飄々(ひょうひょう)ひょう太(1)〜(4)
(1)
妖怪の定義は、実に曖昧だ。
存在そのものが曖昧なのだから致し方ないところだが、無理やり言葉で表現するならば、『”隠世“に棲みつく知的生命体』ということになる。
ちなみに”隠世“とは、”現世“と”常世“の狭間にある世界のこと。巨石や巨木、神社の鳥居といった、いわゆるパワースポットと呼ばれる場所から、比較的容易に行き来できたりする。
”隠世“の住人である妖怪たちが生きていくために必要なものは、衣食住よりも遊。つまり、娯楽であった。
生きがいと言い換えてもよいだろう。
何しろ妖怪たちは、寿命が長い。数百年から数千年、平気で生き続けたりする。
だというのに、”隠世“は、あまりにも変化に乏しかった。
妖怪たちは基本、個人主義で、怠惰で、かつ気まぐれである。
科学技術や文化の発展など、とても望めない。
人間たちがコンピュータを発明し、ネット上で膨大な情報をやりとりして、高層ビルや宇宙ステーションを建造している間も、妖怪たちはあいも変わらず酒を飲んだり、喧嘩をしたり、互いに喰らいあったりと、太古の昔と変わらぬ自堕落な生活を享受していているのであった。
さて、”隠世“の“鷺森”と呼ばれる森に、風変わりな妖怪が生まれた。
種族名を小豆洗い、名をひょう太という。
この妖怪、何を隠そう人の生まれ変わりであった。
妖気の吹き溜まりから自然発生する妖怪たちは、”隠世“で生きていくための基礎知識と種族としての本能を、生まれながらに備えている。
それに加えてひょう太は、人間として生きていた頃の、つまり前世の記憶を持っていたのだ。
ゆえに、彼は混乱した。
つい先ほどまで、改善される見込みもないブラックな企業で、六十日間連続勤務という自己新記録を打ち立て、意識も朦朧としたままベッドに倒れこんだばかだりというのに、目を覚ますと奇妙な場所にいたのだから、無理もないことだろう。
周囲は妙に明るい。白く濃い霧が立ち込めており、曲がりくねった木々が不気味な影を作っている。
どうやら森の中のようだ。
頭上の空は紫色で、驚くほど巨大な三日月が張り付いていた。
「ははっ、夢だな。夢」
少しばかり移動すると、澄んだ泉があった。
そこで初めて、ひょう太は自分の姿を確認することができた。
水面に映っていたのは、化け物だった。
小豆洗いは比較的人間に近い妖怪だが、異形であることに違いはない。
身体に比して頭が大きく、ぎょろりとした目は人間の三倍はあり、鼻は小さく、口は裂けている。髪は長くボサボサで、耳が笹の葉のように尖っていた。身長は約百五十センチ。ひどい猫背で腰が曲がってる。
しかも、藁蓑に赤ふんどしという赤面ものの姿。
「これは、ひどい」
無理やり背筋を伸ばすと、ばきばきと骨が音を立てた。
「いたたたっ」
ということは、夢ではないようだ。
ひょう太はため息をついた。
自分は人間ではなく、妖怪小豆洗い。
ここで、この姿で生きていくのかと、ひょう太は考えた。
「まいったなぁ」
節くれだった獣のような手で器の形を作ると、そこに小豆が溢れ出てきた。
深い赤、艶があり、硬い。
ずいぶんと立派な大粒である。品種は大納言だろうか。
しばらく手の平いっぱいの小豆を見つめていたひょう太は、おもむろに泉の中に手を入れて、小豆を洗い始めた。
しょり、しょり、しょり。
何故か、心が落ち着く。
「……ふう」
平静を取り戻したひょう太は、今後の方針を考えた。
”隠世“に住む妖怪たちの中で、小豆洗いという種族が弱い部類に入ることを、彼は何となく知っていた。
上位の妖怪に見つかり、気分を害したならば、とって喰われてしまうだろう。
ここは、あまり動かないほうが得策か。
幸いなことに、この森には泉と木がある。
種族特性として小豆も出せる。
仮の住処を探し、鍋の代替品を作り出すことができれば、しばらくは生きながらえることができるはず。
この方針を、ひょう太は却下した。
「そうだ、仕事!」
あろうことか、種族としての本能を、前世の生き様が上回ったのだ。
人間時代のひょう太は、自他共に認めるワーカホリックだった。
他人から頼まれると断れない性格が災いして、入社当初から無茶な仕事を押しつけられてきた。責任感が強く、適当に手を抜くことができなかった。さらには、上司や同僚たちにも恵まれなかった。
唯一の救いといえば、膨大な仕事を、効率よく正確にこなす能力に長けていたことだろう。
周囲から見れば不可能と思える仕事量を、ひょう太はぎりぎりのところで乗り切ってみせた。経験を積めば、キャパシティも広がる。ミスらしいミスもなく、常に同僚の三倍から五倍の仕事をこなしていたひょう太は、上司や顧客から絶大なる信頼を勝ち得ていた。
自分がいなくなれば、会社が潰れる、とまではいかないものの、所属する部署は大ダメージを受けることだろう。同僚たちは、おそらく死ぬ。
もはや挽回することはできないだろうが、せめて自分がいないことを、一刻も早く上司に報告すべきだと思った。
「どこだ?」
妖怪としての基礎知識が告げていた。
この森のどこかに、隠世と”現世“をつなぐ出入り口があるはず。
ひょう太は跳んだ。
まるで蚤のようにぴょんぴょん飛び跳ねながら、濃い霧が立ち込める不気味な森の中を、猛スピードで駆け抜けていった。
(2)
しばらく飛び跳ねていると、微弱な気配を感じた。
言葉にするのは難しいが、ざわざわと毛が逆立つような感じ。
かなり弱い。自分と同じくらいの妖気だ。
これならば危険は少ないだろうと、ひょう太はその場所に向かった。
霧の中に光があった。
それは焚き火だった。
森の中の少しひらけた場所、焚き火そばに、一体の妖怪がいた。
ジャラン。
不意に、古風な弦楽器の音が鳴った。
「祇園精舎のぉ〜」
ジャララン。
「鐘のぉ、音ぉ〜」
これは、平家物語か。生で聴くのは初めてだ。
飛び跳ねるのをやめて、ゆっくりと近づく。
「諸行ぉ無常のぉ〜」
低く、迫力のある女性の声だ。
「響きッ⁉︎」
ジャラバチコンッ。
驚いたようにこちらを振り返ったのは、琵琶の妖怪だった。
頭部が琵琶で、身体は人間。古びた着物を身につけている。頭を傾けるようにして弦を押さえているので、とても弾きにくそうだ。
「こんにちは」
すごい音がしたなぁと思いながらひょう太が挨拶をすると、琵琶の妖怪は、顔を――つまりは琵琶を真っ赤にした。
ひょう太は自己紹介をした。
「僕は、小豆洗いです」
「こ、これはどうも、ご丁寧に。琵琶牧々でございます」
「お邪魔をしてすいませんでした。お続けになって下さい」
「い、いえ。お構いなく。わたくし、極度のあがり症で。ひと様に見られていると、上手く弾き語ることができないのでございます」
弾き語っている時とは違う、可愛らしい声だった。
アニメの声優っぽい。
「とてもよい音色をされていますね」
この褒め方が適切かどうかは分からないが、琵琶牧々は再び真っ赤になって、恥ずかしそうに俯いてしまう。
そろそろ用件を切り出そう。
「ところで琵琶牧々さん。ひとつお聞きしたいことがあるのですが」
ひょう太は自分が生まれたばかりであること、”現世“に用事があることを伝えた。
「どうにかして”現世“へ行きたいのですが、その場所も、行き方も分からないのです。よろしければ、教えていただけませんか?」
「まあ、さようでございましたか」
琵琶牧々は親切な妖怪だった。
ひょう太にとってそれは、非常に幸運な出会いであった。
“鷺森”にそれほど強い妖怪はいない。だが、残忍で狡猾な輩はいる。何も知らないひょう太のことを騙して、たとえば匂いを嗅ぐだけで身体が痺れてしまう瘴気の沼に誘い込まれる可能性すらあったのだ。
趣味や生きがいを見出せない妖怪たちは、邪の道に走りやすい。
琵琶牧々には、音楽という極めきれない道があった。
「巽の方角。ちょうどお月さまの方に向かって、半里ほど」
一里は確か約四キロなので、二キロくらいか。
「森のはずれに、白い彼岸花が一輪、儚げに咲いてございます」
「白い、彼岸花?」
「はい。そこが、隠世扉。”現世“へと繋がる道」
ジャラン。
効果音付きだ。
「ただし」
琵琶牧々は、扉の使用に関する注意事項を教えてくれた。
隠世扉を通った先の出口は、現世扉といって、同じく白い彼岸花が咲いているらしい。
「現世扉がある地名と、周囲の景色をしっかり思い浮かべながら、扉を通りませ。でなければ」
ジャララン。
「迷いまする」
「……」
ひょう太が沈黙していると、やや遠慮がちに琵琶牧々が申し出てきた。
「あの、もしよろしければ、わたくしがご案内いたしましょうか? 初めて隠世扉を通る方には、付き添いが必要ですから」
隠世扉も現世扉も無数にあり、しっかりとイメージを持たなければ、どこに飛ばされるか分からない。下手をすると、”常世“の地獄へ落ちることもあるという。
ぞっとしない話だ。
「いえ、だいじょうぶです。ありがとうございました」
ひょう太はお辞儀をすると、両手を前に差し出した。
「これは、お礼です」
思わず差し出された琵琶牧々の手の平いっぱいに、小豆を落とす。
「では、またご縁があれば」
「は、はぁ」
やや呆然としている琵琶牧々を残して、ひょう太は走り去った。
琵琶牧々の親切を受けなかったのには、理由がある。
小豆洗いは飛び跳ねて移動できるが、着物姿で草履を履いた琵琶牧々ではそうはいかない。
森の中、二キロ近い距離を歩くのは、かなり時間がかかるだろう。
それに、行き先については当てがあった。
巨大な三日月に向かって、ひょう太はぴょんぴょん飛び跳ねていく。
ほんの十分ほどで、目的の場所にたどり着いた。
空気の流れが違う。空間の歪み、のようなものを感じた。
そして、やや大きな二つの妖気。
見つけた。
枯れ果てた古木の、根元。
ぼんやりと白く輝く花。
彼岸花だ。
「あいや待たれいっ!」
「新参者が、どこへ行く!」
ひょう太の行く手を阻むように、二体の妖怪が現れた。
(3)
白い彼岸花を、ひょう太は何度か見かけたことがあった。
人間だった頃、”現世“での話だ。
それは終電ぎりぎりの会社帰り、半死半生といった感じでふらふらと帰宅する途中のこと。
住宅街の片隅の、ほんの半畳ほどのスペースに、壊れかけた木造の祠があった。
立て札もなかったので、謂れも、どのような神様が祀られていたのかも分からない。
その祠の前に、時おり白い彼岸花が咲いていたのである。
いつも見つかるわけではない。
本当に疲れ果てて、意識が朦朧としている時にだけ見えたような気がする。目を凝らして観察すると消えてしまうので、疲労からくる幻影だと思っていた。
だが、違った。
その時の自分は、”現世“から”隠世“を経て、”常世“、つまり死の世界へ引き込まれようとしていたのだ。
おそらくあの場所が、現世扉のひとつ。
ひょう太は自分が住んでいた街の地名と、祠の様子を思い浮かべた。
「我こそは、“鷺森”の主たる大妖怪、火間虫入道様の一の子分、手長だ」
「同じく、火間虫入道様の一の子分、足長だ」
ひょう太の前に現れた二体の妖怪、異様に手の長い髭面の妖怪と、異様に足の長い禿げ頭の妖怪は、互いに見つめ合った。
「わしが一番だろ?」
「いや、わしのはず」
「嘘をつくな。舌を引っこ抜くぞ!」
「そちらこそ。この前、将棋でわしに負けたことを忘れたか!」
「あれは無効だ、このイカサマ野郎」
「なんだと!」
「すみません、先を急ぎますので」
いがみ合っている妖怪たちの間を駆け抜けると、ひょう太は白い彼岸花のすぐ上、空間が渦を巻くように歪んでいる穴の中に飛び込んだ。
「お、おい、貴様っ!」
「待て――」
どぷりと、水の中に飛び込むような感覚。
瞬間、体内の妖気がごっそりと抜け落ちた。
目眩を堪えていると、少しずつ感覚が戻ってくる。
どこか懐かしい風が、頬を撫でた。
目を開けるとそこは、見慣れた住宅街の一角だった。
壊れかけた祠の前。足元には、白い彼岸花が揺れている。
時刻は、おそらく深夜。
「帰って、きた」
”現世“、人の世界だ。
しばし感動に浸りたいところだが、あいにくと今の自分は異形の化け物である。しかも藁蓑に赤ふんどしという致命的な姿。
警察官や通行人に出会わないよう注意しながら、ひょう太はこそこそと移動した。
幸いなことに、誰ともすれ違うことなく、自宅のマンション前にたどり着くことができた。
ひょう太の部屋は三階である。
エントランスに入ってエレベーターを使うためには、ICチップ内蔵の鍵が必要だし、入口前の端末から呼び鈴を鳴らしても、誰も出ないだろう。
ひょう太はマンションに隣接している駐車場側にまわると、周囲の様子を窺いながら跳躍した。
二メートル以上はあろうかというフェンスを越えて、マンションの敷地内に着地する。
そこからは、雨樋を伝って登っていく。
三〇二号室の扉の前に来た。
自宅にいる時には、扉の鍵をかける習慣がなかった。そのお陰で、今回は助かった。
予想通り、扉は開いた。
玄関には見慣れた革靴とスニーカーが一足ずつ。
そっと、リビングに入る。
真っ暗だ。
記憶を頼りに壁のスイッチを押すと、LEDの光が照らされた。
三十七型の液晶テレビ、仕事机、パソコンとプリンタ、キッチンに冷蔵庫。そしてエアコン。
何も、変わっていない。
使用済みの靴下が、リビングの床の上に投げ出されていた。
ひょう太は仕事机の上に無造作に置かれていたスマートフォンを手にした。
指紋認証、はできないので、パスワードを入力する。
日曜日の、午前三時過ぎ。記憶にある日付だった。
意外な事実にひょう太は驚いた。自分が帰宅してから、三時間と少ししか経っていないではないか。
心臓が、どくりと鳴った。
口の中が乾く。呼吸が乱れる。
小豆を洗いたい。
だがその行為は、現実逃避に過ぎない。
意を決して、ひょう太は寝室の扉を開けた。
リビングの光によって、部屋の一部が照らされた。
セミダブルのベッド、かけ布団の上に倒れ込むようにして、男が寝ていた。
ネクタイは外したようだが、そこで力尽きたらしい。身につけているのは、白いシャツにスラックス。仕事帰りそのままである。
靴下は履いていない。
とても不思議で、奇妙な光景だった。
「あの、すいません」
恐る恐る、ひょう太は声をかけた。
近づいて、突いてみる。
反応はない。
「あの、起きてください」
すでに鼓動は、早鐘のように鳴っていた。
ぜいぜいと息を荒げながら、小豆洗いのひょう太は、男の身体をひっくり返した。
ベッドの上の男、人間の田中平太は、息をしていなかった。
(4)
頬を強めに叩いたり、心臓マッサージをしたり、何とか魂を移せないかと額を合わせて念じてみたりと、できる限りのことをしが、やはり駄目だった。
心の動揺を抑えるために、ひょう太はキッチンのシンクで小豆を洗った。
それからデスクチェアに座って考えた。
これはもう確定である。
人間だった自分は、死んだ。
死因はおそらく、過労死。
頬はこけ、目の下にはクマができ、唇はかさかさ。人間だった自分の顔を観察すると、ひどい有様だった。
唯一の救いがあるとするならば、何よりも欲していた睡眠が取れたことで、安らかな死に顔だったことくらいか。
人間の自分が死んで、妖怪の自分がいる。
これは、輪廻転生というやつだろう。
ようするに、生まれ変わりだ。
死んで三時間後に生まれ変わるというのは、いさささか早すぎるような気もするが、世の中の仕組みとは、そういったものなのかもしれない。
すでにひょう太の心は静まっていた。
子供の頃から泣かず、落ち着きがあり、両親から子供らしくないと嘆かれたこともある。
学校でのあだ名は、ひょう太。
田中平太の読み方を少し変えたもの。
ひょうひょうとしているから、ひょう太。
妖怪に苗字は必要ない。家族という概念がないからだ。実際、小豆洗いとして生まれ変わった時にも、親はいなかった。
だから、これからはひょう太と名乗って生きていこう。
ひょうひょうのひょう太だ。
さて、直近の問題は、寝室にある死体の扱いである。
このまま放置した場合、月曜日か火曜日あたりに会社の上司か同僚が確認にきて、発見されることだろう。
その後、警察と家族に連絡がいき、検死が終われば、葬式が執り行われるはずだ。
今すぐに、自ら警察に連絡するという手もあった。
死体発見が早まるならば、それに越したことはない。第一発見者は自分になるが、警察が来る前に逃げてしまえばよい。いくら日本の警察が優秀だとしても、”隠世“までは捜査の手は及ばないだろう。
どちらの方法も、ひょう太は選ばなかった。
社会的に田中平太の死亡が確定してしまえば、預貯金などの財産は凍結されてしまう。役所で証明書類を発行することもできない。
今後、”現世“で活動する可能性があるならば、生きていると装った方が得策だと考えたのだ。
ひょう太はパソコンを起動すると、メールを二通出した。
一通は会社の上司宛て。
内容は、辞職届けと詫び文である。
もう一通は、実家に暮らす妹宛て。
内容は、会社を辞めて放浪の旅に出るというもの。最後の結びは、「探さないでください。かしこ」だ。
これでしばらくは、時間を稼ぐことができるはず。
ついでに、ネットで預金の残高を確認することにした。
七百万弱。文字通り、命を削って貯めたお金だ。
”隠世“に経済という概念があるかどうかは分からないが、”現世“で購入した商品と物々交換ができるのであれば、この金は有用である。
次に、ひょう太は着替えることにした。
クローゼットの中を探すと、フリーサイズのジンベエと短パンがあった。これで肌触りの悪い藁蓑と破廉恥な赤ふんどしとはおさらばだ。
クローゼットの奥にリュックサックを発見した。いつか登山をしよう購入したものの、結局使わなかったやつだ。
中に必要と思われるものを詰め込んでいく。リュックサックを身体の胸側に身につけると、ひょう太は自分の死体を背中に担いだ。
小豆洗いは野生の猿並みに力があるようで、重さ的に問題ない。ただ身長が低いので、死体の両足を引きずることになる。
周囲の気配や物音に気を配りながら、ひょう太は部屋を出た。逃げ道のないエレベーターはよろしくない。階段を使って一階まで降りると、エントランスから外に出る。
時刻はすでに、午前四時を回っていた。
人通りはないが、東の空がかすかに明るくなっている。
ここで警察に見つかったらおしまいだ。きょろきょろと周囲を見渡しながら、素早く祠へと移動する。
白い彼岸花は、まだ咲いていた。
安心した。
朝になると消えてしまいそうな、そんな気がしていたのだ。
「そういえば、手足の長い妖怪が言ってたっけ」
“鷺森”の主たる暇人何某が、云々かんぬん……。
ということは、あの霧深い森は“鷺森”というのだろう。
先のことを考えて、親切な琵琶牧々から、もう少し詳しく聞いておくべきだった。
反省である。
地名と、”隠世“に咲いていた白い彼岸花の周囲の風景を思い浮かべながら、ひょう太は再び空間の渦の穴へ飛び込んだ。
二度目の渡来も、うまくいった。
妖気をごっそり奪われたが、覚悟していたせいか、気を失うほどではなかった。
“鷺森”に、ひょう太は帰ってきた。
妙に落ち着く。ここが生まれ故郷だからだろうか。
いつの間にか、霧が晴れていた。
空に浮かぶ巨大な月の形が、少し変わったような気がする。
あの手足の長い妖怪は、いない。
誰かに見つかる前に済ませてしまおう。
ひょう太は隠世扉から少し離れた場所に移動すると、死体を降ろして、地面に穴を掘り始めた。
スコップやシャベルなどなかったので、代用品としてフライパンを持ってきたのだが、意外と使えた。
一時間ほどかけて穴を掘りあげると、半透明のゴミ袋で死体を包んだ。
お徳用七十五リットルの十枚入り。大きさも強度も十分である。
隙間なく包んで、ガムテープで繋ぎ合わせる。
「……」
まるでミイラだ。
本当は火葬にしたいところだが、燃料や木材がない。それに、直に土の中に埋めるのは、少し抵抗があった。
最後に土を被せる。
墓石はない。必要ないだろう。
どういう経緯であれ、自分はまだ生きている。
死体はあっても死者は存在しないという結論に落ち着いた。
とりあえずこれで、”現世“での用事は完了したわけだが、問題は何も解決していなかった。
”隠世“のことはほとんど分からないし、これからどうやって生きていくかも定まっていない。
「さすがに、疲れたなぁ」
ひょう太は大樹の根元に腰を下ろすと、その幹にもたれかかった。
少し休んでから考えよう。
ふと見れば、枝の先に小さな蝙蝠がぶら下がっていた。
ゆらりゆらりと揺れている。
いつの間にかうたた寝をしていたひょう太は、敵意を持った妖気が近づいていることに、気がつかなかった。




