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ネタ帳  作者: 加茂セイ
10/21

復讐探偵と見えない助手

     (1)



「……次のニュースです。神奈川県警が発表した犯罪統計によると、今年度上半期、県内において発生した凶悪犯罪の件数は、千二百五十三件で、前年度と比べて四十一件の増。検挙率は、三十一.三パーセントで、前年度比一.五ポイントのマイナスとなりました。特に、小中学生を中心とした若年層による高齢者への犯罪が増加傾向にあり、家庭での情操教育や学校での道徳教育の破綻が原因ではないかと推測されています。県警本部のコメントによると、昨今の頻発する重大犯罪群は、もはや警察の対応能力を超えており、国や自治体による支援だけを当てにせず、地域での防犯活動や、個人的な自衛手段の強化が必要だと……」


 夕食のテーブルで、どこか他人事のようにニュースを眺めていた天羽あもう寿太郎じゅたろうは、自家製らしき漬物つけものを噛み砕いてから、不可解そうに眉根を寄せた。


「……何これ、キュウリ?」

「ズッキーニです」


 外見はキュウリをひと回り太くしたような形状だが、カボチャの仲間だという。葉や茎にとげがあるので、収穫する際には注意が必要とのこと。ちなみに花は生でも食べられるらしい。


「砂糖と醤油とお酢、それにレモン汁で軽く漬け込んでみたんですけど、どうですか?」

「うん、意外といける」


 対面に座っている朝霧あさぎり透子とうこは、少し自慢げに微笑んだようだ。


「私の畑で収穫した野菜なんです」

「レンタルしてるやつ?」

「はい。ズッキーニは夏野菜で、もう季節ではないんですけど、今年は残暑が厳しかったから、ぎりぎり間に合いました」


 人口減少と高齢化、そして多国間自由貿易のために、日本の農業は壊滅的な打撃を受けていた。寿太郎と透子が住んでいる横浜市でも、かつて郊外にあった田園地帯はススキや背高泡立草セイタカアワダチソウが生い茂る、わびしい荒地に変わり果てている。 

 食糧自給率の向上と自然環境保護の対策として、国や地方自治体が取り組んでいる施策のひとつが、いわゆるレンタル畑である。

 透子は農業に興味があり、わざわざ原付で三十分もかかる場所に畑を借りて、新鮮な野菜を収穫しては食卓に彩りを添えていた。

 苗や堆肥たいひの助成、農機具の貸与、さらには収穫物の販売支援なども受けられる上に、土地のレンタル代は格安――という好条件にもかかわらず、レンタル畑の運用はうまくいっていないらしい。

 農業に対する市民の感心の低さが主な原因だが、土地の所有者にとっては固定資産税対策という側面もあり、需要に対していささか供給過多に陥っているようだ。 


「あ、それから。秋刀魚サンマはしばらく続きますよ。健康にもお財布にも優しいですから」

「……カレーは?」

「当分先です」


 透子がこの家にきてから、料理の品数は増え、栄養的にもバランスのとれたものとなっていた。

 今晩の夕食のメニューは、五穀米のごはんと大根の味噌汁、ズッキーニの漬物、ほうれん草の胡麻和ごまあえ、すだちと大根おろしを添えた秋刀魚の塩焼きというなかなか立派なものである。

 食生活の改善については大いに感謝すべきところだが、これまで自由気ままなジャンクフード生活を満喫していた寿太郎にとっては、時おりため息をつきたくなる状況でもあった。

 特に、彼が愛してやまない「ポテトチップス、板チョコ、コーラ」という三種の神器については、生真面目な助手兼同居人によって厳しく制限されているのだ。

 いつの間にかニュースが終わり、CMに移っていた。


「当社が自信をもってお勧めする商品は、セラミックとチタンの複合素材を使用した防刃ぼうじんベスト、その名も“亀甲羅かめごうら”。悪漢による突然の襲撃から、あなたと、あなたの大切な家族を守ります。お問い合わせはこちら――」


 景気のよいメロディに合わせて、電話番号が合唱される。


いくさは、守るだけでは勝てんぞ。そんな時にはこれ。我が軍が開発した超強力スタンガン、その名も“雷切らいぎり”じゃ。三百万ボルトの電気ショックで、屈強な大男もイチコロぞ。しかも、連続使用も可能ときた。それ、みなのもの、出陣じゃ!」


 こちらは戦国武将に扮した男が、輿こしの上でスタンガンを構えながら号令を上げる。

 透子のはしが止まり、テレビをじっと見ていることに、寿太郎は気づいた。


「両方とも、我修院がしゅういん組系列の会社だよ。自分たちで治安を悪化させておいて、防犯グッズまで売り込むんだから、まったく始末に負えないね」


 国の法律である暴力団対策法は立派な看板だが、運用する警察が骨抜きにされているため、十全に機能を果たすことができていない。ちまたでは大紋を隠した暴力団傘下の企業が幅を効かせていて、これらは引退した警察官僚たちの天下り先にもなっているようだ。


「とはいえ、国産だから性能は悪くないと思う。興味があるなら買おうか?」

「いえ、私はいいんですけど」


 はしが置かれて、湯飲みが持ち上がった。


「もうすぐ寿太郎さんの誕生日ですよね。プレゼントに“亀甲羅かめごうら”とか、どうですか?」

「あれ、高いよ。十万はすると思う」

「命には変えられませんから」

「群馬県が遠のくよ」


 三十年ほど前から、群馬県は鎖国ならぬ鎖県を発動しており、国内で唯一立ち入りが制限されている県域になっていた。ネット環境からも完全に隔離されているため、その内情は謎に包まれている。

 わずかに漏れ聞こえてくる口コミの噂によると、県民たちは自然を崇拝する“天照アマテラス教”を信仰しており、一次産業を軸とした昔ながらの生活を送っているらしい。

 透子の夢は、とにかく貯金を溜めて群馬県に土地を買い、のんびりとスローライフを送ること、なのだが……。


「寿太郎さんが元気でいてくれないと、私、稼げませんから」


 お茶をひと口飲んでから、透子は苦笑したようだ。

 まだ十八歳の彼女が達観している理由は、彼女自身の特異な性質にあった。

 寿太郎の視界に映っているのは、淡い桃色のセーターと黒色の髪留めのみ。

 えりから上と袖口の先には何もない。

 いや、存在はするのだが、視覚で捉えることができないのだ。

 そして、セーターの右の袖の先、約十センチのところに、湯飲みが浮かんでいる。


 ――透明人間。


 透子を表すのに、これ以上の言葉は存在しないだろう。

 全身の細胞が透明になるだけならば、お茶が口内から食道に流れ込む様子が観察できるはずなのだが、口の中に入ったものは見えなくなる。

 原理については不明。

 原因についても不明。

 とにかく、透子はそういった体質なのだ。

 ゆえに彼女は、まともな社会生活を送ることができない。


「心配しなくてもだいじょうぶだよ。僕のモットーは“石橋を叩いて渡る”だからね」

「そのわりには、怪我ばかりしてるじゃないですか」


 不満そうな声。顔の造形は不明だが、眉根を寄せて頬を膨らませている様子を、寿太郎は想像することができた。


「本当に危険が迫っているなら、走って逃げるのが先決だよ。あんな重いベストなんか着てたら、じゃまになるだけさ」

「……でも」

「もし、プレゼントをくれるんだったら、そうだなぁ」


 本気とも冗談ともつかぬ口調で、寿太郎は提案した。


「ポテトチップスと板チョコとコーラを、一週間分、とか?」

「健康に悪いです!」


 三種の神器は、あっさりと却下されてしまった。




     (2)


 天羽あもう寿太郎じゅたろうが神奈川県警の刑事部捜査第四課――通称“差配さはい課”に所属している山岸やまぎしいさおに呼び出されたのは、正午前のことである。

 神奈川県警察本部庁舎は、みなとみらい線の馬車道駅から徒歩五分の位置にあり、横浜駅周辺にある天羽探偵事務所からは距離的にも近い。

 一階ロビーの受付で用件を伝えると、すぐに山岸がやってきた。


「よう、復讐屋ふくしゅうや。めしでも食いに行くか?」

「いえ。弁当がありますので」

「相変わらず、つれないやつだな」


 山岸は四十一歳、小柄でがっちりとした身体つきの中年男である。

 白髪混じりの短髪に角張った顔立ち。無精ひげを生やした口元には、素直さや純朴さというものを削り取られてしまったかのような、皮肉めいた笑みが張り付いている。

 いわゆる私服組みであり、くたびれた暗色のスーツが古風な刑事らしさを演出していた。

 一方の寿太郎は、二十五歳。やや猫背気味の中肉中背で、血色が悪い。癖の強い天然パーマの髪に目尻の下がった眠そうな目をしており、どことなく不機嫌そうな地顔である。

 玉子に絵を描いたような童顔なのだが、まっとうな社会人らしく見えるのは、服装のおかげだろう。薄手のインナーの上に灰色のテーラードジャケットを羽織っており、肩には皮製のショルダーバックを下げていた。

 寿太郎を会議室に案内すると、山岸は「ちょっと待ってろ」と、駆け足で部屋を出ていった。

 十分ほどして、両手に安っぽいトレイを抱えながら戻ってくる。どうやら食堂で定食を購入してきたようだ。

 会議室の机にトレイを置くと、山岸はスーツのポケットからペットボトルのお茶を二本取り出して、一本を寿太郎に放った。


「いや、僕は……」

「この俺がお茶をおごってやるんだぞ。お前も一緒に食え」


 寿太郎はけんなりした。

 仕事の話はさっさと終わらせて、景色のよい海沿いの公園で、のんびり弁当を食べようと思っていたのに、とんだ計算違いである。

 別に世間話もしたくもなかったので、しばらく黙々と食事をしていると、不意に山岸が呟いた。


「朝霧、透子ちゃん」

「……」


 寿太郎のはしがぴたりと止まり、それを見た中年刑事はにやりと笑った。


「お前、助手を雇ってたんだな。しかも、あんなに可愛い


 不思議な言葉でも聞いたかのように、寿太郎は顔を上げた。


「この前、お前の事務所に電話したら、女の子が出たんだよ。あいにく所長の天羽は外出しております、ってな。鈴を転がしたような可愛らしい声だった」

「顔まで可愛いとは限りませんよ」

「一応、俺は刑事だぞ。声や話し方で、おおよその人物像は分かる」


 心底どうでもよさそうな声で、寿太郎は「へぇ」と呟いた。


「本人に聞いたが、まだ十八歳だってな。あの年で敬語の使い方に不自然さがないってことは、上品な家庭で育ったお嬢様に違いない。しかも、物怖じすることなく、はきはきと受け答えができていた。頭がよくて、可愛いってことだ」

「最後のはこじつけですね」


 にやにやと下品な笑みを浮かべながら、山岸はご飯粒のついた箸を寿太郎に向けた。


「どうにも変だと思ってたんだよなぁ。散髪もろくに行かず、寝癖がトレードマークだったやつが、妙にこざっぱりしやがって」


 寝癖をつけたまま出かけようとすると、ドライヤーとくしが、文字通り空中を飛んでくるのだから、仕方がない。


「しかも、服のセンスまで変わりやがった。お前それ、絶対に自分で選んでねぇだろ?」


 以前は着心地と無難さのみを優先していた寿太郎だったが、透子に「あんまりぱりっとしてません」と駄目出しされて以来、彼女の見立てによる窮屈な服を身につけていた。


「いいだよなぁ、透子ちゃん。あんな朴念仁ぼくねんじんの下じゃ大変だろうって言ったら、必死に否定してたぞ。とてもよくしてもらってるし、寿太郎さんは、意外と子供っぽいところもあるんですってな。よかったな、寿太郎さんよ?」


 がははという馬鹿笑いにまぎれこませるように、寿太郎は舌打ちした。

 刑事と探偵という関係もあり、山岸とは適切な距離を保つよう心掛けていたのだが、まさか透子経由で食いつかれるとは思わなかったのである。


「お前、実は外弁慶そとべんけいだろ」

「何ですか、それ」

「外では大人しいくせに、家では強気なやつが内弁慶。お前はその逆。外では不遜で小憎たらしいが、家では尻に敷かれるタイプだな」


 山岸の趣味は人間考察である。頼みもしないのに、他人の性格や行動パターンを分析して、たちの悪いことに、得意げに語ってくるのだ。

 物事を分別して自分の棚に整理したい気持ちは分からなくもないが、鬱陶しいことこの上ない。

 また、こちらの事情に興味を持たれても困るので、寿太郎は釘を刺すことにした。


「山岸さん」


 拒絶の意思を示すかのように、弁当の蓋を閉じる。


「仕事の話じゃないなら、僕は帰りますよ」

「おい、冗談だよ、冗談。んな怒るなって」


 山岸は急に慌てだした。






 神奈川県警の刑事部には、四つの実行部隊がある。

 殺人や強盗放火等の凶悪犯罪を担当する、捜査一課。

 詐欺、横領等の知能的犯罪を担当する、捜査二課。

 窃盗等の軽犯罪を担当する、捜査三課。

 そして、それらすべてをカバーする、捜査四課だ。

 しかし、捜査四課に所属している刑事の数は、他の三課と比べても圧倒的に少ない。

 捜査そのものを“同心どうしん”と呼ばれる登録調査員に委託しているからである。

 移民政策の失敗から発生した“犯罪パンデミック”によって、日本の警察機構による治安維持活動は、壊滅的な打撃を受けていた。

 激増し複雑化する犯罪群に警察官の数や育成が追いつかず、治安の悪化がさらなる犯罪を呼び込む負のスパイラルに陥ってしまったのだ。

 一時的な緊急避難措置として、警察上層部が下した決断が、捜査そのものアウトソーシングだった。

 捜査一課から三課にて、“対応するに値しない”と判断された事件は、捜査四課に回される。そして、捜査四課の刑事が事件の性質を見極め、適任だと思われる同心に捜査を依頼するのだ。

 捜査四課が“差配課”、所属する刑事が“差配人”と呼ばれる所以ゆえんである。

 当然のことながら、四課に回ってくる案件は解決の見込みのないクズ事件ばかり。捜査を丸投げされた同心たちは、組織的な援護を十分に受けることもできず、九割以上が迷宮入りという散々な結果に終わることになる。

 それでもこの運用が廃止にならないのは、警察の上層部が、すべての事件に対応したという姿勢を示すことと、とにかく結果をつけ、次の事件に取り掛かることに意義を見出しているからである。

 ちなみに、一時的な緊急避難措置とやらはすでに十年以上続いており、捜査四課が対応する案件数も増え続けている。

 警察の運用を影で支えている同心の構成員は、警察官のOBか私立探偵が多い。

 かくいう天羽寿太郎も、そのひとりであった。




     (3)


 山岸は執務室からクリアファイルを持ってくると、中から被害届のコピーとカラー刷りのパンフレットを取り出し、寿太郎じゅたろうに差し出した。


「実はな。今回は、身内の話なんだわ」


 やや言い難そうに、無精ひげの生えた口元を歪める。


刑事部うちの鑑識課に、水城みずき正義まさよしって、鑑識官がいるんだがな。こいつが、熊のような図体のわりに大人しいやつで、色白の小さな嫁さんにベタ惚れだった」


 水城正義は三十五歳。二十歳そこそこで結婚し、子供にも恵まれ、郊外の住宅街に戸建てを購入し、さてこれからという時に、妻の百合乃ゆりのを病気で亡くした。

 病名は、がんである。

 水城の妻はもともと身体が弱く、難産の末に娘を出産したが、その際に母体に深刻なダメージを受けたらしい。産後の肥立ちもわるく、退院してからも貧血や冷え症などに悩まされ、常に健康に不安を抱えながら過ごしていた。


「知ってたか? 若年性の癌ってのはな、精神的なストレスから発生する可能性が高いらしいぞ」


 山岸のにわか知識によると、何とか神経が緊張しすぎると、癌細胞をやっつける免疫機能が、うまく働かなくなるのだという。


「交感神経ですか?」

「ああ、確か、そんなやつだった」


 普段から病気がちであり、体調不良に対して鈍感になっていたことが、病気の発見を遅らせた。

 そして、若年性の癌は進行が早い。

 発見からわずか半年ほどで、水城の妻は息を引き取った。


「それが今から四ヶ月前のことだ。葬式が終わると、水城は普段通り出勤してきたが、普通に接する分には、これまでと何も変わらなかった。少なくとも俺は、そうと思った。しかし、それこそが異常だったのかもしれねぇ。惚れ抜いた女に先立たれて、落ち込んだ様子ひとつ見せないなんてな」


 水城の娘である朱梨あかりが山岸に相談にきたのは、つい先日のことである。

 山岸は酔った勢いで、過去に何回か水城の家に押しかけたことがあり、その際に朱梨を紹介されたことがあった。

 まだ十四歳の少女で、中学二年生である。

 年端もいかない中学生の女の子が、たったひとりで、ろくに会話もしたことのない中年の刑事に相談にくるのだから、ただごとではない。


「水城が、とある新興宗教にはまっているらしい」


 相談内容は、やはりきな臭いものであった。


「“生命の”という団体なんだが、知ってるか?」

「聞いたことがないですね。宗教法人ですか?」

「いや、任意団体だ」


 荒廃した世情を食いものにするかのように、世間では新興宗教が乱立している。そして、宗教法人とは違い、任意の宗教団体には登録制度そのものが存在しない。

 信教の自由は、憲法によって保障されているからだ。

 警察でもその全容を把握することは不可能であり、活動内容や信者の数、世間的な評判などは、まったくの闇の中であった。


「奥さんの入院中に、接触があったようだな。ご利益があるという有り難い水を飲んで、一時期、症状が持ち直したらしい」

「しかし、結局亡くなったわけですから、宗教に嵌る理由はないでしょう」

「パンフレットの最初のページを見てみろ」


 寿太郎は朱梨が提出したという“生命の樹”のパンフレットを手に取ると、表紙をめくった。

 “生命の樹”の教義では、魂の存在を認めているが、死後の世界――つまり、天国とか地獄などは存在しないとあった。誰も見たことがないあやふやな世界に救いを求めるのは、愚者ぐしゃの行為らしい。


「つまり、死んだ人間の魂は、現世を彷徨さまよい続けると?」

「しかも、交信が可能らしいぞ」


 “生命の樹”の人間は、イタコと呼ばれる巫女を使って“降魂式こうこんしき”なる儀式を執り行ない、水城の妻の魂を呼び寄せたらしい。イタコは水城とその妻しか知らないことをずばり言い当てて、水城の絶対的な信頼を得ることに成功したという。


「教義の最後に、“死者の魂は、常に大切な人の傍にいます”って書いてあるだろう? こいつが一番の売りなんだと、俺は思う」

「いわゆる心霊商法ですね」


 寿太郎は、まずイタコを疑った。


「コールド・リーディングの可能性は?」


 対象者の外観や仕草、表情、口調、何気ない会話などから、相手のことを言い当て、「あなたのことは、すべて見通している」と信じ込ませる、話術の一種である。精神的に追い詰められ、無意識のうちに助けを求めている人間には、特に効果が高いとされていた。


「……分からん」

「山岸さんの、下手なもの好きの分野でしょう」

「おい、得意分野と言え」


 口元を歪めながら、山岸は唸り声を上げた。


「残念ながら、直接俺が体験したわけじゃないからな。朱梨ちゃんの話によると、イタコの女はろくな会話もしないうちに、亡くなった母親の言葉をずばり言い当てたそうだ」


 寿太郎は被害届に目を通した。


「被害総額は、約三百万円ですか」

「ああ。水城が“生命の樹”に寄進した額だ。おそらく“降魂式”とやらの費用だろう」

「記入したのは朱梨さんですよね。中学生の女の子では、家のお金など把握できないのでは?」

「父親の預金通帳を見たんだと。それと、家の中の金目のものが消えて、宗教グッズが増えているらしい」

「嫌な家ですね」


 寄進、お布施、賽銭――呼び方は様々だが、本人の意思により宗教団体に金銭を譲渡した場合、それを被害と証明することは難しい。対価として、精神的な安らぎという目に見えない利益を受けているならば、なおさらだ。


「それに、金だけの問題じゃねぇ」


 最近の水城は仕事に対する集中力に欠け、事務処理上のミスが目立っており、上司や同僚たちから信頼を失いつつあるという。


「年次休暇を全部使いきって、この前なんか欠勤しやがった。朱梨ちゃんの話では、水城は“生命の樹”が主催する集会や怪しげな儀式に、定期的に参加しているらしい。あいつの中では、すでに現実世界への興味が薄れていて、現世を彷徨っている奥さんの魂だけを追い求めてるのかもしれんなぁ」


 感傷的になっている山岸に、寿太郎は同調しなかった。


「通常であれば、弁護士の領分ですね」

「……まあ、な」

「水城朱梨さんには、他に家族はいないんですか?」

「父と娘の二人暮しだ」

「親戚は?」

「いないと、本人は言ってる」


 それが本当ならば、八方塞がりである。

 山岸は重いため息をついた。


「十四歳の子供じゃ、弁護士にも相手にしてもらえないだろう。逆に利用されることだってあり得る。だから、被害届を受理して四課で引き取ることにした。この手の案件で、他課の刑事を動かすことはできねぇからな」


 しかし、外部の調査員である同心であれば、山岸の裁量で動かすことができる、というわけだ。

 相変わらず身内には甘いことだと、寿太郎は思った。

 犯罪件数の激増により、事件を案件化させることすら厳しい状況のはず。水城朱梨が警察官の娘でなければ、被害届など受理されなかっただろう。警察が動くことができる仕組みを説明し、知り合いの大人か弁護士に相談しなさいとアドバイスをして、門前払いしたはずである。

 これは、組織の結束力を高めることに特化した警察機構の体質であり、また拭えない弊害でもあった。 


天羽あもう。この案件をお前に任せようと思う」


 山岸はクリアファイルの中から、契約書を二部取り出した。


「依頼内容が曖昧あいまいですね。お金を取り戻すことが目的ですか?」

「できればそうしたいが、現実的には難しいだろうな」

「では?」

「状況を確認して、できれば水城を説得して欲しい」


 目尻の下がった眠そうな目を、寿太郎は見張った。


「宗教に傾倒している人を短期間で引き戻すのは、ほぼ不可能ですよ」

「んなこたぁ分かってるさ。もし、できるならばの話だ。それが無理なら、お前が作った報告書を元に、こちらから“生命の樹”に対して警告文書を送りつける」


 現実的な落としどころだと、寿太郎は思った。


「朱梨さんが被害届を出したことは、水城さんには秘密ですか?」

「むろんだ。万が一のため、ダミーの案件を用意しておく」

「“生命の樹”との接触は?」

「それは、お前の判断でやってくれて構わない。警察が動いていることを匂わせるだけでも、それなりの効果はあるだろう」

「分かりました」


 その後、拘束日数と報酬についての確認を行ってから、寿太郎は契約書にサインした。




     (4)


 神奈川警察本部庁舎を出たところで、寿太郎は人目をはばからず、両手を広げて大きくのびをした。

 十月の初旬の昼下がりである。

 頭上に広がっているのは、雲のひとつどころか欠片さえない、完璧な青空。すでに残暑はなく、身体の表面を引き締めるような、心地よい肌寒さを感じることができた。

 湾岸通から本町、日本大通りに向かって歩いていくと、文明開化の時代を匂わせる赤茶けたレンガ造りの建造物や、戦前の昭和の雰囲気を残す重厚な石造りの公共施設が、ところどころに顔を出す。

 道路の道幅は広く、歩道も立派で、鮮やかに色づいた銀杏並木が、季節というあやふやな感覚を、分かりやすく印象づけていた。

 どこか現実離れしたような景観は、錯覚などではない。

 みなとみらい、大桟橋、赤レンガ倉庫、山下公園、そして元町・中華街。海岸線をなぞるようなこの区域は、“横浜”というイメージの上澄み部分を抽出し、莫大な金と膨大な時間を注ぎ込んで作り上げた、いわば外面そとづらなのである。

 少し内陸部に入り込めば、そこにはまったくの別世界が広がっている。

 迷路のように入り組んだ路地裏に、スプレーで落書きされた高架下の壁。けばけばしいネオン看板と割れた窓ガラス。道路には汚物やゴミが散乱し、街路樹は切り倒され、信号はすべて点滅している。

 住民たちもまともではない。

 ドラム缶で焚き火をしながら昼間から酒を飲んでいる日雇い労働者。炊き出しをしている怪しげな宗教団体と行列を作っている浮浪者たち。夜になると街角に現れる売春婦、闇賭博の客引き、麻薬の密売人等々……。

 ここでは、決して表には姿を現さない裏社会の人間たちが、ひっそりと息を殺すように活動してるのだ。

 横浜最大の暴力団組織である“黄金組こがねぐみ”が取り仕切っているこの貧民スラム街を、人々はこう呼んでいる。


 ――“闇関内やみかんない”と。






 日本大通りから中華街に入ると、寿太郎はいきつけの店である“猫娘飯店マオニャンはんてん”へと向かった。

 平日の昼過ぎということもあり、人の流れも緩やかで、客引きも控えめ。人ごみと喧騒が苦手な寿太郎としては、ちょうどよい雰囲気である。

 店の出窓の奥で天津甘栗を袋詰めしていた小柄な店員に、寿太郎は声をかけた。


「小さいのを、ひと袋ください」

「あーい」


 振り返ったのは、十代後半くらいの女性だった。

 小顔で可愛らしい顔つき。髪を団子シニョンにして、側頭部でふたつにまとめている。


「おー。じゅたろー、来たネ!」


 片言の日本語で喜ぶと、店から飛び出して駆け寄ってくる。一歩、二歩、最後は大きくジャンプして、寿太郎の前に着地。


「やあ、シャオ……ユィ?」


 寿太郎が訝しげな顔をしたのは、相手がチャイナドレスとメイド服を掛け合わせたような、奇妙な格好をしていたからだ。

 自分の可愛らしさを見せつけるかのように、少女はくるりと回転した。


「ふふん。中国と日本の文化、良いとこ取りのハイブリッド・ファッションネ」


 逆に互いの特徴が打ち消されていて、わけの分からないものになっているような気がしたが、寿太郎は何も言わなかった。

 “猫娘飯店”の看板娘である洛羽ルゥオユィによると、現在、新しい中華街のスタイルを模索しているところだという。店のメニューにも色々と手を入れているらしい。


「中華料理、デザートが弱点、昔から言われてるネ。だから、日本や西洋のお菓子、研究して、新しく開発中ヨ!」


 参考までにどんな料理か聞いてみると、ザッハトルテ風胡麻団子に、マンゴープリンぜんざい、お土産用の抹茶チーズ入り月餅げっペイだという。

 想像するだけでも胸焼けがしそうだ。


「今度、じゅたろーも試食する?」

「時間があって、おなかが空いていたらね」


 寿太郎が“猫娘飯店”に顔を出したのは、半月ぶりである。毎回恒例のことではあるが、小羽は寿太郎に探りを入れてきた。


「じゅたろー、県警いってきたカ?」

「ああ、今さっき。仕事で」

「四課はどうネ? 華街かがいのこと、何か言ってたカ?」

「最近、もめごとが多すぎるって。あんまり調子に乗ってると、そのうちがさ入れするぞってさ」


 山岸の言葉をそのまま伝えると、小羽は大きな目を吊り上げた。


「調子に乗ってる、警察の方ネ!」


 人差し指を曲げて唇に当てると、考え込む素振りを見せる。

 それから、小声でぶつぶつと呟き始めた。


「こっちがどんだけ譲歩してると思ってんのよ。無理やり捜査に協力させて、しかも上納金まで要求して。――ちっ。お花畑野郎が、えっらそうに。あいつら、華街勢力うちを押さえ込めると、本気で思ってんのかしら。ああ、むかつく。あいつらのお膝元で、青龍隊を暴れさせてやろうかしら」

「……ユィ君?」


 寿太郎の視線に気づいて、はっとしたように表情を取り繕った小羽は、「何でもないネ」と笑って、純朴そうな中国娘のように片言で聞いてきた。


「じゅたろー、これから関内行くカ?」

「そうだよ」

「ちょっと待つ」


 小羽は店の中に戻ると、天津甘栗の袋をひとつ持ってきた。


「はい、五百円! じゅたろーはお得意様だから、特別に消費税分まけてあげる」

「そりゃどうも」


 現在の消費税は二十パーセントなので、百円得をした計算になる。

 代金を受け取ると、小羽はにっこりと笑って、手招きしてきた。寿太郎が腰を屈めると、顔を近づけて耳元で囁いてくる。


華街うち老大ラオターが、近々引退するヨ」

「へぇ、こうさんが。いつだい?」

「来年の春節チュンジエの日」


 春節しゅんせつ――旧正月とも呼ばれているが、中華圏の国々では最も重要な祝祭日の一つであり、新年の正月よりも盛大に祝われるらしい。小羽によると、来年の春節は二月十七日になるという。


「あとを継ぐのは、息子さんかな?」

「残念。孫の子英ズーインヨ」


 面識はなかったが、噂だけは耳にしたことがあった。

 黄子英こうしえい。まだ二十歳の青年だが、かなり腕が立ち、頭が切れるらしい。現老大と血の繋がりがあるとはいえ、年功序列の風潮が強い華街組織の中で長として認められたのだから、相当な人物なのだろう。


子英ズーインは、青龍隊出身の武闘派だから、甘く見ると怪我するヨ。じゅたろー、関内にしっかり伝えるヨロシ」

「了解」


 薄い胸を張って、小羽は得意げに語った。


「このところ、華街うちは絶好調ヨ。お国がどんどん移民を受け入れてくれるおかげで、組織の人口は急増中。元町と新山下はすでに傘下に入ったネ。関内なんて年寄りと貧乏人しかしないから、放っておいても、いずれ滅んでいくヨ。じゅたろーも、ふらふらしてないで、さっさとこっちにつくネ」

「華街が横浜を征服したら、考えるよ」


 苦笑気味に言い残して、寿太郎は中華街を後にした。

 十五分ほど歩き、伊勢崎町の商店街へとたどり着く。中華街と比べると人通りも少なく、活気がなかった。

 なるほど小羽の言う通りかもしれないなと考えながら、寿太郎は狭い路地裏へと入った。向かった先は一軒の小さなバーだった。準備中の看板がついている扉をノックして、遠慮なく中に入る。店内はカウンター席のみの細長い造りで、灰色の髭を生やした初老の男が、暇そうに新聞を読んでいた。


「黒崎さん、ごぶさたしています」

「やあ、天羽あもう君。久しぶりだね」


 男の名は黒崎幻三くろさきげんぞうという。

 関内を取り仕切っている指定暴力団“黄金組こがねぐみ”の窓口を束ねている仕切人である。

 寿太郎は先ほど“猫娘飯店”で購入した天津甘栗を黒崎に渡した。

 この男はダンディな見かけによらず甘党で、中華街の甘栗が大好物なのだ。


「いつもわるいね。お茶でも飲むかい?」

「猫舌なんで、ぬるめで」


 バーには似つかわしくない純和風の急須で、黒崎はお茶を入れた。

 カウンターを挟んで互いに甘栗を剥きながら、世間話をする。


「天羽君、平沼の親父さんは元気かな?」

「相変わらず無茶な頼まれ事ばかりされて、それを全部引き受けて。ぶつくさ言いながらも楽しそうに働いてますよ」

御大おんたいは、もう八十だろう。身体は大丈夫かい」

「ついこの間、二十歳年下の恋人ができたそうです」


 意表を突かれた黒崎は、目を丸くした。


「老いてはますますさかんなるべし、か。敬服するね」


 その後、黒崎は神奈川県警や中華街の動向を聞き、寿太郎は素直に答えた。

 もちろん、寿太郎が自分の判断で情報を流しているわけではない。

 そんなことをして、無事でいられるはずがない。

 神奈川県警、中華街、そして関内――三者が互いに了解した上で、寿太郎を伝言板として利用しているのだ。

 寿太郎としては、何故自分がこの役を割り当てられているのか、いまいち理解できないでいるのだが、互いに反目し合い硬直状態にある組織の緩衝材の一部であると考え、時おり足を運んでは適当に話をしていた。

 もちろん、それぞれの組織は独自の情報ルートを持っているはずので、寿太郎がいなくてもまったく問題はないだろう。

 それに、寿太郎に正しい情報が教えられてるとも限らない。

 危険がない代わりに、利益もない。要するに、小間使い程度の役割なのだと、寿太郎は割り切っていた。


「華街の次の老大ラオターは、黄子英こうしえいか。新進気鋭の昇竜しょうりゅうだな。老大就任の際には、こちらも忙しくなりそうだ」

「挨拶巡りとか、あるんですかね」

華街かがいにそんな風習はないよ。就任式はすべて身内だろうし、就任後、少し身辺が落ち着いてから、黄金組こちら側のナンバー2あたりを呼びつける、くらいだろうか。いわゆる中華思想ってやつさ」


 伝言板の仕事を終えると、寿太郎は自分が請け負った捜査の件で、聞いてみることにした。


「黒埼さん。“生命の”という宗教団体を、ご存知ないですか?」

「新興宗教なんて、今や星の数ほどあるからね。そいつらが何か悪さをしているのかい?」

「よくある話で、心霊商法ってやつです」

「……ふむ」


 黒崎は髭を触りながら考え込んだ。


「うちのような組織は、宗教関係には手を出さないんだ」

「法の抜け穴も大きいし、儲かると思いますけど」


 寿太郎の言葉に、初老の男は苦笑した。


「裏社会のビジネスと同じくらい、宗教ビジネスは根が深いんだよ。特に仏教の勢力が圧倒的で、やつらは特に縄張り意識が強い。下手に“素人”が手を出すと、僧兵を差し向けられて、即戦争さ」

「華街でいう、青龍隊のようなものですか」

「規模が違うけれどね」


 薙刀なぎなたと青龍刀がぶつかり合う光景を寿太郎は想像したが、今時そのような戦いがあるはずもないと、頭から追い出した。


「その団体のことを詳しく知りたいのなら、仕事として請け負ってもいいけれど……」

「いえ。予算がありませんので、自分で調べます」


 四課からの仕事の報酬は安い。

 それに、裏社会の組織の力を頼るということは、自身が少しずつ取り込まれていくということでもある。

 甘栗分の情報は聞けたと納得して、寿太郎は黒崎に別れを告げた。




     (5)


 四課の依頼を受けて捜査を行っていると、窃盗団、マフィア、カルト教団、テロリスト、地下銀行といった、犯罪シンジゲートの影がちらつくことがある。

 彼らは非合法な裏社会を構成する大小様々な組織であり、吹けば飛ぶような個人商店としては、うっかり虎の尾を踏まないよう気をつける必要があった。

 同心は県警が管轄する外部調査員だが、その身に危険が迫った時に警察組織が能動的に守ってくれる、わけではない。代わりのきく人員でもあることだし、県警自体に余力がない。そもそも多発する犯罪群に対応するための外部委託制度だというのに、同心たちが事件の元となってしまっては、本末転倒ということだろう。

 案件ごとに交わされる委託契約書の中に「捜査中の事故やトラブルについては、乙(同心)の自己責任にて対応すること」という、甲(県警)にとっていささか都合のよすぎる条文が入っているのは、明確なメッセージでもあるのだ。

 ようするに、捜査の延長上に危険があることを察知した場合、不用意に近寄るなということである。単独で犯罪組織の中枢にまで入り込み、確固たる証拠を盗み出す。そんなスパイ映画のような活躍など、警察は期待していない。だから、報酬も安い。与えられたクズ事件に、粛々と、せめて上辺だけでもケリをつけろというわけだ。

 幸いなことに、“生命の”に関わる案件に関しては、横浜最大の暴力団組織である“黄金組こがねぐみ”は関与していないらしい。そのことが判明しただけでも収穫だった。

 パンフレットの作りや心霊商法を行うための大掛かりな仕掛けなどから、“生命の樹”が小さな組織でないことは想像がついた。組織の規模や活動内容、背後にどのような組織がついているのか、その辺りの手がかりをつかむためにも、まずは当事者である水城朱梨みずきあかりから直接話を聞く必要があるだろう。

 山岸を通じて朱梨に連絡してもらうと、面会の希望日は平日の午前中、可能な限り直近でとの回答だった。“降魂式”という儀式を行った現場である水城の家を確認したいという条件を、寿太郎がつけたため、父親が仕事で出かけている平日を指定してきたのだ。

 調整の結果、翌日の朝ということになった。はからずも学校を休ませることになってしまったが、当人の希望であるならば仕方がない。訪問の際には、山岸が職場で水城正義の姿を確認し、寿太郎が連絡を受ける段取りになっていた。

 仕事とはいえ、十四歳の女の子との一対一の面談というのは、いささか気が進まないと寿太郎は感じていた。

 異性であり、気難しい年頃であり、家庭に問題を抱えてもいる。

 無愛想な素のままで接しても問題ないだろうか。少しでも好青年を演じた方がよいのだろうか。その辺りの感覚を、同じ女性であり年齢も近い透子に聞いてみることにした。


「きちんと身だしなみを整えて、丁寧にお話しをしてください」


 彼女曰く、不潔で馴れ馴れしい“おじさん”を好きな十四歳は、いないらしい。


「あとは、相手の話に合わせて相槌を打てば、大丈夫です」


 話を聞くだけでなく、ちゃんと聞いているよという姿勢を見せることも大切なのだという。

 ……正直、かなり面倒くさい。

 そんなことを考えながら眠りについたせいか、びっくりするほど早く目が覚めてしまった。

 寿太郎の部屋には時計がない。部屋用の時計を買うのが面倒だったという理由もあるが、七時のニュースが始まる前に透子が起こしてくれるので、時計を買う必要性がなくなってしまったのである。

 自分が定期的にゴミ出しもできない生活無能者であることを、寿太郎は自覚していた。透子が来てからは、生活に関するさらに多くの要素を任せてしまっている。

 もともととぼしい自立心がさらに失われていくようで、そこはかとなく不安らしきものを感じていたが、現状に特に不都合はなく、具体的な行動を起こすだけの理由を見出せないでいた。

 カーテンの隙間から差し込む明かりを見て、午前五時くらいかなと検討をつける。

 寝室を出ると、そこは薄暗いリビングだった。

 寿太郎と透子の住むマンションの間取りは2LDKで、それぞれの寝室を除いた部分、十二畳ほどのリビングが天羽探偵事務所である。仕事机とパソコン、テレビ、小さなカウンターとキッチン、食卓、冷蔵庫、電子レンジ、書類棚。事務所とは名ばかりの、ごくありふれた生活空間だ。

 とりあえず顔でも洗おうかと、洗面所兼脱衣所の扉をスライドさせる。

 一畳ほどの空間には室内灯がついていて、洗面台と寿太郎の間に輪っかが浮かんでいた。

 少し腰を屈めるようにして観察する。

 輪っかには目盛りがついており、その重なっている部分の数値は……。


「九十.五、センチ?」

「――っ」


 やや上方から、息の飲むような気配が伝わってきた。

 数瞬後、輪っか――ビニル製のメジャーがはらりと床の上に落ちて、「きゃぁああっ!」という叫び声とともに、寿太郎は洗面所兼脱衣所から押し出された。

 ものすごい勢いで扉が閉まり、中からがさがさと衣擦れの音が聞こえる。

 どうやら中に透子がいたようだ。

 ここにきてようやく、寝ぼけていた寿太郎の頭が覚醒し始めた。

 洗面の扉を開けるときには、必ずノックすること。共同生活をするにあたっての約束事を、寿太郎は失念していた。

 シャワーでも浴びていたのだろうか。いや、空中に水滴などは浮かんでいなかったので、これから浴室に入るところだったのかもしれない。メジャーの位置および形状からして、おそらく胸囲を測っていたのだろう。

 これはいわゆる覗きに該当するのだろうかと、寿太郎は考えた。

 いや、自分は何も見ていない。実際、視界にはメジャー以外映らなかった。判明したのは、数字――あくまでもデータのみである。

 だから、透子君が気にすることはないんだよ。よし、これでいこう。

 がらりと扉が開く。


「と、透子君、おはよう」

「……」


 肌触りのよさそうなサーモンピンクのパジャマが出てきて、無言のまま寿太郎の前を通り過ぎると、透子の寝室に入っていった。

 恋人や家族であれば、笑って済ませられる範疇なのだろうが、二人は探偵と助手という関係である。これは面倒なことになったぞと、寿太郎は頭をかいた。

 朝食を作るために透子が再びリビングに戻ってくるまでの間、彼が何をしていたのかといえば、インターネットで年頃の女の子への謝り方などを検索していた。思春期を迎えた娘との関係に悩む父親のような、涙ぐましい努力である。

 朝食は大きなプレートで出てくることが多い。

 元町商店街にある行きつけの店で購入したパンと、レンタル畑で収穫した野菜のサラダ、プレーンオムレツ、そしてぬるめのミルクティ。

 寿太郎は機先を制した。


「約、八十三センチ」

「……なんですか?」

「日本人の成人女性の、バストの平均だよ」


 無条件で謝りすぎると、逆に相手の怒りは増していく。怒りの矛先をそらすために、怒られる前にさりげなく褒めるとよい、らしい。


「透子君のは、平均を遥かに超えている。これは素晴らしいことだと思う」


 かちゃりとフォークが置かれる。


「寿太郎さんは……」


 透子がにっこりと笑っているような、そんな気がした。


「大きい胸が、好みですか?」

「う~ん。普通がいいかな」


 食卓の空気が一変した。

 話の流れからして、大きいほうが好きと答えてしまえば、透子の胸と直結してしまう。かといって小さいほうが好きとは答えづらい。だから真ん中をとったわけだが……そもそも正解などなかったのかもしれない。

 沈黙に耐えかねたように、寿太郎は言葉を追加した。


「それに、自分の現状を把握するということは、大切なことだ。学力しかり、身体能力しかり、胸の大きさ……」

「そんな、たいそうな理由じゃありません!」

「……え?」

「もうっ! 寿太郎さんは、デリカシーに欠けすぎです。そんなんじゃ、朱梨さんとの面談も、うまくいきませんよ!」


 透子が早朝から身体のサイズを測っていた理由は、下着が身体に合わなくなったので、インターネットで発注するために、現時点でのサイズを確認していたから、らしい。成長著しいということなのだろうが、透子が睨んだような気がしたので、寿太郎は何も言わなかった。

 その後は女の子の気持ちや接し方など、説教じみた講義らしきものが続いたが、寿太郎はほとんど理解できなかった。

 唯一の収穫といえば、昨夜の透子のアドバイスに従って、適当に相槌を打っていたら、意外と怒りが治まるのが早かった、ということくらいだろうか。

 お詫びにレンタル畑の手伝いをすることを約束すると、ようやく透子は機嫌を直し、出かける時には玄関まで見送りにきてくれた。

 相手が中学生ということで、今日の寿太郎の服装は少々ラフなコーディネートである。ワイン色のロングTシャツにこげ茶色のガウンジャケット、そして薄い茶色のチノパンツ。真面目さをアピールするために、アクセサリーなどは身につけていない。


「じゃ、“生命の”の調査は任せるよ。水城さんの家で何か分かったら、メールで送るから」

「分かりました」


 調査用の資料として受け取ったパンフレットの情報から、インターネットにて“生命の樹”、あるいは関連団体のことを調べる。お金がかからず手間もかからない、情報収集のはじめの一歩だ。


「いってらっしゃいませ」

「うん」


 水城朱梨の家は旭区にある。駅から距離があるので、車を使うことにした。マンションに併設されている駐車場にある寿太郎の愛車は、古いフランス車である。

 ルノー5《サンク》ターボⅠ。

 一九八二年式の、3ドアハッチバック。エンジンの排気量は一四〇〇CC。ターボチャージャーにより、一六〇馬力を叩き出す。現代のスポーツカーと比べるとややパワー不足の感はあるが、車体が一トンを切る軽量のため、その加速性能はすさまじいのひと言だ。

 実は、寿太郎が車好きというわけではなく、知り合いに車の選定を任せていたら、これが納車されてきたという落ちであった。

 ベースは大衆車なのだが、後席をつぶしてそこにエンジンを載せた、二人乗りのスポーツカーだ。太いタイヤを収めるために、リアフェンダーが大きく張り出しているのが特徴だ。内装はイタリア人工業デザイナーの手によるもので、計器類やダッシュボードなどは、四角いブロックを組み合わせたような、独特のデザインである。

 車内環境はお世辞にも良いとはいえない。背後から常にエンジン音が響いてくるし、クーラーがないので、夏場は地獄になる。ハンドルは重く、窓はくるくる手回し。おまけに左ハンドルだ。

 しかし、ボディカラーは黒で、それほど悪目立ちはしない。それに、他の車と乗り比べたことがないので、いまいち欠点もよくわからない。寿太郎としては、買い換える手間を考えると、故障さえしない限り現状維持で問題なしと考えていた。

 旭区まで約三十分のドライブ。適当なコインパーキングに車を停めて、寿太郎は水城家へと向かった。




     (6)


 水城朱梨みずきあかりが家に帰ってくると、不審な男が呼び鈴のボタンを押しているところだった。

 朱梨は表情を消して、用心深く声をかけた。


「うちに、何かご用ですか?」


 男が山岸が手配してくれた調査員であることは予想がついた。しかし、想像していたよりも若い。大学生くらいに見える。それに、服装が少しカジュアルすぎるのではないか。

 名前は、確か――

 愛想笑いも浮かべずに、男はぼそりと名乗った。


「僕は、天羽寿太郎あもうじゅたろうといいます」


 声に張りがない。

 癖の強いもじゃもじゃの髪に、眠そうな目。身長は高くも低くもなく、体型は太っても痩せてもいない。なで肩で、猫背気味。

 そして、世の中を斜めに見ているかのような、どことなく不機嫌そうな顔。

 朱梨の第一印象は、頼りなさそう――だった。


「水城朱梨君ですか?」

「そうです」


 天羽と名乗った男は、ポケットから手帳のようなものを取り出した。ふたつ折りになっていて、中には男の顔写真と名前、そして警察が委託している調査員であることが記されている。父親の持つ警察手帳よりも薄く、バッチもついていない。


「近所の人に見られたくないので、中へどうぞ」


 今日は学校をずる休みした。父親を騙すために、普段通りの時間に制服で家を出て、ファストフード店で学校に連絡。そのまま時間を潰して、今帰ってきたところである。

 男は玄関や廊下をきょろきょろと観察しながらついてきた。

 羞恥心のあまり、朱梨は唇をんだ。

 この家には父親が購入した宗教グッズが、いたるところに飾られているのでだ。

 怪しげな小物や置物たちには、すべて小さな鏡がついていた。この世を漂っている母親の魂が、この鏡を通じて自分たちの生活を見守ってくれるそうなのだが、どう見ても安物の鏡である。

 朱梨は一番ましと思われる部屋、ダイニングキッチンへと案内した。

 テーブルがひとつに、椅子が三脚。母親の椅子は、いまだ片付けられずにいる。

 ガラスコップにペットボトルの烏龍ウーロン茶を入れて差し出すと、男は「いや、お構いなく」と言いつつ、一気に烏龍茶を飲み干した。


「ふう……」

「あの、お代わりは?」

「いただきます」


 普通、他人よその家では遠慮するものではないだろうか。

 ようやくひと息ついたところで、男はテーブルの上に名刺を出して、あらためて自己紹介をした。

 西区で私立探偵業を営んでおり、神奈川県警と契約して、調査の委託も行っているらしい。こういった形態をとる外部調査員のことを、業界用語で“同心”というそうだ。

 父親は家で仕事の話をしないが、雑誌や小説などでそういった仕事があることを、朱梨は知っていた。

 とはいえ、実物を見るのは初めてである。

 探偵といえば、もっとくたびれた感じの、冴えない中年男をイメージしていたのだが、ごく普通の青年だった。


「あなたが、助けてくれるんですか?」


 父親は、変わってしまった。

 母親が死んだ直後、あれほど落ち込んでいたはずなのに、いつの間にか、憑き物が落ちたかのように明るくなっていた。

 まるで、母親の死など初めから無かったかのように。

 まるで、家族三人の暮らしが今でも続いているかのように。

 最初は、娘である自分のために、あえて気丈に振舞っているのだろうかと思った。

 だが、違った。

 あきらかに変だった。

 父は――父の心は、ひとり娘を置き去りにして、どこか違う場所へ行ってしまったのである。


「お願いします。助けてください!」


 思いつめた声と表情で、朱梨は懇願した。

 もう、限界だった。

 このチャンスを逃したら、助からない。

 絶対に無理。

 きっと脱落してしまう。


「私を、助けて――」


 予想した反応は、しかし返ってこなかった。

 探偵は怪訝そうな顔になり、烏龍茶をひと口飲んでから、少し困ったような口調で説明した。


「僕は、しがない一調査員だよ。朱梨君の話を聞いて、現場を確認して、依頼主である神奈川県警に報告書を提出する。これが第一の目的だ。君のお父さんと話す機会があれば、調査結果を伝えるつもりだけど、正直、僕に賭けるのは、分が悪いと思うなぁ」


 朱梨の最後の望みに、ひびが入った。

 まるで他人事のような話し方。

 ああ、この人――ダメだ。


「どうして……」


 朱梨は言葉に詰まった。


「どうしてそんなこと、言うんですか?」


 涙をにじませながらにらみつけると、探偵は肩をすくめた。


「まあ、事実だからね。相手方の団体の情報はほとんどないし、与えられた調査費用はたったの三日分だ。君たちを助けるには、人手も時間もお金も足りない。解決条件としては厳しすぎる。探偵としての依頼だったら、断わっているところだよ」

「――っ」


 朱梨は学校のかばんから携帯を取り出した。


「山岸さんに電話して、調査する人を替えてもらいます」


 探偵はテーブルに肘を付き、あご先を指で支えた。それは、まるで面白い動物でも観察している生物学者のような姿だった。


「新聞やニュースで知っていると思うけれど、ここ十年……いや二十年かな。全国的に犯罪件数が増加して、警察は常にパンク状態だ。山岸さんが所属している刑事部なんかは、特にひどい。人の生死に関わる凶悪犯罪でも、書類上で決着をつけたりしている。予算も人手も限られているからね。緊急性の高い案件から処理していく必要があるのに、今回、山岸さんは無理やり君の被害届を受理したんだ。本来であれば、生活安全部に回される仕事だよ」

「そ、そこでも構いません」

「生活安全部に捜査権はない。書類を出して、アドバイスをもらって、それでおしまいさ」

「……」

「そもそも、警察はサービス業じゃないんだ。ただでさえ無理を通しているのに、調査員の態度が気に入らないからといって、担当を替えることができると思うのかい? 山岸さんを困らせるだけだよ。現状、朱梨君の唯一の味方なんだから、心証を悪くしない方がいいんじゃないかな」


 あまりの怒りと悔しさに、朱梨は震えた。

 コップの中の烏龍茶を、目の前にある寝ぼけた顔にぶちまけてやろうかとさえ考えた。

 人が死ぬほど悩んでいるのに、死ぬほど苦しんでいるのに、しかも初対面でこの態度は、ありえない。


「マジ、ありえない……」

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