学校転生(1)〜(6)
(1)
私立翠凛館高等学校の三階、角部屋である視聴覚室の窓からは、正門から玄関にかけての様子がよく見渡せる。
五月の上旬。
眩しいくらいの陽光と新緑の中、深い緑色の制服を身につけた男子生徒たちと、同色のブレザーに鮮やかなオレンジ色のリボンをつけた女子生徒たちが、軽やかに歩を進めていた。
鞄を肩に担いで気だるそうにしていたり、ふざけ合ったり、会話で盛り上がったり。そんな砕けた感じで歩いているのは二年生か三年生だ。
新一年生の仕草は、まだ固い。
入学してちょうどひと月。
精神的にも疲れがたまっている頃合いだろう。
しかも、ゴールデンウィーク明け。今年は連休に土日が重なり、大型連休となった。
休み前と後では精神状態が逆転する。憂鬱な気分で登校してくる生徒も多いはず。
つい先ほど行われた職員会議では、特に新入生の様子に気を配るよう教師たちに伝えたが、余計なお節介だったかもしれない。
子供たちは、環境に対する適応能力が驚くほど高い。
あっという間にこの学校の校風にも馴染んで、いつの間にかぐんと成長し、立派に卒業していく。
そんな時の流れを、九條廉太郎はもう四十年近く見続けてきた。
「時代は変わっても、この景色だけは変わりませんねぇ」
遠い過去に想いを馳せていた廉太郎は、ノックの音で現実に引き戻された。
「どうぞ」
「失礼いたします」
視聴覚室に入ってきたのは、教頭の早乙女撫子だった。
五十代前半の独身女性で、地味な色合いのスーツ姿。髪を団子状に結い上げ、四角い黒ぶち眼鏡をかけている。
身だしなみにも仕草にも、そして仕事っぷりにも隙がない。
まさに教師の鑑ともいえる女性教師だが、ただひとつ難点を挙げるならば、表情と目つきが厳しいところだろうか。
昔から、廉太郎は惜しいと思っていた。
せっかくの美人なのだから、野暮ったい眼鏡を変えて、朗らかに笑えばいいのにと。
そうすればきっと、恋人や結婚相手など選り取りみどりだったのではないか。
だが、どうやら自分は嫌われているらしく、余計なアドバイスを送る機会には恵まれなかった。
「どうしましたか、早乙女先生?」
翠凛館高校では、相手のことを名前で呼び合う決まりになっている。このルールは生徒たちにも適用されており、校長先生、教頭先生、用務員さん、先輩――と、役職のみで呼ぶ者はいない。
「九條先生。理事会の事務局から、お電話がありました」
開口一番、ぎろりと睨まれた。
誰もいない視聴覚室から生徒たちが登校する様子を眺めることを、廉太郎は密かな楽しみにしていた。
とても褒められた趣味とはいえないし、校長室を抜け出したせいで内線電話を回せず、教頭自ら探し歩くはめになったのだろう。
こういういい加減なところが、生真面目な彼女には許せないのかも知れないと廉太郎は思った。
「それは、お手数をおかけしました」
「折り返しのお電話になっています。校長室の机の上に、メモがありますので」
「分かりました」
忙しい朝には電話を遠慮するもの。重要性の高い案件――おそらく自分の後任の件だろうと当たりをつけた。
ちょうどよい機会である。
「ああ、早乙女先生」
廉太郎はちょいちょいと手招きした。
「ちょっとこちらに」
「……はい」
早乙女撫子が近くまで来たところで、腰の後ろで手を組みながら、窓の外を見た。
「いい、眺めでしょう?」
「……」
「この学校で一番の景色だと、私は思っています」
少し戸惑った様子を見せた撫子だったが、無言のまま廉太郎の隣で窓下の様子を眺めた。
しばらくして、廉太郎は話を切り出した。
「今年度で、私は定年退職です」
かすかに息を飲むような気配が伝わってくる。
頭の回転のよい撫子は先ほどの電話と関連づけたようだ。
「理事に、なられるのですか?」
「お誘いはありましたが、断りました。引退です」
自分は現場の人間だと廉太郎は考えていた。学校の経営が主となる理事の仕事に、まるで魅力を感じなかったのだ。
「私の後任には、貴方を推薦しようと考えています」
「……」
真面目で向上心が高く、意欲的である。生徒や教師たちからの信頼も厚い。
職員会議でもそうだが、撫子がいると場の空気がぴりりと引き締まるのだ。
のほほんとした自分が校長という大役を務めあげられたのも、確かな実務能力と有無を言わせない迫力のある撫子のおかげだと、廉太郎は評価していた。
彼女であれば、この学校を任せられる。
「早乙女先生」
静かな視聴覚室には、登校する生徒たちの楽しそうな声だけが、かすかに響いていた。
まるで隔絶されたような、別世界。
「この学校の生徒たちを。そして先生方を、導いていただけませんか?」
そう言って、廉太郎はにこりと微笑んだ。
万感の想いを込めた言葉と表情は、しかしひと言で打ち砕かれた。
「お断りいたします」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
「……え?」
定年退職を迎えようという上司の最後のお願いだというのに、あっさりと断られてしまった。
完全に予想外の展開である。
信じたくはなかったが、まさか――これほど嫌われているとは思いもしなかった。
大きなショックを受けている廉太郎に、撫子は追い討ちをかけた。
「そんなことよりも」
「そ、そんなこと?」
「リリス先生の件は、いかがいたしましょうか」
「……え〜と、授業に影響は?」
「ありません」
リリス・スピリットアウェイは、今年度採用されたばかりの新任教師だった。
金髪碧眼にダイナマイトボディを兼ね備えた北欧系美人で、担当教科は英語。日本語に不自由することはなく、テキパキと授業をこなし、生徒たちから絶大な人気を集めていた。
そんな彼女は、今朝の職員会議の場にいなかった。
寝坊をしてしまい、遅刻するのだという。
まあ、きちんと連絡してきたことだし、大目にみてあげようというのが、廉太郎の考えである。
だが、教員たちを統括する立場にある撫子には、別の姿勢を見せる必要があるだろう。
やや大げさに、廉太郎はため息をついた。
「やれやれ。連休明けとはいえ、生徒たちの規範となるべき教師がこれではいけませんねぇ。後で、私が厳しく注意しておきます」
だからお手柔らかに、ということだ。
「それよりも、早乙女先生。先ほどの話の続きですが……」
強引に話を戻そうとしたところで、チャイムが鳴り響いた。
あと十分で、ホームルームが始まる。
「仕事がありますので、失礼いたします」
厳しい表情のまま、撫子は踵を返した。
(2)
視聴覚室を出た早乙女撫子は、崩れ落ちそうになった。
血の気の引いた顔を手で押さえる。
全身の震えが、止まらない。
廉太郎さまが――いなくなってしまう。
覚悟はしていたが、とても受け入れられる現実ではなかった。
九條廉太郎とは、かれこれもう三十年ほどの付き合いになる。
今でこそ好々爺とした佇まいが似合う白髪の老紳士だが、かつてこの学校が荒れていた時代には、教師たちの先頭に立って生徒たちと真正面からぶつかっていく、熱い心を秘めた教育者だった。
その後、わずか四十歳で校長に抜擢された廉太郎は、改革者となった。
教師にとって一番大切なものは、知識ではない。
想像力と表現力である。
それは決して一方通行ではない、共感の力だ。
乾いた土が水を吸収するように、生徒たちが知識や考え方を理解している――そう確信できる感覚と技術を、教師たちは身につけなくてはならない。
ゼロからのスタートだと、廉太郎は宣言した。
理事会などの伝手を使って、外部から優秀な教師を招集し、研修会や討論を行った。
これと思ったセミナーに教師たちを参加させ、学び取ったことを他の教師たちに還元させた。
テストの採点などの雑務で時間を取らせないために、多くの事務員を雇い入れた。
生徒たちに対してヒアリングやアンケート調査を行い、細かな問題点を洗い出した。
しかし、保護者からの過剰な意見はばっさりと切り捨てた。
こうした活動の中から生み出された考え方や技術をまとめた資料は、翠凛館教本と呼ばれ、教育界隈では垂涎の的となっている。
改革の成果は、数年後に表れた。
まるで魔法にかかったかのように偏差値が急上昇し、難関大学への入学者が倍増したのだ。
勉強だけではない。
部活の時間は週に三日と決まっていたが、体育系文化系ともに優秀な成績を収めるようになった。
地元のテレビや新聞で翠凛館高校の――つまりは廉太郎の教育方針が知れ渡ると、改革はさらに加速した。
実績が教師たちの認識を変え、その行動が生徒たちの成長に影響を及ぼし、他校では真似のできないある種独特の校風を生み出したのである。
子供の数が減少し続けている現在においても、翠凛館高校への入学希望者は後を絶たず、今では県内屈指の難関校になっている。
すべては九條廉太郎の偉業であった。
約三十年前、翠凛館高校に新任教師として赴任してきた早乙女撫子は、先輩教師である九條廉太郎と出会った。
捉えどころのない飄々とした先輩教師だと思った。
挫折を知らず、自信とプライドの塊だった若き日の撫子は、廉太郎の独特の教育方針や考え方についていけず、猛反発した。
だが、言葉でも実績でもことごとく打ち負かされた。
担当教科は違ったものの、明らかに――生徒たちの偏差値に差が出ていたのである。
敵を打ち倒すには、まず敵を知ることからだ。
そう考えた撫子は、廉太郎をつかまえてはしつこいくらいに質問を繰り返し、議論を交わし合い、そして負け続けた。
教員用の女子トイレの中で人知れず悔し涙を流した回数は数えきれない。
絶対に、負けない。
いつかきっと自分の正しさを証明してみせる。
撫子が自分の本当の気持ちに気づいたのは、廉太郎が結婚の報告をしてきた、その日のことだった。
「そうですか。それは、おめでとうございます」
つんとすまし顔で、撫子は祝福の口上を述べた、と思う。
だがその夜。
自宅に戻った途端、何故かぽろぽろと、大粒の涙が溢れ出したのである。
あまりにも突然の現象に撫子は驚いた。
そして、ようやく気づいた。
自分が九條廉太郎という教師に対して、強い尊敬の念を持ち、九條廉太郎という男性に対して、熱い恋心を抱いていたことを。
すべては――遅かった。
その日以降も、廉太郎との関係は変わらなかった。
傍から見ればそりの合わない教師二人。
同僚どころか生徒たちにも揶揄されるくらい。
だが撫子の心の中には、常に暴風雨が吹き荒れていた。
九條先生はもう他の人のもの。
諦めなくてはならない。
いくら自分に言い聞かせても気持ちの圧力は弱まらない。それどころか、ともすれば破裂してしまいそうになる。
だから撫子は、廉太郎のそばにいる時には唇を噛み締め、相手に睨みつけるようにして自制心を働かせた。
その後、廉太郎が校長に就任すると、翠凛館高校の教育改革が始まった。
大きな変化は敵を作るもの。
怠惰で無能な教師たちは、新任校長である廉太郎に対し、徒労を組んで叛旗を翻した。
彼らが目をつけたのは、撫子だった。
ひと目もはばからず廉太郎と衝突していた彼女であれば、改革中止の旗印になるのではないかと考えたのだろう。
獅子身中の虫。
撫子は廉太郎のために反乱分子を潰すことにした。
教師たちとヒアリングを行い、敵か味方か中立か分別する。心揺れ動いている若手の教師には、理と熱意をもって説得した。
敵の情報をリークするとともに、撫子は廉太郎にこう進言した。
「今のうちに、外部から優秀な教師を引き入れる準備をなさってください」
そうとは知らない反乱分子たちは調子に乗って、こともあろうにサボタージュじみた行動をとった。
まさに一刀両断。
反乱分子は一掃された。
その後、撫子はすべての能力と時間を、廉太郎の教育方針を体現するために費やした。
どのような無茶な要求もふたつ返事で引き受けて、他の教師たちへ手本となるよう行動してみせた。
気がつけば、教員たちを束ねる教頭になっていた。
意味はあった。
女としては廉太郎の隣に寄り添うことはできないが、学校では違う。
廉太郎の考えをもっとも深く理解し、彼を支えることができる存在。
そう――
私こそが、職場の妻なのだ。
涙が出るほど悲しい勝利宣言であった。
誰にも語ることのなかった一方通行の想いは、しかし今日――粉々に砕け散った。
職員会議の後、理事会の事務局から廉太郎に電話が入ったので、撫子は内心うきうきと視聴覚室へ向った。
この時間帯、この部屋が廉太郎のお気に入りの場所であることを、撫子は知っていたのだ。
やはり、いらした。
『どうしましたか、早乙女先生?』
『九條先生――』
と、口に出して名前を呼ぶ時、撫子は密かに心の中で「廉太郎さま」と脳内変換している。
『理事会の事務局から、お電話がありました』
廉太郎はちょいちょいと手招きをした。
隣に立って、同じ景色を眺める。
感動だ。
時よ止まれ。
『この学校で一番の景色だと、私は思っています』
はい廉太郎さまと、心の中で同意する。
『今年度で、私は定年退職です』
心が押し潰されるかと思った。
確かに廉太郎は今年度末で退職する予定だ。
しかしまだ、希望はあった。
全国的にも名を馳せた名物校長である廉太郎が理事になることは、確実視されていたからだ。
まったく会えなくなるわけではないし、間接的に支えることもできるだろう。
『理事に、なられるのですか?』
『お誘いはありましたが、断りました。引退です』
希望は、潰えた。
撫子を次の校長に推薦すると廉太郎は言ったが、撫子にとってはもはや意味のない役職だった。
『この学校の生徒たちを。そして先生方を、導いていただけませんか?』
だから、きっぱりと断った。
同時に決意する。
自分もこの学校を辞めよう。
そして――どうする?
視聴覚室を後にした撫子は、ふらふらとした足取りで職員室へと戻っていく。
五年ほど前に廉太郎は妻と死別していた。
子供はいなかったはず。
無給でも構わないから家政婦として雇ってもらえないだろうか、などと、埒もないことを考えながら。
(3)
翠凛館高校に九條廉太郎が導入した奇妙な風習のひとつに、ホームルーム後の「三分間瞑想」なるものがある。
内容は読んで字のごとく、だ。
定刻になると、軽やかな音楽とともに録音音声が流れる。
『みなさん、おはようございます。ただいまより、三分間瞑想を始めます。肩の力を抜き、心を落ち着けて、今日一日の行動計画を思い浮かべましょう。それでは――』
開始の合図とともに、翠凛館高校は一番静かな時を迎える。
適度に緊迫した空気。遠くで聞こえる鳥の声。
目を閉じた生徒たちは、今日予定されている授業、休憩時間と昼休み、放課後の部活活動、帰ってからの行動などを思い描く。
心の準備を整え、集中力を高める大切な時間は、別の緊急放送によって破られた。
突然、災害時に使われる警報音が鳴り響いたのである。
『は〜い。グッモーニン、エブリワン』
スピーカーから流れてきたのは、艶のある女性の、軽やかな声だった。
流暢な発音から、声の主はすぐに特定された。
北欧のとある国からやってきたという、新任の英語教師だ。
『ひと月前にリリスと交わした約束、覚えているかしら?』
すべての教室内が、ざわめく。
『今からひと月前――そう、全校朝礼の時の話。みんな、リリスのこと、とても歓迎してくれたわ』
それは四月の初旬、講堂で行われた全校朝礼のことだった。
年度の始めの朝礼には、新任教師の紹介がある。
壇上に、金髪碧眼の北欧系美人教師が現れるや否や、どよめきにも似た声が沸き起こった。
教師の名は、リリス・スピリットアウェイ。
生徒たちの自主性を重んじる翠凛館高校では、校則や風紀といった締め付けは緩い。
ゆえに、かなりノリの良い生徒たちが多いのだが、それにしても異様な盛り上がり方だった。
新任の女教師も期待に応える性格のようで、ウィンクと投げキッスまでしてのけたものだから、講堂内は騒然となった。
教頭の早乙女撫子が底冷えする声で注意しなければ、騒ぎは収まらなかったかもしれない。
女教師がマイクを使って自己紹介をすると、すぐさま生徒たちから質問の声が上がった。
「はい、リリス先生! 誕生日はいつですか?」
「あら、ひょっとして、プレゼントをくれるのかしら?」
「はい。オレの愛をささげます!」
「うわっ、さっむ」
「おい、彼女が睨んでるぞ」
「やっべ」
失笑じみた笑い声が起こる。
「はいはい! 健全な男子高校生は、好きですか?」
「もちろん好きよ。可愛い女子生徒もね?」
女子生徒たちの間から歓声が上がった。
「彼氏はいますか?」
「おお〜、言ったぁ」
「……知りたい?」
誰もが、息を飲んだ。
それほどまでに魅惑的な声と表情だったのである。
「そうねぇ」
金髪碧眼の女教師は、言った。
「今からひと月。この場にいる生徒全員が、無遅刻無欠席を達成することができたなら。リリスのこと、何でも教えてあげる。ああ、もちろん、病気とか特別な事情があった場合は除きます」
一瞬の静寂の後、爆発的な騒ぎとなった。
「ただし、達成できなかった場合は――」
だから、喧騒に紛れてリリスが付け加えた条件を聞いていた者は、ほとんどいなかった。
たとえ聞いていたとしても、その後の展開は変わらなかっただろう。
あまりにも衝撃的な出来事だったので、ほとんどの教師や生徒たちは記憶していた。
あの全校朝礼から今日でちょうど一ヶ月。
密かにこの日を楽しみにしていた生徒たちも多く、LINEなどで活発に情報が交換されていたくらいだ。
スピーカーの声は続く。
『残念ながら、今日――リリスのクラスのとある男子生徒が、遅刻しちゃったの。賭けは、リリスの勝ちね』
うふふと、楽しげな笑い声が漏れてくる。
『じゃあ約束通り、リリスのお願い、ひとつだけ聞いてもらうわよ?』
突然、校舎全体が激しく揺れた。
室内灯――LEDの光が点滅する。
周囲の空気が帯電したかのように、ところどころ紫色の光がスパークする。
風もないのにカーテンがはためき、そして――
窓の外の景色が、一変した。
渦を巻くような、虹色の光。
そうとしか表現のしようのない輝きで、窓外の景色が覆い尽くされている。
これは、地震などではない。
天変地異。
「全員、伏せろ! 机の下に――早くっ!」
定期的な防災訓練の成果か、各クラスの担任の指示に、生徒たちは素早く従った。
虹色に輝いていたのは窓の外だけではなかった。
教師や生徒たちの身体――肌の表面も、同じように輝いていた。
『うふふ、うふふふふふっ』
スピーカーからは、笑い声が響いていた。
それはもはや魅惑的な女教師の声ではなく、生贄を前にした悪魔のような笑い声だった。
『ああ、素敵。素敵よ。あなたたちの感情……』
スピーカー越しに、恍惚とした表情が思い浮かぶようだ。
『さあ、みんな。リリスの愛を受け入れなさい。“揺れる魂の狂想曲”!』
『……三分間瞑想、終わり。みなさん、今日も一日、健やかに過ごしましょう』
まるで場違いのように、起伏のない録音音声が流れる。
超常現象はいつの間にか終わっていた。
揺れが収まり、帯電は消え、渦を巻くような虹色の光も消えた。
静かだった。
そして妙に薄暗い。
恐る恐るといった感じで机の下から出た生徒たちは、互いの無事を確認してから、窓の外に目をやった。
中庭や校庭は、同じ。
だが、空の色が違う。
先ほどまでの明るい皐月晴れの空は、薄気味悪い紫色の曇り空に変わっていた。
そして、学校を取り囲んでいる塀の向こう側には――
「あれって、森か?」
三年B組のとある生徒が呟いた。
翠凛館高校は小高い丘の上にあった。
特に三年生の教室がある三階からは、街の景観がよく見えた、はず。
しかし今、視界が届く範囲には、巨大な木々の絨毯――鬱蒼と生い茂る森しか見えなかった。
果てしなく広大な原生林だ。
わらわらと生徒たちが窓際に集まる。
「な、なんだよ、あの空。それに、森? ここ――住宅街じゃなかったのかよ!」
「黙れ! 静かにしろ! 全員、自分の席に戻るんだ」
パニックを起こしかけた別の生徒を、担任の臼井が一喝した。
反発心よりも戸惑いが勝ったのだろう。
不承不承といった感じで席に着いた生徒たちは、自分の担任の顔を見て、訝しんだ。
「なんだお前ら。文句でもあるのか?」
臼井は、笑顔の似合う明るいベテラン教師だった。
つい先ほどまで、生徒たちと活発に会話を交わしながら、楽しそうにホームルームをこなしていたはず。
こんな粗野な口調で話す教師では、決してなかった。
だが、そんなことよりも――
「う、臼井先生」
ひとりの女子生徒が挙手して発言した。
「なんだ?」
「その、臼井先生の、髪が……」
「髪のことは、言うな!」
確かに臼井の頭髪は薄かったが、自分の苗字と身体的特徴をかけ合わせることで、自虐的なギャクとして昇華できる度量を持っていたはず。
「まったく。お前たちは、先生が秘かに、どれだけ傷ついていたと思っているんだ。ちくしょうめ」
ぶつぶつと文句を言いながらも、ついいつもの癖で頭を撫でつけようとする。
「――うん?」
その時、スピーカーから校内放送の鐘が流れた。
教室内に、緊張が走った。
『教頭の、早乙女です』
空気が弛緩した。
透き通るような、若く、張りのある声だ。
つい先ほど職員会議に出席していた教師たちの中には、違和感を覚えた者もいたかもしれない。
『これよりみなに、九條先生――廉太郎さまの命令を伝える。各クラスの担任の教師は、怪我をした生徒がいないか、すみやかに確認すること。生徒たちがパニックを起こすと、二次災害に繋がる恐れがある。騒ぐようならば、問答無用で黙らせなさい。また、窓ガラスが割れている可能性もある。安全が確認されるまで、教室の外からは出ないように。よいか。偉大なる廉太郎さまが築き上げた名誉ある翠凛館高校の、教師、あるいは生徒として、恥ずかしくない行動を取りなさい。以上!』
(4)
会議が始まる前から、職員会議室は大混乱に陥っていた。
「だ、誰だ、お前!」
「あんたこそ誰だ!」
若い二十代の教師たちはそれほど違和感はなかったが、中年以上の教師たちは完全に見違えた。
特に変化が激しかったのは、三年B組の担任、数学教師の臼井学と、二年A組の担任、古典の教師の玉木太朗である。
頭髪が寂しかった臼井はふさふさに、そして百キロ以上の巨漢だった玉木はスリムになっていた。
もっとも、変わったのは二人だけではない。
あの超常現象の後、どういうわけか全ての教師が若返り、およそ二十歳くらいの姿になっていたのだ。
会議室に集まったのは、二十一名。
各クラスの担任が十八名、校舎内の見回りをしていた体育教師の牧田保と、同じく敷地内の見回りをしていた用務員の長谷川陣、そして学校保健師の美樹谷紅である。
校長と教頭の姿はない。
「うわっ。美樹谷先生、ずいぶん派手になりましたね」
茶髪から何故か鮮やかな赤髪になった白衣姿の美樹谷が、白い歯を見せるハンサム教師、一年E組担任の小野寺和也を一瞥した。
「あん? お前、あたしに喧嘩売ってんのか?」
「どうですか、美樹谷先生、オレと、セ――」
その時、会議室の扉が開いて、二人の若い男女が入って来た。
「お待たせしました」
男は仕立ての良いスーツとしっかりと磨かれた革靴を身につけていた。癖のない黒髪に、縁のない眼鏡。目元は涼しげ。口元は厳しく引き締まっている。
一方の女性は、艶やかな黒髪を腰のあたりまで伸ばしていた。
前髪は真っ直ぐに切りそろえられ、形の良い眉をわずかに隠している。切れ長の目に、けぶるような睫。顎の線は細く、優美なラインを描いている。肌の色は透き通るほど白い。
まさに大和撫子を形に表したかのような、圧倒的な美貌の持ち主だった。
男は縦長のロの字型の座席の、上座に着座した。
女は何故か、男の斜め後ろに立って待機する。
「校長の、九條です」
上座の男が、言った。
ざわりと会議室が騒めく。
「と、いうことはまさか……」
愕然としたように立ち上がったのは小野寺だ。
「後ろの超美人さんは、ひょっとして、早乙女先生?」
「そうですが、何か?」
小野寺は、ふらふらとした足取りで上座に向かうと、冷たい眼差しを向けてくる超美女に向かって、右手を差し出しながら勢い良く頭を下げた。
「オレと――セックスしてくださいっ!」
「……」
超美女がその手を取った瞬間、小野寺の身体が宙で一回転した。回転中の小野寺の背中に、掌底が繰り出される。
「ぐはぁっ!」
吹き飛ばされた小野寺は、会議室の床に転がった。
「この、不埒者が!」
しんと、会議室が静まり返った。
しばらくして、くつくつと笑い声が漏れる。
「早乙女先生は、古武道の達人ですよ。それだけじゃなく、花道、茶道、舞踊と、なんでもござれだ。まあ、今の若い先生方はご存知ないでしょうがね」
冷笑を浮かべつつ説明したのは、三年C組の担任渋谷理である。
「しかし早乙女先生。そのお姿、見違えましたよ。いやはや、三十年前の記憶が蘇ります」
「そう言う渋谷先生は、あまり変わっていませんね」
「私は、昔からフケ顔ですから」
渋谷は早乙女の同期である。細みの長身で、髪をオールバックにしている。推定で三十歳くらい若返っているはずだが、独特の風貌や佇まいで判別がつく。
「……小野寺、サイテー」
「這いつくばったまま、死んじゃえばいいのにぃ」
床の上で悶え苦しんでいる小野寺を見据えながら、一年B組とC組の担任である有栖川萊智と有栖川莱夢が侮蔑の言葉を吐き捨てた。
彼女たちは双子の姉妹である。
担当教科は物理と化学。
私立翠凛高校の理事長の孫娘であり、完全に縁故採用ではあったが、実力的には申し分ない教師である。
「これも、教育における愛の形のひとつですわ!」
「早乙女センセ、半端ないっスねぇ」
「……羨ましい」
「は、袴を、着ていただかなければ」
蔑んだり、楽しんだり、別のことを妄想したり……と、他の教師たちも小野寺を心配している様子はない。
机の上で手を組みながら内心冷や汗をかいている、九條廉太郎を除いては。
早乙女撫子が廉太郎に向かって一礼した。
「廉太郎さま。お見苦しいところをお見せしました」
「あ、いえ。それより、小野寺先生はだいじょうぶですか? 美樹谷先生に診てもらった方が……」
「問題ございません。急所は外しましたので」
撫子はジャージ姿の体育教師に指示を出した。
「牧田先生。不埒者を、着座させてください」
「はっ、お任せを」
牧田はうずくまっている小野寺の襟首をむんずと掴むと、強引に持ち上げて、会議室の椅子に座らせた。
低い呻き声を上げながら、小野寺は机の上に突っ伏している。
「廉太郎さま、準備が整いました」
それでいいのかと廉太郎は思ったが、状況を掴むまではみなを刺激しないほうがよいと判断した。
「ご苦労さまでした。では、会議を始めましょう」
(5)
奇妙な――そう、まるで出来の悪い夢の中に紛れ込んでしまったかのような、奇妙な状況だった。
「三分間瞑想」開始直後の、リリス・スピリットアウェイによる、謎の緊急放送。
最後にリリスが意味不明な言葉を投げかけると、まるでそれが合図だったかのように、超常現象が起こった。
校舎全体が揺れ、空気は帯電、スパークし、窓の外が虹色の輝きで覆われた。
自分の身体もまた虹色に輝いていることを、廉太郎は把握した。
校内や地域の災害対策にも力を入れてきた廉太郎だったが、このような事態は初めてだった。
超常現象が収まり、ほっとしたのも束の間、校長室に若い女性が飛び込んできた。
「廉太郎さまっ、ご無事ですか!」
遥かなる過去の記憶が呼び起こされた。
それは、今から三十年ほど前。新任教師として翠凛高校にやってきた、気が強く、頑固で意地っ張りな女性教師の姿だった。
他人の空似などでは断じてない。
それに、服装がまったく同じだ。
「……早乙女、先生?」
「あ、はい。何でしょうか」
「その、お姿は?」
「え? ああ、その……」
早乙女撫子に似た若い女性は、恥ずかしそうに頬を染めた。
「実は、伊達眼鏡なんです」
確かに野暮ったい黒ぶち眼鏡はかけていないが、そういう問題ではない。
話し合ってみると、確かに早乙女撫子であることが分かった。
変わっていたのは撫子だけではない。室内にあった鏡で確認すると、そこにはまるでアルバムの中の写真のような、若い頃の自分が写っていたのである。
髪が黒々としている。しわがなくなり、皮膚のたるみが消え、筋肉が引き締まっていた。
廉太郎はズボンからシャツを出して、捲り上げた。
「な、何をっ、なさるの――はうぅ」
どんなことが起きても動じないはずの撫子が、両手を顔に当てて恥ずかしがっている。
だが、指の隙間からしっかりとこちらを見ていた。
「傷が、ない」
「……へ?」
「私は、就職直後――二十二歳の時に、盲腸の手術をしているんです。荒唐無稽な話ですが、もし仮に私が若返ったとするならば、大学生くらいの年齢だと思われます」
「な、なるほど」
おそらく原因は、あの虹色の光。
リリス・スピリットアウェイが関わっているとしか考えられない。
廉太郎は撫子とともに放送室に直行したが、そこはもぬけの殻だった。
「このままでは、教師や生徒たちがパニックに陥る可能性があります。早乙女先生、構内放送を使って、状況把握が終わるまで教室内で待機するよう指示を出してください。災害対策マニュアルの、地震の際の対応を参考に」
「はっ、ご命令、承りました!」
「私は屋上に行きます。外の様子が、変でした」
その後、情報確認と共有のために、担任の教師たちを会議室に集めたわけだが、やはりというか全員が若返っていた。
だが問題は、それだけではないようである。
「生徒たちを不安にしたまま待たせるわけには行きません。効率よく会議を進めましょう」
だらだらと長引く会議を、廉太郎は好まない。
全員に簡単なレジュメを配った。
大きな項目は三つ。
現状と原因(推測)、課題と解決策、直近の対策及び中長期的な行動方針である。
定例の職員会議では教頭の撫子が仕切ることになっているが、今回の問題は翠凛高校のすべての教師、生徒たちの安全に関わる。
廉太郎自ら議長を務めることにした。
「まずは現状から――みなさんも、何か気づいたことがあれば、遠慮なく発言してください」
物事はできるだけ単純化した方が、伝わりやすい。
廉太郎は、この翠凛高校に起きた変化を三つに絞った。
「ひとつめは、我々の身に起こった現象です」
これをすっきりさせないと、心の平静が得られず、話が先に進まない。
「私も含めてですが――みなさんの肉体年齢が、およそ二十歳くらいに若返っているように思われます」
数学の臼井学が髪を整え、古文の玉木太郎が腹のあたりをさすった。
「澤村先生。生物学的に、このような現象は、ありえるのでしょうか?」
生物の教師である澤村敦に、廉太郎は聞いた。青白い顔をした肉づきの悪い男で、もともと気の弱い性格だったが、今は何かに怯えるかのようにおどおどしている。
「う、海にいる|ベニクラゲなんかは、ポリプ期まで退行――つ、つまりその、若返って、再び成長することが知られていますが、哺乳類が、しかもこんな短期間にというと、む、無理です、はい」
「ぼそぼそ話してんじゃねぇよ。キンタマついてんのか、コラ」
「――ひっ」
真っ赤な髪の学校保健師、美樹谷紅にすごまれて、澤村は怯えたように縮こまった。
「頭の中の世界、っていうのは、どうですか?」
挙手をして発言したのは、冴えない中年が若返った感じの冴えない青年、屋敷隆である。
「屋敷先生、続けてください」
と、廉太郎が促した。
「我々の身体は、実はカプセルの中で眠っている。頭の中には様々なケーブルが埋め込まれていて、機械に繋がっている。そして、巨大なコンピュータで管理されている。つまりは――共通の夢を見ているわけですよ、ひひっ」
日本史の教師である屋敷は、何故かSFマニアだった。
「あるいは、我々は既に死んでいて、魂だけの存在に成り果てている……っていうのは?」
「気持ちの悪いことを、おっしゃらないで!」
立ち上がってヒステリックな声をあげたのは、現代文の教師、国府田愛だった。
とても真面目な熱血教師で、ベテラン教師たちからは早乙女二世などと揶揄されることもある。
「これ以上、無駄口を叩くようでしたら、正義の鉄槌を下しますわよ?」
教師たちが不安や不満、あるいはとりとめのない感想などを口に出し始め、会議室の空気は淀んだ。
やはりおかしいと、廉太郎は心の中でため息をつく。
これでは埒があかない。話をまとめて、次に進もうとしたところで、
「皆の者、控えよ!」
早乙女撫子が一喝した。
「偉大なる教育者、廉太郎さまの、冒頭のお言葉を聞いていなかったのか! 不安がっている生徒たちを待たせるわけにはいかないとおっしゃられたのだ。従えぬ者は――殺すぞ」
比喩的な表現でなく、空気が震えた。
これでは騒ぎになると廉太郎は危惧したが、会議に参加していた教師たちは、みな青い顔をして、ごくりと唾を飲み込んだ。
話を聞き入れる体制が整ったことを確認すると、撫子は廉太郎に向って慈愛に満ちた微笑を浮かべた。
「廉太郎さま。お見苦しいところをお見せしました」
「い、いいえ。ご苦労、さまでした」
おそらく――この教頭が、一番おかしくなっている。
問題は、自覚しているかどうかだ。
「二つ目の変化。それは、心です」
確信を持って廉太郎は明言した。
「我々の変化は、肉体だけではありません。精神まで変わってしまっている気がしてなりません」
比較的まともだと思われた教師に問いかける。
「渋谷先生、どう思われますか」
「そうですね」
普段は真面目な顔で駄洒落を言ったり、生徒たちをからかったりして、空気を和ませるベテラン教師だが、若い頃は生徒たちとの接し方に悩み、何度も廉太郎に相談にきた。
彼が本当は繊細な性格であることを廉太郎は知っていたし、信頼関係もある。
「なんだか、馬鹿らしくなる」
「……え?」
「そんな感覚、でしょうか?」
驚いたのは廉太郎だけで、他の教師たちは感覚的に納得している様子だった。
「これまでの私は、“教師”という殻に、無理やり精神を押し込めていました。二重性とでもいうのでしょうか。生徒たちから見た教師である自分と、本来あるべきだった自分。その差が現れ出たのではないでしょうか」
「渋谷先生の言に、賛同いたします」
そばに控えていた撫子が、何故か悔しそうに拳を握りしめながらぶるぶると震えていた。
「人生には、限りがあるのです。取り返しのつかない後悔はするべきではありません」
「そ、そうですね」
「こんなことならば。もっと素直に、出会ったその瞬間に――想いを伝えるべきでした!」
「……え?」
話が脱線している気がする。
(6)
「――というわけで、我々は肉体だけでなく、精神も変化しているということです。これは、大きな問題です」
廉太郎は問題提起した。
「え〜、おじさま、どうして?」
「若返ったんだからいいじゃん。なんか、楽しいし」
有栖川莱智と有栖川莱夢が、そろって口を尖らせた。
莱智は机に突っ伏して、両足をばたばたしている。莱夢は両手を頭の後ろに組んで欠伸をした。
二人はこの学校の理事の双子の孫娘だった。
廉太郎は彼女たちが子供の頃から知っており、よく遊んであげたものだ。誕生日には欠かさずプレゼントを届けていた。
おじさまというのは完全にプライベートの時の呼び方である。
会議室で口に出すということは、教師として、社会人としての体面をかなぐり捨てているに等しい。
だがそんなことを諭したところで、このわがまま娘たちが従うとは思えなかった。
「今は、非常事態だからね。生徒たちも毅然とした――頼り甲斐のある先生を求めてるんじゃないかな? 二人だったらできるよね?」
「うん、できるよ」
「まかせて、おじさま」
物理と化学の教師は、びしりと気をつけした。
これはしんどいと、廉太郎は思った。
これまでは校長と教師という共通認識をもとに意思疎通が行われていたのだが、それがきれいさっぱりなくなっている。
下手に校長の権威を振りかざした場合、直情的な反発を受ける可能性が大である。
教師ひとりひとりに対して対応を変える必要がありそうだ。
いや、ひょっとすると教師だけでなく……。
そこで、はたと気づいた。
「渋谷先生。生徒たちの様子は、どうでしたか?」
「我々のように若返ってはいませんが、普段は大人しい生徒が、ぎゃあぎゃあと泣き叫んでいました。泣いても無意味だと黙らせましたが」
冷酷な口調で渋谷が発言すると、臼井と玉木が頷き合った。
「そういえば、三年B組も、泣き出す奴、いたなぁ」
「二年A組は、笑い出す奴がいたよ。まったく何がおかしいんだか」
かなり問題はあるものの、とりあえずは教室内で着座して待っているらしい。
もし理性という箍が外れているのであれば、男子と女子を分けるべきなのかもしれないと、廉太郎は考えた。
思春期の精神は、ただでさえ暴走しやすい。
「とにかく、今は非常時です。これ以上のパニックは、我々の望むところではありません。各自、今の自分が以前の自分と違うことを自覚した上で、生徒たちと接してください」
あからさまに面倒くさいという仕草や態度が目についたが、再び早乙女撫子が一喝した。
「貴様ら、叩きのめされたいのかっ! 聡明なる廉太郎さまの、有難いご命令である。返事をなさい!」
「は、はいっ!」
全員が背筋を伸ばした。
この統率力は、一体どこから生まれてくるのだろうか。
「……早乙女先生、ご苦労さまです」
「教頭として、廉太郎さまを補佐する職場のつ――つつつみゃとして、当然のことをしたまでです」
奇妙な単語が飛び出たような気もするが、廉太郎は会議を進めることにした。
「次に、学校に起こった変化についてです」
校舎内の損害は軽微で、窓ガラスが数枚割れただけだった。体育教師の牧田の手によりすでに破片は撤去され、段ボールとガムテープで塞いでいる状態だ。
敷地内の損害もない。
これは用務員の長谷川が確認していた。
「窓の外を確認した方は、気づかれたかもしれませんが」
五月晴れの空が、紫色の曇り空に変わっていた。
「莱智先生と、莱夢先生――」
二人は口を尖らせた。
「ともちゃんと、ゆめちゃん。何か心当たり、ないかなぁ」
研究者としても優秀な、物理と化学の教師である。超常現象に関しては、多少なりとも知識があるのではないか。
「ん〜とね、太陽フレア。ぺろり」
「核兵器、着弾!」
「ありきたりだけどぉ、隕石落下?」
「生物兵器かも。拡散式」
「とうとう、ペテルギウスが――」
「イエローストーン噴火、どっかーん」
ひとしきり可能性を列挙してから、二人は声を揃えて、
「そのどれか」
と、言った。
「僕だったら、カプセルの中でチューブ説を推すなぁ」
SFマニアの屋敷を、無言のまま国府田が睨みつける。
「それくらい荒唐無稽な現象が起きているということですね」
廉太郎はこれまでに知り得た情報を伝えた。
校舎内の電気は使える。水道も使える。テレビは映らない。ラジオもノイズ以外は聞こえない。内線電話は使えるが、外線電話と携帯電話は使えない。インターネットにも繋がらず、外からの情報を仕入れることはできない。
「もうひとつ。これは実際に目にしてもらった方が早いですね」
廉太郎は、全員を屋上へと案内した。
そこには教師たちを驚愕させる景色が広がっていた。
「な、なんだこりゃあ」
「これって……」
「嘘だろ、おい」
頭上には、不気味な紫色の曇空。風の流れは早く、勢いよく流れている。
そして学校を取り囲むように、不気味な森が広がっていた。
視線の届く範囲には、建物らしきものは見えない。
遠くの方は霞んでいて、時おり稲光が走っていた。




