月見荘の女神さま
(1)
コーヒー一杯六百円という喫茶店には、ほとんど客が入ってなかった。
店内は薄暗く、暗茶色の絨毯とソファーチェアが前時代的な雰囲気を漂わせている。値段のわりにコーヒー豆や入れ方にこだわりがあるわけではない。席の近くに電源コンセントはないし、メニューにはモーニングセットもない。
こんな寂れた喫茶店でも、有効な使い道はあった。
それは、ひと目を避けたい時の打ち合わせの場所――である。
柱の影になっているテーブルに、ひと組の男女がいた。
男の方は二十代の後半くらい。中肉中背で、髪はぼさぼさ。灰色の地味なスーツを身につけているが、ネクタイはだらしなく緩められている。
女性の方はやや年齢が高く、三十台の半ば。こちらもスーツ姿で、身なりも化粧も整っていた。十年前はさぞかし美人だっただろうと思える顔立ちだが、その表情は疲れ、追いつめられたような目つきでテーブルの上を睨んでいる。
そこには、五、六枚の写真が無造作に置かれていた。
「……そうですか」
魂が抜け落ちたかのような呟き。
写真には、彼女の夫と、彼女の知らない若い女性が写っていた。
どこかの居酒屋で仲むつまじく食事をしている。どこかのロビーでくつろいでいる。二人で車に乗り込もうとしている。ホテルに入ろうとしている直前、そして出てきた直後――男は女の肩に手をかけ、女は見上げるようにして笑っていた。
「この――女は?」
「ご主人の会社の、取引先の受付嬢です。詳細は、こちらの報告書に」
ぼさぼさ髪の男は、ホッチキス留めした紙の束を差し出した。そこには十日間に渡る尾行の結果と関係者の個人情報が記されていた。
ぺらぺらと報告書を捲りながら、女が確認してくる。
「確か、慰謝料は……両方からとれるんですよね?」
「私は専門外ですが、おそらくは。これからは弁護士に相談することをお勧めします」
「分かりました」
泣くかと思えた女性だったが、泣きはしなかった。目を充血させたままこくりと頷き、写真と報告書をショルダーバッグにしまう。替わりに取り出したのは、銀行名がプリントされた封筒だった。
「三十五万円入っています。確かめてください」
男は封筒から札束を出し、一枚づつ不器用に数えた。
「領収書は必要ですか?」
「いりません」
女性は立ち上がった。表情は暗いままだが、その瞳には強い力が宿っていた。
新しい目標を見出したかのように、ぎらぎらと輝いていた。
◇
「……ふぅ」
ひとり喫茶店に残された男――綾小路矢次郎は、ソファーの背もたれに体を預けたまま、深いため息をついた。
これでひとつの家庭が崩壊し、さらなる火種が生まれたわけだ。金と激情が真っ向からぶつかり合う、おぞましい争いになるだろう。
誰も、幸せにはならない。
もちろん、悪いのは写真の男と女である。他人のプライベートに足を踏み入れた自分に非がないわけではないが、頼まれた仕事でもある。仮に自分が断ったとしても、他の同業者が引き受けて、同じような証拠を掴んだことだろう。
それでも、自分の行為が関係者たちの運命を加速させ、決定付けたことも事実だ。
そして、手元に残った三十五万円。
テーブルの上の封筒を、矢次郎は無感動に眺めた。
他人の不幸と引き換えに手に入れた金だが、今の自分には必要なものである。滞納している家賃と、少しくらいは食費も払えるだろう。
「お金は、大切だよ」
自分を納得させるように呟き、やけに苦いコーヒーを飲み干してから、矢次郎は席を立った。
店の外に出ると、中学生か高校生くらいの女の子が立ちふさがった。
「探偵さん、ですか?」
ぎょっとして、矢次郎は目を見開いた。初対面の相手にいきなり職業を言い当てられて、驚かない者はいない。
「……君は?」
十年後にはかなり美人になるだろうと思える顔立ちである。まっすぐな黒髪を眉の上で切りそろえており、意思の強そうな目でこちらを睨みつけていた。
「私は、宮前萌といいます」
「宮前……」
それは、つい先ほど会っていた依頼主の苗字だった。
「宮前由紀子は、私の母です」
「そう」
なるほど面影がある。
おそらく母親の後をつけてきたのだろう。こちらを探偵と認識しているということは、母親の持ち物の中から名刺でも見つけたか。
それにしても行動力のある子だと、矢次郎は思った。
主婦が探偵に依頼することといえば、ひとつしかない。
夫に対する浮気調査だ。
そんなことは、高校生でも中学生でも知っている。
宮前萌と名乗ったこの少女は、母親の依頼内容を承知の上で、その後を尾行し、さらには怪しげな探偵に対して、真正面から挑んできたのだ。
「これで、私の家はおしまいです」
はっきりと少女は言い切った。
「……」
「母から、いくらもらったんですか?」
心底蔑むような口調。
「ひとの家をめちゃくちゃにして、いくら稼いだんですか?」
この子は、父親と母親の状況を正しく認識している。この場にいるということそのものが証拠だ。
頭がいい。察しがいい。
しかしそれでも、自身の感情を抑えきれないでいる。
簡単に反論されることを承知の上で、母親でも父親でもなく、赤の他人である怪しげな探偵を問い詰めているのだ。
矢次郎は困惑した。
自分は謝ればいいのだろうか。狼狽すればいいのだろうか。
傷ついたような表情を見せれば、それでこの子の気が晴れるのだろうか。
心の整理がつかず、ぼんやりと見つめることしか出来なかった矢次郎を、少女はさらに険しい目で睨みつけ、叫んだ。
「――最っ低!」
矢次郎は身体を前に傾けた。
少女とは身長差がありすぎる。手が届かないだろう。
ようするに頬を叩かれやすくしたわけだが、飛んできたのは平手ではなく、硬く握り締められた拳だった。
(2)
夕暮れ時。
東京都墨田区――スカイツリーを臨む下町にあるそのアパートは、夕焼けに照らされてオレンジ色に染まっていた。
“月見荘。
今どき珍しい、木造平屋造りの共同住宅である。
玄関と風呂とトイレが共同。部屋の数は六つで、一番大きな部屋は談話室件食堂になっている。
建物は古く、築五十年くらいは経っていそうな風格だが、敷地はしっかりとした石垣で囲まれており、門構えも立派だ。都心にある住宅とは思えないほど庭が広く、池や花壇まであった。
ポストから夕刊を引き抜いて、矢次郎は玄関の扉を開けた。
「ただいま――」
靴を脱いで、まずは談話室に入る。
今日は誰もいないようだ。
年代物の大きな振り子時計を見ると、間もなく時刻は午後五時三十分。
特に見たい番組もない。夕刊をラックに入れて、自分の部屋に行こうとすると、ぱたぱたとスリッパの音が聞こえてきた。
「お帰りなさい、矢次郎さん」
やってきたのは、三角巾と割烹着というレトロな姿の若い女性――このアパートの大家さんだった。
年のころは二十歳くらい。やや堀の深い顔立ちで、瞳の色は透き通るようなアイスブルー。肌は雪のように白い。絶世の美女と言ってよい北欧系の女性だが、驚くべきことに、その長い髪は銀色に輝いていた。
「ただいま、ルナさん」
「今日は遅かったですね。お仕事ですか?」
「はい、珍しく」
ぼさぼさの髪をかいて、矢次郎は苦笑した。
貧乏探偵である彼は、本職よりも副業の方で稼いでいるという有様だった。
「即金で報酬をいただきましたので、溜まっていた家賃を払えそうです。本当にすいませんでした」
「そんなこと、気になさらないでください。それよりも――」
この可憐な大家は、家賃の催促を一度たりともしたことがない。
「無事にお仕事が終わったのですから、お祝いをしましょう」
ぱんと両手を叩いて、喜びで瞳を輝かせた。
「ちょうどよかった。今日は、すき焼きなんです」
月に一度、この共同アパートの夕食にはすき焼きが出るのだ。
「それは楽しみだなぁ。では、部屋に荷物をおいてきますね」
「……あの、矢次郎さん?」
ルナは半眼になり、近づいてきた。
身長百七十五センチの矢次郎に対して、ルナは百五十センチ。下から見上げるような格好である。
「先ほどから、どうして横を向いているんですか?」
「……」
「こっちを見てください」
観念して正面を向くと、先ほど少女に殴られた跡がばれてしまう。
「実は、ちょっと仕事で。でも――」
「た、大変っ!」
いきなり胸倉をつかまれて、矢次郎はとてつもない力でなぎ倒された。
「う、うわっ」
気付いた時には畳の上で仰向けになっていた。まるで手術でも始めるかのような真剣な表情のルナに、がっしりと両肩を押さえ込まれる。
「ど、どうしたんですか、矢次郎さん。その傷――血が出てる!」
「いや、その。たいしたことないですから」
頬から血が滲んでいるのは、宮前萌と名乗った少女が指輪を嵌めていたからだ。とはいえ、それほど力があるわけでもないし、身長差もあったので、傷は浅い。
「動かないでください。傷にさわります!」
「か、かすり傷ですから。だいじょう――」
「だいじょうぶじゃありません!」
「ぐ、ぐはっ」
ルナに掴まれている部分に万力で締め上げられるような圧力がかかり、矢次郎は呻き声を上げた。
「やっぱり痛いんですね! 早く消毒しないと!」
「ぐわわっ」
「どーしたのさ、どたばたして」
ひょいと談話室を覗き込んだのは、三号室の住人、雨野咲夜だった。
二十代前半の女性で、爆発したような髪を派手な金色に染めており、頬に髑髏の形を模したペイントをしている。黒いエナメルのボンテージ姿で、肌の露出度が高い。
咲夜はひゅうと口笛を吹いた。
「おー、ルナちゃんが、探偵を押し倒してる」
「ち、違います!」
ぱっと身体を起こして、ルナはぶんぶんと両手を振った。
「わ、私は矢次郎さんの怪我の具合を診ていただけで、お、押し倒すだなんて、そんな――」
必死に呼吸を整えている矢次郎を一瞥し、咲夜はにやりと笑った。
「ほほー、こりゃ殴られた傷だな。血が出てるってことは、指輪か? 痣の大きさからして――女だな!」
まるで探偵のような推理力を発揮して、咲夜はびっと指を突きつけた。
「修羅場ったな、探偵」
「違いますよ。仕事です」
冷静に否定してから、矢次郎はよいしょと立ち上がる。
「あ、そう――ルナちゃん、すき焼き何時にできる?」
「えっと、六時くらいでしょうか」
「じゃ私、コンビでタバコ買ってくるわ」
相手のプライベートには極力立ち入らない。そんな不文律があるおかげで追求されることはなかった。ほっと安堵して自分の部屋に戻ろうとした矢次郎だったが、あきらかに自分よりも強い力で腕をとられる。
頬をふくらませながら、割烹着姿の大家が上目遣いに睨んでいた。
「矢次郎さんは私の部屋に来てください。治療しますから!」
「……はい」
抵抗しても無駄なことは分かっていた。
◇
一号室、“月見荘”の大家、ルナ。
二号室、探偵、綾小路矢次郎。
三号室、パンクバンド“クラッシュド・ジェム”のボーカル、雨野咲夜。
四号室、アニメとフィギアとアイドルを愛する浪人生、石田牧郎。
五号室、侍、泉信之助。
談話室の中央に設置されたちゃぶ台を、この五人が囲んでいた。
ガスコンロの上の鍋には、霜降り牛肉、葱、春菊、椎茸、焼き豆腐、シラタキ、麸がくつくつと音を立てている。
「お肉もお野菜もまだまだありますから、遠慮なく食べてくださいね」
「あ、ルナちゃん。私ごはんおかわり」
「はいどうぞ」
咲夜から茶碗を受け取り、ルナがおひつからご飯をよそう。
「サンキュー」
「でゅふふっ、これぞまさにA五等級の肉ですね。うまうま」
石田牧郎は二十歳の浪人生である。自他共に認めるオタクであり、小太りで眼鏡という定番のスタイルだ。しかし影が指したような暗さはなく、満面の笑顔で牛肉をぱくついていた。
「え、それって、かなりお高いお肉では……」
ぎくりとして箸を止めた矢次郎に、隣のルナが微笑む。
「たまたま手に入ったんです。ただでさえ矢次郎さんは痩せてるんですから、もっと栄養をとってください」
そういって、無理やりお肉を矢次郎の皿に肉を詰め込んだ。
「いや私は、肉より春菊が好きで……」
「あいかわらず食が細いですな、矢次郎殿は」
無精ひげをはやしたいぶし銀の中年男、泉信之助は、侍――比喩的な表現ではなく、そのままの姿である。
頭にはちょんまげ、袴姿、座布団の隣には、大小の刀。
胡坐をかいていても背筋がぴんと伸びており、箸の持ち方も綺麗だ。
「――む?」
ちょうど頃合いの肉を、信之助と牧郎の箸が同時につかんだ。
「さきほどから、肉ばかり食べすぎではないのかな、牧郎殿。そろそろ、だいえっとをするべきでは?」
「いやいや、泉殿こそ。獣肉は好かんとか言ってましたよね?」
「それは半年前のことだ。今の拙者は苦手を克服している」
ともに笑みを浮かべながら、箸を緩めない。
醜い争いを無視して、咲夜が残りの肉を効率よく回収していく。
「そういえば、最近、信さんは牛丼ばっか食ってるね」
「む――咲夜殿、何故それを?」
「台所にお持ち帰りの容器、いっぱい積んであるじゃん」
「あ、あれ、泉さんだったんですか?」
ルナが困ったような顔をした。
いつの間にか食器棚の中に、発泡スチロールの容器が置かれるようになり、それがどんどん溜まっているのである。きちんと洗っているようだが、衛生的ではないし、見栄えもよろしくない。
「軽くて雅な、素晴らしい器である。ルナ殿も遠慮せず使われよ」
「は、はぁ。ありがとうございます」
押し付けがましい侍の親切心に、ルナは微妙な笑顔で答えた。
肉も野菜もなくなったあとは、うどんと卵でしめる。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
全員で合掌して、そのまま談話室で休憩。
“月見荘”にはテレビがひとつしかない。咲夜は歌番組、牧郎はDVD鑑賞、そして信之助は野球――じゃんけんでチャンネル権を勝ち取ったのは、牧郎だった。
「今日は、みなさんに見ていただきたいDVDがあります」
昭和の香りがただよう“月見荘”だが、電化製品は新しく充実している。
四十六インチの液晶テレビの脇には、スピーカーがいくつも設置されており、5.1chサラウンドにも対応していた。金曜の夜などは、みんなで映画番組などを見たりもする。
牧郎がリモコンを操作すると、アップテンポな曲が流れ出し、ピンク色の文字でタイトルが表示された。
『“猫缶猫茶”最新アルバム“化け猫バケーション☆”メイキングビデオ』
両腕を組みながら、信之助が唸るような声を上げた。
「……牧郎殿、これは、なんと読むのかな?」
「“ねこかんにゃんてぃ”です。とても人気のあるアイドルグループですよ」
「ふ~む。舌をかみそうな名前だな」
“猫缶猫茶”のメンバーは十二人。ひとりが卒業するとひとりが加入するというシステムを採用している。
「今回の新曲は、チームリーダであるはじめちゃんの卒業記念曲でして。だからこのメイキングビデオは、はじめちゃんの五年間の活動の歴史を、振り返る構成になっています」
おさげ姿の少女がオーディションに受かり、涙ぐむ。年少組み三人で別ユニットを組んで楽しそうに踊る。サイン会や握手会でとびきりの笑顔を見せる。やがて、髪をほどき少し大人びた少女は、メンバーの中心を任されるようになる。
うさぎ型にカットしたりんごを皿に載せて、ルナがやってきた。
「この子たち、こんな短いスカートでだいじょうぶなのかしら? え? 黒?」
ダンス中で一瞬、スカートの中が露になる。
「さ、最近の子は、ずいぶん大胆なのね」
「……スパッツです、それ」
はじめちゃんがセンターになった直後、CDの売上げ枚数が一気に伸びていく。三枚のアルバムは初登場週間ランキング一位、しかもすべてがミリオンセラーだ。
「私の曲は、半分も売れなかったぞ」
嘆息まじりに咲夜が呟く。
「それでも十分すごいですよ。昔と比べると、今の音楽市場はかなり縮小してますからね」
そしてついに、“はじめちゃん”は卒業の日を迎えた。
武道館での最後のライブ。
会場に詰め掛けたファンたちとともに号泣し、そして別れの挨拶。
『私は猫缶猫茶のメンバーになってから、五年間、全力で走り続けました。そしてみなさんは、全力で追いかけてくれました。本当にありがとう』
会場全体からどよめきが沸き起こる。
『本日、私は、猫缶猫茶を卒業します。引退ではなく、卒業です。小学校を卒業したら中学校。中学校を卒業したら高校、高校を卒業したら、大学や就職。卒業は、次のステージへ駆け上がるためのステップです。だから私は、この先に進むつもりです』
劇団に所属し、表現力を身につけて、女優になる――
ためらうことなく、はじめちゃんは宣言した。
「アイドルから女優って、簡単になれるの?」
咲夜の問いに、牧郎は首を振った。
「はじめちゃんの前にも女優を目指したメンバーはいましたが、残念ながら成功しませんでした。今の人気なら、一、二本くらいはドラマに出られると思います。でも、そこで結果――いい視聴率を出さないと、一気に厳しくなっていくでしょう。バラエティ番組のタレントの方が、まだしも可能性はあると思います」
「役者というのは、子供の頃からの鍛錬が必要だ。生半可な覚悟ではなれぬだろうよ」
りんごを頬張りながら、信之助がもっともらしいことを言った。
「はじめちゃんは賢い子です。その彼女が決めたのですから、覚悟も勝算もあるはず。猫茶ファンとしては残念無念ですが、僕はこれからも精一杯応援するつもりですよ」
アンコール曲が終わり、エンディングロールが流れる。
感動の余韻を残して、DVD鑑賞は終わった。
「いかがでしたか?」
「素晴らしかったです!」
すこし涙ぐみながら、ルナが感想を口にした。
「こんなに可愛らしくて、歌も上手で、いっぱい活躍しているのに。それでも次のステップを目指すなんて、本当に心の強い子ですね」
「必死こいてるやつは、嫌いじゃないよ。アイドルなんて、足の引っ張り合いでもしてると思ってたんだけどな」
以前の咲夜は同業者であるアイドルを小馬鹿にして、よく牧郎と衝突していたものが、最近はずいぶん軟化したようである。
それは信之助も同様で、プロフェッショナルを信条とする彼は、歌も踊りも一流とはいえないアイドルグループのことを、中途半端で見苦しいとばっさり切り捨てていた。
「だが、芸で身を立てられるのは、ほんのひと握りの選ばれしもの。はじめ殿には、才能があったということであろうな」
やや猫背の姿勢でDVDを見ていた矢次郎は、ぼさぼさの髪をかき上げた。
「彼女たちは、これだけ多くの人たちに望まれる仕事をしている。それだけでも、すごいことですよ」
昼間の出来事が、心に影を落としているのか、やや自嘲気味の口調である。
「矢次郎さんのお仕事だって、同じじゃないですか」
ルナがフォローしてくれたが、矢次郎は苦笑する他なかった。
もしそうだとするならば、今日のように殴られたりはしないだろう。誰かには感謝され、誰かには恨まれる。その比率は――今のところ五分五分くらいだろうか。
DVDを片付けてから、牧郎は正座した。
「僕は、はじめちゃんに大切なことを教えてもらいました。うじうじしている暇があったら、一歩でも先に進めってことを」
牧郎は大学受験に失敗し、予備校にもいかなくなり、家の中にも居場所がなくなってこのアパートに流れついた。一年ほど前のことである。
最初は何もやる気が起こらず、部屋の中に閉じこもり、不摂生な生活を送っていた。アパートの住人たちとも、一切かかわりを持たなかった。
だが、ルナにお節介を焼かれて無理やり談話室に引きずり出され、アイドルやアニメのことで咲夜や信之助と対立し、自分の意見を主張するようになり、やがては打ち解けて――今では互いに信頼し合える関係を築き上げることができた。少なくとも本人はそう思ってる。
牧郎は自分でバイトを探し、家賃を払い、アイドルやアニメのDVDを購入した。
「でも、こんな生活は、いつかは限界がきます。だから僕は、就職するために――一度、家に帰ろうと思うんです」
「牧郎殿。その決意は立派だと思うが、どこに仕官するつもりなのだ?」
信之助の問いに、牧郎は即答した。
「地方公務員です。今から予備校に通い直して大学に入り、四年間かけて卒業するのは、正直厳しい。弟の受験もあるし、僕の家にはそれだけの余裕はありません。だから、一年か二年――死ぬほど勉強して、公務員を目指そうと思います」
「公務員かぁ」
ちゃぶ台の上に頬づえをついて、咲夜が吐息をつく。
「私の趣味じゃないけど、頑張りな、マッキー」
「は、はい」
「うう……。石田さんが目標を見つけてくれたのは嬉しいですけど、寂しくなりますね」
割烹着の裾で涙を拭っているのは、ルナである。
「僕が立ち直れたのは、ルナ様のおかげです。まさかこの世に、二次元に勝る現実があるとは思いませんでした」
牧郎は頭を下げて、居住まいを正した。
「それで、その、お世話になったお礼と言ってはなんですが、ルナ様にプレゼントがあるんです」
そう言って紙袋の中から取り出したのは、手の平サイズのフィギアだった。
牧郎は手先が器用で、フィギアを自作する趣味がある。ちゃぶ台の上に置かれたのは、セクシーなポーズをとった女性のフィギアだった。
モデルは――ルナ。
割烹着と三角巾まで忠実に再現してある。
「こ、これは――」
信之助が鼻息を荒くして、はっとしたようにそっぽを向いた。
「す、すっごい再現率。マッキーやるじゃん!」
咲夜は目と口を丸くして、興奮する。
「な、ななななな――」
ルナは真っ赤になり、上半身をのけぞらせた。
「なんですか、これはっ! どうして割烹着の下が、裸なんですか!」
裸エプロンならぬ、裸割烹着――しかも、足を崩して座っているような格好で、右手を前に出し、誰かを誘うような仕草をしている。
お尻の方は丸見えだ。
「牧郎君の作るフィギアは、どれもポーズが秀逸だね。それに、すごいディテールだ」
心底感心したように、矢次郎がルナのフィギアを覗き込んだ。
「でゅふっふ。さすがは矢次郎さん、分かってらっしゃる。実はこの服、取り外しが可能でしてな」
やりと笑い、牧郎はフィギアに手を伸ばす。
「ほれ、このように――」
「ふむふむ」
「や、矢次郎さんは、見ちゃだめです!」
ルナにどんと突き飛ばされて、矢次郎は文字通り吹っ飛ばされた。
(3)
「……と、いうようなことがありました」
かちゃりとティーカップを置いて、ルナが報告した。
円形の白いテーブルにはやはり白い椅子が三脚あり、三人の女性が座っていた。円柱状の部屋には、やはり扉が三つ。窓はあるが景色は映っておらず、レースのカーテンを通して透明な光が差し込んでいる。
「日本人が変態だってことは知っていたけれど、ここまで突き抜けると、ある種の芸術ね」
テーブルの上に置かれたルナのフィギアを見つめつつ、紅茶に口をつけたのは、イツラ。
豪奢な青石色の髪と緑石の瞳を持つ女性である。ルナよりも身長が高く、胸の大きさなどは比較にもならないほど大きい。ボディラインを際立たせる派手なイブニングドレスを身につけており、長い足を優雅に組んでいた。
「う~、ルナの報告、いつもながら地味! もっと派手なことなかったの?」
もうひとりは、十歳くらいの子供だった。
名前はミクトラン。
ふわりとした髪はピンク色のツインテール。瞳の色は紫水晶。ロリーターファッションで、熊のぬいぐるみを膝の上に乗せている。
「派手なことって?」
「たとえば、政府と癒着していた悪徳商会を壊滅させたとか、麻薬の密輸ルートをリークして、麻薬王を追い詰めたとか」
「――くだらない」
言下に言い捨てたのはイツラだ。
「そんなものいくら潰しても、次々と沸いてくるわ。星間戦争にうつつを抜かしてるやつらと、何も変わらないじゃない」
「なによ! じゃあイツラのやってることには、意味があるっていうの?」
「ふふっ。私の姿や演技を見た下賎の者どもの劣情を呼び起す――でも彼らは、私に触れることすらできない。これほどの愉悦があるのかしら!」
イツラの職業は女優。しかもハリウッドのトップスターである。
見るものすべての魂をつかむと評されたその美貌と演技力は他の追従を許さず、出演料も桁違いだ。世界中の権力者たちとも親交があり、政治的な影響力もある。
一方のミクトランは、とある財閥の代表。表立って顔や名前は出ていないが、その財力は世界のトップスリーに入ると言われている。その気になれば、世界中を混乱させ、大戦に巻き込むことさえ可能だ。
日本という小さな島国でアパート経営をしているルナとは、まるで“趣味”が異なる二人であった。
「ようするに、イツラだって自分が楽しければ何でもいいんじゃない」
「あら、私に喧嘩を売ってるのかしら?」
「や、やめてください、ふたりとも!」
ぴりりと空気がきしみ、慌てたようにルナが仲裁に入った。
「喧嘩をするひとには、マルタ屋のパイシューあげませんよ」
甘い香りのする紙袋を掲げてみせる。
さくさくの生地と風味豊かなカスタードクリーム。墨田区のみで購入可能なシュークリームだ。海外に拠点を持ち、しかも能力を制限されているイツラとミクトランでは、簡単には入手できない代物である。
心底動揺したように、ミクトランは両手を振った。
「け、喧嘩なんてしてないわよね? イツラ」
「ええ。私とミクトランは、とても仲がいい。本当よ」
緊迫した雰囲気が霧散し、イツラとミクトランは微笑み合った。
彼女たち三人は、人間とは異なる高位の生命体――人間の認識でいうならば、“神”という表現が一番近い存在だった。
その目的は、地球の観察および管理。
宇宙に散りばめられた天文学的な数の星々に降り立ち、そこに住む生き物たちの進化、発展を導いている。
理由は、ただただ自己の好奇心を満たすため。
強制的に生物を進化させ、恒星間をも移動可能な科学技術を与える。その後は自分たちの眷属同士で争わせ、勢力を拡大していく――最近仲間同士の間では、そんな“星間戦争ゲーム”が流行っているという。
ルナ、イツラ、ミクトランのグループは、この星の支配階級として、人間を選んだ。
そしてある程度の文明が成り立つと、自らの姿を人間の形に模して、彼らの生活の中に入り込んだのである。
互いに“協定”を結び、自分たちの能力にも制限をつけた。
できることができない。確率のままに失敗することもある。
もどかしい――しかし、それが、彼女たちにとっては醍醐味なのである。
地球生活の中で三人が特に気に入っているのは、料理だった。
通常、生物の進化が進み、ある一定のレベルに達すると、食事は栄養を効率よく摂取する方向に特化し、調理という概念は薄れていく。味の好みなどというものは、生きていく上で不必要なものだからだ。
だが、地球に住む人間たちは、まだ進化の途上にあり、無駄な部分が多い。
しかしだからこそ、ごくまれに――奇跡的な一品が生まることがあるのだ。
しばし無言のまま、三人はマルタ屋のパイシューを味わった。
「はぁ。バニラとか、カスタードとか、もう反則だよね? こんなの、全宇宙探しても絶対にないと思うよ」
頬に手を当てながら、ミクトランが満足の吐息をつく。
「このパイシュー、ニューヨークに支店を出したら大人気間違いなしね。なんだったら、私が店を用意しても……」
「イツラは、自分が食べたいだけでしょ?」
ルナが苦笑する。
「マルタ屋さんは、おじいさんとおばあさんが二人で働いている小さな店です。息子さんたちも別の仕事についてますし、店舗を増やすつもりはないと思います」
「もどかしいわね」
「それが、醍醐味、でしょ?」
ひと月に一回、三人は定例報告会を開いているのだが、そのときには各自がお茶請けを持ち込むことになっていた。
ニューヨークに住んでいるイツラとパリに住んでいるミクトランは、互いに競うようにして最高級の菓子を取り寄せているが、ルナは近所の商店街で普通に買ってくる。
これが、意外と受けたりするのだ。
以前、揚げたてのコロッケを出したときなどは、イツラとミクトランは訝しげな顔をしたものだが、最終的にはひとり十個も平らげた。
三人はお茶のお代わりをして、会話を続ける。
「でもさ、ルナの趣味も分かんないよねー」
ミクトランが聞いてくる。
「“月見荘”だっけ? 社会不適合者を住まわせて、面倒をみるだなんて」
「社会不適合者ではなく、困っている方です」
少し向きなって、ルナが訂正した。
彼女が経営している“月見荘”には特殊な“結界”が張ってあり、通常の人間には見つけることすらできない。部屋に空きがある状態の時、困って行き場のない人間だけが、その門戸を通ることができる仕組みになっていた。そして、自身の問題が解決した時、住人たちは“月見荘”を離れ、自立した道を歩んでいく。
これまでルナは“月見荘”の大家として、百人以上もの人々を見守り、励まし、送り出してきた。
「うちは、必ずみんなで一緒に晩御飯を食べるんですけど、色々なお話が聞けて楽しいですよ」
「いつも話をしてる、貧乏探偵とか?」
イツラのふりに、ルナは瞳を輝かせた。
「矢次郎さんですね! この前も依頼を無事に果たして、溜まっていた家賃を払ってくれました」
「いやそれ、普通だから」
すかさずミクトランが突っ込みを入れる。
「確か友人の保証人になって、逃げられたんだっけ?」
「先祖代々受け継がれた土地や家まで売って、返済にあてたらしいんですけど、まだ借金が二億円ほど残ってるそうです」
「なんだ、それっぽっちか」
財閥の代表であるミクトランからすれば、はした金である。
「一般人にしてみれば、十分大金でしょう?」
今度はイツラが突っ込みを入れた。
「いっそのこと、破産申告でもした方がいいんじゃないかしら?」
矢次郎の話によると、知り合いに借金の肩代わりをしてもらう代わりに、様々な依頼をこなしているらしい。
「矢次郎さん、頑張って少しずつ借金を減らしてるみたいです」
「へぇ、やるじゃない」
イツラが感心すると、ルナはまるで自分が褒められたように喜んだ。
「借金を払い終えるまでは、私が“月見荘”でお世話をするつもりです」
これまでルナは、“月見荘”の住人に対して、条件付けをしたことはない。一貫して“来るもの拒まず去るもの追わず”のスタイルを通していたはずだった。
借金のあるなしは、“月見荘”に残る条件ではない。
自身の問題が解決した時、住人たちは自然と“月見荘”を去っていく。
それなのにルナは、「借金を返済するまで」という条件をつけた。
「あまり入れ込まない方がいいんじゃない?」
軽い違和感を感じたのは、イツラである。
「面倒なことになるから」
「……?」
紅茶に口をつけながら予言じみた呟きを漏らしたが、当の本人であるルナは不思議そうに首を傾げただけだった。