クラス転移もの
朝起きるとまず枕元を見上げるのが、横浜正義の日課だった。
確認するのは時計――ではなく、その隣に鎮座しているプラモデルだ。
四頭身ながら、全体的にバランスのとれた形状。
犀のような角の生えた頭部、西洋風の鎧を身にまとった胴体、そしてがっしりとした足とともに身体を支えている長い尻尾。
色は白を基調としているが、部分部分に暗色系の金色が使われており、上品で神秘的な色合いとなっている。
それは今から十年ほど前、正義が小学一年生の時に夢中で見ていたロボットアニメ、“ドラグ・ナイト”に出ていた主役の機体だった。
相変わらず格好いい。
何度見ても格好いい。
寝ぼけた頭でそう考えながら、正義は首を傾ける。
視線と視線がぶつかった。
ベッドの縁に指先をかけて、じっと見つめてくるアーモンド型の双眸。
かっと見開きながら、瞬きひとつしない。
「――おわっ!」
素っ頓狂な声を上げてベッドの端に飛びのいた正義を見て、視線の主、天野七海は満足そうに微笑んだ。
「おはよ、せーぎ」
「おまっ、なにやっ……」
抗議の声を上げようとして、正義はやめた。
この幼なじみは、端的にいうならばド変態である。
それはもう子どもの頃からよく分かっている。
常識を諭したところで意味はない。
人として、すでに手遅れなのだ。
「頼むから、俺の寝顔を観察するのはやめてくれ。心臓に悪い」
「善処する」
頷きながら七海は布団を剥ぎ取ろうとする。
すぐさま正義は布団を押さえた。
「……何をする気だ?」
「早く起きないと、朝ごはん冷めちゃうよ?」
「先にいっててくれ。すぐに起きるから」
男の朝には事情というものがある。心を落ち着かせて、少し時間をかけて、股間の圧力を下げなくてはならない。
「仕方がないなぁ」
七海はひとつ息をついて立ち上がった。すでに登校可能なブレザー姿だ。
部屋を出ようと一歩踏み出したところで、くるりと振り返る。
「おら、生命の神秘を見せいっ!」
一気に布団を剥ぎ取った。
油断をしていた正義は対応が遅れた。
「ちょ――おまっ」
「うひょー」
七海はおっさんのような奇声を上げると、股間を押さえながら前屈みになる正義の姿を、じっくりと視姦するのであった。
不機嫌そうな正義と上機嫌の七海が、階段を下りてくる。
「おばさま。正義、起こしてきました」
「あら、ありがとう七海ちゃん」
正義の母が礼を言う。
「いつもすまないね、七海君」
こちらは新聞を折りたたみながら、父親が頷く。
「いえ。私が勝手に、好きでやってることですから」
上品に微笑み返す七見を、正義がじと目で見つめている。
「正義。お前も礼くらい言いなさい」
「父さんは、七海の本性を知らないんだよ」
「そう言うお前はな」
父親は新聞でテーブルを叩いた。
「自分の立場を、まるで分かっておらん!」
「うおっ」
突然激高した父親に、正義は驚いた。
「毎朝毎朝、お隣に住んでいる美人で気立てがよい幼なじみ――しかも、同級生のクラスメートが起こしてくれるんだぞ! なんという状況! なのにお前ときたら、感謝するどころか迷惑そうに。己の分をわきまえろ、このリア充息子がっ!」
「あなた?」
抑揚のない、しかしはっきりとした声をかけたのは、お玉を持った母親だった。
はっとしたように口を閉ざす父親。んんっと喉の調子を整えると、新聞を置いてぼそりと呟く。
「二人とも遅刻するぞ。早く食べなさい」
「はい、おじさま」
「へーい」
七海の両親は大学に勤める研究者で、極度のワーカホリックでもある。育児に関しては完全に見切りをつけているようで、専用の家政婦を雇ったりしているのだが、朝は家に誰もいないことが多い。
そこに目をつけたのが、正義の母親だった。
時おり遠い目をして「ああ、むっさい息子じゃなくて、可愛い娘が欲しかった」と嘆く癖のある母親は、七海の両親の信頼を勝ち取ると同時に、七海を朝食に誘い続け、いつの間にかこのような生活様式を成り立たせてしまったのである。
母親の中には正義と七海の将来に関する中長期的な計画があるようなのだが、そら恐ろしいので正義は聞けないでいた。
「今日で一学期も終わりね。学校、早く終わるんでしょ?」
「はい。模型部もないので、一時までには帰れると思います」
「なんで七海が、うちの部のスケジュール、知ってんだよ」
趣味であるプラモ作成の腕に磨きをかけるため、正義は模型部に所属していた。作るのはロボットものばかりで、硬派なオタクを自称している。
ちなみに七海は体操部で、まじめに取り組んでもいないのに某体育大学から視察がくるほどの実力と才覚の持ち主だ。
「お母さん、お昼は家にいないから」
「昼めしは?」
「千円あげるから、外で食べてきなさい」
「まじ? ラッキー」
「お金は七海ちゃんに預けておくわ」
「なんでだよ!」
「あんたに渡すと、ご飯抜いて別のことに使うでしょ。プラモとか」
「……ぐっ」
とっさに反論できずに、正義は沈黙した。
母親と七海が素早く視線を交し合う。
「七海ちゃん、ちゃんとしたもの食べさせてあげてね」
「わかりました。せーぎ、ファミレスいこっか」
「監視つきかよ」
「何を馬鹿な」
不服そうな正義を、父親がかっと睨みつけた。
「終業式の帰り、開放的な雰囲気の中、幼なじみと外食だぞ! ファミレスでは何をする? ポテトを追加して、二人で分け合うんだ。その後はなんだ? カラオケだ。こんな展開、普通は土下座したって実現せんのだぞ。そのことをお前、分かっているのか? 血の滲むような努力もせず、砂を噛むような思いもせず、ノーリスクでこんな美味しい思いを――」
「あなた?」
冷静な母親の呼びかけで、父親ははっとしたように口をつぐんだ。
父親の学生時代に何があったのだろうかと、正義がため息をつく。
気をきかせたのか、七海が話題を変えた。
「そういえば、あの約束、今日までなんじゃない?」
「……約束?」
「副担任の、リリス先生」
「ああ、敬二がそんなこと言ってたな」
「え、なになに? なんの話?」
まるで女子高生のように目を輝かせながら、母親が喰いついてくる。
それは二人のクラスの副担任を務めている女性教師のことだった。名前をリリス・スピリットアウェイといって、北欧系の金髪美人である。
「一学期の始め、入学式の後だったと思うんですけど。リリス先生が自己紹介をした時に、男子たちが悪のりしちゃって」
よくある話だが、興奮した男子生徒たちによる質問が殺到し、収拾がつかなくなってしまったのである。
担任の男性教師はやる気のない放任主義者で、クラスを仕切ったりしない。困り果てたリリス先生は、「ひとつ賭けをしましょう」と話を持ちかけてきた。
「あら、先生が賭けごと?」
「あれじゃないか、母さん」
無関心を装いながら興味津々だった父親が、会話に割り込んでくる。
「イギリスでは盛んだそうじゃないか。ほら、ブックメーカーとか。きっとお国柄なんだろう」
賭けの内容は過激なものではなく、むしろ微笑ましいとさえいえた。
一学期の間、全員が無遅刻無欠席だったら、どんな質問にも答える。
もちろん病気や忌引き、渋滞や事故によるバスの遅延などは、条件から除かれるという。
「へぇ、面白い先生じゃない」
「リリス先生、美人でスタイルがよくて、日本語がとても上手で。男子の間では大人気なんですよ。なかには隠し撮りをしたり、メアドを聞き出そうとしたり、身のほど知らずにも告白したり……」
「はぁ、高嶺の花ってやつだわね」
女二人が正義のほうをちらちらと観察してくる。
ご飯を掻き込みながら、正義は気づかないふりをした。
「その約束の期限が、今日なんです」
「遅刻欠席、誰もしてないの?」
「はい。ここ一週間くらいは、男子がそわそわしちゃって」
その様子を、女子たちは冷めた目で見ているのだという。
「で、せーぎは質問するの?」
「しねぇよ」
間髪入れずに、正義は答えた。
正直、憧れがないといえば嘘になるが、この状況で無警戒に興味を示すほど命知らずではなかった。
親やクラスメイトの前では猫を被っているが、七海は実は変態女子高校生で、かつ――
超がつくほどに、嫉妬深いのだ。
「先生のこと知ったって、別に得するわけじゃねぇし」
「淡白……」
「え?」
箸を握り締めながら、父親が震えていた。
「お前は、淡白すぎる! 分かっているのか、美人教師との約束だぞ? 何かと世間の目が厳しい昨今、超がつくほどに希少な行事じゃないか! 全力をあげて参加せんでどうする? 針の穴ほどもない可能性に、すべてを賭けて飛び込むんでいく。それこそが、思春期を迎えた日本男児の、正しい在り方だろうが。なのにお前ときたら――」
「おじさま?」
今度は七海に微笑まれ、父親は真っ青になって俯いた。




