安定志向の山田さんによる異世界転生(改稿前)(3)
(19)
“ミルナーゼ”の一年は、八つの月に分かれている。
奇数月は“季期”と呼ばれており、その期間は五十日間。
偶数月は“間期”と呼ばれており、その期間は二十五日間だ。
一年の日数は、合計で三百日となる。
一の季期は春、三の季期は夏、五の季期は秋、七の季期は冬と割り振られていて、儀一たちがカロン村にたどり着いたのは、夏と秋の間――つまり、四の間期の二十五日だった。
逆算すると、“オークの森”に異世界転生したのが、ちょうど四の間期の一日になるようだ。
これは偶然ではなく、カミ子がそう仕組んだからである。
「それで神様、一日の長さが地球と同じなのは、偶然ですか?」
“状態盤”に表示されている時刻は、二十四時間表記になっている。儀一が召喚したマンションの時計と比べると、時間の流れはほぼ一致した。
「ボクが管理していた“ガイネシア”――つまり、山田さんがいた地球と、“ミルナーゼ”の時間の流れは、全然違うよ」
暖房のきいたリビング内、デスクチェアの上で胡坐をかきながら、カミ子はガラスコップに注いだ酒――ジュキラ芋酒をぐびりと飲んだ。
「ふぃ~。そもそも時間なんてのは、空間の膨張や圧縮に作用されるだけの、儚い代物だからね。箱の内側に張ったゴムみたいなものさ。びーん、びーん」
ぎゃははとカミ子は笑った。
顔も赤いし、かなり酔っているようだ。
最近カミ子は、純白のドレスを着ていない。もっぱらマンション内では、ダサい、地味すぎると嫌がっていたはずの儀一の半纏とラクダの股引を身につけていた。金髪碧眼の美女でなければ、昭和のおじいさんだ。
「まあ、籠の中の鳥にとってはどうでもいいことだし? 籠の外から眺めれば、局所的なパラメーターに過ぎないよ」
籠の中の鳥とは、人間のことらしい。
「つまり?」
「今、山田さんが感じている一分は、地球の一分じゃないってこと。ひっく。このマンション内の時間を、“ミルナーゼ”の時間に合わせているだけ。そのほうが混乱しないでしょ?」
「僕と神様の会話をリアルタイムで地球の人が聞いていたら、早口だったり、間のびしたりするということですか?」
「ぜんぜん違うけど。まあ、面倒くさいからそれでいいや」
酔っ払いのご多分に漏れず、酒を飲むとカミ子は口が軽くなる。かなり有益な情報も得られるので、ここぞとばかりに儀一は酒を与え、活用していた。
「儀一さん。お風呂、お先にいただきました」
ねねと結愛、さくらが洗面所から出てきた。
時刻は午後七時。あと一時間でマンションが消える。
儀一はさりげなくねねの様子を観察した。すぐに視線が合った。少し恥ずかしそうに、嬉しそうに、ねねが微笑む。風呂上りで上気していることもあるが、表情がせきららだ。
疲労と貧血の症状で倒れたねねは、三日間休んだ。
強制的に儀一がそうさせたのである。
『ねね先生はお仕事でちょっと疲れてるから、しばらくお休みだよ』
儀一の説明に、子供たちはかなりのショックを受けた。
自分たちがわがままばかり言ったから、ねねを疲れさせてしまったのだと考えたようだ。
特に蓮は、風呂上りに頭を乾かすのを嫌がったり、脱いだ服をたたむのを忘れたり、適当に歯磨きをして注意されたりと、日常生活の中でねねに世話をかけていたし、外でも“尻取り”をして驚かせたり、巨大な石材の上に乗って心配させたりもした。
蒼空の提案により、自分たちの重要な案件について話し合う“子供会議”が開かれ、そこで蓮は結愛にさんざん注意された、らしい。
ちなみにこの会議は大人は立ち入り禁止とのことで、儀一は現場に居合わせてはいない。
『ねね先生、ごめん、なさい』
結果、半分涙目になりながら、蓮はベッドで寝ているねねに謝った。そして今度からはきちんとすることを約束した。
『蓮君は、何も悪くないわ』
逆にねねは謝った。
『私はだいじょうぶ、すぐによくなるから。だから蓮君は、いつもの元気な蓮君のままでいてね』
ねねに頭を撫でられて、蓮は大泣きした。
子供である蓮に責任はない。儀一もそう伝えたのだが、蓮は納得しなかった。
こうして、少年は男になっていくのだろうか。
また、タチアナとトゥーリも見舞いに来てくれた。
温めるだけで食べられるスープを差し入れしてくれたので、料理のできない儀一としては大助かりである。
帰りがけに、二人はそろって儀一に謝罪した。
『その、あの時は――怒鳴って悪かったよ』
『ねねさんが倒れているのに、あなたを責めるなんて。事情も知らないのに、ひどいことをしたわ』
儀一は感心した。
自分の非を認めることは難しい。それを相手に伝えて謝罪するのはもっと難しい。とても勇気がいる行為だ。
それができるあなたたちが、ねねの友達であることが嬉しいと、儀一は伝えた。
タチアナとトゥーリは妙な顔をした。
『ギーチってさ、私たちより年下だよね? それにしては……』
『達観してるというか、若々しくないというか。まるで、実家のお父さ――いえ、なんでもないわ』
ねねの看病をしながら、儀一は燻製作りの作業計画を見直した。
レシピは完成しているので、あとは決まった工程を正しくこなすだけだ。一日のタイムテーブルを作成し、作業分担を明確にする。一度に加工する魚の数も増やす予定である。
その後、ねねが回復してから数日が過ぎて。
今は六の間期の十五日。
あと十日で、冬の季期に入る。
「蓮君、蒼空君、お風呂だよ」
「はーい」
子供たちの行動に、少しだけ変化が表れていた。
儀一に頭を洗われることを、蓮と蒼空が拒むようになったのだ。
どうやら“子供会議”の中で、自分ができることは自分でするという共通目標を立てたらしい。
儀一としては喜ばしいような、手持ち無沙汰で寂しいような、妙な感じだった。しっかり洗えてない部分もあり、思わず手を伸ばしたくもなる。だがここは、少年たちのプライドに敬意を払うべきだろう。
ゆっくり身体を温めて、しっかり身体を乾かす。
歯磨きを済ませてから、儀一はキーボードの上に突っ伏しているカミ子に声をかけた。
「神様、そろそろ着替えないと、服が消えますよ」
「面倒くさい。消えてから着替える。脱ぐ手間が省けるし」
「風邪をひきますよ」
儀一はため息をついた。
「ねねさん、着替えの手伝いをお願いします」
「はい。カミ子さん、歩けますか?」
「う~、はっ、千鳥足!」
ぎゃっはっはとカミ子は笑った。
神という存在の醜態を、子供たちが白い目で見つめている。
子供を寝かしつけてからも、燻製を作る作業がある。
ぐでんぐでんになったカミ子に水を出してもらい、塩抜きをして、軒下に干すのだ。
燻煙中のものは燻製室の室温や魔木炭の火力などを確かめる。
午後十時に作業は終了。
「儀一さん、お疲れさまでした。温まってください」
ねねが“花茶”を出してくれた。これは森に咲くペチュニという花を乾燥させたもので、よい香りがする。
夜の作業は儀一がひとりで行う分担になっていたのだが、ねねはいつも起きて、待ってくれている。
部屋の中は薄暗い。消えかけたランプひとつと、頼りない暖炉の明かりのみ。
「や、助かります」
子供たちと同様、ねねも少し変わったような気がする。
仕事に対して生真面目なのはそのままだが、少し力の抜き方を覚えたような、そんな安心感がある。
「僕の作業を待たなくてもいいですよ。子供たちと先に寝てください」
「儀一さんとゆっくりお話ができるのは、この時間しかありませんから。私にとって、とても大切な時間なんです」
薪を追加していないので、暖炉の火は弱い。火鉢コタツに足を入れていても、まだ冷え込む。そして儀一は、水を使った作業の直後だった。
ねねは儀一の隣に座ると、冷え切った儀一の手を自分の手で包み込んだ。
「七の季期に入ると、一気に気温が下がるそうです」
やや気恥ずかしさを感じながら、儀一はもう片方の手で“花茶”に口をつけた。
「雪はそれほど降らない代わりに、北方の“デルシャーク山”から吹き下ろしの風がくるそうです。ウイルスは存在しないようですが、代わりに“魔素”と呼ばれる目に見えない粒子があって……」
これは酔っ払ったカミ子からの情報だった。
通常“魔素”は遥か上空に漂っているが、低気圧が来ると一気に下りてくる。それが体内に入り込んで蓄積されると、風邪に似た症状を引き起こすらしい。
予防法としては、
「こまめな手洗いが大切ですね」
日本にいた頃とほとんど変わらなかった。
ねねと付き合い始めてからも、会話の内容は一日の活動報告や注意事項などが中心である。
「ミミリちゃん――トゥーリの娘さんなんですが、喘息があって、寒くなると外で遊べなくなるそうなんです」
インターネットで原因と対処法を調べることはできないかと、ねねは儀一に聞いた。
ねねはコンピュータ関係が苦手で、保育園で作るお知らせなども手書きだったらしい。
儀一はふむと考え込んだ。
「喘息の原因そのものが、地球と同じとは限りません。先ほどの魔素の話もありますし、下手な対策をとると、かえって逆効果になるかもしれませんね」
「そう、ですか」
ねねはしゅんとした。
ただし、カロン村では冬になると一気に気温が下がり、乾燥した風が吹く。いわゆる“からっ風”というやつだ。
冬にだけ喘息が出るということは、“魔素”の他にも、気温と湿度が影響しているのかもしれないと儀一は言った。
たとえそれが喘息の直接的な原因でなかったとしても、荒れた喉に冷たく乾燥した空気は刺激が強いだろう。
「火鉢とやかんはどうですか?」
「やかん、ですか?」
「田舎だとストーブの上にやかんをかけて、乾燥を防いだりします。シュンシュンと音が鳴って、風情もある。ランボさんに頼んだら、作ってくれるかもしれません」
石油や電化製品のない“ミルナーゼ”では、お湯を沸かすにも薪や炭が必要である。貴重な物資だ。室内の湿度を保つために、わざわざそんなことをする習慣はないだろう。
「ランボさんにお願いしてもいいですか?」
「もちろん」
大切な友達を助けられるかもしれない。
期待と感謝を込めて、ねねは儀一を見上げた。
じじじと音を立てて、ランプの火が消える。
油がなくなったようだ。
薄暗くなった部屋に、暖炉の火だけが揺れている。
「儀一さん」
ねねの頬が赤く染まったように見えたのは、火の加減のせいではないだろう。
温めてくれている右手に、ぎゅっと圧力がかかる。
さすがに――
とある予感がして、儀一は困り果てた。
四十二歳にもなって、お休みのキスは厳しい。
大変厳しい、が。
「……」
このように、顎先を上げて目を閉じられてしまっては、他に手段がない。
「おやすみ」
ゆらめく影がひとつに重なった。
(20)
早朝、寄り合い所はカロン村で一番賑やかな場所となる。
つるべ式の共同井戸があるので、村人たちは毎日水を汲みにくるし、ついでに食器洗いや洗濯をしていく者もいる。
そして五日に一度、ここでは朝市が開かれる。
各自が持ち寄った食料や道具類を、ガラ麦の藁を編んだ御座の上に並べて、店を開くのだ。
商品に値札は付いておらず、相場はあってないようなもの。今年に関しては、現金よりも食料品が好まれる傾向にある。
そんな中、儀一とねねが開いている店は、現金での販売を歓迎していた。
商品のラインナップは、魚の燻製、薪、魔木炭の三種類のみ。
今のところ魔木炭についての村人たちの認識は、長持ちするよい炭、くらいである。
新参者ということで、最初は買い叩かれていたが、儀一は気にしなかった。どの商品も労働力以外の経費はほとんどかかっていない。燻製に使う塩もこの朝市で交換できる。カロン村の人々と交流ができて、バシュヌーン語の練習ができれば十分に元が取れると儀一は考えていた。
しかし儀一の店の商品は、人気が人気を呼び、自然とその価値は高騰していく。
特に、保存のきく魚の燻製は大人気だ。
「今の交渉は、粘ればもっととれましたよ」
店先でアドバイスをくれたのは、少し気が強そうな顔つきをした少女だった。
「そうかい? ちょっと、商売が下手だったかなぁ」
儀一は頭をかいた。
少女の名前はモゼ。十七歳だという。最近、朝市や石材置き場のおにぎり屋に顔を出しては、よく儀一に声をかけてくる。
「私に任せてくれたら、もっとうまくやりますよ?」
「はは、村長さんの力を借りるようで気が引けるよ」
モゼは村長であるヌジィの孫娘だった。
ドランの妹で、ポランの姉でもある。
「せっかくのいい品揃えなのに、もったいないです。ギーチさん、みんなになめられてるんですよ。どんどん強気でいかないと」
「……だそうです」
二人の会話の間に立って通訳しているのはねねだ。少し難しい単語が出ると、儀一では対応できない。
「まいった。モゼ君は厳しいな」
「モゼと呼んでください、ね?」
ここぞとばかりに、少女はにっこりと微笑む。
モゼはねねのことをいないものとして会話を進めていた。ねねが話しかけると、表情を消してつんとそっぽを向く。難しい年頃であることをねねは承知しており、通訳に徹しているようだ。
見方を変えれば、余裕のなせる技ともいえるだろう。
「僕はね、村長さんに感謝しているんだよ」
「おじいちゃんに、ですか?」
モゼは首を傾げた。
「見ず知らずの異国人である僕たちを受け入れて、家まで提供してくれた。そして、臨時の木こりにも抜擢してくれた。村長さんのおかげで、今の僕たちの生活がある。だから、少しでも村に貢献できればと考えているんだ」
「だから交渉でも負けてるんですか?」
「それは、商売が下手だからさ」
儀一は苦笑した。
「う~、ギーチさんが、よく分かりません」
モゼは渋面になる。
よく分からないように会話をしているのだから、仕方がない。
「カロン村も大変だけど」
儀一はさりげなく話題を変えた。
「近くの村の状況も心配だね。西の方にザビル村とウィージ村があるそうだけど、モゼ君は行ったことあるかい?」
「もちろん。両方とも、祭りの時に行ったことがありますよ。あ、この前は、ザビル村の村長とお話しもしました」
「へえ、さすがは村長の娘さんだね。で、どんな人だった? 怖い人だった?」
「顔は怖かったですけど、気のいいおじさんでしたよ」
モゼは当然のような素振りで話したが、鼻の穴が少し膨らんでた。これはモゼが何かを自慢するときの癖で、気分がよいことを示している。
そのことを、儀一は見抜いていた。
「実は、ザビル村とウィージ村にも、魚の燻製を届けようと思っているんだ」
「わざわざよその村まで行って、商売をするんですか?」
「これは、人助けだよ」
驚くモゼに、儀一は微笑む。
「カロン村の人たちも大変だけど、今のところうまくいってる」
朝市や寄り合い所で話を聞いている限りでは、冬を越せそうだという話が出てきて、皆の表情も明るくなった。
これにはいくつかの要因が考えられた。
出稼ぎで村の人口が減ったこと。薪や炭が十分に供給されたため、食料探しに労力を集中できたこと。ほとんどの子供たちにおにぎりを提供することができたこと。保存のきく大ぶりの魚の燻製が朝市に大量投入されたこと。
「本当は、無償でプレゼントしたいくらいなんだ。でも、貸し借りで上下関係ができてしまうのは、よくないだろうし、きちんとお金を出してくれているカロン村の人たちにも申し訳ないからね」
だから、商売という形をとる。
「もちろん、格安で」
呆れたように、モゼはため息をついた。
「はぁ、どこまでお人好しなんですか」
「それにね」
儀一は真摯な眼差しで訴えかけた。
カロン村とザビル村、ウィージ村の関係は、血の交流にある。
辺境の集落は、単独では生き延びることができない。他所から新しい血を入れる必要があるからだ。そのことを、経験あるいは本能で、みなが知っている。
カロン村にも、ザビル村やウィージ村出身の人たちがたくさんいた。おもに主婦で、朝市でも話す機会ある。
彼女たちはみな心配していた。
「嫁いでから何年経ったとしても、実家を思う気持ちは変わらない。燻製を届けることができれば、彼女たちも安心できると思う」
「……」
この言葉は、早熟な少女の胸に響いたようだ。
「だから、村長さんの許可をとりたいんだ」
「隣村で商売するのに、許可なんていらないと思いますけど。行商人のマギーさんだって、勝手にやってますし」
「僕は新参者だからね」
自分のあずかり知らないところで、村に迷惑をかけてしまうかもしれない。だから、事前に許可を取る必要があると儀一は言った。
「おじいちゃんに、話をすればいいんですね?」
「うん、それと。できれば、村長さんの“書付け”が欲しいな。ギーチという村の者が商売に行くから、よろしくってね」
「一応、聞いてみます」
儀一は中学生でも分かるように、要点をまとめた。
「僕は魚の燻製を隣村に届けたい。かなり安い値段で売るつもり。理由は三つ。ひとつ、カロン村の人たちは冬を越せそう。二つ、ザビル村やウィージ村から嫁いできた人たちが心配している。三つ、僕はできる限り多くの人を助けたい」
モゼは指を折りながら儀一の依頼を覚えた。
「雪が降る前に届けたいから、なるべく早くお願いできるかな?」
「わ、分かりました」
「ありがとう、モゼ君」
礼を言ってモゼの頭を撫でると、勝気な少女は真っ赤になって頬を膨らませた。
「こ、子供扱いしないでください!」
「や、ごめんごめん」
「おー、モゼじゃない。こんなところで珍しい。なにやってるのさ?」
「――っ」
不意に現れたのは、
「タ、タチアナさん」
モゼの一番苦手な相手だった。
老人たちの間では“元気なおてんば娘”という印象が強いようだが、モゼに言わせれば、ただの暴力女である。
モゼは素早く周囲を観察した。二番目に苦手なトゥーリの姿はないようだ。外面だけはおしとやかな、あのかまとと冷血女は。
この二人が揃うと攻守ともに完璧になり、逃げ出すこともできなくなる。
「あんたは朝市で買い物なんかしないでしょ。何してんの?」
「あ、えっと。そのぅ、水を、汲みにぃ~」
「井戸なら、あんたん家にあるでしょうが」
「あ、そうだ。私、用事があるんだった。じゃあ、ギーチさん。またお会いしましょう!」
取り繕うようにまくしたてると、モゼはスカートをはためかせながら寄り合所を出て行った。
「――ったく」
困ったものだと、タチアナがため息をつく。
「気をつけなよ、ネネ」
「え?」
「前に、ギーチのこと噂になってるって言ったでしょ?」
異国人でありながら、短期間で村に貢献している謎の男、儀一に、カロン村の少女たちは興味を持ったようだ。
「おもに十代半ばから後半くらいの女の子たちで、そのグループの代表格が、モゼなの。まあ、村長の孫娘ってこともあるんだけどさ。あの子、特に気が強いから」
モゼが聞いていたら、あなたにだけは言われたくないと反発したことだろう。
「ギーチにはネネいるからだめだって、トゥーリが釘を刺したのに。あの様子じゃあ、諦めていないみたいね」
男が立ち入らないほうがよい女の世界を、儀一は垣間見たような気がした。
「いい、ネネ?」
タチアナはずいとねねに顔を近づけた。
「あの子があんまりしつこいようだったら、私に言いなさい。“白木の門”にでも呼び出して、とっちめてやるから」
「あ、あの、タチアナ?」
場面が日本の高校であれば、裏庭にあるケヤキの所にでも呼び出していたのだろう。
儀一は懐かしい風を感じた。彼の子供の時代にはまだ生き残っていた“スケ番”の雰囲気だ。後輩から姉御と呼ばれて、慕われているような。
「ギーチ!」
余計なことを考えていると、とばっちりがきた。
「あんたも男なら、しっかりしなさいよ。ネネと付き合ってるんでしょ? 聞いたわよ。この前の夜、ちょっといい雰囲気になって、初めてのキ――」
「タ、タチアナ!」
ねねは真っ赤になり、両手を広げて大声を出した。
「わー、わー!」
「いや、もうしゃべってないんだけど」
ストッパー役のトゥーリがいないので、収拾がつかない。
「あの子は、たぶん違いますよ」
苦笑しつつ、儀一は言った。
「違うって、なにが?」
「モゼ君は、う~ん、なんといったかな」
儀一は難しい単語を思い出すように、首をひねった。
「――そうだ。“お使い”、です」
その日の夜、村長宅に来客があった。
木こりのイゴッソである。
三十代半ばの中年で、最近は村の中でも存在感をなくしており、ふてくされている。
異国人に対して強い不信感を持っており、非難したり嘲笑したりする発言が目立つ。それは明らかに自分の仕事を取られたことに対する逆恨みでしかなく、そもそも人望がないので、誰にも共感してもらえない。
つい先日、酒場の店主であるジューヌまで怒らせて、しばらく出入り禁止になったそうだ。
「イゴッソや、もう一杯どうかの?」
「へへっ、こいつはすいやせん」
そんなイゴッソを、ヌジィはもてなしていた。
日頃の仕事ぶりを労い、やはり一番信用できるのはこの村で生まれ育った人間だと励まして、それから――
儀一がどのようにして薪や炭を作っているのかを聞いた。
「あいつら怪しいんで、木陰から観察したんですが」
上機嫌になったイゴッソは、得意げにぺらぺらとしゃべり始めた。
「ふむ、魔法か。ひょっとすると、子供たち全員が魔法使いかのう」
「木を切る小僧と、倒す小僧、そして乾かす小娘。もうひとりの小娘は、頭の上に変なのを乗せてたな」
おそらくさくらが呼び出した水の精霊だろうと、ヌジィは見当をつけた。
「とにかく、魔法を使って“勇者の森”の木を切り倒すなんざ、木こりの風上にも置けませんぜ、村長」
「まあ、そうじゃな」
実際のところ、斧を使おうが魔法を使おうが、薪や炭を作ってくれるならば、方法などどうでもいい。怠け者の木こりよりはよほど役に立つ。しかしヌジィはイゴッソに同調して、さらに酒を注いでやる。
「あやつは、あくまでも臨時の木こりじゃ。またお前さんの力が必要になってくる。今のうちに、しっかりと英気を養っておくことじゃな」
「へへ、もちろんでさ」
千鳥足でイゴッソが帰っていくと、ヌジィは孫たちを呼んだ。
ドランとモゼである。
「どうじゃ、異国人たちについて、何か分かったか?」
「う~ん」
モゼが儀一との会話の内容を報告した。
「ギーチさん、おじいちゃんに感謝してるって言ってたわ。この村に住まわせてもらったから、恩を返したいって。まあ、いい人なんじゃない? いい人すぎて、騙されるタイプ?」
「ふむ」
「だから、見てるとちょっと苛々するのよね。せっかくいい商品を出してるのに、欲がないっていうか。商売っ気がないっていうか」
「店の売り物を、何と交換していた?」
「お金が多かったわ。あと、塩とか」
「燻製用だろうの」
ここにきてヌジィが儀一たちの情報を集め始めたのにはわけがある。
“オークの森”から逃げてきたという異国人に、ヌジィは同情などしていなかった。ただ、彼らがジュエマラスキノコを所持していたことで、交換条件としてこの村に滞在することを許可したのである。
おにぎりについては、それほどの量を提供できるはずもないだろうし、まったく期待していなかった。
会話すらままならない。幼い子供を四人も抱えている。どうせ生活に行き詰まり、こちらを頼ってくるだろう。
そこで金や食料や物資を貸し与えて、上下関係を確立するつもりでいたのだ。
だから、何年も人の住んでいない家をそのままの状態で明け渡し、ろくな支援も行わなかった。ガラ麦や塩、薪の配給の受け方すら教えなかった。
そのままのたれ死んでもおかしくない状況だったはず。
それが今や――
実孫のドランとその取り巻きが、カミ子ともめごとを起こして“村会議”に訴えた時、ヌジィは密かに好機と捉えていた。
儀一たちを追い詰め、最後にフォローすることで、大きな貸しを作ろうと考えたのである。
だが結果はうまく切り抜けられ、逆に力を与えることになってしまった。
力とは、村の中での立場だ。
村人たちの、信任でもある。
そういう意味では、自ら力を放り投げてしまったイゴッソなどは、ものの役にも立たない。近いうちに木こりの家系を取り替える必要が出てくるだろうと、ヌジィは考えていた。
異国人がこの村に来て、約五十日。ひとつの季期と間季が過ぎようとしている。
異国人の子供は魔法が使える。そして精霊を呼び出せる。短期間で大量の薪と炭を作り、魚の燻製まで朝市に出してきた。しかもおにぎりの提供はまだ続いている。
儀一たちはただものではない。
ひょっとすると、この村を劇的に変化させられるほどの富をもたらす、そんな力を持っているのではないか。
「あ、そうだ。おじいちゃんにお願いがあるんだった」
モゼは儀一がザビル村とウィージ村に魚の燻製を届けようとしていることを伝えた。
理由は三つ。儀一がまとめてくれた要点そのままである。
「だから、書付け? が欲しいんだって。村の者が商売をしにいくからよろしくって」
「ほう」
ヌジィは警戒するような目つきになった。
儀一の狙いを図りかねたからである。
単純に考えるならば、金を稼ぐためだろうが、儀一は魚の燻製を格安で売るつもりだという。
だとするならば、本当に人助けが目的なのか。
「まあ、よかろう」
ヌジィは鷹揚に頷いた。
「え、いいの?」
モゼは意外そうな顔をした。
自分の得にならないことは一切しない、ケチの代名詞的な祖父だったからである。
「すぐに用意するから、明日にでもお前から届けてやりなさい」
今日は機嫌がよいのかしらとモゼは思ったが、これは見当違いである。
ヌジィとしては、他に選択肢がなかったのだ。
儀一の申し出を断るためには、少なくともザビル村とウィージ村出身の者たちを納得させる理由が必要になる。
協力しなかった場合、ねねと仲のよい主婦たち――タチアナやトゥーリなどから、村中に広まる可能性もあった。
気になるのは儀一の狙いだが、モゼの話では底抜けのお人好しで、村長である自分に感謝しているらしい。。
となれば、純粋に他の村を助けたいと考えたのかもしれない。
ザビル村とウィージ村の村長は喜ぶはずだ。書付けを渡せば、自分が関与したことになる。村同士の関係において、ここで貸しを作っておくことは、長期的に見ても損ではない。
それに、儀一はモゼに感謝するはずだ。
今後の展開も楽しみになる。
ヌジィはもうひとりの孫に視線をやった。
「ドラン、お前の方はどうじゃ? ネネはものにできそうなのか?」
「――ッ」
一瞬、ドランは言葉に詰まった。
「あいつら、寄り合い所にこねぇし、会えてもいねぇよ」
「朝市には来てるわよ。お兄ちゃんも来ればいいじゃない」
「うるせぇ!」
内心モゼはほくそ笑んでいた。
兄のドランがネネを襲って返り討ちにあったらしいことを、彼女は噂で知っていたのである。
おそらくそのせいで、おにぎり屋の場所が石材置き場に変わったことも。
「モゼ、お前はどうじゃ?」
「う~ん、どうかなぁ」
ヌジィは孫たちに、儀一とねねを籠絡するよう指示を出していた。
ふたりとも結婚適齢期であることだし、こちらの家に取り込んでしまえば、あとはどうにでもなると考えたのである。
「正直、あんまり好みじゃないんだけど」
モゼは自信ありげな笑みを浮かべた。
「少なくとも、ネネには負けないわ。腰が細いし、お尻も小さい。あんな身体じゃ、たくさん子供を産めるはずないもん」
女の価値は、愛嬌とお尻の大きさである。辺境の田舎になるほど、その傾向は強まっていく。将来の成長を加味すれば、自分がねねに負けるはずがないとモゼは考えた。
「ふん、お前なんかがネネに勝てるかよ」
ぼそりとドランが呟く。
「女心が分からないお兄ちゃんにだけは、言われたくないわ。猪みたいに突進することしかできないんだから」
「んだと?」
「あの噂、ばらしてもいいの?」
「……くっ」
「それとね」
モゼは勝ち誇ったように鼻で笑った。
「私は十七歳よ。あんなおばさんに負けるはずがないわ!」
モゼは知らなかった。
“ミルナーゼ”の一年は三百日。地球の一年の約六分の五。モゼの言う十七歳とは、地球でいえば十四歳くらい。
四十二歳の儀一からすれば完全に子供だし、出会いが唐突で、会話の内容も不自然だったことから、村長が自分たちの情報を集めるために、孫娘を送り込んできたのだろうと察知していた。
ようするに、中学生の“お使い”である。
儀一はモゼを使って逆にヌジィに情報を伝え、自分たちに対する警戒心を解くとともに、周辺地域の情報を探ろうとしていたのだ。
むろん、モゼを通して依頼すれば、通りやすくなることも考慮の上で……。
結局のところ。
寒い中、足しげく朝市やおにぎり屋に通ったモゼの行動は、まったく実を結ぶことなく、兄のドランと同様、これまで積み上げてきた自信を打ち砕かれることになる。
(21)
「人助けというのは、実は半分嘘でして」
出発前夜、儀一はねねに説明した。
「商売の目的は、別にあります」
水の精霊ムンクの活躍と道具類の整備によって、一日に作れる燻製の数は三十匹まで増えた。しかし、蒼空の四次元収納袋に収納できる重さには制限があるし、常温保存ではひと月くらいしか保たない。
酒の交換用でジューヌに、道具類の製作用でランボとギンに渡したとしても、なお余剰分が出る。
朝市に出してカロン村の乏しい現金を集めるのは限界があるし、村人たちから注目され、妬まれる可能性もある。
「この地域で一番大きな町が、港町だったというのもネックですね」
カロン村から、南東へ約百キロの位置にポルカの町がある。
この町は“アズール川”の河口にある港町で、カミ子によると、人口は約三千とのこと。
この町に魚の燻製を持ち込んで、商売になるだろうか。
物珍しさである程度は売れるかもしれないが、取扱店や客を開拓するのは骨が折れそうだ。
かといって、カロン村の人々に無料で配るわけにはいかない。それこそ怪しまれてしまうだろう。
「すでにおにぎりが、怪しまれてますしね」
ねねが頬に手を当てて、困ったような顔をした。
儀一たちは一日五キロの米をおにぎりにして配っている。これまでの日数を考えれば、誰もがおかしく思うはずだ。
最近ではモゼがしつこく聞いてくる。
それは、ヌジィが一番知りたがっているということでもあった。
「まあ、燻製に関しては、減産するよりは少しでもお金に替えたほうがよいだろうという判断です」
自分たちは現金を得て、商売の予行演習ができる。相手は食糧事情が改善される。カロン村にいるザビル村とウィージ村出身の主婦たちも安心する。
「自治体関係の仕事もそうですが、自分だけが利益を受けるやり方は長続きしません。三者が関係していれば、三者ともが満足する仕事を考える。そこに時間と労力をかけるべきなんです。よく言われる“ウィンウィン”の関係というやつですね」
儀一には別の狙いもあった。
ひとつは、近隣の村に顔を売っておき、いざという時のための避難場所を確保すること。
生活の基盤をカロン村だけに限定する必然性はない。
そしてもうひとつは、情報収集である。
「今の僕の語学力では、商売の交渉はできません。難しい表現が多いかもしれませんが、通訳をお願いできますか?」
「もちろんです」
ねねは嬉しそうに頷いた。
彼女としては、むしろザビル村とウィージ村の人々――特に子供たちを助けたいという気持ちが強かった。しかし、儀一を手伝えば、同時にその願いも叶うはずだ。
多くの人に喜ばれるのであれば、作りがいがある。
だからねねは、絶大な信頼を込めて微笑んだ。
「儀一さんの、思いのままに」
カロン村から、南西に約三十五キロ。
ザビル村が近づいてきたところで、“モンキー”を隠す場所を探す。
背丈のある枯れ草が群生していたので、その中に突っ込んで、シートを被せた。
「ねねさん、疲れましたか?」
「平気です」
後部座席には座布団を巻いているとはいえ、乗り心地はよくなかっただろう。舗装されていない道を、慎重に二時間ほどかけてたどりついた。
ちなみに、おにぎり屋には「ご自由にお食べください」という立て看板のみを残している。
子供たちは家で自習だ。カミ子とおしゃべりをしてバシュヌーン語を教えてもらうというもので、カミ子は面倒臭いと嫌がったが、酒三本であっさりと承知した。
夕方までには戻りたいところである。
すでに正午過ぎ。物陰でねねが作ってくれたお弁当を食べてから、ザビル村へと向かう。
村の外側には荒地を掘り起こしたような畑が広がっている。日本では冬でも大根や白菜などを育てたりするが、ここではそういった作物はないらしい。畑には枯れた雑草が生い茂っていた。
村の入り口らしき門は開け放たれていた。
儀一はねねとともに門を潜ると、最初に出会った村人に挨拶をした。
「こんにちは。僕たちは、カロン村から来ました」
「へぇ、カロン村から。それは遠いところ、ご苦労なこった」
「これを、村長に渡したいのですが」
「なんだい、手紙か? ワシは、字が読めんでな」
ねねがいたこともあって、警戒心が薄れたのだろう。親切な村人は村長の屋敷まで案内してくれた。
客室らしい場所に通されて、”花茶”が出される。
「いい香り。うちで使っているのとは、違うお花ですね」
「来客用の、よいお茶なのかもしれません」
やはり、書付けの効果は大きかった。
自分が何者なのかを説明し、相手を納得させる手間が省けるし、最初からカロン村という看板を背負うことができる。それは、信頼を得ていることと同義だ。
「食い物を、売りにきただと?」
ザビル村の村長は、五十代半ばくらいの男性だった。
名前をゾウジというらしい。
白髪交じりの短髪で、体格はがっしりとしている。村長というよりは山賊という風態だ。
「あのじいさん、こちらの弱みにつけ込んで、暴利をむさぼるつもりか?」
おそらく過去にいざこざがあったのだろう。
ヌジィの評判はよろしくないようだ。
儀一とねねは自己紹介をして、自分たちがカロン村で木こりをしていることを伝えた。
「ワシも木こりだ」
この情報はモゼから聞いていた。木彫りの名人でもあるらしい。
頑固で、嘘つきが嫌い。一本気な性格とのこと。
ゾウジはじろりと儀一を睨んだ。
「だが、お前さんは木こりの身体ではないな。言葉遣いも怪しいぞ」
ねねが素早く通訳する。
「僕たちは、異国人で、魔法使いです」
儀一は持参していた手さげ籠の中から、魔木炭を二本取り出した。叩き合わせると、キンッと硬質な音が響く。
「ほう」
通常であれば、火の魔法を使う魔法使いが数人がかかりで、一日かけて作る特別な炭だ。
「魔法で、木を切り、炭を作ります」
「変な木こりだな」
儀一から渡された炭を、ゾウジはしばらく弄んでいたが、
「くそう!」
突然悔しがった。
「なんという炭だ。これは、ワシらには作れん! お前さんといい、ドワーフのランボ老といい、カロン村はどうなっておるんだ」
ランボにはザビル村やウィージ村からも仕事の依頼が来るらしい。辺境の村では、鍛冶師は貴重な存在なのだろう。
話がややこしくなりそうだったので、儀一は本題に入ることにした。
手さげ籠の中から、魚の燻製を取り出す。
「ねねさん、お願いします」
「はい」
臆することなく、ねねは説明した。
「これは、オークフィッシュの燻製です」
あらかじめ決めていた販売価格を伝える。
「……安くねぇか?」
「運よく魚がいっぱいとれましたので。試食をどうぞ」
この一本はサービスである。
ゾウジの感想は「酒が欲しくなるな」だった。
「今日とりあえず五本だけ、お持ちしました。もし気に入っていただけたなら、次は五十本持参します」
これは、現時点で蒼空が四次元収納袋に収納できるぎりぎりの数だ。
次回からは儀一と蒼空で運ぶ予定である。
「いかがでしょうか?」
ねねの問いかけに、ゾウジはしばし沈黙した。
「この値段なら、わざわざうちに来なくても、どこだって売れるだろう。お前たちの狙いはなんだ?」
ねねは真剣な眼差しで訴えかけた。
「ザビル村のみなさんに、この燻製を配ってください」
「なんだと?」
「おなかを空かせている方に、食べさせてあげてください」
「はっ、人助けのつもりか?」
小馬鹿にしたようなゾウジに、きっぱりとねねは言い切った。
「そうです」
「……」
カロン村も多くの村人が苦しんでいた。春を迎えることができるのかと、不安がっていた。
しかし食糧事情が改善されるにつれて、希望が生まれた。
朝市はいつも賑やかだし、子供たちは笑顔で、騒がしく駆け回っている。
「儀一さんが、そうしました」
通常、初めて出会った客に対して手前味噌な発言などしない。営業経験などないねねは、正直に自分が思っていることを相手に伝えたのだ。
「次はザビル村の皆さんです。私たちは、毎日頑張って魚の燻製を作ります。そして、この村にお届けします。ですからお願いします。どうかみなさんを、助けてください」
会話の内容を、儀一は半分も理解することはできなかった。
しかしねねが村の人たちを助けたいと訴えたのだろうということは、察しがついた。
本音に勝る営業トークはない。
表情も、口調も、そして力強さもまるで違う。
「わ、分かった。頭を上げろ。いや、上げてくれ」
ゾウジは観念したように吐息をつき、頭をかいた。
「意地を張っている状況じゃねぇ。それはワシが一番承知している。本来なら、こちらから頭を下げて頼まなくちゃならねぇんだ」
ゾウジは言葉通り頭を下げた。
「ギーチさんと言ったな。本当にこの金額でいいのかい?」
「もちろんです」
「喜んで買わせてもらおう。次は五十本だったな。みなひもじい思いをしている。すぐにでも持ってきてくれ」
交渉は成立した。
ゆっくりしていけ、なんなら今日は泊まっていけと誘われたが、早く帰って夕食の支度をしなくてはならない。
「そうか。では、こいつをもっていくがいい」
おみやげとして木彫りの仮面を渡された。それは見覚えのある獣の仮面だった。オークの森で儀一たちを追い詰めた、“赤目狼”である。
荷物にもなるし、正直いらなかったのだが、「今年一番の出来だ!」と、笑顔で押し付けられては、押し返すこともできない
「ひとつ、お聞きしたいのですが」
別れ際、儀一はゾウジに聞いた。
「この村に、僕たちと同じ異国人は、来ていませんか?」
「異国人?」
ゾウジはやや気難しい顔になった。
「うちには来ておらんが、ウィージ村で余所者が騒ぎを起こしたという噂を聞いたな」
(22)
浅見拓也は失望していた。
自分自身に、である。
彼が座り込んでいるのは、持ち場である玄関前。壁に背を預けながら、ぼんやりと虚ろな目を庭木に向けている。
ウィージ村に来てから、もう二ヶ月近く経つはず。ずいぶんと気温も下がった。もうすぐ雪が降るのかもしれない。
朝から三時間以上ここに座っているので、身体は冷えきっていた。拓也は身じろぎもせず、じっとしていた。
まるで、己の存在を空気の中に溶け込ませるように。
すでに思考がぼんやりしている。
このまま、消えてしまえばいい。
痛みも感じないまま、凍えてしまえばいい。
『オレは、絶対に恨まねぇからな! 絶対だっ! だから死ぬなよ、拓也!』
瞼を下ろした瞬間、鮮烈な光景が思い起こされた。
それは、脳裏に焼きつき、決して消えることのない、残酷な場面だった。
「――っ」
拓也はびくりと硬直し、目を開けた。鼓動が高まり、額に嫌な汗が浮かんでくる。
死ぬことなどできない。ここで死ぬくらいなら、あの森で死ぬべきだった。
もっさんのように、立派に、誇りを抱いたまま死ぬべきだった。
動悸が収まるのを待ってから、拓也は立ち上がった。
「どうせ、これくらいの気温じゃ死ねないし」
つまりは、悲劇のヒーローごっこである。
そもそも死ぬ勇気すらない。あるのであれば、こんなところでこんなことをしてはいない。
――惨めだ。
震えるようなため息をつくと、拓也は状態盤で時間を確認してから、屋敷の中に入った。
浅見拓也は異世界転生者である。
生前は国立大学の三年生で、学友会に所属していた。中学や高校でいうならば、生徒会のような組織だ。
彼は学友会の代表として、学園祭や、学園内の部活、サークル活動の取りまとめ等を行なっていた。
それだけではない。
大学と市が協定を結んでいたらしく、拓也は学生代表の一員として、市役所の職員とともに地域貢献活動を行うことになった。
いわゆるボランティアであるが、それは彼自身が望んでいたことでもあった。
勉学、スポーツ、趣味、友達作り――学友会に所属している学生たちは、あらゆる活動に対して意欲的である。意識が高いと言い換えてもよいだろう。かといって真面目一辺倒でもなく、交流会と称して他大学の学生たちと遊んだりもする。
大学に閉じこもっているだけでは、自分を高めることはできない。社会に出る前に経験を積みたい。多くの人と触れ合いたい。
こういった活動が、就職活動において有利に働くだろうという打算がないわけではないが、少なくとも拓也たちは、楽しく前向きに活動していた。
市役所の会議室を借りての、月一回の会議。
大きなイベントのひとつとして、ショッピングモールで子供向けのブースを出すことに決まった。
役所の担当者曰く、イベントで一番重要なのは、企画の内容や準備作業ではなく、集客活動なのだそうだ。イベントそのものの成否も、来場者の数で決まるという。
たとえば人気のない公園で実施した場合、どれだけよい企画を立てたとしても、集まってくれる人は少ない。それでは、時間と労働力に見合った成果が得られない。
だが、ショッピングモールであれば、買い物のついでに寄ることができる。ちらしを配った時の効果も高まる。親子連れが多いだろうから、子供向けのブースを出せば、集客はかなり見込めるはず。
天気さえよければ、勝ったも同然とのことだった。
正直、役所の仕事というものに、拓也はそれほどよいイメージを持っていなかったのだが、少しだけ考えを改めた。窓口でぺこぺこ頭を下げたり、税金を取るだけの仕事ではないのだ。
イベント当日は天気もよく、大盛況だった。子供向けブースの出し物は、輪投げや塗り絵や簡易的なおもちゃ作りというもの。
普段、他人の――しかも子供連れの親子と話す機会などない。
それは相手方も同じようで、
『学生さんとお話ができてよかった』
『君たちすごいね。自分の学生時代には、このようなことをする意識がなかったよ』
『とてもいい活動だと思う。学生活動に就職活動、大変だろうけれど頑張ってね』
などと、好意的な意見と感想をいただいた。
これが地域とつながりを持つということなのだろうか。
イベント中、地元のテレビ番組制作会社からの簡単なインタビューがあった。ほんの十分ほどだが、ショッピングモールに併設されていたガラス張りのスタジオで、ラジオ放送にも生出演した。これらは役所の担当者が仕組んだようである。
ブースの客は途切れることなく、拓也は忙しいながらも充実した時間を過ごしていた。
そして、その事件は起きた。
拓也と数人の仲間が昼休憩に出た時、突然、目も眩むような閃光と耳をつんざく爆発、そしてすさまじい衝撃が襲ってきたのである。
生前の記憶は、ここまでだった。
その後は大学の会議室のような場所で、神を自称する金髪碧眼の美男子と出会い、現状と今後の予定を説明された上で、ひとつだけ特殊能力を選ぶことになった。
次に気付いた時には、うねるような形をした大木が生い茂る、“オークの森”にいた。
否応なく、地獄のサバイバルに放り込まれたのである。
部屋の中には、酒の匂いが充満していた。
「水と食料を、もらいに行ってきます」
「おう、拓也。今日は鶏肉な」
「卵も付けてねー、たっくん」
テーブルで酒を飲んでいるのは、体格のよい男と、派手な服を着た女である。
名前は正志とアンリ。女の方は源氏名らしい。その手の店で働いていたということだ。
壁際のソファーにはもうひとり男がいて、静かに寝ていた。
全員が二十歳くらいに見えるが、彼らの話によると、肉体年齢が若返っているらしい。それは拓也も同じで、状態盤には「浅見拓也」「二十一歳(二十歳)」と表示されていた。
「……浅見」
ソファーには寝そべっていた男が、そのままの体勢で声をかけてきた。
「食事のついでに、マーニを呼んできてくれ。勉強の時間だ」
背は低く、肉付きも悪く、病気じみた顔色をしている。
物腰も柔らかく、言葉遣いも比較的丁寧だが、拓也はこの男が一番恐ろしかった。
正志もアンリも、この男には逆らわない。
名前は、世良徹。
拓也が想像するに、おそらく――暴力団関係者の幹部だ。
世良は平気で人を殺せる人間だった。実際にこの男は、オークという魔物を道連れにする形で人を殺していた。自分たちと同じ異世界転生者を、である。
まかり間違えば、拓也も殺されていた。
「……はい、分かりました。世良さん」
まるで召使いのように、拓也は頭を下げた。
今の自分は最低最悪の人間に傅くだけの、哀れな下僕に過ぎない。
お似合いの立場だと思った。
ウィージ村の村長宅は、平屋造りでふた棟ある。拓也たちがいるのが別宅で、比較的新しい建物だ。
敷地内には納屋もあったが、今は跡形もなく吹き飛んでいた。
自分たちの力を見せつけ、村人たちをおじ気させるために、世良が特殊能力を行使したのである。
拓也は年季の入った本宅に入った。
寝室らしい場所で、村長である中年の女性とその娘と息子が、身を寄せ合うようにして座っていた。娘は十代の半ばくらいで、息子はまだ十歳に満たないだろう。不思議なことに、この村には男が少ない。いるのは老人と子供ばかりである。
「あのう、食べ物」
この国の言葉を、拓也はほとんど知らなかった。
知っているのは、いくつかの単語だけ。
母と娘が会話をした。母親が動こうとするのを娘が押しとどめている様子だ。村長である母親は、世良が納屋を爆発させた際に足に傷を負っている。
「鶏肉と、卵」
拓也がぼそりと呟く。
娘がこくりと頷き、立ち上がる。
「そして、マーニ」
娘――マーニの顔が一瞬、強張った。
世良はほぼ毎日のようにマーニを別宅に呼んでいる。この国の言葉を教えてもらうためだという。ある程度話せるようになったらウィージ村を離れ、都会に移り住むようだ。
早くその時が来ればいいと拓也は考えていた。
「――ッ」
マーニの弟が、拓也を睨みながら短く叫んだ。
言葉は分からずとも、それが侮蔑を意味するものであることを、拓也は理解していた。
鶏肉の炒め物と、ゆで卵はマーニが作ったもの。
それと、パンと酒。
「あたし、このパン嫌い。硬いし、ぼそぼそだし」
「そうっすか? 歯ごたえがあって、オレは好きですが」
「あんたは、食えりゃ何でもいいんでしょ」
アンリがマーニからバスケットをかっさらう。
「ほら、たっくんの分」
差し出されたのは、パンひとつ。
「拓也は、外で見張りだ」
正志がしっしと追い払う仕草をした。
食事の量にしろ寝る場所にしろ、拓也は明確な区別をつけられていた。勉強会には参加させてもらえない。
つまりは、奴隷だ。
以前一度だけ、「みなさんの役に立ってみせますから、いっしょに勉強させてください」と、懇願したことがあった。正志が近づいてきて、無言のまま投げ飛ばされた。余計なことをするな、ということらしい。
「マーニ、ごめん」
数えるほどしか知らない単語のひとつ。
それだけを言い残して、拓也は部屋を離れた。
再び、持ち場である玄関前に陣取る。
体育座りになって、膝に頭を預ける。
何も考えないでおこう。
希望も展望もないが、“オークの森”のような絶望もない。
あるのは自分に対する失望だけ。
生きているだけでも、上出来だ。
「こんにちは」
無気力に座り込んでいる拓也に、声がかけられた。
若い男の声。
それは、日本語だった。
ぼんやりと顔を上げると、そこには二十歳くらいの男と女が立っていた。
「うん? 君は――」
男は驚いたように目を見開くと、
「ひょっとして、浅見君かい?」
のんびりとした口調で、問いかけてきた。
(23)
自己紹介されるまで気づかなかった。
「や、山田さん? 市役所の! 市政推進課の?」
「そうだよ。まさか、浅見君もこちらに来ているとはね。や、来てしまったと言ったほうが正しいか」
見かけは若々しいが、しゃべり方が同じだ。親切で丁寧な説明をしてくれる職員だった。
時おりベタな親父ギャグを口にして、密かにひんしゅくを買っていた、あの山田さんだ。
「こちらの世界に来ていたんですね!」
「運よく生き残ってね。ああ、こちらは二宮さん。社会人の一年目だから、君よりも二年先輩かな」
“オークの森”で偶然出会って、それから行動を共にしているらしい。
「初めまして。二宮ねねと申します」
両手をそろえて丁寧にお辞儀する。笑顔が自然で可愛らしい。化粧もしていないのに、素朴できれいだと思った。
「儀一さんのお知り合いですか?」
「ええ。市役所の部署で、大学生といっしょに仕事をしていたんですが。彼――浅見君は、学友会という学生組織の代表で……」
儀一が説明している間、拓也は胸の奥から込み上げてくるものを必死で堪えていた。
ごく普通の会話。
穏やかな、日常。
そういった空気を、久しぶりに感じることができたからだ。
「浅見君?」
気づけば、拓也は涙を流していた。
完膚なきまで叩きのめされて、気力をなくし、涙も枯れ果てたと思っていた。
しかし、胸の奥底にまだ熱いものが残っていようだ。
儀一はこれまでの苦労を察したかのように、拓也の肩に手を置いた。
「少し、痩せたね」
食事も喉を通らない。自分を責め続けるあまり、夜も眠れなかった。もともと痩せ型であったが、今では頬がこけ、指の骨が浮き出るほど。どれくらい体重が落ちたのだろうか。
「大学の他のみんなも、ここにいるのかい?」
「いえ」
拓也は首を振った。
「僕が出会ったのは、もっさん――杉本だけです。彼は、もう……」
拓也は震えるような息を吐いて、
「ここには、いません」
「そうか」
重い沈黙が舞い降りた。
しかし、同じ思いを共有できたことに、拓也は救われたような気がした。
「山田さんは、今どこに住んでるんですか? ひょっとして、他の異世界転生者も――」
玄関の扉が開いて、色白で小柄な男が出てきた。
「浅見君、お客さんのようだね。知り合いかい?」
世良である。
拓也が初めて出会った時と同じ、人のよさそうな笑顔を浮かべていた。
世良たちがくつろいでいる部屋は、玄関の隣にある。窓からこちらを確認することができる。そういう場所を、世良が選んだのだ。
拓也が大声を出したので、気づいたのだろう。
「いやまさか、俺たちの他にも生き残った方がいらっしゃるとは思いませんでした」
続いて出てきたのは、正志とアンリ。
「俺は、世良徹といいます。こちらの二人は、後藤正志と、竹中清子です。浅見君と四人で、助け合いながら暮らしています」
「……どうも」
「えっと、よろしくぅ」
正志もアンリも、借りてきた猫のようにおとなしい。
アンリの本名を、拓也は初めて知った。
儀一とねねも自己紹介をした。
「ほう、公務員の方でしたか」
「浅見君とは、駅前のショッピングモールで子供向けのイベントを行っていたんです。市と大学の連携事業というやつで……」
穏やかに、大人の会話を交わしている。
「ああ、こんな寒いところではゆっくりと話もできないな。どうぞ家の中にお入りください。お互い、情報交換をしましょう!」
熱心な世良の誘いを、儀一は申し訳なさそうに断った。
「実は、僕たちは隣村でご厄介になっているのですが」
かなり距離が離れているという。
「仲間たちが待っていますので、日が暮れる前に、戻る必要があるんです」
「まさか、あなたたちの他にも、異世界転生者が?」
世良は表情を輝かせた。
もちろん、演技である。
「はい。小学一年生の子供が、四人います。あまり心配させるわけにはいきません」
「小学、一年生?」
意外そうに世良が聞き返した。
拓也もまた驚いていた。
年端もいかない子供を四人も連れて、“オークの森”を生き延びたというのか。
水や食料を確保するだけでも大変だったはず。
しかもオークたちはしつこい。一度出会ったら、とことん追いかけてくる。
足が遅く、体力のない子供を連れて……。
ありえない。
「しかし、せっかくお会いできたのですから。このままお別れというわけにもいかないでしょう。浅見君も、話がしたいはずです」
困惑したような世良に、儀一は言った。
「明日、また来ます」
儀一とねねが帰ってから、拓也は部屋の中で世良たち三人に囲まれて、儀一のことを話すよう命令された。
仕事の内容、人柄、能力、拓也との関係などである。
「なるほどな、四十前後か。どうりで落ち着いていると思った」
「叔父貴、どうするんで?」
正志が聞くと、世良が睨んだ。
「お前、人前でその呼び方はやめろよ。勘付かれるぞ」
「す、すんません」
アンリが世良の腕にしな垂れかかる。
「徹さん、あいつらを仲間にするの?」
「ふっ、馬鹿を言え」
世良は鼻で笑った。
「小学一年生の子供が、四人。しかも、文明の利器にどっぷりと浸かった、生意気なガキどもだぞ。特殊能力があったとしても、足手まとい以外の何ものでもねぇよ。お前、養っていけるか?」
「無理。あたし、子供キライだし」
「かなり、慎重なやつだ」
世良は考え込むような仕草をした。
「村長の様子から、何かを察したのかもしれない。あるいは納屋の惨状を見て、警戒したか」
その間、拓也は呆然と突っ立っていた。
自分で考えるという行為を放棄して久しい。命令されて動くことに慣れきってしまっていたのだ。
そんな拓也に、世良は苛立たしそうに言った。
「浅見、浮かれてんじゃねぇぞ?」
「え?」
「お前、自分の立場を分かっているのか?」
何のことだか分からず、拓也は動揺した。
「山田とかいう公務員は、お前からすればただの知り合いで、ダチでもなんでもねぇ。向こうからしても、仕事上の付き合いだ。そうだろう?」
「は、はい」
「つまりは、赤の他人だ」
その言葉は何故か、拓也の胸にずしりと響いた。
儀一は小学一年生の子供を四人も連れて、隣村に住んでいるという。現地の住民からすれば、厄介者以外の何ものでもないはずだと、世良は言った。
「俺たちだって、ひどい扱いを受けた」
事実である。
命からがらウィージ村にたどり着いた拓也たちは、ろくな手当も受けられず、数日間、地下の倉庫らしき場所に閉じ込められたのだ。
その後、新しい住処と仕事を与えられた。
住処は村長宅の敷地内にある納屋で、仕事は水汲みや薪割りといった肉体労働である。
報酬は、固いパンをひと欠片と水だけ。
常に空腹だった。埃っぽい納屋の中で、干草のような塊に寄りかかりながら寝起きしていた。
ウィージ村の現状――女性と老人と子供たちばかりで、魔法を使える者もいないことが分かってから、世良は行動を起こした。
村長宅で村人たちが集会を行っている時に、特殊能力を使って納屋を吹き飛ばしたのである。数少ない村の男たちを、正志が一瞬のうちに投げ飛ばした。
力関係は完全に逆転し、拓也たちは働かなくても生活できる身分を手に入れたのである。
「隣村ならば、食料事情はそれほど変わらないだろう。やつらも、わずかばかりの食料や水のために、奴隷のように働かされているはずだ。ここに来たのは、村の用事の使いっ走りってところか。四人のガキは人質だな」
つらつらと説明しながら、世良は冷めた目で拓也を見ていた。
まるで、できの悪い舎弟の相手でもしているかのように。
「ようするに」
世良はため息をついた。
「やつには、赤の他人であるお前を助けてやる義理もないし、そんな余裕もないってことだ」
「……そ、そんなこと」
自分は考えてなどいない。
「唯一、その可能性があるとするならば」
世良は構わず言った。
「お前が、やつにとって有益な特殊能力を持っている場合だけだ」
「……っ!」
はっきりと、拓也は衝撃を受けた。
特殊能力は世良に奪われた。
この世界で生きていくための、唯一の力を。
世良は拓也の髪を掴むと、頭を左右に動かした。
「お前、大学生なんだろう? いっぱい勉強したんだろう? 少しは頭を使って考えろ。想像してみろよ。二十歳にもなって、会話もできない、文字も書けない、力もコネもない。無い無い尽くしだ。そんなゴミクズが、この世界で生きていけると思うか?」
最後に大きく振られて、拓也は床の上に倒れ込んだ。
「どんなに辛くたって、金魚のフンみてぇに俺たちにくっついて生きていくしかねぇんだよ、お前は!」
世良は拓也の前にしゃがみ込んだ。
「ひっ」
拓也は縮こまるようにして、がたがたと震えた。
彼は暴力を受け、あるいは言葉で責められて、何度も何度も心を折られた。
決して、逆らえないようにするために。
「おい、浅見」
世良は再び拓也の髪をつかんで、頭を持ち上げた。
「一度だけ、チャンスをやる」
「あ、あ……」
「山田儀一、やつの特殊能力を探ってこい。二宮ねねとかいう女のもだ」
世良の持つ特殊能力は、タレントの強奪。
相手の特殊能力を奪う能力。
ただし、いくつかの制約条件がある。
「もし使えそうだったら、お前の力を返してやるよ」
世良は拓也の肩に触れると、
「光撃」
拓也は吹き飛ばされた。
(24)
世良徹は慎重さと大胆さを兼ね備えた男であり、恐怖による人心掌握に長けていた。
その本質はというと、サディストである。
とことん相手を追い込み、傷つけ、脆く醜い本性を曝け出させてから、意のままに操る。
その過程がたまらなく好きなのだ。
儀一とねねが現れた時、世良が苦々しく思ったのは、拓也の心情の変化だった。
せっかく仕込んだというのに、顔色が戻り、息を吹き返している。
案外、ずぶとい人間なのかもしれない。
“オークの森”で出会った時、拓也は杉本という同級生と共に行動していた。世良は友好的な態度で接し、聞き取りを行うと、彼らの特殊能力を問答無用で奪いとった。
平和ぼけした堅気の人間は、唐突な攻撃に弱い。
茫然自失の状態から立ち直った二人は、血相を変えて抗議してきたが、柔道の有段者でありパッシブスキルの身体能力向上を取得していた正志が、完膚なきまで叩きのめした。
近頃の若者は、血を見ただけですぐに怖じ気ずく。
喧嘩すらしたことがないのだろう。
世良は拓也と杉本にじゃんけんをさせて、負けた方をオークをおびき寄せる囮役として使った。そして逃げ遅れた杉本を、オークもろとも吹き飛ばした。
拓也が生き残った理由は、ただ、じゃんけんに勝ったから。
そのせいで友人が死んだともいえる。
奇跡的に“オークの森”を抜けてウィージ村にたどりついた時、拓也は壊れかけていた。ひとりだけ生き残った罪悪感に苛まれていた。
それでも世良は手を抜かない。
下手に知識を与えると、行動の選択肢を与えることになる。余計なことを考えて、逃げ出したり逆らったりもする。
だから世良は村人たちを従わせたあとも、拓也にだけはバシュヌーン語の勉強をさせなかった。自分たちに頼らなくては生きていけない状況を意図的に作り出し、完全に木偶人形に仕立て上げたのだ。
しかし拓也は、生前の知り合いである儀一と出会っただけで、自分を取り戻しかけていた。
世良としては、ここで拓也を失うわけにはいかなかった。
現状、ウィージ村の人間は、全員敵である。
毒殺を恐れた世良は、食事をとる順番を決めていた。また、睡眠時間もローテーションを組み、拓也には玄関の見張りと食料の運搬役をやらせた。これは襲撃と不意打ちに備えた措置である。
部下でも仲間でもない拓也ではあるが、いなくなれば誰かが代わりを務めなくてはならない。
『山田儀一、やつの特殊能力を探ってこい。二宮ねねとかいう女のもだ』
世良の狙いは、儀一とねねの特殊能力の奪うだけでなく、彼らと拓也を引き離すことにもあったのである。
翌日。
いつものように拓也は玄関前に座って、ぼんやりと草木を眺めていた。
「……タクヤ」
気づけば、マーニが目の前にいた。
腕に抱えたバスケットの中には、パンと魚が入っている。
鶏肉や鼠の肉が出たことはあったが、魚は初めてだ。色が黒ずんでいる。どうやら燻製らしい。
「あなた、いつも暗い顔しているのね。泣きたいのはこっちなんだけど」
言葉の意味は分からない。しかし表情を見るに、呆れられているようだ。
今日は勉強はなしである。
「マーニ、いらない」
拍子抜けしたような少女からバスケットを受け取ると、拓也はいつものように「ごめん」と謝った。
朝からずっと、拓也は悩んでいた。
間もなく儀一が来る。
拓也にとっては平和だった日常を思い起こさせてくれた人だ。冷静で仕事のできる大人という印象だった。
その彼を裏切るようにと、拓也は命じられていた。
世良の持つ強奪のタレントは、相手の特殊能力を奪うことができる。
奪うことができる特殊能力の数は、存在レベルと同数らしい。
世良たちの会話を聞く限りでは、存在レベルは三。
自分の光属性魔法、杉本の時間魔法、そして召喚魔法の爆弾。
すでに枠は埋まっているはずだ。
だから儀一とねねのどちらかが、拓也が所有していた光属性魔法よりも有用な特殊能力を持っていれば、不用品という形で戻って来る。
そのはずである。
だが……。
儀一は小学生の子供を四人も連れているという。こんな嘘をつくはずもないので、おそらく本当のことなのだろう。子供たちを守るためには、特殊能力が必要なはずだ。
それを奪ってしまったら、どうなるか。
「いっそのこと、使えない能力だったら」
現状維持のまま。
これならば問題はない。
「もし、使える能力だったら」
凍える身体がぶるりと震えた。
罪悪感のためではない。
拓也は思いついたのだ。
世良は新たな特殊能力を奪う前に、拓也に光属性魔法を返すはず。そのわずかな隙をついて、世良たちを倒せないだろうか。
世良の手下である正志の特殊能力は、パッシブスキルの身体能力強化だ。筋力、持久力、反射神経などが軒並み向上しているという。
そしてアンリは、タレントの魅了。異性を虜にする能力である。ウィージ村には年頃の男性はほとんどおらず、活躍する機会がなかった上に、自分たちにも影響を及ぼすということで、現在は世良から使用を禁じられていた。
拓也の存在レベルは二。
光撃を七、八発撃てるはず。
ふいをつけば、三人を倒せるのではないか。
だが、失敗すれば殺されるだろう。
正志やアンリの態度を見ていれば分かる。世良は裏切り者を絶対に許さない。自分は殺される。しかも楽な死に方ではないはずだ。
生きながらにして、地獄を見ることになるだろう。
「……っ」
身体と精神に刻み込まれた恐怖。ひょっとしたら自分の特殊能力が戻ってくるかもしれないという希望と打算。儀一に対して申し訳なく思う気持ち。なるようになれという自暴自棄な考え。そして、ほんのわずかばかり顔をのぞかせた、戦うための勇気。
複雑な感情の狭間で、拓也の心は激しく揺れていた。
「浅見君、だいじょうぶかい?」
気がつけば、儀一がいた。
「……顔色が、真っ青だけど」
「いえ、だいじょうぶです!」
相手に不審がられる態度をとるな。
これは世良に厳命されたことである。
「あれ、二宮さんは?」
「彼女は留守番だよ。うちには子供が四人もいるからね」
「そうですか」
儀一はひとりで来たようだ。
この状況は世良も想定していた。昨日は女がいたから、こちらの人数だけを確認してすぐに退散したのではないか、とのことだ。
二宮ねねがいなくても、作戦は続行される。
「世良さんたちが中で待っています。どうぞ」
部屋のテーブルには椅子が四つしかない。
儀一の正面に世良、左右に拓也とアンリ。威圧させないようにとの配慮から、大男の正志はひとり壁際のソファーに座る。
無害そうな笑顔と紳士的な態度で、世良は儀一を歓迎した。
互いに“オークの森”を抜け、今は異世界の村で不自由な生活をしている。
自分たちは、多くの困難を乗り越えた仲間だ。
「これまでの経緯について情報交換といきたいところですが、あの森でのことは思い出したくもないでしょう。まずは、村での生活と仲間たちについてお話しませんか?」
「そうですね」
儀一はカロン村という村にいるらしい。村長や村人たちの好意で家を貸してもらい、木こりとして働いているらしい。
「今年はガラ麦の収穫が壊滅的で、働き盛りの男の人たちは、遥か西の町へ出稼ぎに行っているそうです。魔物の攻撃を防ぐための砦の建設があるとか。僕がお世話になっているカロン村では、木こりがひとりしかいませんでした。ですから、臨時として雇ってくれたんです」
アンリが目を輝かせた。
「山田さんは、木こりなんだ」
「はい」
「すごいわぁ。でも、大変そう」
「いえ、僕はそれほど。子供たちが手伝ってくれていますので」
「ふふ、謙遜してるのね」
おかしいと拓也は思った。
アンリの声を聞いているだけで、心が乱れる。彼女の視線が向けられている儀一のことすら妬ましく感じる。
この感覚は、以前にも感じたことがあった。
あれは確か“オークの森”で初めて世良たちに出会った時。
好みのタイプでもないアンリのことが、とても魅力的な女性に思えたのだ。
拓也は確信した。
アンリは世良から禁止されている特殊能力――タレントの魅了を使っている。
おそらく、儀一を油断させるために。
「あ、あのっ!」
反射的に、拓也は立ち上がっていた。
「……浅見君。話の途中に、どうしたね?」
世良の表情は穏やかだったが、目だけは笑っていなかった。
「そ、その! 山田さんを、案内したいんです。僕たちが住んでいる、ウィージ村を……」
これは当初から計画されていた行動だった。
アンリの魅了については聞かされていなかった。だから多少不自然なタイミングであったとしても、言動的にはおかしくないはずだ。
「そうですね。浅見君とはゆっくり話をしたいと思っていたんです。世良さん、お願いしてもいいですか?」
儀一の要求に、世良は表面上――快く頷いた。
(25)
村案内といっても、拓也はウィージ村のことを何も知らない。
二ヶ月近く住んでいるにもかかわらず、ずっと引きこもっていたからである。
村の中央広場と、共同井戸、朝市をやっているらしい通り。
あとは……。
道中に出会った村人たちは、みな恐れるように拓也たちから離れていった。小さな子供がひとり、きっとこちらを睨みつけてきたが、母親に抱きかかえられて連れていかれた。
「ずいぶん、怖がられているみたいだね」
「は、はい」
恥ずかしさのあまり、拓也は俯いてしまう。
「村長さんから、何か聞きましたか?」
「うん」
昨日、儀一とねねはウィージ村の村長と面会していた。
儀一が自己紹介で異国人であることを伝えると、中年の女村長は半狂乱になって怒鳴り散らしたという。
「あいつらを連れて、出て行けってね」
「……」
無言のまま、村はずれにある大木のところまで来た。儀一は「座ろうか」と言って、木の根に腰を下ろした。拓也もそれに倣う。
「でもね。娘さん――マーニ君だけは、君を庇っていたよ。タクヤは気が弱いから逆らえないだけ。本当は、悪い人じゃないって」
拓也は泣きそうになった。
「世良さんたちは、この村に馴染むつもりはないみたいだね」
「はい。言葉を覚えたら出て行くと言っていました」
「君は、どうするつもりだい?」
「僕は……」
拓也は言葉に詰まった。
ここから逃げ出したい。助けて欲しい。
『――そんなゴミクズが、この世界で生きていけると思うか?』
喉まで出かかった言葉。
『どんなに辛くたって、金魚のフンみてぇに俺たちにくっついて生きていくしかねぇんだよ、お前は!』
心が、縮こまる。
「君は、どうしたい?」
儀一は問い方を変えた。
まるで拓也に、その答えを促すかのように。
「僕は……」
拓也は乾いた息を吐いた。
「僕が選択した特殊能力は、光属性魔法です。人を傷つけ、屈服させるだけの、暴力的な力です」
「そんなことはないよ」
儀一は反論した。
光属性魔法は、熟練度を上げて魔法レベルが三になると、光斬剣という魔法が使えるようになる。これは光の剣を出すことができるのだが、相手を攻撃するだけの武器ではないという。
「懐中電灯にもなるし、斧やノコギリ、そしてスコップの代わりにもなる。草むしりにも使えるし、とても便利な工具だよ。この世界で生活する上で、とても役に立つ」
「……」
励まされるたびに、拓也は落ち込んでいった。
「せ、世良さんの能力も、光属性魔法なんです。そして正志さんが、身体能力向上、アンリさんが魅了です」
「魅了? そういえばさっき、変だったなぁ」
全員の特殊能力を告げることは、世良から命じられていたことである。
狙いは、儀一の信頼を得ること。
ここで儀一から光属性魔法を見せて欲しいと要求された場合、勝手に魔法を使わないよう、世良に厳命されている。許可が必要だと言って、いったん断る。
そして代わりに、世良が光属性魔法を見せるという段取りだ。
「山田さんと二宮さんの特殊能力は、何ですか?」
同情心をかい、まずはこちらの手の内を見せてから、相手の情報を引き出す。
「僕は、召喚魔法だね」
「召喚、魔法?」
生前の自分の持ち物をひとつだけこの世界に持ち込むことができる魔法だ。
最初に特殊能力を選ぶ際、拓也も検討した記憶がある。
学生の身であり、サバイバルに役立ちそうな道具を所有していなかったので、断念したが。
「二宮さんは、タレントの鑑定」
これも拓也が迷った能力である。食用の野草やキノコが判別できれば、サバイバルが有利になると考えたからだ。
「調べたいものに手に触れて鑑定を使うと、状態盤上に説明文が表示される。いわゆる百科事典だね。バシュヌーン語で表示されるから、あまり意味がないんだけど」
お気の毒にと拓也は思った。
「それは、とんだ地雷スキルですね」
「地雷? ああ、うまいこと言うね」
ネットゲームが大好きだった杉本の影響で覚えた単語である。役立たずで、取得すると損をする能力のことだ。
「その、山田さんの召喚魔法を見せてもらうことはできますか?」
とりあえず自分の役割を果たしてから行動を決めようと、拓也は考えた。
つまりは、結論の先延ばしである。
正直、悩むことに疲れてもいた。
「すぐ近くにあるよ」
儀一に案内されたのは、村から街道寄りに少し歩いた場所。岩陰立てかけられていたものは、
「うわ、すごい。これ、ホンダの“モンキー”ですよね?」
「お、知ってるのかい? おじさん嬉しいなぁ」
「その顔でおじさんは違和感ありますよ。父が昔、似たようなバイクに乗っていたんです。あれは“ゴリラ”だったかな?」
「お父さん、いい趣味をしてるね」
間接的に、儀一は自分を褒めた。
「でも、この世界にはガソリンがないみたいなんだ。かなり燃費がいいバイクだけど、もうすぐ動かなくなる」
「そう、ですか」
しかし拓也は、心が軽くなったような気がした。
儀一とねねの特殊能力は、それほど役に立たない。少なくとも、世良が光属性魔法の代わりに強奪しようとは思わないはずだ。
これでいいと拓也は思った。
マーニたちウィージ村の人々に対して、拓也は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。これ以上、誰にも迷惑をかけたくない。自分を嫌いになりたくない。それでは、杉本を犠牲にしてまで生き残った意味がなくなってしまう。
「山田さん、戻りましょう!」
欲望を捨て去ることで、得られるすがすがしさもある。
そのことに気づき、拓也は生気を取り戻した。
村長の別宅に戻ると、拓也は儀一とねねの特殊能力について、世良たちに報告した。
儀一がいる前で、堂々と伝えた。
「……そうか」
テーブルの上で手を組みながら、世良が頷いた。
「目の前できちんと確かめました。だからもう、山田さんには用はないですよね?」
「ああ」
世良はゆっくりと立ち上がった。
そのまま拓也と儀一の方へと近づいてくる。
「お手柄だったな、浅見」
殴られるかもしれないと、拓也は思った。
あるいは、また自分の魔法で吹き飛ばされるのか。
それでもいい。儀一に、世良たちの危険性を伝えることができるのであれば。
世良は拓也を労うように肩をぽんと叩くと、隣に立っていた儀一の胸に手を触れた。
「光撃」
儀一は吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた。
そのまま床に倒れ込み、苦しそうに咳き込む。
「苦しいだろう? 呼吸ができなきゃ何もできない。しばらくは動けねぇよ」
予想外の出来事に、拓也は呆然としていた。
「これが、素人の限界さ。いくら用心しても意味はねぇ。なんの脈絡のない暴力に対して、完全に無防備だ」
「や、山田さんっ!」
拓也は儀一のそばに駆け寄った。
「おい浅見、担がれてんじゃねぇぞ」
「え?」
世良は嗜虐的な笑みを浮かべていた。
「やはり、頭のキレるやつだ。自分の能力の価値を落とすことで、俺たちの興味から逃れる、か。ウィージ村の連中と敵対している今、他の異世界転生者たちと揉め事を起こすメリットはない。常識的に考えて、危害を加えられるはずはないよなぁ」
儀一は顔を上げることができない。
「しかも浅見を取り込んで、逆に使ってきやがった。真実に嘘を混ぜ込むペテン師だな。子供を連れて“オークの森”を抜けたことといい、お前がこちら側の人間だったら、盃をやってもいいくらいだよ。ははっ」
「せ、世良さん」
拓也は混乱した。
何故、世良は儀一に暴力をふるったのか。
「召喚魔法は、俺も持っている」
それは世良が拓也と杉本に出会う前、とある異世界転生者から強奪した特殊能力だった。
召喚できる物品は――
“魔王の母”。
“過酸化アセトン”という化学物質を使用した爆弾であった。
「この爆弾は、何回だって使える。俺の推測では、毎回、地球のとある時間帯から取り寄せているからだ。つまりこいつのバイクも、ガソリンが戻った状態で召喚されるのさ」
確かに、世良が爆弾を使う場面は何度も見てきた。召喚されたものに時間経過が適用されるならば、一度しか使えないはずだ。
「本当にお手柄だったな、浅見」
ウィージ村の連中を恐怖で縛り付けておくのも限界がある。
もし結託して反抗されたら、全面対決になるだろう。魔力が切れてしまえば、さすがに多勢に無勢となる。
世良はある程度バシュヌーン語をマスターした後、別の街に旅立つつもりでいた。そのことはすでに村長にも伝えてある。
期間限定であれば、脆弱な支配体制を取り繕うことができると考えたからだ。
「これで、移動手段がそろったわけだ」
「でも叔父貴。“モンキー”といやぁ、確かちっこい原付っす。せいぜい二人しか乗れません」
正志の言葉に、アンリの目が吊り上がった。
「あたしが、徹さんと行くんだからね! 正志、あんたは体力バカなんだから、走りなさいよ」
「そ、そんな」
世良はため息をついた。
「荷車をつなげば、三人や四人は乗れるだろうが」
「……あ」
苦々しそうに舌打ちしてから、世良は儀一を地下倉庫に連れていくよう命令した。
(26)
地下倉庫は石造りで、分厚い入口の扉には錠前がかけられる。
最初、拓也たちがウィージ村にたどり着いた時、問答無用で放り込まれた場所だ。
ロープや木箱や籠などの道具類も散乱している。
世良は儀一の両手両足をロープで縛った。そのままうつ伏せに寝かせて、正志が背中に跨って座る。
かなり屈辱的な体勢だが、儀一はおとなしくしていた。
「今から“儀式”を行う。しっかり聞けよ」
世良は儀一の正面に立ち、見下ろしていた。
「俺が選択した特殊能力は、タレントの強奪だ。これは対象が所有している特殊能力を、ある確率で奪い取ることができる。だが、いくつか条件があってな」
世良は淡々と説明した。
「ひとつ、発動させるためには、相手に接触する必要がある。二つ、奪える能力の数は、使用者の存在レベルと同数まで。三つ、奪い取った能力を元の所有者に返す事こともできるが、その能力は二度と奪えない。魔力の消費量も大きくてな、今の俺でも三発が限界だ」
世良の話を、拓也も聞いていた。
決して思い出したくない記憶が蘇る。
儀一に申し訳ないと、拓也は思った。最初から世良の能力を正確に儀一に伝えるべきだった。
自分のせいで、同じ絶望を――
こうなったら、やるしかない。
あのタイミングで、三人を倒すのだ。
「とまあ、テレビドラマの悪党のように、ぺらぺらしゃべったわけだが、何故だと思う?」
儀一の背中に乗っている正志が、儀一の頭を、叩いた。
「おい答えろ、山田!」
「何か理由があるからでしょう」
拓也の隣で、アンリがきゃははと笑った。
「この人、余裕あるじゃない?」
世良は鼻を鳴らした。
「強奪の条件を相手が認識することで、成功の確率が上がるからさ。この馬鹿馬鹿しい“儀式”をしなければ、能力を奪える確率はせいぜい二十パーセントだ。だが、発動条件、奪える数、返還条件を伝えることで、それぞれ二十パーセントずつ成功確率が上がっていく。つまり今、合計で八十パーセントだ」
一、二回も使えば、ほぼ儀一の能力を奪うことができるだろう。
「いまいち、真剣味が足りねぇな」
世良の本質はサディストである。
特に冷静沈着な優等生を壊すことに、たまらない快感を覚える。そういう意味では、拓也は絶好の素材だったが、手応えがなさすぎた。
しかし儀一は違う。
久しぶりの――極上の相手といえるだろう。
「能力を奪った上で、お前を殺す」
世良はぞっとするほど冷たい声を放った。
「奴隷はひとりで十分だし、お前は放置しておくと危なそうだからな。知ってるか? 他の異世界転生者を殺しても、経験値が入るんだ。オークたちよりも、だんぜん効率がいい」
儀一はぼんやりと世良を見上げていた。
「状態盤を出してみろ。現実ってものを目の当たりにすりゃあ、ちっとは堪えるだろう」
儀一は後ろ手に縛られているわけではない。状態盤を見せつけるために、あえて世良がそうしたのだ。
「ステータス、オープン」
状態盤は、手をかざした位置に出現する。自分以外には、内容を確認することはできない。
儀一は震える手で、何度もタップしながら、特殊能力ウィンドウを開いたようだ。
「さて、始めるか」
世良の様子を観察しながら、拓也は訝しげに思った。
おかしい。
儀一の能力を奪う前に、やるべきことがあるはずだ。
しかし視界の先で、世良は中腰になり、儀一に手を伸ばした。
「ま、待ってください!」
たまらず拓也は叫んだ。
「たっくん。今いいところなんだからさ、ちょっと黙って……」
「その前に、僕の能力を返してください!」
アンリを無視して、懇願する。
「世良さんの存在レベルは、三。もうこれ以上、特殊能力は奪えないはずです。約束通り、僕は山田さんの能力を聞き出しました。だから僕の――光属性魔法を返してください!」
「馬鹿か」
嘲るように世良は笑った。
「んなもの、お前を喜ばせるための嘘に決まってるだろ」
「……え?」
「俺の存在レベルは、四だ。この村にたどり着いた時、経験値が入っただろう。それで上がったんだよ」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
そして理解した瞬間、ぐらりと足元が揺れたような気がした。
「叔父貴、それ本当っすか?」
「お前らは嘘が下手だからな。敵を騙すには味方からってやつだ」
拓也たちは一度もパーティを組んだことがない。経験値を分散させるメリットがないという世良の判断からである。
だから拓也は、仲間内の会話で世良の存在レベルを判断していた。
まさかそれすら、罠だったとは。
世良の用意周到さに、拓也は震えた。
「あんた、少し黙ってな!」
「――ぐっ」
アンリが豹変し、拓也の腹に膝蹴りを入れる。
最後の希望が、潰えた。
膝から、崩れ落ちる。
その様子を満足そうに観察してから、世良は儀一に向き直った。
「よく見ていろよ。自分の能力が奪われる、その瞬間を」
嗜虐的な笑みを浮かべながら、儀一の頭に手を置く。
「強奪、特殊魔法、召喚魔法!」
一瞬遅れて、儀一がぼそりと呟いた。
「強奪、属性魔法、光属性魔法」
重い風が吹き抜けるような効果音が鳴り響いた。
「うん? お前今、なんて……」
眉をひそめる世良。
その手首を、儀一は縛られている両手でつかんだ。
「光撃」
光を発したのは、儀一の背中。
「ぐおっ」
そこに乗っていた正志が飛び上がり、悶絶した。
「ぐっ、うぉおおおっ」
股間を潰され、床の上をのたうち回る。
「ま、正志っ!」
驚く世良をよそに、儀一は膝立ちになった。
手首をつかんだまま、ぐいっと引っ張る。中腰になっていた世良は踏ん張りがきかない。
「くっ、光撃!」
体勢を崩しながらもとっさに魔法を使おうとしてのは、さすがの機転であった。
しかし魔法は、発動しなかった。
儀一の頭が世良の胸に接触する。
「光撃」
目も眩むような光とともに、世良は吹き飛ばされた。
呼吸ができなければ、動くことはできない。
奇しくも自分が口にした通りの体験を、世良はする羽目になった。
儀一は苦労して立ち上がると、ぴょんぴょんジャンプして、扉の前にたどり着いた。
そのまま背中を扉に預ける。
「やれやれ。ひどい目にあった」
世良は激しく咳き込み、正志は悶絶していた。
そして拓也とアンリは呆然としている。
「拓也君。悪いけれど、ロープを解いてくれるかな?」
「は、はい」
固結びになっていたので手間がかかったが、何とか拓也はロープを解いた。その間、アンリは世良のそばに駆け寄って、心配そうに声をかけながら背中をさすった。
「ふう、ありがとう」
「い、いえ」
「そのまま、入口の前に立っていて。誰も通さないように」
「は、はい」
自由になった儀一は、正志のもとへ近寄った。
状態盤を確認しながら、ぼそりと呟く。
「強奪、パッシブスキル、身体能力向上」
続いて、世良とアンリのもとへ。
「て、てめぇ! あっちに行きやがれ!」
「動かないで」
儀一が手をかざすと、アンリが「ひっ」と悲鳴を上げた。光撃を使われると思ったのだろう。
儀一はアンリの頭に手を置いて、
「強奪、タレント、魅了」
「ふ、あ……」
力が抜けたように、アンリは尻もちをついた。
「拓也君」
「は、はい!」
「世良が奪った特殊能力を、教えてくれるかな?」
「ひ、光属性魔法と、時間魔法と、ばく――いえ、召喚魔法です」
儀一は世良に触れると、
「強奪、タレント、強奪」
「強奪、特殊魔法、召喚魔法」
「強奪、特殊魔法、時間魔法」
いったい何をしているのだろうか、この人は。
この、間の抜けたような空気は、何だろうか。
扉の前に立ちながら、拓也は激しい疑問に苛まれていた。
「鑑定」
最後に儀一は状態盤を確認すると、
「もう、持っていないようだね」
そう言って、ひと息ついたのである。
(27)
『ひっく。基本、ボクはさぁ、君たち異世界転生者同士の争いには、不干渉らから。きょーじってやつ? そう、管理者としてのきょーじがあるのらよ、山田さん。残念らけど、十八番から二十番の情報は、教えられないねぇ』
前日の夜。マンション内のリビングで、ぐでんぐでんになりながら、カミ子はそうのたまった。
ちなみに十八番から二十番というのは、世良、正志、アンリの三人のことである。
酔っ払うと口が軽くなり、“ミルナーゼ”という世界の成り立ちやカロン村周辺の地形などを、ぺらぺらしゃべってくれる便利なカミ子であったが、変なところでこだわりがあるようだ。
『ま、山田さんくらい活躍した異世界転生者はいないんらから、だいじょうぶれしょ。よゆーだよ、よゆー。ぱっといって、さっとやってきなよ』
別に、戦いに行くわけではないのだが。
儀一が心配したのは拓也の様子だった。
友人だった杉本の死に原因があるのだろうが、生きる気力を失っているようにも思えた。
ひょっとすると、世良たちに虐げられているのではないか。
ウィージ村の人々との関係も気になった。
自己紹介をしただけで半狂乱になった女村長の態度から見るに、世良たちはかなり強引なやり方で生活環境を確保したようである。
敷地内にあった納屋の惨状を見るに、攻撃魔法を使って村人たちを服従させたのではないか。ひょっとすると、村長の足の傷もその時のものなのかもしれない。
拓也は大学の学生代表として、市の事業に参加していた。
杉本は副リーダー的な立場で、いいコンビだと思えた。
お調子者の杉本は盛り上げ役で、真面目な拓也はみなの意見を公平に聞き、うまくまとめ上げる。そんな役回りだ。
地域貢献活動に対しても積極的だったし、そんな彼がウィージ村の人々に暴力をふるうとは考えづらい。
ひょっとすると卓也は、特殊能力の有用性の関係で、世良たちに従わされているのではないか。
もし彼が望むのであれば、カロン村に連れて帰ろう。
条件としては、拓也が取り返しのつかない犯罪行為に手を染めていないこと。
今の儀一には守るべきものがある。知り合いとはいえ、拓也のためにこの国の治安機構と事を構えるわけにはいかない。
手遅れでなければよいのだが。
問題は、世良たちの動向である。
初対面の時、世良は友好的に接してきたが、正志とアンリの緊張した様子が気になった。調子に乗って会話するとボロが出る。だから余計なことをしゃべるな――まるでそう命令されているかのような態度だった。
注意しなくてはならないのは、自分たちの特殊能力に目をつけられることだ。
逆に、こちらの特殊能力が役に立たないと思わせることができれば、安全は確保されるだろう。
ウィージ村の人々と敵対している状況において、世良たちは他の異世界転生者といざこざを起こしている余裕はないはずだ。
たとえば、属性魔法で儀一を叩きのめしたとしても、それは自己満足にしかならない。
計算され尽くした世良の口調や仕草から、彼がそのような愚を犯す人間とは思えなかった。
タレントの強奪については、実は想定していなかった。
異世界転生者たちは、まずは“オークの森”を生き延びなくてはならない。
そして、最初に取得できる特殊能力はひとつだけ。
強奪は、他の異世界転生者と出会い、特殊能力を奪わなければ意味がない。その前にオークたちと遭遇したら、一巻の終わりである。
たとえ奪うことができたとしても、その特殊能力が有用かどうかも分からない。それならば、最初から自分が必要と思う能力を選択したほうがましだろう。
少し考えれば分かる。
片や、他の異世界転生者と敵対し、特殊能力がひとつ、使える魔力はひとり分。
片や、他の異世界転生者と協力し、特殊能力がふたつ、使える魔力は二人分。
生き残れる可能性が大きいのは、圧倒的に後者だ。
拓也の言葉を借りるならば、地雷スキルである。
だから儀一は、最初の検討段階でタレントの強奪を選択肢から外していた。
こんな能力を選ぶのは、すべてが冗談だと思い込んでいる人間か、自暴自棄な人間。
あるいは――
狂気を宿した人間だけである。
儀一が所持していた特殊能力は、召喚魔法と鑑定。
自己防衛の手段はなかったが、もうひとつ特殊能力を選択することができた。
これは存在レベルが十になった時に得た権利である。
ねねは暗記、子供たちは水属性魔法を取得していたが、万が一のために、儀一だけは保留にしていたのである。
相手の出方に合わせた特殊能力をその場で選択すれば、切り抜けられる可能性は高い。
ようするに、お守りのようなものだ。
ただし、ねねは留守番である。
相手方に世良と正志という男がいて、彼らに疑念がある以上、彼女を連れて行くわけにはいかなかった。
“オークの森”で出会った異世界転生者に、一度ねねは襲われている。万が一のことがあれば、それこそ取り返しがつかない。
翌日、儀一はひとり、手ぶらでウィージ村へと向かった。
そして、拓也に嘘をついた。
自分の能力は、バイクを召喚する魔法。
ねねの能力は鑑定。
どちらも微妙に使えない能力なのだと。
あからさまにほっとした拓也の様子に、儀一は確信した。
やはり世良は、拓也を使って自分たちの特殊能力を探り、使えそうであれば脅しをかけて、従わせようとしていたのだ。
儀一の予想は、外れた。
世良はタレントの強奪を選択しており、なおかつ他の異世界転生者から、召喚魔法を奪っていたのだ。
この二つの条件がそろっていなければ、おそらく儀一の嘘は見抜かれなかっただろう。
問答無用で光魔法で吹き飛ばされて、地下倉庫へ連れていかれた時、儀一には二つの選択肢があった。
ひとつは絶望した演技を見せ、世良に忠誠を誓うふりをすること。
ある程度自由を得てから、再度、マンションの召喚魔法を取得して逃げればよい。
『能力を奪った上で、お前を殺す』
世良のこのひと言で、儀一の覚悟は決まった。
強奪の成功確率は、相手がその条件を認識することで、八十パーセントまで上げることができるという。
世良が口にし、正志とアンリも聞いていたので、全員に適応されるはずだ。
『状態盤を出してみろ。現実ってものを目の当たりにすりゃあ、ちっとは堪えるだろう』
これは助かった。
そんなはずない、嘘だ嘘だとおののきながら、状態盤を出す予定だったのだが、自分の演技力に儀一は自信がなかったのだ。
世良の命令に従って、儀一は状態盤を開くと、震える手で操作ミスを装いながら、ボタンをタップしていった。
「特殊能力」「新規取得」「タレント」「強奪」「本当によろしいですか?」「はい」。
『タレントの強奪を、取得しました』
アニメ声の案内メッセージは、儀一にしか聞こえない。
世良の手が、儀一の頭に触れる。
これが、最後の条件。
『強奪、特殊魔法、召喚魔法!』
お手本をなぞるように。
『強奪、属性魔法、光属性魔法』
状態盤上に、光属性魔法が表示されたことを確認すると、儀一は行動を開始した。ちなみに、儀一の召喚魔法は消えなかった。どうやら世良の強奪は失敗したようだ。
属性魔法は身体のどの部分からでも出せる。それは子供たちとの魔法練習の際に実証済み。
光属性魔法の魔法レベルは二。
急所を捉えれば、一発で仕留められる。
存在レベルが十ということもあり、魔力にも余裕があった。
強奪できる特殊能力は十個。これも十分だ。
世良からは強奪、光属性魔法、謎の召喚魔法、時間魔法。正志からは身体能力向上。そしてアンリからは魅了と、儀一はすべての特殊能力を奪い取った。
運がよいのか、それとも他の要素が働いたのか、一度も失敗しなかった。
「三人をロープで縛ろう」
後ろ手にしっかりと。足も、そして口にも猿轡をする。
途中、世良と正志が抵抗したので、儀一は光撃を一回ずつ使った。アンリは観念したらしく、大人しくしていた。
袖口や足の裾や靴の中に凶器を忍ばせていないことを確認してから、儀一は拓也にマーニを連れてくるようお願いした。
十代半ばの少女には、刺激の強い光景だったかもしれない。
思わず絶句したマーニに、儀一はバシュヌーン語で伝えた。
「僕は、三人に襲われました。だから、こうしました。彼らはもう、魔法を使えません」
マーニが母親である村長に伝えて、それからウィージ村は大騒ぎになった。
ほんの一時間くらいで村中の人々が村長宅に集まり、話し合いが行われた。
その間、儀一と拓也は別室で待機していた。
拓也は儀一に謝った。
世良のたくらみを知りながら、伝えなかった。その結果、儀一は光魔法で攻撃されることになったのだ。
「嘘をついたのはお互い様だよ。僕の召喚魔法はバイクじゃないし、二宮さんの特殊能力も鑑定じゃない」
「そ、そうだったんですか」
本当のことを知りたかったが、さすがにおこがましいと思い、拓也は聞かなかった。
「僕は一度、カロン村に帰るけど、拓也君はどうする?」
儀一は問いかけた。
世良たちは地下倉庫に閉じ込めている。ウィージ村の人々は三人の処分について、話し合っているのだろう。
そして拓也は、村人からすれば世良たちの仲間だ。
「はっきり言って、君の立場は危ない」
拓也も承知していた。
力がなかったとはいえ、世良たちに反抗することもできなかった。村の貴重な食べ物を奪ったのだから同罪だろう。
「逃げるかい?」
「い、いえ!」
誰かに怯えながら暮らすのはもうたくさんである。
「償います。弁償できるお金は、ありませんけど」
言葉も通じない。どうすれば許してもらえるのかすら分からない。
とにかく、必死に謝ろうと拓也は思った。
「その服、けっこう高く売れるよ」
言いながら、儀一は状態盤を操作する。
「こうかな?」
ピコンとシステム音が鳴った。
『光属性魔法を、取得しました』
驚いて、拓也が状態盤を確認すると、特殊能力ウインドウの中に、懐かしい文字が表示されていた。
「属性魔法」「光属性魔法(光撃)」「魔法レベル(二)」「熟練度 (九)」
知らない間に魔法レベルが上がっている。
しかしそれは、まぎれもなく拓也が授かった力だった。
「どうやら、戻せたみたいだね」
頼るものの何もない異世界において、拓也がただひとつだけ、すがりつくことができる力。
足場を得たような安堵感とともに、熱い涙が溢れてきた。
「あ、ありがとう……ござい、ます」
両手を顔に当て、膝から崩れ落ちる。
かすれるような声で、何度も何度も呟いた。
「ありがとう、ございます。ありがとう……」
儀一は何も言わなかった。
拓也が許されるかどうかは分からない。
光属性魔法を返したのは、村人たちが報復措置として拓也を殺害しようとした場合の保険。
この魔法を使って逃げろということだ。
世良たちが奪った食料で、村人たちが飢え死にするかもしれない。その罪の重さを推し量ることは、自分たちにはできない。
罪人を食べさせていく余裕などないだろうし、罪人の引き渡しなどという煩わしい手続きをとるかどうかも甚だ怪しい。
法整備された現代日本とは違うのだ。
そのことを、拓也は認識しているのだろうか。
拓也の運命は、彼がウィージ村でどのような行動をとってきたか、そして今後、どのような行動をとるかによって決まるのである。
「いいかい、拓也君」
儀一は忠告した。
「ウィージ村の人々は、魔法を恐れている。君が光属性魔法を一度でも使ったら、もうこの村にはいられないだろう。だから、しっかり考えてから使うんだよ」
「分かりました」
「じゃあ、また明日くるから」
儀一がカロン村に出発した後、マーニが部屋を訪れると、下着一枚になった拓也が正座しており、自分の服を差し出すような形で、土下座した。
「マーニ、ごめん」
それを見たマーニは悲鳴を上げたという。
(28)
「……つまり。あんたたちは、あの狼藉者とは無関係だというのかい?」
眉の間に太い縦じわを作った女村長は、重々しい口調で確認した。
名前をバナエという。
足の調子が思わしくないようで、ベッドの上での会談だった。
儀一とねねは椅子だけを与えられて、バナエのそばに座っている。
「はい。この村で、初めて会いました」
と、儀一が答えた。
「ただし、拓也は別です。元いた――国での、知り合いなんです」
儀一は拓也が気の弱い素直な性格であること、世良たちに魔法と暴力で脅されていたこと、ウィージ村での行為に対して心から悔いており、償いをしたいと考えていることを伝えた。
ここまでくると、ねねに翻訳を頼らざるを得ない。
「しかしね、うちの村の貴重な食料を食い荒らしたことには違いない。そうだろう?」
「お母さん」
部屋の中にはもうひとり、マーニがいた。
「タクヤは、セラからほとんど食料を与えられていなかったわ。痩せっぽっちで、いつもアザだらけだったし、私に会うたびにごめんって……」
「マーニ、お前は部屋に戻っておいで」
困った娘だという感じで、バナエが口元を歪める。
そんなことくらいバナエも承知している。あえて口に出したのは、儀一との交渉を少しでも有利に運ぶためだ。
「いやよ。ここにいるわ」
母親の命令を、マーニは不服そうにはねのけた。
一見おとなしそうな娘だが、実は気が強く、頑固なようである。
やはり母娘だなぁと、儀一は思った。
儀一は事前にマーニと話をしていた。
拓也が助かるかどうかは村長の――君のお母さんの一存で決まる。だから助けて欲しいと。
マーニが拓也のことを庇えば庇うほど、儀一はバナエに対して優位な状態で交渉を進めていくことができる。
「拓也にまったく責任がないとはいいません。ですが、彼は世良の仲間ではありません。あなたたちと同じように、無理やり従わされていただけです。そのことを、村長から村の皆さんに伝えていただけませんでしょうか」
「ふん、馬鹿をいいな」
バナエは鼻を鳴らした。
「こっちは貴重な食料をふんだくられて、納屋を壊されて、あたしゃ足まで怪我をした。まったく、踏んだり蹴ったりだよ! いったいどうしてくれるんだい」
世良は相手に合わせた対応をとる能力に、欠けているのではないかと儀一は思った。恐怖で支配する対象としては、いささか不適切だろう。自分が行動を起さずとも、いずれは同じような状況になっていたのかもしれない。
「今年は大凶作なんだ。食料の備蓄もない。子供たちの半分は餓死することになるだろうさ」
「そ、そんな。儀一さん、大変です」
顔を青ざめさせたのは、隣に座っていたねねである。善良で裏表のない性格であるねねは、この手の交渉ごとには向いていない。
ちらりとバナエを観察すると、くえない女村長は口の端に白い歯を見せていた。
「魚の燻製を五十匹、無償で提供します。それで、拓也を許していただけないでしょうか」
「ふんっ」
バナエは再び、つまらなさそうに鼻を鳴らした。
先日儀一は、バナエに魚の燻製を五本、献上している。本当は商売をしに来たのだが、自分の他に異世界転生者がいて迷惑をかけていることを知り、無償提供に変更したのである。
バナエの目的は、脅威の排除と、儀一による補償。
興味がないはずはないのだ。
儀一と世良に繋がりがないことは確認した。あとは拓也というカードを使って、儀一からどこまで妥協を引き出せるか、である。
その前に、儀一はたたみかけた。
「拓也と世良が仲間ではないことを、村長から村の人たちに説明していただけるのでしたら、あと三十匹追加しましょう」
「……」
「お母さん、いい加減にして!」
マーニがバナエを促した。
「私たち、意地を張ってる場合じゃないでしょ。セラたちもやっつけてくれたんだし、ギーチさんには感謝しないといけないわ」
この少女も真っ直ぐな性格で、交渉ごとには向かないかもしれない。
ちらりとバナエを観察すると、今度は渋面になっている。
互いに、思うようにはいかないようだ。
「追加は、五十匹だ」
ぼそりとバナエは言った。
「合計で百匹。これ以上は負けられないよ」
これ以上も何も、一度も負けてなどいない。
労働力に換算すれば、約三日分。これで拓也の命を助けられるのであれば、安いもの。
儀一は最後に条件を付け足した。
「ではひとつだけ、お願いしてもよろしいでしょうか?」
「なんだい」
「今回の世良の件で、拓也は皆さんに償いをしたいと考えています。力仕事でも何でも、好きに使っていただいて構いません。ただ、言葉が通じないのではお互いに不便です。彼に、バシュヌーン語を教えてあげてください。できれば、マーニさんから」
この世界で生きる上でもっとも大切なもの。
それは、意思疎通をするための手段と、信頼できる相手だ。
「わ、分かったわ」
儀一に見つめられ、マーニが少し戸惑ったように了承する。
バナエは、あと十匹はふんだくれたのにという顔をしていた。
翌朝、儀一が自分の“状態盤”を確認すると、特殊能力ウィンドウに次のような文字が表示されていた。
「タレントの“強奪”を、統合しますか?」
とりあえず「いいえ」のボタンを押して、他に変わった部分がないかを調べる。
強奪で奪った特殊能力については、「身体能力強化」「種別:パッシブスキル」「所有者名:後藤正志」というように、元の所有者の名前が表示されるのだが、世良、正志、アンリの名前が消えていた。
これは、元の所有者に何かあったことを示しているのではないか。
拓也に光属性魔法を返した時と同じ作業を試したが、反応しない。
儀一はカミ子を呼んで、確認することにした。
「うー、それはたぶん、あれだね」
二日酔いのカミ子は、気だるそうに水属性魔法を行使した。
「体内浄化――っと」
これは魔法レベル五で使用可能となる魔法で、体内の毒素を消し去ることができるという。消費魔力は膨大であり、本来の用途は二日酔いの治療などではないのだろう。
カミ子はすっきりした顔で、けろりと言った。
「十八番から二十番、死んだんじゃない?」
基本的にこの神様は、生と死に対する関心が薄い。
自分に対しても、他人に対してもだ。
今は人間の身であるが、ちょっとした旅行にでも出かけているという感覚のようである。
だから、儀一と世良が対立する可能性があったにもかかわらず、カミ子は世良たちの情報を教えなかった。
異世界転生者同士が争うならば、それでいい。
誰かが命を落としたら、また転生させるだけの話だ。
もっとも、強奪で特殊能力を奪う場合は、存在レベルの差による再判定が入るそうで、存在レベル十の儀一であれば、簡単に奪われたりしないだろうという、楽観的な理由もあったようだが。
「そうですか。やはり、ウィージ村の人々は……」
まったく予想していなかったわけではない。
心配なのは、拓也の身の安全である。
「ところで神様。状態盤上に、タレントの強奪を統合しますか、というメッセージが出たのですが」
「うん? ああ、そうか。所有者のひも付けが切れたから、正式に山田さんのものになったんだ」
カミ子の説明によると、同じ特殊能力を複数取得すると、統合されて、より強力な能力に変化するらしい。
「名付けて、超強奪」
強奪よりも成功確率が上がり、消費する魔力が下がる。さらには、通常では奪えない特殊能力まで奪うことができるという。
「たとえば種族固有の能力とかね。オークキングなんかには、手下たちを十三日間強制的に従わせる“強制徴募”っていう能力があるんだけど、そいつも奪える。山田さんがカロン村の村長になったら、村人総出で戦ができるよ」
頼まれてもごめんだが、その場合、ドランかイゴッソが先陣を切ることになるだろう。
「しかしこれは想定外だなぁ。山田さん、今、特殊能力いくつ持ってるの?」
「ええと……」
特殊魔法の召喚魔法が二つと、時間魔法。パッシブスキルの身体能力向上。タレントの鑑定、魅了、そして超強奪。
「合計で、七つです」
「もはやチートだね」
「チート?」
本来の意味としては、ずるをして規格外の強さを手にすること言うらしい。儀一の場合、きちんとルールに則っているわけだが。
「神様がパーティにいるんですから。すでにチートですよ」
「うん?」
カミ子はきょとんとすると、こいつは一本とられたという感じで、ぎゃははと笑った。
「山田さんがその気になれば、魔王になって、世界征服できるかもしれないよ。どう、やってみる?」
青色の瞳がきらきらと輝いている。B級映画の企画書を手にした監督のような表情だ。
ドキュメンタリー番組のために、儀一たちを異世界転生させた張本人である。冗談でも迂闊な答えは口に出せない。
「この能力構成では無理ですね。せいぜいが、魔物の手下ってところかな。それよりも今は、冬ごもりの準備が先です」
「ま、そうだね」
カミ子は今気づいたように、ぶるりと震えた。
「あ~、寒い寒い。酒でも飲んであったまろっと。二宮さ~ん、熱燗作ってぇ」
最近のカミ子のマイブームは、ホットにしたガラ麦酒らしい。
相変わらず家に閉じこもりきりで、ろくに運動もしていない。気のせいか、顔の輪郭が、ゆるくなってきたような気がする。
おにぎり屋には「ご自由にお持ち帰りください」と書かれた陶器製の板を立てかけておくだけ。
儀一はねねを連れて、再びウィージ村へと向かった。
昨夜から長時間に渡って“村会議”が開かれたらしく、世良たちと拓也の処遇が決定していた。
「セラたちは、追放したよ」
バナエは多くを語らなかった。
二度とこの村に来ないことを約束させて、夜のうちに北の街道へ連れて行き、そのまま西へ向かわせた。
カロン村とは反対方向である。
どこに行ったのかは分からないし、寒さで凍え、のたれ死んでいるかもしれない。
バナエが最も恐れているのは、世良たちによる復讐である。また、別の異世界転生者――異国人が現れるかもしれないし、彼らが世良の仲間だった場合、まずいことになる。
「お国に報告したところで、賞金すらもらえないからね」
遠方まで連れていく人手もなければ、食料もない。
必然的に、選択肢は限られるというわけだ。
世良たちの結末を知っている儀一は、何も言わなかった。
ここは日本ではない。そういうことがまかり通る世界だと理解した上で、心の整理をつけて、うまく立ち回らなくてはならない。
バナエへの説得が功を奏したのか、幸いなことに、拓也は許されたようだ。
しかし、村人たちの不信感を完全に払拭できたとはいえないだろう。
ゼロからではなく、マイナスからのスタートである。
敷地内にある井戸で、拓也とマーニが洗濯をしていた。
「やあ」
「あ――山田さん、二宮さん」
拓也はこの世界の衣服を身に着けていた。
マーニに指示をされながらも、慣れない作業に悪戦苦闘しているようだ。
「マーニ君、拓也君と話をしてもいいかな?」
「洗濯物がまだ残ってるんですけど」
「じゃあ、私がお手伝いしますね」
ねねと拓也が入れ替わる。
少し敷地内を歩く。
拓也は何度も儀一に礼を述べた。
「世良たちは追放されたようですが、僕は残ることができました。これもすべて山田さんのおかげです。これから、死ぬ気で頑張ります」
憑き物が落ちたような顔で、にこにこ笑いながら。
「世良たちは、死んだよ」
儀一が伝えると、拓也はぽかんとした。
バナエは北の街道を西に向かわせたと言っていたが、街道のそばには“アズール川”が流れている。
彼らはおそらく、西へは向かっていない。
「村人たちに殺された。たぶんだけど、マーニ君は知らないと思う」
日本人の感覚としては、裁判を経ずに裁かれて、しかも命を奪われるということに対して、薄ら寒い思いを感じたのだろう。
「そ、そこまで酷いことは……」
「そうかい?」
食料を奪い、納屋を壊し、村の代表である村長に危害を加えた。
しかも“オークの森”から逃げ出したところを助けられ、住処を与えられた上での狼藉である。
「今年は大凶作で、ガラ麦がほとんどとれなかった。パンひと切れでさえ貴重なんだ。食糧不足で飢え死にが出るかもしれない」
儀一の話を聞くうちに、拓也の顔は青ざめさせた。
「す、すいま、せん……」
「別に責めているわけじゃないよ。もし僕が君の立場だったとしても、何もできなかったと思う。わざわざこんなことを言ったのは、きちんと認識しておく必要があると思ったから」
拓也は、世良たちとともに重い罪を犯した。少なくとも、そういったことをした連中の仲間だった。
「損得なしで君を助けようとしたのは、マーニ君だけだ。ひょっとすると彼女も、村人たちから奇異な目で見られるかもしれない。年頃の女の子が、無茶を承知で君の命を助けたんだから」
「そ、そんな」
「そういう可能性もあるってことさ」
拓也は心優しく、真っ直ぐな青年である。
自分の置かれた立場と相手の立場を理解していれば、正しい行動をとることができるだろう。
だから儀一は、厳しい現実を拓也に伝えたのだ。
「これから、どうするつもりだい?」
「まずは言葉を覚えてから、村の皆さんに謝って……」
「ああ、ごめんごめん。その先の話だよ」
「え?」
「今はいいとして、ずっとこの村に留まるつもりかい? それとも、どこかへ旅立つ?」
さしあたっての目標はともかくとして、長期的な目標も持っておいたほうがよいだろう。心の支えにもなるはずだ。
拓也は少し寂しげな微笑を浮かべた。
「もっさんと、話をしたことがあるんです」
それは“オークの森”でのことだった。絶望に打ちひしがれないために、あるいは現実を忘れるために、拓也は同級生の杉本と、森を抜けた後のことを何度も語り合ったのだという。
「いっしょに冒険者になろうって」
「へぇ、冒険者」
「あいつ、ゲームとアニメが好きで。だから、あんな中二病みたいな特殊能力を選んだんです」
「中二病?」
中学二年生くらいの子供が発症する、妄想癖や奇異な言動のことだという。
杉本が取得したのは、特殊魔法に属する時間魔法だった。
「最終的には、時間を五秒くらい止めて無双したいって。どこの漫画の主人公だか」
魔法レベル一で使える時間魔法は、加速という。
これは思考能力が加速する魔法で、世界をゆっくりと感じる魔法と言い換えたほうがよいかもしれない。
継続時間は、現実世界で一秒。
それが十秒くらいに引き伸ばされる。
といっても、早く動けるわけではないので、日常生活ではほとんど使えない。
コップを落とした瞬間に、加速と叫ぶ余裕があれば別だが。
「だから僕は、冒険者を目指そうと思います」
うまく稼げたら、ウィージ村に寄付して恩返しをするつもりだと拓也は言った。
「そうか」
カミ子の話によると、冒険者と呼ばれる職業には、魔物退治や現地調査、要人の護衛、雑務などがあるという。
肉体労働者であり、危険が付きまとう。
運が悪ければ、魔物との戦いで命を落とす危険性もあるだろう。
しかし魔法の力を使えば、切り抜けることができるはずだ。
「拓也君、がんばれ」
「はい!」
できるかぎり拓也を応援しようと、儀一は思った。




