜んでいるんだ、こいつらは。

 手の中でナイフをくるくると回しながら、俺は苛立だしげに舌打ちした。


「おい、セーラ。いい加減にしろよな」

「……え?」


 怒りを押し殺した声に気づいたのだろう。セーラはびくんと身体を震わせて、不安そうに見つめ返してくる。


「どうしたのですか、ロロさま?」

「いい加減にしろと言ってるんだ。いきなりナイフなんか投げつけやがって。間違って当たりでもしたら、どうすんだよ!」


 俺の罵声に、セーラの表情が固まった。 

 数秒間の沈黙とともに、気まずい空気が漂う。

 やがて、大きく見開かれた瞳から大粒の涙が溢れ出した。


「……う、ううっ。お婆さま。ロロさまに怒られました」

「おお、泣くでないぞ、セーラ」


 人の家の玄関前で、老婆とその孫娘はしっかりと抱き合った。

 はぁ、今度はこのパターンか。


「わたくし、何かロロさまの気に障るようなことをしたのでしょうか?」


 セーラ、本気で言ってるのか?


「そんなことはないぞ、セーラや。あと先短い老婆とその孫娘をいじめる、人生中途半端な男がわるいのじゃ」


 人生中途半端っていうのは、正直、ちょっと傷ついた。

 道行く人たちがこの現場を見たならば、どう考えても悪役は俺である。こうやって俺を困らせて、無理難題を押しつけるのがこの二人の手なのだ。いや、セーラのほうは本気で泣いているのかもしれないが、それにしてもたちが悪い。

 無理やり無視していると、二人の泣き声が徐々に小さくなっていった。

 少し怒ったような顔で婆さんが見上げる。


「おい、少しは慰めの言葉をかけんか!」


 自分で言っていたら世話はない。婆さんはともかく、セーラは地面に座り込んでしまった。家の前の道は商店街へと通じる主要道路である。厄介事はなるべく早く片付けてしまいたいところだ。


「わるかったよ、セーラ。もう怒ってないから、早く立とうぜ、な?」

「……本当に、怒っていませんか?」

「ああ。当たり前だろ」

「では、わたくしのお願い、聞いていただけますか?」

「……」


 顔中の筋肉を引きつらせながら、俺はにっこりと笑った。





 俺が初めて婆さんとセーラに出会ったのは、今から十年ほど前のことである。

 家から十五分ほど歩いた路地裏の片隅に、ほとんど半壊しかかっているタバコ屋があり、正面の四角い窓口にしなびた婆さんが居眠りしていたのだ。

 当時十歳だった俺は、婆さんの裏の顔を知らなかった。親父に連れられてタバコ屋の地下に降りた時も、どこか知らない世界を探検しているようでわくわくしていたのである。

 親父と婆さんが難しい話をしている時、俺の無邪気な悪戯心がひょいと顔を出した。

 二人に気づかれないように、そっと部屋を抜け出したのだ。

 十分と経たないうちに迷子になってしまい、半泣き状態で歩いていた俺は、とある部屋で五、六歳くらいの小さな女の子に出会った。

 それがセーラだった。

 俺が彼女に心を奪われたとしても、それは一瞬のことだった。薄明かりに照らされて、ぞっとするほどきれいだった地下室の少女は、俺の姿を見るなりいきなり襲いかかってきたのである。右手には大振りナイフ。左手には小振りのナイフ。口元には冷たい微笑を浮かべながら……。

 この時の恐怖を正確に伝えることは今でも難しいだろう。俺が初めて死を意識したのは、まさにその時だった。

 無我夢中だったので詳しい状況は覚えていない。結果だけ報告すると、俺はセーラから二本のナイフを取り上げることに成功した。いくら暗殺の訓練を受けているとはいえ、年上の男の力にかなうはずもない。今だから威張れることだが。

 武器を失ったセーラはしばらくの間呆然としていたが、結局、泣き出してしまった。

 この瞬間、二人の戦いは終わったのである。

 俺は泣きじゃくるセーラの手を引きながら地下廊を歩き回り、ようやく元の部屋に戻ることができた。そして、親父に思いきり殴られた……。

 まったく、理不尽な思い出である。

 これで分かっただろう。この二人を見かけだけで判断してはいけない。古くから権力者たちに協力し、華やかな歴史の裏舞台を影で操ってきたナジュール一家。

 なぜ親父がこの組織とつながりがあるのかは知らないが、なるべく深く関わりたくない――いや、関わってはいけない相手なのだ。





「……それで、今日は何の用だ? わるいけど、長話をしてる暇はないぜ」


 努めて表情を隠しながら、俺はぶっきらぼうに言い放つ。


「分かっておるわい。喫茶店の仕事じゃろ?」

「何で知ってるんだよ」

「愚問じゃな。このわしを誰だと思っておる」


 リーブス探偵事務所は、俺の親父――サイオン・リーブスの仕事場である。息子の俺は商店街にあるガレットという名の喫茶店で料理人をしており、暇な時には助手として、親父の仕事を手伝っているのだ。

 別に秘密にしているわけではないのだが、善良な一般区民である俺のことを調べたところで、どのような利益があるのだろうか。

 少々警戒心を込めながら婆さんを見ていると、


「ロロ・リーブスよ。おぬしが料理人として独立する時には、このわしが力を貸してやってもよいぞ」


 冗談とも本気ともつかない口調で、婆さんが言った。


「まあ、それではわたくしもお手伝いしますわ」


 セーラの言う「お手伝い」とは、掃除か荷物運びくらいのものだろうが、婆さんが意図しているものは開店資金の提供である。

 ごめんこうむりたい。俺は他人に借りを作ることが大嫌いなのだ。相手が婆さんならなおさらである。


「せっかくだけど遠慮しておくよ。どうせ俺に借金させて、無理やりこき使おうって魂胆だろう?」

「そんなことせんわい」

「じゃあ、新しくできた店を、組織の連絡網の拠点にするのか?」

「……」


 図星だったのか、婆さんはわざとらしくため息をついた。


「人の善意が信じられんとは嘆かわしいのぉ。心配などせんでええ。死を間近に控えた老人は、いたって善良なものじゃよ」

「当分死にそうにないから、信用できんな」

「うっひょっひょ――っ!」


 ど、どこから声を出してるんだ、この婆さんは。

 心の底から呆れ返っていると、セーラがすっとそばに寄ってきた。


「ロロさま。わたくしはロロさまのこと、信じてますわ」


 真剣な眼差しのわりには、話がまったくかみ合っていない。

 俺は若干いらついた。


「婆さん、話ってのは何だよ。こう見えても俺は忙しいんだぜ。たいした用事じゃないなら先に出かけるからな」

「やれやれ、せっかちなやつじゃな」


 俺の怒鳴り声にも婆さんはまったく動じなかった。小鳥の囀りでも聞いているかのように目を閉じて、とんとんと肩を叩く。


「しかしまあ、お前さんが言うことももっともじゃ。詳しい話は夜にしようかの」


 その瞬間、俺の目がぎらりと光った。

 実は、今朝の朝食の席で、親父から頼みごとをされていたのである。今夜、事務所に依頼人が来るから、接客を頼むとのこと。接客というのは、依頼人の話を聞いて、その仕事を受けるかどうかまでを判断する、ということだ。


「わるいな、婆さん。夜には客がくるんだ。仕事の依頼だよ」

「だから、わしとセーラがお前さんに依頼するんじゃよ。……何じゃ、サイオンから何も聞いておらんのか?」

「……」


 俺はぽかんと口を開けると、抜けるような青空を見上げた。

 ――お、親父のやつ。

 自分が仕事を受けるのが嫌だから、俺に押しつけやがったな! だから、仕事の内容も依頼人の名前も言わなかったんだ。思い出した。親父はそういうやつだったんだ!


「よもや、居留守などという姑息な手段は使うまいな?」

「うっ」


 ちらりと頭の中をよぎった考えを指摘されて、俺は言葉を詰まらせた。


「……分かった。話だけは聞いてやるよ。引き受けるかどうかは別として」

「ひょっ、お前さんも素直になったもんじゃのう」


 余計なお世話だ。


「ロロさま。一緒にお仕事、頑張りましょうね」


 ……セーラ。人の話をちゃんと聞けよ。

 俺は仕事を引き受けるとはひと言も言ってないぞ。

 青色の瞳を潤ませて喜んでいるセーラに一抹の不安を感じながらも、俺はとりあえず二人と分かれて、仕事の準備に取りかかったのである。




(2)


 俺の心をあざ笑うような青空は、そのまま美しい星空に変わった。

 季節は晩夏から初秋へ移り変わっている。夜になるとかなり気温が下がるので、薄いラフなシャツを着ていた俺は、肌寒い秋風を感じながら家路についた。

 仕事中は特にたいした事件も起きなかった。客の入りもまあまあだったし、苦手にしているウェイトレスたち(マスターの三人娘である。生意気!)も、泊まりがけの旅行とやらで姿を見せなかった。いや、三人しかいないウェイトレスが全員出払ってしまう時点でどうかと思うが、苦労性のマスターが慣れない手つきで対応してくれたのである。

 これで夜の話さえなければ問題はないのだが……。

 家の庭から、小さな鈴を転がしたような虫の声が聞こえてくる。

 今夜は思わず見とれてしまうほど大きな満月だ。


「ただいまっと」


 ガラン、ゴロン。

 ……やれやれ、せっかくの雰囲気も台なしだな。

 玄関の扉には大きな金属製の呼び鈴がついていて、家を出入りするたびに耳障りな音を立てるのだ。南方の島国では“魔除けの鈴”と呼ばれ、珍重されている逸品らしいが、怪しいことこの上ない。いい加減、取り替えたいものである。


「うん? 家の中が、焦げ臭いような……」


 仕事から帰ってきた親父が、寝タバコで小火でも起こしたのだろうか。

 ……何となく嫌な予感。

 俺は急いで階段を駆け上り、事務所の扉を開けた。


「帰ったぞ!」


 ――ガシャン!

 夜の七時を回っているというのに、事務所の窓はすべて開け放たれており、焦げ臭い匂いを少しでも逃がそうとした努力がうかがえた。

 食器棚で仕切られた調理場を覗くと、そこには予想通り、割れた食器を前におろおろしているミリムに出くわした。

 軽くウェーブのかかった黄金色の髪と、大きな若葉色の瞳。くるぶしまで届く白いエプロンは、普段俺が使っているものだ。

 まあ、客観的に見ても、可愛らしい妹だと言えるだろう。現在、ノイエジール小学校の六回生で、十二歳。通称ミリィである。


「ただいま」

「……」


 いかん、これは泣き出しそうな気配である。

 とっさに危険を察知した俺は、優しい口調で話しかけた。


「料理、作ってたのか?」

「……」


 ミリムは脅えたように頷く。


「失敗、したのか?」

「……」


 一呼吸おいて、また頷く。


「怪我はなかったか?」


 若葉色の瞳に大粒の涙が溢れてくる。


「……ごめん……なさい」


 とぎれとぎれの声で呟くと、ミリムは俺の胸に飛び込んできた。

 はぁ、やっぱり泣いてしまった。

 昔から泣き虫なんだよな、こいつは。


「誰も怒っていないさ。ほら、失敗は成功の母っていうだろう? ……台所は燃えなかったし、少し焦げ臭いけど、たいしたことはないさ」

「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 悔しい気持ちも恥ずかしい気持ちも分かるのだが、何も泣くことはないだろう、泣くことは。もう小学校を卒業する年だというのに、ちょっと精神的な成長が遅いような気がする。親父の甘やかしすぎが原因だろうか。


「何ごとも挑戦することは大切さ。でも、今度は俺が家にいる時にしてくれよ。火事になったら危ないからな」

「……はい」


 俺はふわりとした黄金色の髪を撫でてから、店で作った料理を差し出した。


「さあ、食べようぜ。わるいけど、お茶の用意をしてくれよな」

「うん」


 ポプラン茶の入れ方はいたって簡単である。ポットの中にお茶の葉と水を入れて、三十秒ほどかき混ぜるだけ。本当はお湯を入れたほうが香りがよいのだが、何ごとも節約が大切である。大量のお茶の葉が混じった渋いポプラン茶は、何故か十分後に出てきた。

 少々気まずい夕食になってしまったが、何とかミリムも元気を取り戻したようだ。

 俺が持ち帰った料理は、胡桃入りのパン、ポテトとキノコのグラタン、きざみパセリを浮かべたオニオンスープ、そして秋野菜のサラダである。

 少々冷めてしまったものの、味はなかなかだし、パンケーキも用意している。

 五年前――家族が三人になって間もない頃。

 小さな妹の扱いに困っていた俺は、ミリムが泣くたびにパンケーキを作っていた。馬鹿のひとつ覚えもいいところだが、これを食べるとすぐに泣き止んだものだ。ミリムが泣く原因のほとんどは、俺と親父の喧嘩にあったため、子供を慰める苦労に耐えかねた俺は、少しずつ親父と争う回数を減らしていった。家の雰囲気も変わるはずである。


「……あのね、ロロ兄さま」


 冷めたパンケーキに蜂蜜を垂らしながら、ミリムがぽつりと呟く。


「ん?」

「わたし……お料理、覚えたいの」


 一足先に食事を終えた俺は、のんびりとポプラン茶をすすっていた。


「どうしたんだ、急に?」


 ミリムは照れくさそうに微笑んで、少しの間黙り込む。


「だって、もうすぐロロ兄さまのお誕生日だから」

「うん? ああ、そうだったな」


 気がつけば、俺の誕生日(二十歳である)まで、あと十日に迫っていた。

 子供の頃は自分の誕生日を指折り数えて楽しみにしていたものだが、ここ数年は家族の記念日としてお祝いをしている。俺の誕生日は、すなわちミリムがこの家に来た日でもあるのだ。


「だから、今年は……ロロ兄さまのお誕生日には、わたしがお料理を作りたいの」


 ――ぐっ。

 不覚にも涙ぐみそうになった。


「そうか。すまないな」

「でも、わたし……お料理、下手っぴだから」

「いきなり難しいことをしたって駄目さ。……そうだな。ミリィには一日でマスターできる簡単料理を教えてやるよ。しかも、かなり美味しいやつ」

「本当に? 今日から?」

「今日はお客さんがくるから、明日から、な」

「うん!」


 大きな瞳をいっぱいに広げて、ミリムはテーブルの上に乗り出してくる。

 なぜか父親じみた気分を味わいながら、俺は年の離れた妹の頭を軽く撫でてやった。




(3)



 兄妹二人で皿洗いを済ませると、ミリムは「本を読んできます」と言って、自分の部屋に戻っていった。もうすぐ来客があることを知っているからだが、なかなか気がつく子供である。

 俺は来客用のソファーに腰をかけて、これからのことを考えていた。

 親父が俺に押しつけるくらいだから、たいした仕事ではないのだろう。順当にいけばペット探しなのだろうが、わざわざ婆さんとセーラが様子を見にきたというのが気になる。ああ見えても、婆さんたちの裏の職業は暗殺者なのだ。決して気を抜くことはできない。


「とにかく、危ないことはしないからな」


 あまり様にならない台詞を口にしてしまった。

 親父の影響だろうか。昔は「何か大きなことをしてやろう」と息巻いていた俺も、最近では小さな仕事の達成に素朴な喜びを感じるようになっていた。

 迷子になったペットを見つけ出し、無事に依頼人のもとに届ける。その時に見せてくれる依頼人の表情が、何よりも達成感を与えてくれるのだ。

 依頼人が同世代の女性だった時はなおさら嬉しい。

 意外にも、探偵という職業に興味を持ってくれる女性は多いのである。

 一方で、このまま仕事を続けていけば、深刻な財政難に陥る危険性もある。ペット探しくらいの報酬ではゆとりのある生活を送れるはずもないし、最近はましになってきたとはいえ、ぐうたら親父には浪費癖がある。おもに酒と女と博打が原因であるが、家の中ではそう簡単にぶん殴るわけにもいかない。


「……まったく、親父のやつめ」


 両腕を組んで呟くと、ふいに左肩を叩かれた。

 反射的に振り向くと、つんと頬を押される感触。


「ふふ~ん、引っかかった」


 俺の頬に指を押しつけていたのは、長い黒髪を後で束ねた美しい女性だった。


「こんばんは、ロロ君。考えごとをしている君も、すてきよ」

「……セーラ。お前、どこから入ってきたんだ?」

「もちろん、窓からよ」


 南の窓は開け放たれており、夜風を受けてカーテンがそよそよと揺れていた。

 さすがは暗殺一家の娘。物音も立てず、気配すら感じなかった。

 セーラはひらりと身をひるがえすと、俺の向かいのソファーに腰をかけた。体重を感じさせない軽やかな動きだ。


「たまには玄関から入ってきたらどうだ」

「嫌よ。あそこについている鈴、耳障りなんだもん」


 へぇ、魔除けの効果はあったわけだ。

 ――などと危険なことは言わずに、俺はさりげなくセーラの姿を観察した。

 朝方の清楚な服装とは打って変わって、今夜のセーラは大胆な黒のボディスーツを身に着けていた。どういう素材で作られているのか、光をまったく反射しない。身体の曲線を見事に現しているその服は、どんなに激しく動いても衣擦れの音さえせず、同じ色の靴もまったく足音を立てなかった。


「しっかし、相変わらず挑発的な格好だな。寒くないのか?」

「あら。わたしはけっこう気に入ってるのよ。寒そうに見えるけど、実は防寒性が高いの。それに、動きやすいし、滑りにくいし、丈夫だし。――そうだ、ロロ君にもお揃いのやつ、一着作ってあげましょうか?」

「いらん。男がそんな恥ずかしい格好できるか」

「そうかしら。パパも兄さんも、みんな着てるのよ」


 変態一家だな――と、俺は心の中で決めつけた。

 今朝会ったセーラとはあまりにも様子が違うので、驚いた人もいるだろう。

 昼間は清楚なお嬢さま風の彼女は、夜になると魅惑の暗殺者へと変貌する。

 嘘のような本当の話である。

 初めはこのボディスーツを着ると性格が変わるのかと思った。本来、人は自分の理性や本能に従うものだが、その外側を取り巻く社会的な観念を借りることによって、自分では信じられないような行動をとることができるのだ。

 例えば、普段気弱な人でも、警察の制服や軍服を着ることにより、正義感、攻撃性を高めることができるという。……まあ、多少、ではあるが。

 セーラは思い込みの激しい性格だから、もろに影響力を受けるはずだ。

 仕事用のボディスーツを身につけることで、自分を暗殺者として認識させ、性格から言葉遣いまで一変させる。それが“夜の”セーラではないだろうか?

 俺の推測は外れた。


「……ふふ。服を変えただけで、性格が変わるわけがないでしょう」


 からかうような微笑を浮かべながらセーラは言ったものだ。


「わたしは、わたし自身に強力な自己暗示をかけてるの。仕事の時には暗殺者のセーラになぁれ、ってね。暗示のかけ方は、ひと言では説明できないわね。子供の頃からの訓練と、複雑な手順。薬も少し使うわ」


 どちらが本当のセーラなのかと聞くと、


「分からなくなっちゃった」


 との答え。

 ようするに、どちらもセーラということなのだろう。

 まあ、他人のことを深く詮索するのは誉められたことではない。それ以上は聞かないことにした。少しくらい謎があったほうが、女性は魅力的なのだ。

 いや、セーラに限らず、である。

 さて、本題に戻ろう。

 闇の世界に名を馳せるナジュール一家が、うちのような零細探偵事務所に何の用事があるというのか。突然侵入してきた客人のためにお茶を用意すると、俺はさっそく要件を促した。


「それで、仕事ってのは何だ?」


 セーラは青色の瞳を逸らした。

 何かを言い出そうとして、再び口を閉ざす。


「ペットでも逃げたのか?」


 こちらから聞くと、セーラは首を振った。


「うちにペットなんていないわ。ナイフを投げつけたくなるから飼うなって、パパに言われてるの。ひどいと思わない?」

「婆さんは黒猫を飼ってるじゃないか」

「チータリーナのこと? あの子は特別よ。だって、暗殺猫なんだもん」

「あんさつ……ねこぉ?」


 耳慣れぬ言葉である。


「チータリーナは猫だから、複雑な命令は理解できないけれど、標的を目に見える形で示してやれば、ほぼ確実に仕留めてくるわ。爪に即効性の毒を塗って軽く引っかくの。相手も動物だから油断するのよね」

「……」


 背筋が寒くなった。俺は婆さんの黒猫のことを知っているし、悪戯したこともあるのだ。耳を触ったり尻尾を引っ張ったりして遊んでいたのだが、猫は許してくれるだろうか。めちゃくちゃ嫌がってたからな。もう近づかないほうがいいかもしれない。

 セーラが急に口調を変えて聞いてきた。


「そうだ。ミリィちゃんは元気にしてる?」

「……ああ。相変わらず、泣き虫だけどな」

「そう。わたし、あの子に嫌われてるのよね」

「そんなことはないだろう。ミリィは人を嫌いになったりしないぞ」

「わたしには分かるわ。あの子、ロロ君を取られちゃうと思ってるのよ」

「誰に?」

「その……わたしに、よ」


 そこまで言うと、セーラは口を閉ざした。

 今日のセーラはどうも様子がおかしい。がらにもなく頬を上気させて、なぜか視線を合わせようともしない。これではまるで“昼の”セーラだ。

 幾分警戒しつつ、俺は話を続けた。


「いまいち要点がつかめんのだが、いったい、何を言いたいんだ?」

「……サイオンおじさまは、ミリィちゃんに優しい?」


 話を逸らしやがった。ますます怪しい。


「親馬鹿も、いいとこだよ」

 投げやりに答えると、


「――そう。娘には優しいのね」


 セーラはソファーから立ち上がった。そのままゆっくりと近づいてくる。歩調は規則正しく、乱れもない。絡みつくような視線は俺を捕らえたまま離さない。その姿は、獲物を狙う猫科の動物を連想させた。

 俺の頭の中で警戒信号が激しく鳴り響いた。

 こいつはまずいぞ。何がまずいのかは分からないが、俺の直感がそう告げている。


「……ねぇ」


 しなやかな両手が俺の肩にかけられた。

 おい、何をする気だ?

 思わず後ずさりしかけたが、ソファーに座っているので動けない。


「ロロ君。実は、お願いがあるの」 

「な、何だよ」

「わたしの、婚約者になってくれない?」


 一瞬、言葉の意味を理解することができなかった。

 こんやく? こんやくって、婚約のことか?

 驚きで目を丸くしていると、

 ――バタン!

 事務所の扉が開かれた。

 呼び鈴の音は鳴っていない。ということは親父が帰ってきたわけではない。柱に手をつきながらじっとこちらを睨んでいるのは――何と、ミリムだった。

 こいつ、覗き見してやがったな。

 いつもは笑っているか泣いているかのどちらかなのだが、こんな剣呑な表情のミリムは見たこともない。

 つかつかと寄ってくると、俺とセーラの間に割り込んだ。


「……だめっ!」


 セーラはうろたえた。


「な、何よ! いいじゃない。別に結婚しろと言ってるわけじゃないのよ。婚約よ。こ、ん、や、く! ……ね、いいでしょう?」

「だめです!」


 ミリムは両手を広げてセーラの前に立ちふさがる。

 人見知りの激しいミリムがこんな行動に出るとは思いもしなかった。子供というのは自分の感情をストレートに表現するものだが……こいつはもう十二歳だぞ。将来のことを考えると、少々不安になる。

 ミリムの剣幕に気押されつつも、セーラは口元に挑発的な微笑を浮かべた。


「ねぇ、ミリィちゃん。あなたもロロ君の妹なら、お兄さんの幸せを一番に考えてあげなくちゃ」

「……幸せ?」


 怪訝そうに首を傾げるミリム。


「そうよ。あなたとロロ君は年が離れているし、あなたがどんなに頑張っても、兄妹同士で結婚はできないの。王国の法律で決められているのよ」

「……!」

「あなたのわがままのせいで、お兄さんが一生独身になってもいいの? 寂しい人生よ」


 勝手なことを言いやがる。失礼なやつだ。

 俺とセーラが結婚すると、幸せになれるのか?

 という質問は、あえてしなかった。これ以上波を荒立てたくはない。

 二人はしばらくの間睨み合っていたが、


「……うっ……ぁぅ」


 ミリムは負けた。

 ぽろぽろと大粒の涙を流しながら、俺の胸に飛び込んでくる。

 またかよ。かんべんしてくれ。


「ロロ……兄さま……う……ひっく」


 泣きたいのはこっちのほうだ。ったく、簡単に泣かされるんじゃない!

 セーラはミリムの背中に向かって舌を出している。お前は鬼か。


「おい、セーラ。今日は仕事の話じゃなかったのか? 俺は忙しいんだぜ。プロポーズならまたの機会にしてくれ」

「……仕事だもん」

「ほう。仕事、ね」


 俺はため息をつきながら、がりがりと頭をかいた。


「なあ、セーラ。お前も表向きはナジェル男爵家のお嬢さまだ。縁談話のひとつやふたつ、持ち上がってもおかしくはない」


 諭すように問いかけると、セーラは急に黙り込んだ。


「もし、そんな話を断るために俺を使おうっていう魂胆なら、お門違いもいいところだぞ。俺は貴族じゃないし、第一、もめごとは嫌いだ」


 適当に推測したのだが、それほど的外れではなかったらしい。半眼になった俺の前で、セーラはパタパタと両手を振った。


「あは、やあねぇ。相変わらず勘が鋭いんだから」


 こういう仕草を見ると、こいつが貴族の令嬢だということをつい忘れてしまう 

 裏の世界で暗躍するナジュール一家だが、その表向きの顔は、ガーランド王国でも一、二を争う貧乏貴族として有名なナジェル男爵家なのだ。名前はよく似ているが、認識のされ方はまったく違っている。

 婆さんは隠居して近所のタバコ屋に住み、セーラとその家族はアスタリア区にある高級住宅街に居を構えている。爵位を授かるくらいだから、昔は何かしらの功績を立てたのだろうが、今となっては僅かながらの領地を守るだけの貧乏貴族。その暮らしぶりは一般区民とそう変わらないという。


「実は、サイレス伯爵家から正式な婚約の申し出があったの」

「サイレス家……名家だな」

「ええ。建国以来、二百年もの歴史を積み重ねてきた伝統ある家柄よ。王家の信頼も厚いわ」

「そりゃ、王国にとって一番重要な穀倉地帯を拝領しているくらいだからな」

「あら、詳しいのね」


 ガーランド王国の西方にはラマール平原という肥沃な大地が広がっている。サイレス伯爵家の領地は平原の過半を占めており、過去数度に渡る大戦の中、一度たりとも敵国の侵入を許さなかったらしい。騎士道精神を重んじる、お堅い家柄だそうだ。


「確か、サイレス伯には二人の息子がいたな。結婚相手は長男のほうか?」

「まさか。次男のアルバート・サイレスよ。去年、王宮の舞踏会で知り合ったの」

「ほう。大貴族ともなれば、次男でも新しく家を興せるからな。玉の輿じゃないか」

「……冗談じゃないわ」


 セーラは指を噛んだ。


「あのキザ屋郎、わたしが暗殺一家の娘と知りながら近づいてきたのよ。自分の兄を謀殺させて、伯爵家を継ごうとしているの。お婆ちゃんから聞いたもの」


 珍しく怒りを露にしている。


「パパはもっと悪辣よ。わたしが子供を産んだら、すぐにアルバートを始末するんですって。合法的にサイレス家を乗っ取るつもりなんだわ」


 おやおや。俺のような平民には縁のない、権力闘争と陰謀の世界だ。


「いやだねぇ」


 他人事のように呟くと、セーラはすがるような目つきになった。


「わたしだって嫌よ。だからお願い。仮の身分や経歴はこちらで用意するから、少しの間だけわたしの婚約者になって。……もちろん報酬は支払うし、ロロ君には絶対迷惑をかけないようにするから」

「……セーラ」


 俺は信用しなかった。こんな依頼を持ちこんでくること自体迷惑なのに、下手をすれば、サイレス家とナジュール一家の両方を敵に回してしまうではないか。 


「お前の家族の中で、俺のことを知っているのは、婆さんだけか?」

「そうよ」

「一歩間違えると、俺は消されるんじゃないのか? お前の親父さんはサイレス家を乗っ取ろうとしているんだろう? 婚約者になった俺が現れると、邪魔になるはずだ」

「……だ、大丈夫。わたしが守ってあげるわ」


 ぱたぱたと両手を振る。これは困った時のセーラの癖なのだ。

 俺の答えは決まった。


「わるいけど、この依頼は断らせてもらうぜ。俺はまだ死にたくはないからな」

「……」


 し~んと、部屋の中が静まり返った。

 俯き加減のセーラを覗き込むと、表情がない。


「どうしても、だめ?」

「あ、ああ」


 セーラは袖口から二本のナイフを出すと、その刃をカチンと合わせた。


「い、今のは何の合図だ?」

「……」


 答えの代わりに、頭上からかたかたという音が聞こえてきた。

 ネズミではない。何者かが天井裏に潜んでいるようだ。

 俺は見た。セーラの後方にある出窓。何もないはずの暗闇に、ぽっかりと人の手が浮かんでいるのを。色白の肌。細い指先。黒色のマネキュア。間違いなく女性の手だ。

 そういえば、セーラには直属の女性暗殺部隊がついていると、昔聞いたことがある。


「どうしても、だめ?」


 先ほどと同じ口調でセーラが問いかけてくる。

 少なくとも二人の人間が、この家に潜んでいることになる。俺は落ち着きなく周囲を見渡していたが……やがて、がっくりと両肩を落とした。

 そうさ。初めから分かっていたさ。お前と婆さんは、いつも俺が断れない状況を準備してから依頼を持ちかけてくるんだ。


「……報酬は?」

「現金で三万ライゼ」 

「俺と家族の安全は?」

「わたしとお婆ちゃんが保証するわ」

「……分かった」


 セーラはナイフを袖口に戻すと、にっこりと笑った。


「交渉成立! さすがはロロ君ね。そうこなくっちゃ」


 ……こ、交渉? 脅迫の間違いじゃないのか?

 落ち着け。ここにはミリムもいるんだ。危険を犯すわけにはいかない。

 天井から人の気配が消えた。窓に浮かんでいた手も消え……代わりに大きな鞄が壁に立てかけられていた。セーラの部下も大変だ。あんな重そうな鞄を抱えながら、家の外壁に張りついていたのか。


「その鞄の中に変装用の服と計画書が入っているわ。ひと晩で覚えてね」

「……ひと晩?」

「じゃあ、明日の午後二時。屋敷で待っているから」


 おい、ちょっと待て。明日、何があるんだよ。

 問いかける間もなく、セーラはひらりと身を翻した。窓際で振りかえると、片目を閉じてみせる。


「ロロ君。期待してるわよ」


 窓から飛び降りた。

 な、何て変わり身の早い女だ。

 仕事を終えると一刻も早くその場を立ち去る――そんな暗殺者としての習性が身に染みついているのだろうか。ろくな打ち合わせもしないで、どうなっても知らねぇからな。

 重いため息をついてから、俺はミリムを見つめた。


「おい、ミリィ。怖いお姉さんは行っちまったぞ。大丈夫か?」

「……すぅ」


 ね、眠ってやがる。

 さっきまで泣いてたくせに、どういう神経してるんだ? いくら俺にもたれかかっているとはいえ、立ったまま寝るか、普通。

 時計の針は午後九時を指していた。ミリムにとっては少々辛い時間帯だったかもしれない。夜更かしするなよって言ったら、絶対にしないからなぁ。

 俺はミリムをそっと抱きかかえた。

 お、少しは重くなったな。


「ミリィ。明日の朝食が、兄ちゃんの作ってやれる最後の食事かもしれないぞ」

「……ぅ……ん」


 悩んでいる自分が馬鹿らしくなってくるほど、幸せそうな寝顔だ。

 セーラの言葉を信じるわけではないが、とりあえず死ぬことはないだろう。

 悪運だけは強いからな、俺は。


「まぁ、なるようになれだ」


 お気楽な結論に落ち着いてしまうのは、果たして俺の長所なのだろうか。

 う~ん。いつか痛い目に合うような気がする。




(4)



 ガタガタと、黒馬車の車輪が石畳の道を渡っていく。

 乗り心地は決してよくはないが、歩くよりは速い。

 王都の中心部――アスタリア区に入ると、さすがに道の舗装も万全で、雑草の生える隙間もないくらいびっしりと石畳が敷き詰められていた。道の両脇には立派な歩道まである。形のよいレンガを積み上げた家々は、さすがに上流階級らしい重厚な造りだ。

 俺は今、暑苦しい礼服を身につけながら、ナジェル男爵邸へと向かっていた。

 おさまりのわるい黒髪は整髪料で固め、鼻の上には伊達眼鏡をかけている。肩には黒色の外套。頭には黒革製の帽子。両手には白布の手袋。……まるで喜劇役者のような格好だ。

 セーラの趣味なのだろうが、俺は恥ずかしくて顔を上げることもできなかった。


「貴族の旦那ぁ、あと十分ほどで着きますぜ」


 馬車の手綱を操っていた御者が、振り返って人懐っこい笑顔を浮かべた。ただの愛想笑いなのだろうが、「どこの田舎貴族だ、この坊ちゃんは」と、暗に言い含められているような気がする。気のせいだろうか。


「時間がない。急いでくれたまえ」


 ポケットから年代物の懐中時計を取り出すと、俺はしかめっ面のまま答えた。

 時間はあるのだが、早く馬車を降りたい。こんな姿を知り合いに見られでもしたら、腹を抱えて笑われるに決まってる。今回の仕事の内容は、誰にも話していないのだ。


「分かりやした、旦那ぁ。……それいっ、全速力だ!」


 ――ピシリ。

 鞭が唸ったが、馬は全く反応を示さない。

 ガタガタと景気のわるい音を立てながら、黒馬車はのろのろと進んでいく。

 あぁ。雲ひとつない青空が恨めしかった。





 整理しておこう。

 俺の扮する人物は、マリクト・フレーベル子爵。二十二歳。

 ゼニオール地方を治める田舎貴族である。

 ガーランド王国の遥か北東に位置する高原地帯、そこがゼニオール地方だ。“大陸の壁”アジスマン山脈の西の麓――ようするに、街に住む人たちには馴染みのない土地である。俺だって聞いたこともない。

 フレーベル子爵家はガーランド王国の建国時代に活躍した騎士の家系ではなく、単なる地方の一豪族にすぎなかった(そうだ)。当時、新進気鋭のガーランド軍に対して、おもに物資補給支援という形で協力し、自分の土地の所有権を確保した(らしい)。 

 実際、地方の豪族から貴族に鞍替えした例はいくらでもある。その他の貴族だって長い歴史の間に分家したり、消滅したり、復興したり……と、様々な変化を見せている。

 貴族たちの引継ぎ制度は、特に豪族上がりはけっこういい加減で、王国も状況把握に苦しんでいるのが実情だ。フレーベル子爵が実在しているかどうかは知らないが、少なくとも短期間で見破られることはないだろう。

 ――と、薄っぺらな計画書には書かれていた。

 さて、計画の概要はこうだ。

 本日、物好きにも俺の依頼人であるセーラに婚約を申し込んだ貴族――アルバート・サイレスが、ナジェル男爵家を訪問することになっている。ナジェル家はセーラの実家であり、つまりアルバートの目的は、セーラの父親に挨拶をすることである。そこで、セーラが自分の婚約者であるマリクト・フレーベル子爵――変装した俺を紹介し、アルバートを諦めさせる。あとは野となれ山となれ……。

 ――って、おいっ!

 こんなことで本当に上手くいくのか?

 大雑把で、穴だらけの計画じゃねぇか!

 正直に言えば、この計画が失敗してくれたほうが、俺にとっては都合がいい。妖怪じみた婆さんや二重人格の暗殺娘につきまとわれなくなるからだ。

 セーラは確かに美人ではあるが、両人格ともにはた迷惑な性格をしている。婆さんのほうは……五、六十年前は美人だったらしいが、今は見る影もなかった。


「旦那ぁ、着きやしたぜ」


 意識の片隅で御者の声を聞いて、俺はゆっくりと顔を上げた。

 人気のない大きな通りだ。静かで日当たりはよく、何やら上品な雰囲気すら漂っていた。


「ほう、ここがセーラの屋敷か」


 俺は帽子の鍔を持ち上げて、壁面に蔦が生い茂る古い屋敷を見上げた。

 周囲を石壁に囲まれた、なかなかに風格のある建物である。正面には重厚な鉄製の門。頑強そうな石垣に囲まれた敷地内には見事な薔薇園があり、その奥に玄関が見えた。本屋敷は赤茶けたレンガ造りの三階建て。隣には馬小屋があり、二台の馬車が繋がれていた。世間的には貧乏貴族で知られているナジェル男爵家ではあったが、少なくとも外見上は立派なところに住んでいるようだ。


「へへ、旦那。お代のほうは?」

「ああ、幾らだ」

「四百二十ライゼになりやす」

「……ほれ」


 俺は財布の中からきっかり四百二十ライゼ支払うと、馬車を飛び降りて、さっさと門の中に入っていく。チップを期待していた御者は心底悲しそうな顔をしたが、俺の知ったことではない。今回、必要経費は報酬の中に含まれていないのだ。 


「さてと。さっさと話をつけて、とっとと帰るとするか」


 呼び鈴を鳴らし、待つこと数秒。

 ギギィと重苦しい音を立てながら、両開きの扉が開いた。


「お待たせいたしました」


 俺を迎えてくれたのは、メイドらしき女性である。年は二十歳くらいだろうか。短い銀色の髪と水色の瞳を持つ美しい女性だ。濃い青色の服の上に白いエプロンを身につけ、冷やかな眼差しを向けている。好みにもよるだろうが、外見だけ見ればセーラといい勝負だろう。 


「マリクト・フレーベルさまでいらっしゃいますね。お待ちしておりました」


 透き通った声で確認してくる。俺は鷹揚に頷いた。


「そうだ。君の名前は?」

「――旦那さまとセーラさまが二階でお待ちです」


 完璧な事務口調で俺の質問を無視。

 銀髪の女性は俺から帽子と外套を受け取ると、くるりと振り返った。

 ……冷たい。愛想笑いもしてくれない。

 すらりとした後ろ姿を視界に入れながら、俺はゆっくりと階段を上がっていく。

 外観とは違い、屋敷の中にはまがまがしい雰囲気が漂っていた。

 まず、色合いが暗い。暗茶色の絨毯と灰色の壁。窓は極端に少なく、自然光がまったく入ってこない。全体的に息苦しさがつきまとってくるのだ。やはり、暗殺などという慇懃な商売をしていると、周囲の様相にも影響を及ぼすのだろうか。

 廊下の突き当たりにある扉の前で立ち止まると、銀髪の女性は二回ノックした。


「マリクト・フレーベルさまをお連れいたしました」


 白い手がノブに触れる前に、扉が開かれる。

 部屋の中から飛び出してきたのは、艶やかな黒髪に青の瞳を持つ美女、セーラだ。木綿の白いブラウスの上に、大きく胸の開いた薄桃色のエプロンドレスという格好だった。


「お待ちしておりましたわ。ロロ――いえ、マリクトさま」

「……」


 断言しよう。この計画は失敗する。


「セーラ・ナジェル。本日はお招きに預かりまして光栄に存じます」


 俺は右手を胸に当てて、型どおりの挨拶をした。

 それほど大きな部屋ではなかった。人が五、六人も入れば窮屈になるだろう。部屋の中央には長方形のテーブルがあり、その周囲を取り囲むように黒革のソファーが配置されている。ソファーには三人の人間が座っていた。


「ようこそ、フレーベル子爵。歓迎いたしますよ」


 最初に立ち上がってにこやかな笑顔を浮かべたのは、灰色の髪に整った口ひげを生やした中年の男である。おお、ナイスミドルだ。


「マリクトさま、こちらが父のルデハント・ナジェルです」 

「はじめまして」


 このナイスミドルがセーラの親父さんか。とても暗殺者には見えないが、さすがに立ち姿のバランスがいい。油断は禁物だな。


「それから……祖母の、リリアンです」

「ほっほっほ、セーラも隅におけん。なかなかの好男子じゃな」

「……っ!」


 あ、顎がはずれるかと思った。

 リリアン――それが婆さんの名前なのかっ!

 何もされていないのに打ちのめされたような気がする。しかも婆さん、ビーズを刺しまくった紫色のドレスはやめてくれ!

 呆然としながら立ち尽くしていると、最後に金髪の若い男が立ち上がった。


「僕の名は、アルバート・サイレスだ。断っておくが、僕はあなたを歓迎などしない。今日から僕とあなたはライバルなのだから。由緒正しきサイレス家の力を見せてやる」

「……よろしく」


 俺は愛想よく微笑んだ。

 こいつが例のアルバート君か。さらりとした金髪に茶色の瞳。なかなか整った顔立ちをしている。銀糸をあしらった青の礼服と絹のスカーフを嫌味にならない程度には着こなしていた。年は俺よりちょい下くらいか。偉そうなしゃべり方はまさに貴族の坊ちゃんだ。

 俺は男爵に促されてソファーに腰をかけた。正面にアルバートと男爵、側面に婆さんという構図である。セーラ自身は俺の隣に寄り添うように座り、それを見たアルバートは全身に殺気を漲らせた。おいおい、かんべんしてくれ。


「皆さんお揃いになったようですね。……では、シリア。あれを」

「かしこまりました」


 セーラに向かって頭を下げたのは、先ほど案内してくれた銀髪の女性である。

 そうか、シリアという名前なのか。

 会話もないままに時が流れ、再び扉が開かれた。今度は二人のメイドが入ってくる。一人はシリアで、もう一人は癖のある栗色の髪と同色の瞳の女性だった。こちらは美人というよりも、可愛らしい顔つきをしている。

 何を運んできたのかと思えば、ティーセットとお茶菓子だった。四人分のティーカップを台車の上に並べると、豊かな芳香を放つ紅茶を注いでいく。

 紅茶に続いてテーブルの中央に置かれた大皿には、不恰好なクッキーが大量に乗せられていた。歪な形をしている。この地方に生息している、どんな動物、植物にも似ていない。


「お父さま。今日は、わたくしがクッキーを作りましたの。改心の出来ですのよ」

「……そ、そうか。それで今朝から調理場に閉じこもっていたのか」 


 男爵は「はっはっは」と、乾いた笑い声を上げた。

 俺はセーラの料理の腕を知っている。

 はっきり言ってしまえば、壊滅的だ。

 婆さんは「最近、歯が弱くてのぉ」と呟いて、お茶だけに口をつけた。娘の手作りクッキーを小皿に乗せかえた男爵は――そのままクッキーを見つめている。


「おお、セーラさんの手作り料理ですか。これは嬉しいですね」


 満面の笑みで喜びを表現したのは、おそらく何も知らないであろうアルバートだ。嬉々とした表情でクッキーを口に入れ、噛み砕いた。


「……む」


 噛み砕く速度が急激に鈍っていく。アルバートは震える手をティーカップに伸ばすと、お茶を一気に飲み干した。


「すまないが、君。お代わりをいただけるだろうか?」


 シリアが慣れた手つきでお茶を注ぐ。

 おい、一口サイズのクッキー一枚で、お茶が一杯必要なのかよ。

 二人のメイドを見ると、シリアはついと視線を逸らし、名前も知らないもう一人のメイドは微笑み返してくれた。こちらは優しそうだ。


「――さて、本題に入りましょう。今日、皆さまにお集まりいただいたのは、我が娘、セーラの婚約者を決定するためであります」


 男爵が言い終えると、すかさずアルバートが口を挟んだ。


「それで、どのような方法で決めるのですか?」

「そうですな。わたしとしては、なるべく穏便にことを運びたいと思っております。決闘や賭け事などで物事を決めてしまえば、お互いに遺恨が残りますから」

「なるほど」


 テンポよく会話が進んでいく。男爵とアルバートは事前に打ち合わせでもしているのだろうか。


「お父さま、結婚するのはわたくしです。わたくしが決めてはいけませんの?」


 いいぞ、セーラ。それなら決着は簡単につく。


「……セーラ。厳しいことを言うようだが、貴族同士の結びつきに個人的な感情の入り込む余地はない。お互いの家の将来がかかっているからだ。それぞれの領地には多くの領民が住み、誰もが安定した暮らしを望んでいる。我々には、その願いを果たす義務があるのだよ」

「……」


 貴族らしい考え方である。だが、間違ってはいないのだろう。特に弱小貴族であるナジェル男爵家にとっては、より強大な権力を持つ家の後援が必要不可欠である。高貴な血などという実にあやふやな関係で結ばれている貴族たちは、お互いに血を交し合いながら生きのびていくしかないのだ。


「その点はご心配なく。僕は次男ですが、父より領土の一部をいただき、新しく家を興すことを許されています。どこぞの田舎貴族には負けません」


 アルバートは俺に対して露骨に敵対心を燃やしていた。

 貴族というのはプライドの塊のような人種である。あからさまに侮辱を受けて平然としているようでは、逆に怪しまれるだろう。俺は反撃した。


「田舎貴族と申されますが、我がフレーベル家は、先祖代々ゼニオール地方を治めてきた由緒正しき家柄です。アルバート殿は新しい家を興されるとおっしゃった。サイレス家から離れた新興貴族が、他家に対しても安定した生活を保証できると、果たして言いきれますかな?」

「……な、何だと!」


 屈辱に身を振るわせるアルバート。そりゃ怒るわな。

 険悪な雰囲気が漂う中、セーラはクッキーを三つ小皿に取って、俺の前に差し出した。

 こ、こら、何てことするんだ!


「どうやら、簡単には決着がつきそうにないのう」


 話し合いは早くも泥沼の様相を呈していた。

 リリアン――じゃない、しなびた妖怪婆さんが吐息混じりに呟く。


「やはり、あの方法しかないようじゃな」


 にやり。

 皺だらけの顔に浮かんだ笑みが、いつもより不気味に見えた。 




(5)



 テーブルの上に置かれたのは、一枚の古い羊皮紙。年代物である。保存状態にもよるだろうが、作られてから数十年は経っているだろう。大きさは大人の手の平くらいで、色あせて黄色に変色している。


「ひょっひょ。歴史を積み重ねてきた家には、何かしらの秘密が隠されておるものじゃて」


 婆さんは楽しそうに笑うと、懐から陶器製の小瓶を取り出した。


「あら、何ですの?」


 セーラが目を輝かせながら覗き込む。まるで子供だな。

 婆さんは小瓶の蓋を開けると、中から錆びついた鍵を取り出した。


「代々ナジェル家では、男子が成人するおり、試練を与えるしきたりがあっての」

「ほう。試練、ですか?」


 アルバートは真剣な表情だ。


「そうじゃ。お前さんの家にも似たようなものがあるじゃろう?」

「……はい。我がサイレス家は騎士の家系。“成人の儀”は厳しいものでした」


 成人の儀、ねぇ。人が大人になるのに、なぜ試練が必要なのだろうか。貴族の考えることはさっぱり分からん。


「我が領地ラマール平原には広大な森があります。毎年王家の方をお招きして狩猟祭を執り行っている聖なる森です。七日分の食料を持って森に入り、七日間生き延びる――これが僕の家に伝わる儀式でした。当然のことながら、森の中には鹿や野ウサギだけでなく、熊や獅子といった危険な猛獣も生息しています」

「まあ怖い。襲われましたの?」


 脅えたようにセーラが聞くと、


「いえ。幸い、森の奥深くまでは入りませんでしたので……」


 アルバートは首を振り、「七日間、眠れぬ夜が続きました」と、沈痛そうに言葉を結んだ。

 直訳すると、「森の入り口付近で一週間キャンプしていました」ということになる。

 いくら試練とはいえ、大事な息子が死んでしまっては元も子もない。

 まあ、妥当なところだろう。

 婆さんは俺とアルバートを交互に見つめた。


「騎士の家系は力や勇気を試すことが多いようじゃが、我がナジェル家の試練は知恵を試すもの。……よいか。この地図が指し示す場所を探し出し、求めるべき“証”を見つけるのじゃ。見事試練を果せし者を、セーラの婚約者にしようと思う。どうじゃ?」

「もちろんお受けいたします!」


 即答したのはアルバートだ。

 試練を果たしてお姫様と結婚する――そんな冒険活劇のような状況に、自己陶酔しているのだろう。


「それで、求めるべき“証”とは、いったいどのようなものでしょうか?」

「そうじゃの。我がナジェル家を表すもの、とでも言っておこうか」


 ナジェル家を表すもの、ねぇ。貴族の家の象徴といえば、真っ先に思い浮かぶのが“家紋エンブレム”である。確か、ナジェル家の紋章は、白蛇が蔦に巻きついたような形をしていたはずだ。

 いつの間にか、すべての視線が俺に集中していた。

 この喜劇に脚本があるならば、マリクト・フレーベルは二つ返事で引き受けるに決まっている。純然たる愛をかけて、憎むべき恋敵と戦うのだ!

 しかしこの時、俺の中にあった僅かばかりのやる気はほとんど萎えかけていた。婆さんの狙い――つまり、俺の能力を試そうとしていることが、はっきりと分かったからだ。

 もし、本当に孫娘の意思を尊重して俺を勝たせる気でいるならば、この試練とやらの答えを事前に教えているはずである。しかし、計画書にはそんな項目などなかったし、セーラの様子を見ると、どうやらこの試練のことを知らなかったようだ。


「……契約違反だぜ」


 俺はセーラにだけ聞こえるように呟き、ソファーから立ち上がろうとした。

 これにはさすがのセーラも慌てた。俺の服をついと引っ張り、二人のメイドに目配せをする。


「……」


 俺はソファーに座り直した。

 悠然とした態度でお茶を飲んでいるアルバートの後方で、銀髪と栗色の髪のメイドが奇妙な動きを見せたからだ。片手をすっと持ち上げる。線の細い指先には漆黒のマネキュアが塗られていた。さらに手首を翻すと、まるで手品のようにナイフが現れた。暗殺用の黒塗りナイフだ。

 ――昨夜、事務所に忍び込んで、俺に脅しをかけた二人!

 さっと青ざめた俺を見て、アルバートが勝ち誇ったような笑みを浮かべる。


「どうしました、フレーベル公。まさか、今ごろになって怖気づかれたのか?」

「……アルバート殿。後ろの壁をご覧下さい」

「なに?」


 眉根を寄せながらも、反射的に振り返るアルバート。

 二人のメイドは素早くナイフを隠し、すまし顔で立ち尽くす。

 おお、すごいぞ!


「後ろの壁が、何か?」

「いえ、申しわけありません。わたしの気のせいでした」 


 アルバートは不機嫌そうに顔を戻した。

 二人のメイドを観察すると、明らかに本気マジ切れ寸前である。頬がひくついている様子が手に取るように分かった。ふふん、焦ったか。

 ささやかな復讐心を満たしたことで、とりあえず俺は満足した。ティーカップを口元につけ、再びセーラだけに聞こえるように呟く。


「……五万ライゼだ」


 当然、報酬の値上げ要求である。

 セーラが大きく頷くのを見て、俺はようやく決心を固めた。


「――分かりました。この試練、お受けいたしましょう」

「よし、決まりじゃの!」


 俺とセーラのやりとりを察知したのか、婆さんが楽しそうに笑い、錆びついた鍵を古びた羊皮紙の上に置いた。


「二人とも、じっくりと調べるがよいぞ」

「はい!」


 アルバートが真っ先に羊皮紙を引き寄せたので、俺は鍵のほうを観察する。

 太い針金を無理やり捻じ曲げたような形で、鍵穴に差し込む部分は先端が直角に曲がっているだけ。何とも大雑把な作りの骨董品だ。文字なども掘り込まれてないし、材質もただの鉄。この鍵から得られる情報はほとんどなかった。

 アルバートは古びた羊皮紙を色々な角度から見たり、ひっくり返したりしている。


「むむ……これは!」


 大げさに驚いて見せたが、


「……むむ」


 結局、何も閃かなかったようだ。俺が紅茶を一杯お代わりするくらいの時間をかけて、ようやくテーブルに戻した。


「なるほど。ようく分かりました。次は鍵を見せていただきましょう」


 俺は苦笑混じりに羊皮紙を受け取った。

 長い年月の中で黄色に変色した羊皮紙には、奇妙な図形と絵が描かれていた。

 中央の部分に小さな四角。その左下に白色の蛇――とぐろを巻きながらこちらを睨んでいる白蛇の絵だ。さらに、小さな四角と白蛇の外側に、大きな四角が描かれている。

 地図というよりは絵画に近いだろう。

 羊皮紙の裏側には、短い文章が書かれていた。



 そは白き賎王が恋焦がれしものなり

 そばに寄りて見よ

 野花を頂く美しき娘を



「白き賎王……白蛇か」


 神話の世界では、蛇――特に白色の蛇は重要な意味を持つ。

 月の世界に憧れた蛇(太古の昔は手足があった!)が、自分の身体を純白に塗り、様々な動物とともに、月の女神“アト”を迎えた。

 祝いの席で蛇は懇願する。どうかわたくしを月の世界へとお導き下さい。あなたさまに想いを馳せるあまり、わたくしの身体はこのように清らかな白――月の色になりました。この色は忠誠の証。あなたさまを守護いたします、と。

 女神“アト”はおおいに喜んだ。蛇を首に巻き、さらに番兵として熊と猪をつれて月の世界へと戻ったのである。

 だが、蛇の目的は女神の寵愛などではなかった。姑息にして残虐な蛇は、女神“アト”を絞め殺し(首に巻きついていたから簡単だ)、月の宮殿を一時的に支配するのである。

 もちろん、神話の世界は因果応報が“お約束”になっている。その例に漏れることなく、白蛇の勢いも長くは続かなかった。

 事情を知って怒り狂った番兵――熊と猪が、蛇を追い詰めるのだ。

 細かい部分は省略するが、まず熊が襲いかかり、蛇の手足を切り落とす。さらに猪が牙で一突き――とどめさした。こうして白蛇の野望は潰えたのである。めでたしめでたし。

 ……何とも救いようのない話だな。

 ちなみに、この話には続きがあって、蛇の手足を切り落とした熊は勲章を授けられ、猪は蛇を食料にすることを許されたそうだ。

 だから、とある種類の熊には胸のところに白い三日月型の模様があり、猪は山を駈けずり回って蛇を食べる……とかなんとか。

 そういえば、ナジェル家の家紋も白蛇だった。何か繋がりがあるのだろう。

 注意深く羊皮紙を見つめていると、微かな芳香が鼻先をくすぐった。


「……うん?」


 これは、薔薇の香りだ。

 古びた羊皮紙から薔薇の香りが漂っている。手紙などに香水を浸す方法は昔から使われているが、その香りが数年ともつはずがない。最近匂いをつけたのだろう。

 いったい何のために? それは問いかけるまでもなかった。


「ところで男爵。その“証”とやらを、いつまでに見つければよろしいのですか?」


 アルバートが精一杯の余裕を見せつけながら質問すると、


「そうですな」


 セーラの親父さん、ルデハント・ナジェルだったか――は、鼻の下のひげを整えながらすまし顔で答えた。


「日没まで、とさせていただきます」

「に、日没? 今日のですか?」

「そうです」


 今は午後二時半だから、あと三時間ほどか。

 俺にとってはありがたい。明日は喫茶店の仕事があるからだ。


「日没まで、ですか……」


 苦しげに呟くアルバート。急に落ち着きがなくなったと思ったら、男爵に向かって盛んに目で合図を送っているではないか。

 なるほど。セーラの親父さんはアルバートの味方(と、少なくともアルバート本人は思っているはず)だから、こっそりと答えなりヒントなりを教えてくれ――そう促しているに違いない。姑息なやつだ。貴族の誇りとやらはどこへいった?

 セーラは不安そうに、婆さんは「どうじゃ」と言わんばかりの表情で俺を見つめている。

 ……はぁ、かんべんしてくれ。

 俺は気の抜けたような吐息をついてから、男爵に向かって手を上げた。


「ひとつ、お願いしたいことがあります」

「ほう、何ですかな」

「この屋敷には薔薇園がありましたね。玄関先からちらりと見えたのですが、手入れの行き届いた、なかなかに見事なものでした」


 ナイスミドルは目を丸くした。


「ほほう。これはお目が高い。我が家自慢の薔薇園です」

「少し探索させて頂いてもよろしいですか?」

「はは、もちろん構いませんぞ。存分にご堪能して下さい」

「では」


 残りの紅茶を飲み干してから、俺は立ち上がった。


「――あ、わたくしがご案内いたします」


 すかさずセーラがそばに寄り添ってくる。


「どれ、わしも見てこようかの」


 婆さんも寄ってくる。

 くるなよ。


「やれやれ。みんな行ってしまうのか。アルバート殿はどうされますかな?」


 男爵が問いかけると、アルバートは羊皮紙と鍵を手に取り、


「無論、僕も同行します!」


 俺を睨みつけながら宣言した。

 どうやら、俺や婆さんの態度を見て、何らかの危機感を募らせたようだ。

 結局、メイドの二人を含めた全員で薔薇園に向かうはめになった。




(6)



 冷たい空気が蟠るナジェル家の屋敷を出ると、秋晴れの青空が俺を迎えてくれた。

 首を締め付けるタイを緩め、伊達眼鏡をポケットにねじ込み、俺は新鮮な空気を胸一杯に吸い込んだ。やはり太陽の下は気分がいい。

 玄関の左手には馬小屋があり、むさ苦しいひげ面の男が枯草を桶の中に入れていた。この屋敷ではメイドさえも暗殺者なのだから、ひょっとするとこの男もそうなのかもしれない。まったく不健康な一家である。

 玄関のすぐ右手には薔薇園の入り口があった。


「ここは、子供の頃からの、わたくしのお気に入りの場所ですの。中には噴水やベンチがあって、今日のように天気のいい日には、ゆっくりくつろげますのよ」


 セーラは早く中に入りたくてうずうずしているようだ。

 エリゼ王宮にある薔薇園とは比べるべくもないだろうが、限られた空間を生かして造った見事な薔薇の生垣だった。生垣の高さは俺の背丈以上であり、中は簡単な迷路のようになっている。“薔薇の迷宮園”――ガーランド建国当時にもてはやされた、古典的な様式だ。

 アーチ状になっている入り口を感心したように眺めていると、アルバートが近づいてきた。


「……おい、貴公。どういうつもりだ?」


 押し殺した声で詰問してくる。

 貴公ね。そんな呼ばれ方をされたのは生まれて初めてだな。


「神聖な勝負の最中に季節外れの薔薇園などに連れてくるとは。何か、考えあってのことなのか?」


 別に、俺が招待したわけじゃないぜ。

 ――とは言わなかった。

 アルバートは弱みを見せまいとしているが、内心の不安を隠すことはできないようだ。ひそひそ話を持ちかけてくること自体、自信のなさの表れである。精一杯虚勢を張っている姿が窮屈そうに見えた。


「薔薇の葉を見にきたわけではありませんよ。少し気になることがありまして」

「それは何だ?」

「アルバート殿がお持ちになっている羊皮紙です」

「これが?」


 アルバートは手に持っていた羊皮紙に視線を落とした。


「ええ。微かですが、花の香りがしませんか?」

「言われるまでもない。それは僕も気づいた。いい匂いがするなと……」

「薔薇の香りです。おそらく香水が染み込んでいるのでしょう」


 アルバートは羊皮紙に鼻を擦りつける。

 くんくん、くく~ん。


「――ふっ」


 顔を上げると、さも馬鹿にしたように大声で笑い出した。


「はははっ! この羊皮紙に薔薇の香りがするから、薔薇園か。何とも単純な――いや、失敬。大胆な発想だな、はははっ!」


 こ、こいつは。急に元気になりやがって。


「ほっほっほ。単純じゃの!」


 婆さん、横から口を出すな。


「マリクトさま。素晴らしい推理ですわ」


 一人だけ喜んでいるのは、もちろんセーラである。

 ひとしきり笑い声がおさまってから、俺は面倒くさそうに説明した。


「香りだけではありませんよ」

「なに?」

「先ほど、男爵はこうおっしゃいました。日没までに“証”を探し出せ、と。あと三時間足らずしかありません。常識的に考えて、我々が求めるべき“証”とやらは、そう遠くない場所にあるはず。……第一、地方貴族のわたしには土地勘がありませんからね。この街のどこそこにあると言われても、完全にお手上げです。公平な勝負を規するならば、屋敷の中か、少なくとも敷地内にはあるはず」

「……なるほど」


 男爵は口ひげを整えながら頷いている。


「ひょっとすると、日没――日が落ちて暗くなると、探し難い場所なのかもしれません」

「……」


 ぴくり。お、ひげを整える手が止まったぞ。

 不機嫌そうにアルバートが言った。


「ふん、それは単なる憶測に過ぎないな。貴公の勝手な思い込みではないか」

「その通りです」


 俺があっさりと認めたので、アルバートは二の句が告げられなかった。


「根拠は他にある。その羊皮紙に描かれているものです」

「この絵がどうしたというのだ?」

「絵ではありません。地図です。最初に、リ――リリアン殿がおっしゃいました」


 この台詞は厳しかった。今日一番だ。


「何も知らされずに受け取っていれば、さぞや奇妙な絵に見えたでしょうね。もしくは何かの暗号か。……それを、出題者殿はわざわざ地図と説明されたわけです」


「ひょっひょっひょっ!」


 婆さんの笑い声は無視である。

 小さな四角と大きな四角。その間に白い蛇。これらが意味するものは――ばかばかしいくらいに簡単だ。


「通常、地図というものは、真上からの視点で地形を写し取った図面を指します。たとえば、屋内にある部屋の見取り図などを、地図とは言いません」


 セーラは細い指先を顎に当て、少し考えてから、


「言いませんわね」


 と、相槌を打った。いいぞ、セーラ。


「では、最初に視点を向けるべき場所は屋外です。そして、この羊皮紙に描かれた図形は単純そのもの。かなり省略された地図と言わざるを得ない」


 俺はあえて断言した。


「そう。これは――現在、我々がいる場所の領域図エリアマップなのです」


 アルバートは眉根を寄せながら羊皮紙を凝視した。


「白い蛇は小さな四角の外側――そして、大きな四角の内側にいます。ここで、小さな四角を屋敷、大きな四角を敷地を取り囲む石壁とするならば……」


 俺は咳払いをした。


「屋敷の外で石壁の内側。つまり、我々が立っているこの領域に、白蛇がいることになる」

「――あ」


 アルバートは間の抜けたような声を出した。その隣から、興味津々といった表情で羊皮紙を覗き込むセーラ。ふむふむと頷いている。


「おまけに、その地図には薔薇の香りがします。となれば――まず第一に、敷地内にある薔薇園を疑うのは、自然の流れと言えるでしょう」


 長い説明になった。実際にはここまで順序立てて思考を組み立てたわけではない。少なくとも意識的にはしない。「小さな四角の外側」「大きな四角の内側」という二つの事柄だけでも、頭の中で様々パターンを組み合わせれば、ある程度の的は絞られてくるし、ここに「薔薇の匂い」が加われば、ピンとくるはずだ。

 俺が、さも理路整然としていそうな、こういう回りくどい説明をしたのは、とにもかくにもアルバート本人に納得させるためである。田舎貴族である俺が、単なる偶然やこいつの言う単純な発想とやらで“証”を見つけたとしても、おそらく負けを認めないだろう。この試練は知恵を試すものなのだから。

 ようするに、俺はこの茶番劇の解答を、できるだけ分かりやすい形で説明しなくてはならないのだ。

 ったく、面倒くさいぞ。

 ……それにしても、この雰囲気は何だ。

 問題はまだ半分しか解けてないはずなのに、みんな静まり返っている。周囲から視線の集中砲火を受けながら、正直、俺は戸惑っていた。精神的に追い詰められていたアルバートはともかくとして、答えを知っている婆さんや男爵、さらにはメイドの二人までもが、何やら感心したような――いや、珍しい動物でも観察するような目つきで、俺を見ているのだ。


「マリクトさま。素晴らしいですわっ!」


 セーラが俺の左腕に飛びついてきた。


「きっと間違いありませんわ。わたくしもそう思いますもの」

「お前さん、なかなかやるのう」


 今度は婆さんが俺の右足に飛びついてくる。

 や、やめれっ!

 身体を一回転させて二人を振り払いたい衝動に駆られたが、仮にも――あくまでも、百パーセント仮に、ではあるが――二人は俺の婚約者とその祖母である。むげにあしらうわけにもいかない。


「……くっ」


 アルバートはひとり、屈辱に身を震わせている。


「た、単純な発想だ。それくらい――僕も考えていた」


 ああ、そうかよ。


「さあ、薔薇園の中に入りましょう。わたくしがご案内いたしますから」


 セーラがぐいぐいと俺の腕を引っ張ってくる。


「マリクトさま、早くっ!」

「はは。そう慌てなくても大丈夫ですよ」


 余裕の笑みを浮かべながら、俺は右足を小刻みに動かしていた。

 ――早く離れろ、婆さん。動けねぇ!





 一見、おしとやかそうに見える“昼の”セーラではあるが、普通の女性と比べると、力は強いし足も速い。暗殺者として鍛え上げられているからだ。

 ゆっくりと薔薇園を堪能するつもりだった俺は、まるで元気な大型犬を散歩させている飼い主のように、強制的にずるずると引っ張られていた。

 手を繋がれているのだから仕方がない。セーラは癖のない艶やかな黒髪をなびかせて、時おり俺に満面の笑顔を見せながら、薔薇の壁に挟まれた細長い通路を駆け抜けていく。

 おお、青春だな。

 通路の先は直進と右への分かれ道。


「こっちです」


 セーラは迷わず直進し、さらにその先の角を左に曲がった。


「――!」


 何と、行き止まり。俺は思わず目を疑った。

 セーラは大きくひと息つくと、


「こっちです」


 再び元の通路を戻っていく。

 ひょっとして……今、道を間違えたのか?

 子供の頃からの、お気に入りの場所じゃなかったのかよ!

 軽い目眩を感じながらも走り回り、ようやくたどり着いた場所は、小さな広場だった。

 直径十メートルほどの円形の広場で、その中央には直径三メートルほどの、やはり円形の噴水がある。地面には白い砂が敷き詰められ、同じく白塗りのベンチが配置されていた。

 噴水の周囲の土台は赤大理石だ。水は溜まっておらず、その中央には黒大理石で造られた女性の彫像が立っている。花の冠をつけ、長い尺状を手にした姿――それは、間違いなく月の女神“アト”の像だった。

 白色の地面、赤色の噴水、黒色の彫像、そして周囲の緑。

 何ともカラフルな配色である。 

 感心したように見上げていると、


「……ふん、調子に乗るなよ」


 眉間に皺を寄せながら、アルバートがやってきた。

 婆さんと男爵、メイドの二人が揃ったところで、金髪の貴公子は咳払いをする。


「僕の勘では、この場所が一番怪しいと思います。白い蛇が関係しているはずだ」


 もっともらしく言うと、羊皮紙と鍵を手に噴水の周囲を歩き出した。ぐるりと一周してから、女神像を正面から見据える。


「おう、これは月の女神“アト”の彫像」


 真っ先に気づけよ。


「そうか。“蛇月神話”か!」


 蛇月神話とは、身体を白く塗った蛇が月の世界を乗っ取り損ねる、というあの話だ。

 神話を勉強することは、貴族にとって常識――というか「嗜み」のようなものなので、当然、アルバートも知っているはずだ。

 聞いたところによると、貴公子たちはパーティ会場などで「おお、貴女は美の女神“メティ”の化身だ」とか「おお、大地の女神“デュマ”のように誠実な方だ」とか言いながら、貴婦人たちを口説くそうだ。誉め言葉ばかりではない。恋のライバルに対しては「月の女神を狙う、ふとどきな白蛇めっ!」などと叫んで、決闘を申し込むらしい。

 ……想像を絶する世界である。

 アルバートはかなり興奮していた。目は血走っているし、鼻息も荒い。名誉挽回に燃えているようだ。羊皮紙の裏面を凝視して、書かれていた文章を大声で朗読した。


「そは白き賎王が恋焦がれしものなり。そばに寄りて見よ。野花を頂く美しき娘を」


 続いて、もう一度女神像を見上げる。


「白き賎王が……恋焦がれしもの。野花を頂く美しき娘――はっ!」


 ようやく気づいた。


「この女神像がそうです!」


 後方で待機している俺たちを振り返り、自信たっぷりに言い放つ。


「白き賎王とは、神話の世界に登場する白蛇のこと。そして、白蛇が恋焦がれたものは、この女神像――つまり、月の女神“アト”です。右手に尺状を持ち、頭に花の冠をしているから間違いない。野花を頂く美しき娘だ!」

「……」

「文章によると、そばに寄りて見よ、とある。――セーラさん!」

「は、はい」

「これをお願いします」


 セーラに羊皮紙と鍵を預けたアルバートは、腕まくりをしながら噴水の中に入っていく。

 噴水の中には水は溜まっていないが、ぬかるんだ泥が残っているようだ。


「なかなか頑張るじゃないか」


 他人事のように呟いた俺を、セーラは非難するような目で睨んだ。


「マリクトさま。早くしないと負けてしまいます!」

「……ああ」


 俺はおざなりな返事をして、広場の周囲を見渡した。

 円状の広場には俺たちが入ってきた入り口の他に、もうひとつ出口がある。噴水を挟んだちょうど向こう側だ。その通路には広場と同じ白い砂が敷かれており、さらに入り組んだ迷路へと繋がっているようだ。


「何か――何かあるはずだ!」


 いつの間にかアルバートは女神像の台座によじ登り、彫像を直に調べていた。

 ずいぶんと昔に造られた芸術品である。雨や風で侵食されたのか、その柔和な表情は薄れているし、いくら黒大理石で造られたとはいえ、汚れも目立っている。地図や鍵と同年代、少なくとも百年近くは経っているだろう。

 高級素材で仕立てられた礼服を汚しながらも、結局アルバートは、手がかりを見つけることはできなかった。しばらく台座の上で考え込んでいたが、いったん降りることにしたようだ。ちらりとセーラを見て、格好よくジャンプする。


「うわっ!」


 革靴が滑って泥の中に尻餅をついた。……散々だな。

 密かに同情しながら見守っている俺の隣に、男爵がやってきた。


「マリクト殿。あなたは探さないのですか? せっかく地図の謎を解いたというのに」

「いえ。もう見つけましたよ」

「――ほう!」


 ぎょっとしたようにこちらを振り向くアルバート。セーラも目を丸くしている。

 薔薇園の向こう側にそびえる屋敷と、その先に広がる眩しい青空を見上げながら、俺は申しわけなさそうに言った。


「……やはり、屋敷の中でしたね」



(7)



 お尻に丸い泥の跡をつけた金髪の貴公子は、全身に怒りを漲らせているようだった。後ろを振り返れば、鬼のような形相が飛びこんでくるだろう。無理もない。これまでのところ、アルバートは完全に俺の引き立て役になっている。このまま終わったら、ただのピエロだ。

 無言のまま屋敷の廊下を歩いていると、つかつかと大きな足音が近づいて、渋面のアルバートが肩を並べてきた。


「おい、いったいどういうつもりだっ!」

「どういうつもり、とは?」

「先ほどは、“証”は屋外にある、薔薇園の中にあると断言しておきながら、結局、屋敷の中に戻ってくるとは――いったいどういうつもりなのかと、聞いているのだ!」


 口から火花を出しそうな勢いである。

 俺は説明した。


「もし、あの場所に“証”があるとするならば、もう少しきれいに掃除されているはずです」

「……!」


 意表をつかれたのか、アルバートはとっさに反論できない。


「少なくとも、わたしが出題者ならばそうしますね。泥だらけの噴水に、我が家を表す“証”があったならば、あまり気分はよくない」

「ほほう。これは名推理ですな」


 豊かな声で笑ったのはナジェル男爵である。

 俺はさらに深読みしていた。見るも無残なアルバートの姿は、最後の「二択」で間違えたことに対する罰ではないかと。意地のわるい婆さんのことだ。噴水の水を抜き、わざわざ泥を入れるくらいの真似は平気でしそうなものである。

 横目で見ると、婆さんはにやりと笑って片目を閉じた。

 ――うっ!

 慌てて視線を外すと、俺たちを先導していたセーラが立ち止まり、


「でも、マリクトさま。あの部屋は……」


 困惑気味に振り返る。


「まあ、よいではないか、セーラ。マリクト殿の言われる通り、ご案内差し上げなさい」

「……はい、お父さま」


 俺たちは屋敷の二階にある廊下の突き当たり(一番最初に入った部屋の反対側だ)まできた。目の前にあるのは小さな絵画が飾られた灰色の壁。


「それでは、開けますね」


 セーラは何気なく壁に手を振れる。

 ゴゴゴ……ゴゴ。

 驚いたことに、壁が回転した。

 隠し扉か――なるほど、やみくもに屋敷の中を探し回っても、見つからないようになっていたわけだ。何とも意地のわるい仕掛けである。

 通路の先には唯一、三階へと通じる階段があった。感心しながら上っていくと、その先にあるのは頑強そうな鉄の扉。


「ここが三階の物置です。でも……」


 セーラは残念そうに首を振る。


「鍵がかかっていて、わたくし、一度も中に入ったことがありませんの」

「そうですか。では、鍵を貸して下さい」


 俺はセーラに向かって手を差し出した。

 パチリと瞬きするセーラ。自分がアルバートから預かっていた鍵のことを、すっかり忘れていたようだ。弾かれたように鍵を差し出した。よしよし。

 鍵穴に指し込んで時計回りに捻ると……確かな手応えとともに、ガシャンと閂が引っ込む音が聞こえた。

 この瞬間、俺の勝ちがほぼ決定したわけである。

 重い軋み音を立てながら鉄の扉が開く。中は暗闇で、床の上を這うように埃っぽい空気が流れてきた。セーラが脅えたように寄り添ってくる。


「マリクトさま、気をつけて下さいね。クモの巣とか、変なネズミがいるかもしれません」


 変なネズミってのは、どんなネズミだ?

 深い闇を前にして、さすがに躊躇っていると、


「――シリア! ――メルシア!」


 ナジェル男爵が鋭い命令を発した。いつの間にか手持ちランプを携えていた二人のメイドが、素早く部屋の中に入り込んでいく。銀髪の女性がシリア、栗色の髪の女性が――ようやく名前の分かったメルシアだ。


「さあ、入るがよいぞ」


 婆さんに促されて中に入った俺は、思わず息をのんだ。


 星の――大海!


 周囲を覆い尽くすような闇と、無数に輝く小さな光の群れ。

 こいつは驚いた。ただの暗がりではない。四方の壁と天井、床までもが、黒一色で塗り固められていたのだ。……いや、足元の感触が変である。床を触ってみると、布のような感触。“夜の”セーラが着ているボディスーツのような素材だろうか。

 小さな光の正体はすぐに分かった。細かく砕いたガラスの破片のような物体が、壁や天井にひとつひとつ縫いつけられていたのである。

 その数――百や二百ではきかない。これは想像を絶する手間がかかっている。

 二人のメイドが持つランプの光を反射して、まるで満天の星空のようにキラキラと輝いていた。

 そして、正面の壁には直径一メートルほどの丸い銀色のプレートが張りついていた。

 ははあ、満月だな。


「……すてき」


 セーラがうっとりとしたように呟き、


「こ、この部屋は、何だ?」


 アルバートは茫然自失といった様子で立ち尽くす。

 俺も同様である。掃除くらいはしてあるだろうとは思っていたが、これは予想外の演出だった。感心するというよりもむしろ呆れていた俺の前に、婆さんと男爵がやってきた。


「よくぞここまできたの、マリクト・フレーベル殿。この部屋は、ナジェル家の人間しか知らぬ秘密の物置じゃ」

「マリクト殿。セーラとアルバート殿はまだ状況が掴めていない様子。最後の解説をお願いしますよ」 


 男爵が俺の両肩に手を置き、にこりと頷いた。この親父さん、終始にこやかに話しているが、その表情はまったく信用できない。計算され尽くした、ガラス細工のような笑顔だ。


「え――」


 俺は周囲をぐるりと見渡し、


「その地図に書かれている文章についてですが……」


 おもむろに説明を始めた。



 そは 白き賎王が恋焦がれしものなり

 そばに寄りて見よ

 野花を頂く美しき娘を



 一行目に出てくる“白き賎王”は神話に出てくる白蛇で、三行目の“野花を頂く美しき娘”は薔薇園の噴水に立っていた女神“アト”の彫像を指している。ここまではアルバートのいう通りである。しかし、残念ながら“白き賎王”が恋焦がれたものは、月の女神“アト”ではない。その証拠に、蛇は月の世界へ着くと、邪魔者の女神を絞殺している。

 蛇が手にしたかったものは“月の世界”そのものであり、女神の寵愛などではなかった。

 となれば、一行目が表しているものは――“月”だ。

 アルバートは素直に二行目を三行目にかけ、「女神像のそばに寄り、観察せよ」と訳したが、二行目を一行目にかけると、「月のそばに寄り、女神像を見下ろせ」と訳すことができる。つまり「二択」である。ひねくれ者の俺は後者を選んだ。

 実際は月には行けないので、高い所から女神像を見下ろす、というのが妥当だろう。薔薇園から周囲を見渡すと、屋敷の三階にある奇妙な小部屋が目に付いた。丸い窓が一つある。ここしかない。


「それで、わたくしに案内させたのですね。マリクトさまがなぜこの部屋を知っているのか、不思議に思いましたわ」

「ええ。失礼ながら、このお屋敷には窓の数が少なく、すぐに分かりましたよ。三階にある丸い窓が、おそらく満月を表しているのだろうと思っていたのですが……」


 俺は苦笑する。


「まさか、ここまですてきな舞台が用意されているとは、想像もしていませんでした」


 正面の壁にある丸い銀のプレートには取っ手がついており、手前に引くことができた。

 キュイ。

 金属の擦れる音が響き、爽やかな風が入り込んでくる。三階の窓だ。


「ここから、薔薇の迷路を見下ろすと、地図に描かれていた白蛇――ナジェル家の紋章が見えるはずです。これが、“証”ですよ」


 セーラは軽やかに、アルバートは夢遊病者のようなふらふらとした足取りで、窓のそばにやってきた。

 眼下には薔薇の緑で縁取りされた白蛇がいた。

 女神像のあった広場がちょうど“頭”の部分であり、赤大理石で造られた噴水が“目”になっていたのだ。地面に白い砂が敷かれていたのはこのためである。

 しかし。


「……ずいぶんと、頭の大きな蛇ですわね。おたまじゃくしみたい」


 無邪気かつ残酷な感想を述べたのはセーラだ。

 た、確かに――蛇というには頭が大きい。セーラの言う通り、おたまじゃくしに近いかもしれない。白いおたまじゃくしなどこの国にはいないが。


「いや、マリクト殿。間違いありません。あれは白蛇です。……我が家の先祖が、少々、設計に失敗しましてね。造り直すには費用がかかり過ぎるのです」


 男爵がひげを触りながら説明した。

 おい、びっくりさせるなよ。


「お見事です。ここまで短時間で謎を解いたのは、マリクト殿が初めてですよ」


 男爵はにこりと笑って拍手する。

 すると――婆さん、シリアとメルシア、さらにセーラがあとに続いた。

 パチパチパチ。


「マリクトさま、おめでとうございます」

「おめでとうございます」


 パチパチパチ……。


「――では、最初の約束通り、勝者であるマリクト・フレーベル殿を、我が娘セーラの婚約者とします。アルバート殿、異存はないですな?」

「……」


 男爵の宣言に、アルバートは身体を震わせた。

 プライドの高い貴族の坊ちゃんだ。すんなりとは引き下がらないだろうと思っていたのだが、意外にもアルバートは大きく息を吐き、毅然と胸を張って俺に言ったのである。


「どうやら、僕の負けのようだな」


 お、潔いぞ。


「勝負の最中に平常心を失った、僕の負けだ。セーラさんを愛するがゆえに、どうしても勝ちたいという気持ちが先行し過ぎたのだろう。冷静に地図を観察していれば、あるいは負けなかったかもしれないが……いや、よそう。勝負に二度目はない。いい訳がましいことは言うまい。――だが、これだけは言っておく。剣を使った決闘だったならば、僕が負けることはなかった」


 やはり、未練たらたらのようである。


「マリクト・フレーベル公。今回は身を引くが、もし、貴公が不徳にもセーラさんの気持ちを裏切った時、僕は再び戻ってくる。その時には――今度こそ我が名誉と誇りにかけて誓おう。貴公に決闘を挑み、我が聖なる剣で心の臓をひと突きにし、必ずやセーラさんを取り戻してみせると!」

「……」

「それは楽しみじゃのう」


 婆さんがにやにやしながら俺の顔を見上げた。

 多分、そうなる可能性が大きいだろうが、剣を交える前に俺は逃げるぞ。名誉と誇りにかけて誓ってもいい。


「セーラさん」

「……はい」


 アルバートはセーラの手を取り、その甲に口づけをした。


「王宮の舞踏会で初めてお会いした時に、僕は直感しました。黒き絹のごとき御髪と、青石さえ恥じ入るであろう澄んだ青の瞳。貴方こそ、まさしく美の女神たる“メティ”の化身に違いないと。……本当に、残念です」


 こ、こいつ――本当に言いやがったっ!




(8)



 アルバートが敗北を認めたことで、俺の依頼は達成された。

 めでたく(?)マリクト・フレーベルとセーラ・ナジェルの婚約が結ばれたわけだが、だからといって特別な手続きがあるわけでもない。あくまでも“口約束”だ。

 セーラの親父さんは家族で一緒に夕食をどうですかと申し出てきた。多少不自然かとは思いつつも、丁重にお断りすることにした。食事中にマリクト・フレーベルの個人的な話に及べば、その分、俺の正体がバレる可能性が高くなる。尻尾を出す前に逃げたほうがいい。

 馬小屋には二台の馬車が繋がれており、そのうちの一台はサイレス家の私有車だった。朱色の車体に金細工をあしらった豪華な馬車である。

 傷心のアルバートは今生の別れを惜しむかのように、いつまでもセーラを見つめながら自分の屋敷へと帰っていった。……とはいえ、馬車で十五分もかからないだろう。この辺りの住宅街には有名貴族の屋敷が密集しているのだ。


「それではマリクト殿。わしが駅まで送ってやろうかの」


 婆さんはそう言って、馬小屋にいたひげ面の男に合図を送った。

 ミルナード内の各区域には長距離用の馬車が集まる駅がある。マリクト・フレーベルは辺境地方を治める田舎貴族だから、婆さんはその駅まで送ってやると言ったのだ。実際には俺の家まで送ってくれるのだろう。断る理由はなかった。ちなみに、この街には他にも小さな駅が幾つかあって、街中の決められた路線を定期的に周回する“白馬車”(四頭立て十一人乗りの大型馬車)と、個人的に利用できる“黒馬車”(一頭立て二~三人乗りの小型馬車)が、列を成して停車している。王都の住人の生活を支える重要な交通機関だ。

 俺はナジェル家の私有馬車に乗りこんだ。四人乗り、二人ずつが向かい合うような座席配で、何やら変な箱を抱えたセーラが隣に座ってきた。俺の正面に座った婆さんは、座席後ろの小窓を開き、御者――ひげ面の男に指示を出した。


「ミルゴ。出しておくれ!」

「へい、ご隠居さま」


 ピシリと鞭が鳴り、ゴトゴトと馬車が動き出した。クッションが効いていて、さすがに乗り心地はいい。屋敷の玄関で手を振っている男爵に目礼してから――ようやく俺は緊張を解いた。


「……ふう」

「ごくろうじゃったの。ロロ・リーブスよ」

「ロロさま、お疲れさまでした」

「ああ、まいったぜ」


 これで、ようやく窮屈な芝居も終わりである。

 気が抜けたように外の景色を眺めていると、


「あの、これ、お約束の報酬なんですが……」


 セーラが自分の膝の上に乗せていた箱を俺に差し出した。

 何やら恥ずかしそうにしている。


「ごめんなさい。今は、三万六千七百五十ライゼしか……ありませんの」

「なに?」

「三万六千、七百五十ライゼです」


 首を傾げつつも箱の蓋を開けてみると、ふわりと甘い香りが鼻についた。木製の箱の中は幾つかの小さな領域に区切られていて、一万ライゼ金貨、五千ライゼ銀貨、千ライゼ銀貨、百ライゼ銅貨、十ライゼ銅貨が収められていた。

 間違いない。クッキーの箱詰めだ。


「その、子供の頃から貯めていたんですが……少し、足りなくて」


 セーラは耳まで赤くしている。


「でも、足りない分は必ずお支払いしますから。何年かかっても、必ず」

「……」


 ナジェル男爵家は爵位を持つ貴族の中でも一、二を争う貧乏貴族だと、話には聞いたことはあったが、これまで俺は信じていなかった。“闇の仕事”というのは破格の報酬を要求するはずである。表向きはともかく、裏ではしこたま稼いでいるに違いない。そう思っていた。だから、途中で五万ライゼなどとふっかけたのだが……。

 俺は木箱の中から一万ライゼ金貨を一枚、五千ライゼ銀貨を四枚取り出すと、残りを箱ごとセーラに返した。


「ほれ。仕事を引き受けてから報酬の値上げを要求するのは、ルール違反だったな」

「え? ……で、でも」

「今回の試練のこと、知らなかったんだろう?」

「……」


 セーラはこくりと頷く。


「じゃあ、セーラはわるくないさ。金を取るなら婆さんからだ」

「……ロロさま」


 セーラはじっと俺を見上げてくる。白い頬を桜色に上気させ、青の瞳を潤ませて、何やら色っぽい表情だ。

 か、勘違いするなよ。貧乏人から金を巻き上げるのは寝覚めがわるいだけだ。

 それに、俺としては、半日たらずの労働で三万ライゼも稼げれば十分なのである。


「ほっほっほ。優しいことじゃのう」

「――婆さん」


 すべてが丸く納まったとばかりに笑い続ける婆さんを、俺は鋭い視線で居抜いた。


「俺に嘘をつくとは、いい度胸じゃないか」

「嘘とはなんじゃ。試練のことならわしは何も言わなかっただけで、嘘などはついておらん」


 往生際のわるい婆さんだ。


「セーラから聞いたぜ。アルバートが兄を謀殺して、サイレス家を乗っ取ろうとしてるって話。あれは嘘だろう?」

「――えっ」


 驚きの声を上げたのはセーラである。


「セーラがアルバートの子供を身ごもったら、アルバートを始末して、合法的にサイレス家を乗っ取るって話も嘘だな」

「……そ、そうなのですか、お婆さま?」


 ああ、間違いないぜ。アルバート・サイレスが肉親を殺してまで成り上がろうとする野心家ならば、勝負に負けたくらいで諦めるはずがない。どんな手を使っても、自分のプライドや体面をかなぐり捨ててでも勝ちにきただろう。セーラの親父さんだってそうだ。サイレス家の権力と財産を狙っているのならば、積極的にアルバートに協力し、邪魔者の俺――マリクト・フレーベルを出し抜いたはずである。


「俺は依頼人に嘘をつかれるのが一番嫌いなんだ。覚悟はしてもらうからな」

「……」


 婆さんはわなわなと両手を震わせた。


「セ、セーラや。ロロがあと先短い老婆をいじめようとしておるぞ。助けておくれ」


 孫娘の膝に手をついて懇願する婆さん。毎度お馴染みのパターンではあるが……そんな婆さんを、セーラは静かに見下ろした。

 それこそ暗殺者のような、冷ややかな視線である。


「お婆さま。どういうことですの? きちんと説明していただけます?」

「……」


 婆さんは小刻みに顔を動かしている。孫娘にまで見捨てられるとは、憐れな婆さんだ。

 などと、同情したのが間違いだった。婆さんはいきなり座席に踏ん反り返り、枯れ枝のような足をひょいと組んだ。


「なんじゃなんじゃ。二人して、わしをいじめおって!」


 まるで拗ねた子供である。

 婆さんはぶつぶつと文句を呟きながら、趣味のわるい紫色のドレスの懐から、一枚の銀色のカードを取り出した。大きさは子供の手の平くらいで、厚さは銀貨並。ナジェル家の象徴である蛇の紋章が浮き彫りにされていた。


「お婆さま、それは……」

「ふん、今回は予想外に楽しませてもらったからの。わしからの褒美じゃ」


 婆さんは銀色のカードを俺の膝の上に乗せた。手にとって注意深く観察してみる。間違いなく純銀製だ。蛇の紋章が描かれているからには、このカードには何らかの意味合いが含まれているのだろう。おそらく、俺とナジュール一家との関係を証明するものなのだろうが……さて。

 婆さんは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。


「わしの組織を利用できる資格者証じゃ。しかも、何と――シルバークラス!」

「……?」


 よく分からない。何をそんなに威張ってるんだ?


「俺は、暗殺の依頼なんかしないぜ」


 一応ことわっておくと、婆さんは心底がっかりしたような顔を見せた。


「やれやれ。何も知らんようじゃの」

「な、何だよ」

「お前さん。わしらのことを、人を殺めて悦にいってる、変態一家だと思っておるな」


 そこまではいってない。


「――ひ、ひどい、ロロさま!」


 被害妄想に頬を膨らませるセーラ。二人のコンビプレーには慣れているので、俺は無感動にため息をつく。


「違うとでもいうのか?」

「当たり前じゃ。大昔の動乱の時代ならばともかく、この平和な世の中で、暗殺などという冷徹な手段が流行るわけもあるまい?」

「流行り廃れなんてあるのかよ」

「うむ。ある」


 婆さんが言うには、ナジュール家は、今から二百年ほど前――つまり、ガーランド建国当時に活躍した、国王直属の騎士の家系だったそうだ。そのおもな仕事は、敵国の情報収集および諜報活動である。

 戦場において、ガーランド軍が常に敵軍よりも多くの兵力を投入し、有利な地形を確保できたのも、ナジュール家の活躍があったからだという。

 当時、この大陸には野心を持った大国が乱立しており、頭ひとつ抜き出ていたガーランド王国といえども、安穏とした時を過ごすことは許されなかった。軍事、外交面で他国に遅れをとることは論外であり、自国内の問題ごとも軽視することができなかったのだ。


「そこで、我らナジュール一家の出番というわけじゃ」


 国王から絶大な信頼を得ていたナジュール家は、その国王の命により、王国内の情報網を確立することになる。世論の調査や民衆の扇動なども目的のひとつであったが、彼らにはさらに重要な役割が与えられていた。敵国と内通している“仮面を被った味方”をあぶり出し、できることならば、内密に始末すること――であった。

 すべての貴族、豪族が調査の対象とされ、ガーランド王国にとって不利な行動をとった(と思われる)者は、秘密裏に“処理”された。


「へぇ。教科書には載っていない事実ってやつだな」


 俺がしきりに感心していると、婆さんは不意に渋い表情を作る。


「思えば、その時が分岐点だったのかもしれんな」

「……分岐点?」


 常に正確な情報をもたらすナジュール家は、戦場では信頼され、感謝されたが、その矛先が国内に向けられると、貴族たちは戦々恐々とした。わるい噂の耐えない同胞たちが“不予の事故”により、次々とその姿を消していったからだ。国の調査機関も動こうとしない。水面下で噂が流れた。ナジュール家は、国王公認の元、独断による死神の大鎌を振るっているに違いないと。


「半世紀にも渡る長き戦乱の時代が終わり、平和が訪れると、我らは次第に疎まれるようになった。いくら主の命令とはいえ、味方に疑いの目を向け、粛清してきたのじゃから」

「……」

「国王も表立っては我らを庇うこともできない。かといって、切り捨てることもできない。そこで、我らはナジェル男爵家として、見かけ上、無害な小貴族に生まれ変わったのじゃ」

「だから、目立たないように貧乏暮しをしていたわけか」

「……いや。実際、貧乏なのじゃよ」


 馬車の中が静まり返り、ゴトゴトと、車輪の音だけが響いた。

 隣に座っているセーラが悲しそうに俯く。


「どうしてだよ。それだけ活躍したんだ。報酬だって莫大なものだろうに」

「大昔の話じゃからな。今は何も残っとりゃせん」


 時代が移り変わっても、ナジュール家の情報網は密かに生きつづけた。ただし、その使用頻度は激減し、国外の“ライン”はすでに活動を停止しているという。広範囲に広がった組織を維持するには、国の積極的な資金援助が必要なのだ。

 国王の世代が代わり、ナジュール家を頼る必要が無くなれば、援助額も減り、自然にやせ細っていく。


「この国の警察はけっこう優秀じゃからの。国の保護のない暗殺の仕事を、気軽に引き受けるわけにもいかん。そこで考え出した新事業が、“情報屋”じゃ」

「……情報屋」


 一般的には聞き慣れない言葉だろうが、俺はその存在を知っていた。親父の口からたまに出る言葉である。親父には複数の情報屋がいて、ペット探し以外で調べものをする時にはあれこれと利用しているようだ。


「幸いなことに、この商売は大当たりでな。ここ十数年、拡大傾向にある。本業のほうはいまだに大赤字なのじゃが……それでも、借金はかなり減ってきておる」

「借金があるのか」


 呆れたように呟くと、婆さんはにやりと笑う。


「なに、もうすぐ返済完了じゃよ。あと少し我慢すれば、文字通り王侯貴族の生活じゃ。将来は、セーラがこの事業を引き継ぐことになるじゃろうから……」


 婆さんは俺とセーラを交互に見て、


「今のうちに唾をつけておけば、いずれは大金持ちじゃぞ。ひょっひょっひょ!」

「――お、お婆さまったら!」


 セーラは真っ赤になって、両手を頬に当てた。


「なるほどね」

「ロ、ロロさま?」

「つまり、このカードで婆さんの組織の情報屋を利用できるわけだな」

「……」


 セーラは頬を膨らませた。


「その通りじゃ。顧客に合わせて、金、銀、銅の組分けがされておってな、得られる情報の質や量も変わってくるのじゃ。もちろん、それ相応の金はかかるがの。……ちなみに、シルバー級の資格者証を持つ者は、このミルナード内でも二十人とおらん。ゴールド級はさらに少ないぞ。片手で数えるほどじゃ」


 話を聞いていると、かなり価値のある代物のようだ。

 だが……。


「わるいけど、料理人になる俺にとっては、必要ないものだな」

「ひょっ!」


 突然、婆さんが大声で笑い出した。


「ひょっひょっひょ!」

「何だよ」


 俺を馬鹿にしたような、嘲りの笑いである。


「自分を偽ったところで、詮無きことじゃぞ」

「……」

「中途半端な義務感では、何事においても一人前にはなれん。本気の情熱がなければな」

「……何を、言いたい?」

「お前さん。本当に、料理人になりたいのか?」

「……!」


 それは――俺の心を抉るような質問だった。

 最近、喫茶店で仕事をしていると、ふわりと頭の中に浮かんでくる厄介な問題である。

 ざわざわと、心の中がざわめく。そんな時、俺は意識的に思考を止め、何も考えないようにしてきた。嫌でも自分を見つめてしまうことになるからだ。結論を先延ばしにしている自分が、どうにも不恰好に思えた。


「まあ、いいわい。そのカードは、お守り代わりに持っておけ。いずれは必要になるかもしれんからな」

「……ああ」


 婆さんはそれ以上深くは追求しなかった。

 ち、何をほっとしてるんだ、俺は。


「しかし、今日は見事じゃったの。ヒントなしであの試練を達成したのは、わしの知る限りではお前さんが初めてじゃよ」

「? ヒントならあったじゃないか。地図とか、薔薇の香りとか……」

「そうではない」


 時間制限のある試練である。途中で行き詰まった時には、出題者が自発的にヒントを出すことになっていたようだ。第一ヒント――求める“証”は敷地内にある。第二ヒント――地図にはとある香水が染み込んでいる――という具合に。


「ルデハントでさえ、ヒントをひとつ使ったからの。お前さんのほうがよほど優秀じゃよ。どうじゃ。お前さんがその気なら、幹部候補として雇ってやってもよいぞ」

「まあ、素晴らしいですわ。ロロさまなら、わたくしの家でも、きっと上手くやっていけます」


 どさくさに紛れて、俺を取り込もうとする二人。

 銀のカードを懐にしまいながら、俺は呆れたように言った。


「初めから解けるように作られたパズルを完成させても、自慢にはならないぜ」

「パズル、ですか?」

「そうさ。あんな謎かけを解いたところで……」


 俺は半ば自分に向かって苦笑する。


「迷子の子猫なんか、見つかりはしねぇよ」

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